鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2018年5月のMedium

 

音楽工場の謎

先日キリンビバレッジが「午後の紅茶」の広告で炎上していた。あの広告に使われたイラスト、趣味がよいとは到底いえないが、広告でないなら、「あるあるネタ」として問題にならなかったと思う。

広告主であるメーカーの謝罪もお座なりなもので、火に油を注ぐ形となったが、私がより深刻だと感じたのは、いわゆる「業界の開き直り」である。

この、マーケティングの手法にいちいち目くじらたてるんじゃないよ、といった不遜の態度が改まらぬ限り、広告制作の業界は、今後も「消費者の感情を逆なでするような」広告を性懲りもなく市場に投下し続けるだろう。

 

さて、私は例のごとく(笑)Twitterで企業と上掲記事を批判していたが、その際過去の失敗談をスレッドにつけ加えた。

鰯)むかし楽器メーカーで働いていたとき、学校用オルガンの自動伴奏ソフトを制作した。商品名を決める会議の席、ぼくは軽い気持ちで「音楽工場」はどうでしょう?と提案した。すぐさま「皮肉がキツい」「ビールじゃないんだから」「教育現場にふさわしくない」と却下された。当然、彼らの判断が正しかった。

と、数日後、私の別のツイートに木原さんからメンションが届いた。彼はプロフィールによると「社内研修を担当している」そうだ。言葉の端々に誠実さのうかがえる、私が信頼を寄せるアカウントである。で、以下はそのやりとり。

木原)〜無邪気ついでに伺ってもいいですか?「音楽工場」はどうよくなかったのか分かりませんでした。もし差し支えなければ教えて下さい。

鰯)学校の教室で使われる音楽ソフトに「音楽工場」という名前は似つかわしくない、といったところでしょうか。結局、「うたのポケット」という、教育現場にふさわしい名前になりました。

木原)ありがとうございます。なるほど「うたのポケット」はとても想像力豊かな感じで、それに比べると「音楽工場」は無機質に感じます。作り手はいたって真剣に製品を世に送り出しているんですね。

鰯)「音楽工場」は制作を担当したぼくの単なる思いつき、「うたのポケット」は長く小学校の音楽教諭をつとめた監修者の提案でした。ぼくには実際に商品が流通したあとのイメージがなかったのです。いま思いだすと恥ずかしい話ですが、よい経験をしたとも思います。

木原)製品がどう受け入れられ何をもたらすのかを知ったり想像することはとても大事ですよね。ぼくは営業研修を担当してるんですが、特に新人には「長年当社を利用してくれている顧客が何を気に入って評価してくれているのか必ず尋ねてください」と伝えています。意外とそれを知らない売り手が多いので。

鰯)うん。最近の炎上を上等とした広告は、制作サイドの思いあがりというか、コレが面白いのに何で文句いうのさ?的な開き直りを感じます(謝罪の仕方を含め)。不特定多数のお客様から販売店まで、相手が誰であれ広告を受け取る側への想像が及んでいない。だから似たような過ちをくり返すんだと思います。

木原)想像力とリスペクト、大事ですね。音楽工場の謎が解けてよかったです。ありがとうございました!

私はこういう穏やかなやりとりが好きでTwitter一番の長所だと思っている(もちろんMediumでも可能なのだが、Japanにおいては難しい状況である)。しかしこうして会話を並べてみると、木原さんの提した疑問に答えていないことにハタと思いいたった。

なので、この場を借りてお答えします。

当時(私が浜松の楽器メーカーに勤めていた1993年頃 )、キリン「ビール工場」というヒット商品があったのですよ。

つまり「音楽工場」は、これに引っかけた「パロディ」だったのです。

このことを説明していなかったから、若い(私よりも10歳年下の)木原さんには「謎」に思えたのだろうと気づいた次第でした。

鰯 (Sardine)2018/05/05

 

邦画の中の自転車のシーン

連休中はAmazonプライムで映画を観た。1日2本ペースで、負担にならないものを。

ちょっと前の邦画を立て続けに3本観て、自転車に乗る場面が多いなあ、なんでこんなに俳優を自転車に乗せたがるのだろう、と感じた。

綾瀬はるか主演の『海街diary』は、広瀬すずの自転車に乗るシーンが頻繁だ。とりわけ印象的なのは、鎌倉の桜並木のトンネルを、二人乗りしてくぐるシーンで、すずがうっとりと目を閉じる表情は、後の飛躍を予感させる名場面だった。さすがは是枝監督、押さえるべき箇所はきっちり押さえている。(追記:映画好きの知人は、広瀬すずのプロモーション作品みたいだとシビアに評価していたが。)

一方、

黒川芽以が主演の『愛を語れば変態ですか』は、冒頭でキングオブコメディ今野浩喜が自転車に乗って登場する。バイト先となる店先の看板に激突するが、看板を立て直さないまま放置する。この序盤の演出が物語の不穏さを暗示させる、

と、好意的に解釈したものの……

レビューの評価が低かったから、あえて観てみたんだけれど、うーむ確かにひどかった。冒頭の自転車の場面も「住宅地がこの映画の舞台ですよ」という説明でしかない。ロケ地は千葉だか茨城だかだったけれど、場所設定が何処だろうと一緒のような気がする。

