岩下啓亮 Sardineが1989年に自主制作した『50 / 50』は、岩下のピアノプレイヤーとしての実力が遺憾なく発揮された8曲入り作品集です。歌とピアノが五分五分という意味で、タイトルを「フィフティ・フィフティ」と名づけましたが、ひとり多重録音によるぶ厚いコーラスも特徴的です。 今回リリースするにあたって、音楽短期大学在学中に作曲法の講義で発表したインストルメンタルを1曲、ライブ時のリハーサルを2曲、「夢からさめなさい」初期バージョンを1曲の、計4曲を追加しました。
歌とピアノの同時録音はときに粗削りな様相=ミスタッチもみせますが、ドキュメントの臨場感は他に変えがたいものがあります。どうぞお楽しみください。(TuneCoreに提出した作品紹介より)
1987年、音楽短期大学 学園祭にて
1. サンデードライバー
ぼくは1989年に就職のため郷里を離れたが、そのときに青年期にお別れを告げる作品集を作った。ピアノと歌を五分五分としたアレンジというコンセプトだったけれども、一曲めからリズムマシン(ローランドTR707)を使ってしまった。けれど冒頭を飾るのは、この曲以外に考えられなかった。
歌詞の「ミッキー・ロークに夢中」という箇所に時代を感じるが、アル・クーパーみたいなピアノのタッチは悪くない。録音中スタジオ(今はなき水前寺のスタジオSHEEP)に居合わせたター坊とマツバラさんに、コーラスで参加してもらっているが、スワンプ的な趣きを感じる。
つけ加えると、私のボーカルスタイルはジョー・ジャクソンの影響下にあると再三いってきたが、この曲などはそれが如実に表れている。「見せかけなーんかに、だまされないしね」と、はき捨てるような発声をするところあたり、とくに。
ちなみに「ハッ」という鋭いシャウトを決めているター坊とは、一緒に「スパイラルバンド」というバンドを組んでいた。彼がギターとリードボーカルで、ぼくがシンセサイザー(JUNO106)とセカンドボーカル。当時のクマモトのロックシーンでは、なかなか強力なバンドの一つだったと思うよ。
スパイラルバンド。1988年、熊本大学 黒髪祭にて。
2. 転校生
転校した経験はないものの、ぼくは学生時代にいつも疎外感を抱えていた。集団に馴染めずにずいぶん苦しい思いをした。そのことについて書いた歌詞だ。
これを聞いたひとのほとんどが「テイク・ファイブ」だねと感想をもらす。たしかに4分の5拍子だけども、意識したのはデイブ・ブルーベックというよりも、ミュージカル映画『コーラス・ライン』の冒頭「I hope I get it」なんだ。
そうそう、ぼくはライブのとき、「転校生」を必ず最初に披露していた。はったり効いているからね、興味ない人をふり向かせる効果があるんだ。
当時よく共作していたテツローに、このテープを聞かせたとき、彼は「どうして間奏のソロを別録りにしたんだ?」と指摘された。「伴奏が多少薄くなってもかまわないから歌といっぺんに録音すべきだった」と。その時はちょっと不満に思ったが、うん、今では彼の意見に同意する。同録すべきだった。
3. エミリーはプレイガール
架構の「スクールデイズ」。自由奔放な女のこに翻弄される経験なんて、じつはない。けれども「ラブコメ」を想像するのは楽しかった。キラキラした3分間ポップスをつくるときが、いちばん幸せな時間なんだよね。たとえば、「ミドルエイトの部分は校内放送みたいな音質にしてよ」とエンジニアに頼んだりしてさ。
カセットテープを配ってまわったとき、ベーシストのシミズくんに「よくこんなタイトル思いつくよなあ」と感心されたときのことを覚えている。じつはピンク・フロイド「シー・エミリー・プレイ」の邦題を拝借したんだよ、と彼には言えずじまいで……
