鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

カセットの時代

wired.jp

 

ワイアードの記事の、編著者の対談にこんなくだりがあって、思わず頬がほころんだ。一部を引用してみよう。

M:(前略)ラジカセは外部からの受信ができて、その録音と発信ができるものだからです。そしてそこには使い手一人ひとりの「念」を乗せることができる。

K:そう、ラジカセは文化的装置であって、人間というもののメタファーでもあるのですよね。(後略)

 

ラジカセを使わない若い世代にとっては、大げさな、何のことやら?と思うだろうが、ぼくは画面に向かって思わず、そうなんだよなぁとつぶやいていた。念を乗せる。これはまさしく自分の実感であり、経験とも重なる。ノスタルジーにはとどまらない記事であるから、本稿を読む前にぜひ目を通していただきたいが、ぼくはぼくで、中年男の回想に浸らせてもらおう(もともとこのブログを始めた動機は「基本的に思い出話」なんで)。

 

 

うちにはラジカセが二台あった。一台は自分専用。ナショナル製の、四角いマイクがスライド式に収まるタイプだった。最初はAMラジオから流れるヒットソングを片っ端から録音していた(だから一本のカセットに「キラー・クイーン」が三回も録音されていたりする)だけだったが、そのうちクラスメイトに感化されて自作曲を作るようになってからは、ピアノを弾きながら歌ったものを録音した「作品集」を制作するようになった。

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トシヤというクラスメイトからは多大な影響を受けた。ボブ・ディランの『時代は変わる』のジャケット写真に似た風貌で、ひときわ目立つ存在だった。女子にもてたし、腕っぷしもかなりなものだったが、ぼくにとって重要なことはトシヤがオリジナルの歌を作るという一点だった。かれも多くの級友と同様に拓郎や陽水からの影響はあったけれども、ヤツの作る歌にはトシヤ以外の何者でもない強烈な個性があって、そこにぼくは惹かれたのである。

自分で作詞・作曲するなんてすごいね、とぼくが感心したら、かれはこう答えた。

「おまえも作ってみたらどうだ。簡単だぜ。だってピアノが弾けるんだろ?」

「レッスン行かなくなってから、何年も弾いてないけどね」

「コードネームを覚えりゃ楽勝さ。いいからやってみろよ」

トシヤは作ったばかりの「アルバム」を貸してくれた。自分の写真を切り抜いて、インデックスカードに貼りつけている。タイトルは『雪子姫』。違うクラスのあの娘のことだなと丸わかりだったが、ぜんぶで12曲入りの、立派な作品だった。

ぼくがどれだけ衝撃を受けたか、こればかりは説明したくとも、なかなか文章に書けない。ともあれ自分もやらなくっちゃという衝動にかられて、ぼくは大学ノートに歌詞らしきものを書き散らし、覚えたてのコードを鳴らし、ピアノを弾き語りはじめた。一か月後には12曲をなんとかこしらえた。カメラの三脚にラジカセのマイクをくくりつけて自作曲を録音した。途中で失敗したらまた曲の頭から録り直し。何度もなんども録音し、やがて一本のテープが埋まっていった。