その点、

前田敦子主演の『もらとりあむタマ子』は、舞台が山梨県甲府市である必然性を強く感じさせる映画だった。街の規模が主人公タマ子の閉塞感を表すのにぴったりのサイズだ。けれども、画面に映った甲府の街並みは、それほど悪いものでもない。撮る側の視線が街に優しい。

ここに掲げた写真は、映画の後半でタマ子が諦念まじりに決意する場面だ(と思う)が、この(東京に通じる脱出口でもある)駅の側を自転車に乗って走り去るシーンは、時間を計ればちょうど30秒である。つまり、

我々は、徐々に前田敦子の背中が小さくなる様子を30秒も見続けることになる。

良くも悪くも、これが日本映画である。静的な描写をすれば、すわ小津的だ、と評されるところの。しかし前にも述べたが、この「風景を長回しすることで登場人物の心象を観客に想像させる」手法は便利だ。自動車では難しい。自転車という小道具を駆使することによって、街の景色から心情らしきものが惹起される。

逆説的に、そういった湿り気のある意味を予め剥奪した『愛を語れば〜』は、敢えて自転車を粗雑に扱うことで邦画の内包する制度から逃れようと試みたのかもしれない。

と、考えながら書き綴れば、自分でも予想できない結論に達するケースもある。

風景に心境を仮託することは、観ている私の側が備えた怠惰ではないか? と。

鰯 (Sardine) 2018/05/07

 

イマジン

想像してごらん。

意識して、想像力を駆使して、

あなたが心地よいと感じたことを。

縁側でのんびりと日向ぼっこする猫みたいな気持ちになって。

目を閉じて、しばらく想像してごらん。

 

町を歩いていて、街角から街角へと、瞬間的に移動したことはない?

現実に、ではないにせよ、なにか自分と別のところから、引っ張られて、ふわりと身体ごと運ばれるような経験が。

シャガールの絵みたく浮かんで、

波に運ばれたときのような感覚で。

バスからひらりと降りたった時などに。

そんなふうな、実感を伴った想像をしてしまうのは、私だけの錯覚なのかな?

気持ちいいんだけどな。

 

あるいはまた、

あなたの信頼できる誰がが、

ただ何も言わずに側にいて、

とくに何するわけでもなく、

身体とからだを寄せあって、

でもハグ以上にはいたらず、

しばらくくっついたままの、

状態でいることは?

想像してごらん。

延長線上に性交を結ばずに、

セックスを帰結に置かない、

たんなる肌の寄せ合い。

悪くないと思わない?

私?

私は猫と昼寝してます。

肌寄せあって。

想像してみて。

じわりと伝わる温もり。

鰯 (Sardine) 2018/05/13

 

スチール100YEN

5月23日、福岡ヤフオクドームで、埼玉西武ライオンズ福岡ソフトバンクホークスを観戦した。結果は2対1でライオンズが勝利し、元所沢市民の私は大いに溜飲下げたのだが、上着を着たとき胸ポケットに入れていた帰りの新幹線の切符がないことに気づいた。たぶんユニフォームに着替えたときに落としたのだろうが後の祭りだ、博多駅で5千円弱で片道切符を買うはめになった。なんたるドシ。

その後、帰路の車中で私は下掲のマンガを思いだしたのである。以下ツイッターから5つを転載(主語:ぼく → 私)。

  • そういや昨日の野球観戦中、帰りの新幹線の切符を紛失したことに気づいたときに、ふと水島新司のマンガを思いだした。福岡ドームなら『あぶさん』だろうって?違うよ『野球狂の詩(うた)』だよ。私は野球を題材にしながらも庶民の人情を描く、初期の短篇群が好きだった。そこでさっそく本棚の奥を探してみた。

  • 1974年発行『野球狂の詩』第4巻、第1話の「スチール100YEN」。貧乏な親子が野球に夢中な観客の懐中を失敬する掏摸の話だ。私の意識下に是枝裕和監督のカンヌ映画祭受賞作品『万引き家族』があったから思いだしたのだと思うけど、「家族と軽犯罪」以外とくに共通点はない。水島新司お得意の、野球にかこつけた人情話である。

  • 掏摸の話は反社会的だろうか? 野球を冒とくしているだろうか?しかし「スチール100YEN」をけしからんと怒る読者は殆どいないと思う。他にも初期の『野球狂の詩』には、現在だと雑誌に掲載できないようなテーマがいくつもあるが、水島作品の根底にはヒューマニティーが溢れている。今ふり返るのも悪くない(しかし、今の目でみても絵に躍動感がある。運ぶ筆の勢いが違う)。

  • 球場の客席には、いろんなタイプの人がいるじゃない?年齢も性別も職種も性格もさまざまな。けど、俗に「サイレントマジョリティ」と呼ばれる何万もの人びとが、球のゆくえに一喜一憂しているさまを見ていたら、自分も含めてだけど、人間ってホント「おもろかしい」存在だなと思ったんだ。
  • そして思った、どうしたら抗う声をみんなに届けられるのだろうか、と。