前奏のハンドクラッピングを聞いて、たまたまスタジオに居合わせた女性がクスッと笑ったのを覚えている。ブームタウン・ラッツ「哀愁のマンデー」をパロったのが分かったんだろうな。
4. ダイビング
この特徴あるアルペジオがどこからきたのかは自覚していない。半睡した状態でピアノを弾いていたんじゃないかな。ギターを弾いているような感覚で。
ミキシングを担当したハナシロくんが、この曲は故郷の沖縄を思いださせるから好きだ、といっていたのを覚えている。終盤に波のSEを挿入したのも彼のアイディアで、ともすれば退屈になりがちなピアノ弾き語りに彩りを添えてくれた。
自画自賛になるけれども「焼けた砂 握りしめた 女を探してくれ」のイメージは鮮烈だ。映像を喚起する音楽だと思う。
地味な歌だけど、自分では好きな曲だ。なんていうんだろう、聞いていて自己嫌悪に陥らないんだ。そういえば、『50 / 50』を作ってから一年後に里帰りしたとき、ある女性から「どうせ町に戻れば、忘れてしまうくせ」と、歌詞そのままを告げられたことがある。今思えば、あれは詰られたんだな、ぼくの薄情さを。
それから、ピアノのリフレインはU2の「I fall down」が意識下にあったのではないか、と今は推測する。
カセットテープではここまでがA面。
カセットテープで、ここからはB面。
5. 海にいるのは
少年期に特有な、女性への過度な神聖化についてを描いたものだ。憧れの・年上の女性を崇拝するが、みずから造った偶像が壊れるのではないかと恐れてもいる。じつは歌詞の一節に、最初につけた題名が含まれているが、今日的な観点から判断し、大島弓子の短編マンガに着想を得たゆえの、このタイトルへと変更している。
ライブでは、印象派ふうの転調で展開していく中間部で学友にヴァイオリンを弾いてもらっていたが、録音の参加はかなわなかった。脱ロックの指向性からかコンチネンタルなトーンが全体を覆っている。
通っていた音楽短期大学の学園祭で、いちばん反響があった歌だ。非常勤講師の何人かに「きみには他の学生にはない個性があるから、それを大事にしなさい」といわれた。メインで専攻した器楽科の教授たちからはまるで評価されていなかったが(自作自演で遊んでないで練習せい、としょっちゅう指導されていた)、オルガン科や舞台表現などの他分野の先生方からは、ずいぶん励ましてもらっていた。
【追記】
リリース初日から歌詞をちゃんと表示してくれるのは唯一Apple Musicだけだ(その点Spotifyはてんでダメ)。
しかし早速、これの歌詞に入力ミスを発見した。肝腎要な箇所だのに。この場を借りて訂正しておく。
誤:誰も あなたを 愛しちゃいない
↓
正:誰も あなたは 許しちゃいない
6. 24Blues
24歳まで、ぼくは自動車免許を持たなかった。だからどこへ行くにも、バスか鉄道だった。地方都市は便が少なく、最終も早い。人気のない待合室で、ポツンと待っていると、寂寥感が募った。そんなとき意中の女性のことが頭から離れない。あの娘が傍らにいればいいのに、というせつない想いを歌っている。
スタジオに置かれたナカシマくんのオルガンを使っている。ハモンドではなくKORG CX-3。けれどもレズリースピーカーがあったので、わりといい雰囲気で弾けた。
プロコル・ハルムの「Too much between us」? あゝその通りさ。でも、実際ふたりの間隔は永遠に縮まらなかったんだ。
ところで私は50歳まで喫煙者だった。歌詞にタバコが頻出すること、あらかじめご了承ください。この歌も、かなり音像が“スモーキー”だよね?