出来たてをトシヤに聞かせると、反応はイマイチだったが、情熱は買ってくれたようだ。次から何曲か共作してみようか、ライブやるのもおもしろいかもなとかれは言った。

「ライブって何?」

「演奏会のことだよ。知らないの?」

「どこでやるのさ」

「スヤの公民館とか。まあ、いろいろと計画中だ」

そのあたりのことは、いずれ稿を改めて書こう。とにかくぼくは、曲を書くことと、録音することに夢中だったのだ。

「Amのキーでもさ、途中からCに移ると、雰囲気が明るくなるぜ」

「あ、ホントだ」

「もうちょっとリズムを工夫してもいいな。ほとんどドソミソの伴奏だろ? 三連とか」

 「三拍子?」

「いや、こんな感じのリズムさ。ジャンジャカジャン・ジャンジャカジャン」

「ああ、『悲しみはぶっとばせ』のパターンか」

こんなふうに、中学2年から3年にかけての昼休みは専らトシヤとの情報交換に費やしていた。

「ひとつ訊いてもいいかな?途中でハモッてるだろ?あれ、どうやって録音するの」

「簡単さ。ラジカセを二台用意して、あらかじめ録ったのを流しながら、それに合わせて歌うんだ。違うパターンのギターを重ねてもいい感じになるよ」

「あーなるほど。さっそく試してみよう」

家に戻ると親父のラジカセを拝借し、一回録音したテープを流しながら、三度上にハーモニーを重ねてみた。しかしバランスが難しい。あまり大声で歌うと、前に入れた歌がかき消されてしまう。控えめに歌う必要がある。何度もトライした。タイミングがずれる、音程が外れる、もう一回、もう一回。何回も録り直すとテープがくたくたになった。

多重録音の虜になる、あれがきっかけだった。

 

当時のカセットテープはほとんど手もとに残っていないが、セカンドアルバム(笑)のタイトルは『Mr.Dazai』だった。当時ぼくは太宰治を愛読していたが、

中学生の時分、歌を自作しはじめて、だけど歌詞をどうしていいかわからず、太宰の作品タイトルを列挙した「作品集」をカセットに収め、級友に聞かせてまわった恥ずかしい過去がある。子どもっぽさから脱却したい思いで読みだしたのに、子どもっぽい振る舞いで台無しにした>のである(引用:Twitterの過去ログより)。

そんな試行錯誤を重ねながらも、少しずつ曲作りのコツを覚えていった。中学を卒業するころには「10分あまりの三部構成の曲を含む、トータルコンセプトアルバム」を発表(笑)していた。

無理やり貸しても、ほとんど誰も聴かなかったみたいだが……

 

高校に進んでバンド活動が本格的になると、アルバム制作の比重は減ったが、メンバーにはデモを聞かせていた。かれらのチョイスはなかなかシビアで、20曲作ってもレパートリーに選ばれるのは1曲だった。もっと的を絞ったほうがいいと何度か忠告されたが、ぼくはエルトン・ジョンのように量産することに生きがいを感じていた。

バンドが軌道に乗ると、ライブの模様を録音するようになった。とはいっても客席の誰かに頼んで、ラジカセの録音ボタンを押してもらう程度だったけど。当時の録音を聞いたら、顔が真っ赤に火照るに違いない。

ローリング・ストーンズの「アンジー」を高二の文化祭で、おれがピアノを弾きながらソロで歌ったとき、中盤の ♪ アンジー、とウィスパーするところで、女子たちが笑い転げてたっけ。証拠は残ってンだぜ、カセットテープに

そういえばライブの最後で、ぼくは「We Love You」と叫んでいたそうだ。級友に「知ってるぞ」と冷やかされた。オレァそんなこと言ってないと主張したけど、カセットに証拠が残っているという。あらためてテープを聞いてみたら、ん、確かに言ってた。

むかしの録音を聞きかえすのは、けっこう恥ずかしい。

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1980年代に入ると、若者のオーディオ環境は劇的に進化した。ラジカセのステレオ化が進み、ダブルデッキも登場、さらに画期的だったのがSONYウォークマン。街角で自分の好きな音楽が楽しめる、まさに夢の商品だった。いま話題の「ポケモンGO」と同じくらいの社会的インパクトがあった。流行につられて、ぼくもSANYO製の類似品を購入した。電池が少なくなるにしたがってテープの回転数が遅くなる欠点もあったが、外でも聴けるという利点は何物にも代えがたかった。その一方で、屋内のコンポーネントシステムはますます充実の度合いを増し(ぼく自身はそうでもなかったが)、FMのエアチェックにオープンリールのテープレコーダーを使う者も決して珍しくなかった。

そういえば福岡の予備校に通っていたころ、こんな思い出がある。

 <当時廃盤だった『T-REX グレイテスト・ヒッツ』を持っていて、そのダビングを親不孝通りの行きつけのパブスナックでかけてもらったら、そのカセット貸してお願いって見知らぬ女のこから頼まれて、それから何週間も誰かに回し聴きされてて、手元に戻ってきたらテープがベロベロにのびていたっけ

この話には続きがある。レコードからカセットにダビングしてくれたのは旧友のリュウジだったが、かれはオープンリールのテープに偶さか録音していたFM番組の、コマーシャルだか朗読だかは分からぬが、男性のナレーションの一節をループさせ、ラストナンバー「ザ・グルーヴァー」の末尾に、そっと忍ばせていたのだ。

「屈折した・青春、屈折した・青春、屈折した・青春、屈折した……(×20α)」

半月後、親不孝通り界隈で「屈折した・青春」はちょっとした流行語になった。

 

上京したぼくはポリフォニックシンセサイザーを購入し、北千住のアパートで夜な夜ないじくっていた。KORG/POLY6はノイズ発振器がないという欠点があったけど、理屈が分からないまま、つまみを適当にいじくっては、奇妙な音を創りだそうと試行錯誤していた。それは加入していたバンドのためというよりは、自分の興味が赴くままの行為だった。

ぼくはAIWAのラジカセしかもっていなかったが、ダブルデッキ仕様だったので、テープ1からテープ2へダビングするときに、リアルタイムでシンセサイザーを重ね録りしていた。もっとも4回ほど往復すれば、S/N比は劣化の一途をたどり、ヒスやホワイトノイズのかなたに、くぐもった音像が見え隠れする結末となった。

けれども、その「ピンポン録音」こそが原点回帰だった。中学の時代に夢中でピアノ弾き語りを録音した、あの感覚がにわかによみがえった気がした。録音中の高揚感というのはなかなか他人に説明しづらい。経験した者にしか分からない感覚だと言ったら不愉快に思われるかもしれないが、自分の思い描くイメージが少しずつ形になっていく過程は、他のなによりも(スポーツやスクリーンやセックスよりも)スリリングだった。

ぼくが一台のラジカセとシンセでこしらえた作品は、文字通りハウスミュージックだった。じっさい数年後にデトロイト産のテクノが台頭したとき〈何だコレおれが数年前にやってたのと同じじゃん〉と思ったほどだ。不遜に聞こえるかもしれないが、音質やクオリティはともかく指向性は間違っていなかった。あのまま歌ナシの、シンセサイザーを中心に据えた音楽を追求していたら、意外とおもしろい展開があったのかもしれない、

が。

 1年後にぼくは、東京電機大学の真向かいにあった小さな楽器店に勤めだす。店頭のMTR(マルチ・トラック・レコーダー)と出会ったことで、ラジカセによるピンポン録音の時代は幕をおろした。

 

今回も長々と我が音楽遍歴を綴ったけれども、冒頭の話題に戻すと、ラジカセはまさに「文化的装置」であり、各人の思い思いが録音されたカセットテープは、コミニュケーションツールだった。個人のあふれる思いは、ともすれば「念」となり、渡された者にとっては気の重いモノだったかもしれないが、自作とはいかないまでも、独自にセレクトしたテープをお互い交換しあうのは、当時の若者にとって至極あたりまえな習わしだった。曲順や曲間の繋ぎ目にこだわったり、ケースの内側をイラストで彩ったり、一人ひとりの創意工夫が滲みでれば出るほど、カセットテープは持ち主の人格と直結しているように思えた。

ぼくの編集したテープを未だに所有している奇特な御方はおそらくいないだろう。でも、万が一持っていらっしゃるようでしたら連絡してください。ぼくはほとんど捨ててしまって、いま手元にないんだ。いったいどんな曲を選んでいたのか、興味がある(あゝでもその前に、カセットデッキを入手しなくちゃ)。

 

ぼくはイラストレーターの(ハロルド・バッドみたいなピアノの即興演奏を収めたテープを送ったことがある)シューゾーさんの影響で、カセットの一本一本を下の写真のように絵で飾っていた。

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自分じゃカッコいいつもりだったけど、ある日、北沢の部屋に訪れたデザイナーの(早川義夫スコット・ウォーカーのテープをぼくにくれた)オクヤマさんからは「汚ねえカセットだな」と呆れられた。

でもね、描かずにはおられなかった。テープの磁気に詰まった音の粒を自分なりに表現したかったんだ。

For no one.誰のためにでもなく。