ぼくは内気だった。自分の気持ちを素直に伝えられなくて、いつも意地を張っていた。年老いた今になって、分かったことがある。あのころのぼくは、人の気持ちを汲もうとしなかった。ただ一方的に、自分の思いばかりを主張していた。少しでも相手の立場を考えれば、また違った展開もあっただろうに。
7. Maybe the first time
ぼくは音楽短期大学に通っていた。この歌などいかにもイナカの音大生が作りそうな定型ポップスだよね。陽気な曲調だのに、歌詞はシニカル。女性との接しかたに慣れない男性は、えてして相手の所為にしがちだ。「こんなことって初めて」という素直な口ぐせさえも気にさわるほど。それゆえ「ひどいね」「ひどいわ」とゲスト(サンデードライバーと同じコンビ)にささやかれているのは(ぼくの投影であるところの)この歌の語り部なのである。もちろん、ローリング・ストーンズの「ラスト・タイム」から、ちゃっかりヒントをいただいている。
まあ、独りよがりな性質をまったく自覚していなかったわけではない。自分を戯画化する程度には、客観視できるようにもなった。このコメディソングの系譜は後に何曲かのバリエーションを生みだす。「忙しいひと」とか「あいにいかなくちゃ」とかが、そうだよ。
8. 夢からさめなさい
この歌は大胆にもゴスペルの体裁をとった。もっとも日本国民の大多数と同様、ぼくには「大いなる存在」の概念に乏しいから、宗教的な色彩は皆無だけども。連れ添う相手への決意表明みたいな内容で、自分の結婚式のときにも歌ったよ。
コーラスは全部ぼく一人で録音したけど、何回くらい重ねただろう、よく覚えていない。あまり計画しないで、感じるままにハーモニーをつけていった。ときどき鬱陶しく感じるときもあるが、この曲はやはり、ぼくの代表作の一つかもしれないね。
ぼくは下戸だが、これの歌入れの日は送別会で慣れない酒を飲んで、声の調子が悪かった。別の日に録音すれば、とアドヴァイスされたけど、もう時間がなかった。一週間後には就職先の浜松に旅立たなければならなかったから、不出来でもかまわんと強行したんだ。でも、結果それでよかった。翌日なんとか8曲入りカセットを50枚ほどダビングして、方々に配りまくって、ぼくはクマモトにいとまごいを告げた。もう思い残すことは、ほとんどなかった。
以上全8曲が、1989年作の『50 / 50』でした。
2024年(35年前だ!)に、こうしてあらためて聞いてみると、やっぱりバブル期だなあという感想を抱く。なんていうかな、悩みが深刻ではないんだよね。「思い出のアルバム」って感じ。これはやはりぼくが恵まれた環境にいたからだと思う。録音からミックスダウンまで、合計10万円かかったけれど、一週間・毎日・一日じゅうスタジオに入り浸ってレコーディングしていたから、いま思えば破格の値段だった。
ここからの4曲は、配信のために追加したボーナストラック。
9. 陽の沈む丘
私が通った音楽短期大学の作曲法の授業で発表した曲だ。指導教官の感想は「ポピュラー音楽だね」のひとこと。同期のナカハラくんが、初見でほぼ完璧にフルートを演奏してくれた。
あ、ピアノはぼくです。
もともとは歌詞がついていた。「壊れたカリヨン、太陽の沈む丘」ってね。学び舎は丘の上にあって、学生たちは気兼ねなく大きな音を出せた。今にして思えば、音楽を学ぶには悪くない環境だった。
10. 転校生 (ライブ リハーサル)
前述したとおり「転校生」は、ライブの重要なレパートリーだった。このリハーサルよりさらに高速で、激しくピアノを叩いたものだ。ぼくはライブになると、内向きな攻撃性が剥きだしになる。意外とパンキッシュなんだ。大人しくバラードでも歌っていれば、上手にブッキングされただろうが、どのハコでもあつかいに困っていたみたい。
これと次の曲は、1996年の録音だ。ふたたび上京したぼくは、自主制作盤『離してはいけない』を発表してから何度か都内のライブハウスに出演した。そのときのリハーサルが残っていた。本番はもっと出来がよかった(はずだ)が、録音は残っていない。
11. Z橋で待つ (ライブ リハーサル)
1996年に自主制作盤『離してはいけない』を発表したとき、ある男性から「Z橋はよくない」と面と向かっていわれたことがある。たしかにアルバムの一曲めとしてはインパクトに欠けていたかもしれない。 そこで、ぼくは彼をライブに招待した。すると評価が「よかった」にひるがえった。生演奏のほうが真価を発揮できるタイプの歌なのだろう。歌とピアノ(とくに左手が)がっちりかみ合うからね。
単独でライブするときには、『離してはいけない』から二、三曲と、『50 / 50』から二、三曲を歌った。当時のセトリをみると「転校生」以外に「海にいるのは」と「ダイビング」を選んでいる。ラストはいつも、「ラッカラッカ(アンソロジーⅡに収録した「新世紀行進曲」のこと)」で締めくくった。
これは並木坂にあったBlue Jamというライブハウスだね。
12. 夢からさめなさい (初期バージョン)
この、実家のアップライトピアノを使って録音した初期テイクのほうが、音質は粗いけど、じつは好きかもしれない。スタジオでグランドピアノを弾いている『50 / 50』版よりも、演奏がもっさりしてなくて、聞いていて負担にならないから。
間奏のシンセサイザーは、当時所有していたプロフェット600。これを楽譜におこしてトランペット奏者に吹いてもらおうと交渉したが、「これはピッコロトランペットの音域だから、ムリだよ」と断られた。ぼくはビートルズの「ペニーレイン」をイメージしていたんだが、あれもバッハの『ブランデンブルク協奏曲』に着想を得たのだと、後年知ることになる。
さて、『50 / 50』にまつわるエピソードを、もう一つ紹介しておこう。
これを録音したスタジオSHEEPは、地元FM局の番組収録によく使われていた。2曲コーラスに参加しているマツバラさんは、よくパーソナリティをつとめていた。
ある日その収録に、デビューしたばかりの高野寛さんがプロモーションに来ていた。ぼくは彼のファーストアルバムを持っていて音楽性の高さを気に入っていたから、マツバラさんに頼んで会わせてもらった。スタジオに隣接するカフェで高野さんと話した。
ぼくは「今このスタジオで自作曲を録音しているんです」と自己紹介した。彼に「どんな感じの音楽を制作しているんですか?」と訊ねられたので、「トッド・ラングレンの『バラッド・オブ』みたいなスタイルで」と答えた。「あー、それはいいな、出来あがったらぜひ聞かせてください」と高野さんはいった。社交辞令だったかもしれないが、ご好意を間に受けたぼくは、彼の所属事務所にテープを送った。
それから一年近く後のこと、就職先の浜松のアパートで、帰宅するとポストに細長い郵便物が届いていた。何だコレは? と訝しつつあけてみると、卒業証書などを入れる筒だった。筒の中に入っていたのは賞状で、『FM東京 高野寛のデモテープ大賞 最優秀賞』としたためてあった。そして私の名前が書かれたそばに、「お元気ですか?」の一筆が添えられていた(残念ながら賞状はどこかに紛失した。捨てるはずないから、探せばきっと見つかるはずだ)。
出張帰りでクタクタだったけど、そんな疲れは一気にふっ飛んだ。報われた! と思った。そしてぼくは、就職してしばらく封印していた音楽制作を再開しようと、性懲りもなく決意したのだった。
ぼくが自分の音楽活動で賞をもらったことは、後にも先にも、このときだけだ。つまり『50 / 50』は、岩下啓亮 Sardine唯一の、栄光の記録なのである。
さて、放送を聞いていないから想像するしかないけど、高野寛さんは自分の番組でどの曲を紹介してくれたんだろう。きみはどれだと思う? 鰯 (Sardine) 2024/05/24
【配信中の記事】
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