私は是枝監督を反日呼ばわりし、『万引き家族』を国辱ものだとする、ネットウヨクたちの言説に我慢ならなかった。さいわいイタリア映画『自転車泥棒』を引き合いにした反論などが現れ、私もまた以下のようなしかつめらしい投稿をし、

羅生門』、『楢山節考』、今回の『万引き家族』。いずれも社会の暗部を描いた邦画である。国際的な評価を受ける理由は、人種や民族を超えた普遍的な題材を扱っているからだと思う。万引きするような国に思われたくないという「身内の恥」的な意識は、国家というイエに取り込まれたゆえの発想である。

『万引き』の題材を恥じる心性を批判したけれど、なんかちょっと違うな、とも感じた。

《いつから日本社会は、創作と現実の弁別がつかなくなったのだ?》

もちろん万引きは悪い。掏摸も悪い。でもね、『万引き家族』がパルムドールを受賞したとき私が真っ先に思い浮かべたのは中村文則の小説『掏摸』だった。軽犯罪をおかさざるを得ない者の視点から社会を描く、是枝監督の意図とも共通点がおおいにあると思う。

娯楽作品の中には、もっとカジュアルに悪人が描かれているではないか。『鼠小僧次郎吉』から『ルパン三世』にいたるまで盗っ人は庶民のヒーローだったはず。そりゃあ万引きは犯罪だ。罰せられる行為だ。が、だからこそ人の目を盗み、警固の網の目をくぐりぬけ、上手に頂戴する場面に、大衆は喝采を送る。

水島新司の『野球狂の詩』には、今となっては少年誌(初出:少年マガジン)に掲載できない内容のものが多い。選手の孫を誘拐して八百長を強要する話やらヤクザの親分が球場で抜刀して応援する話やら、タイトルに「乞食」を使うわ「くノ一」とも知らずにセクハラしまくるわ、NGのオンパレードである。

だから昔は良かった、表現の自由があった、と言いたいわけではない。むしろ人権に配慮するようになった現在のほうが社会のありようとしては望ましい。当の水島新司だって、今なら表現のモラルに配慮するだろう。

Twitterに〈若い女性にわざとぶつかる男性〉の動画がアップされているようなご時世である(#わざとぶつかる人 で検索してみるといい。酷いから)。父子が観客の懐を狙う画像はセンシティヴな問題があるかも、と思った。自分が不快でなくても、不快に思う人がいるかもしれない。それは不快に思った方の責任ではなく、不快な画像をアップした側の責任である。それゆえ私は上の画像を含めたツイートを削除することにした(どのみち反響は殆どなかったのだ)。

たぶん私が「スチール100YEN」を持ちこんで伝えたかったことは、こうだ。

  • 軽犯罪を題材にした創作物は星の数ほどある。ネットウヨクの諸君にとって映画『万引き家族』のタイトルと国際的な評価は許しがたいものかもしれないが、そう目くじらをたてなさんな。
  • 例えばこの「スチール100YEN」に描かれる掏摸の親子は野球を冒とくしているか?少年マンガの表現として相応しくなかったか?しいては高度成長期の日本社会を辱める内容であったか?
  • 私はそうは思わない。なぜなら「スチール100YEN」に描かれているのは親子の情愛と世間の人情だ。さらに憎むべきは貧困であり真に必要なのは子どもへの教育だと問題提起もしている。
  • 映画も小説もマンガも、表現の方法に違いはあるけれども、現実社会に訴える役割がフィクションにはあるという点では一致するところだから。

そんなことを私はTwitterに問いかけてみたかった。が、言葉たらずだった。ゆえに改めてMediumに記しておく次第です。 鰯 (Sardine) 2018/05/26

 

『響』の書いた小説は?

子どもに勧められ、柳本光晴作『響・小説家になる方法(ビッグコミックスペリオール連載)』を、既刊9巻まで読んだ。評判通り、面白かった。

細かい箇所を論う無粋な真似は避けたいが、私が唯一気になったことは、

《主人公、響の書く小説とは、いったいどんな小説なんだろう?》

である。説明は最小限に抑えられ、小説の内容は読者の想像力に委ねられる。これに近い構造のマンガは『BECK』だろうか。ロックバンドの歌が)どんな歌詞でメロディーかは読者が自由にイメージしてくださいという。『響』の小説もそれと似ていて、詳細はわからぬままだ。

その点クラシックは有利だ。例えば『ピアノの森』だったら、ピアノを弾くシーンに「ショパン練習曲・第◯番」と添えればよい。あとは読者が好きなピアニストの演奏を勝手に思い浮かべてくれる。実際にCDをかけながら読むかもしれない。「絵解き」ならぬ「音解き」である。

比して、マンガで小説を書くのは至難のわざだ。圧倒的な天才である響の小説が凡百の作家の小説よりもどう優れているか、まるで分からない。ライヴァルはみな響の作品を読んで打ちのめされ、あるいは当の響によって善し悪しを無慈悲に宣告される。なんだか『遊戯王』みたいで、そこが面白いところだけれども。

そうして思い返してみると、劇中劇ならぬマンガ中劇をこれでもか、と描いた『ガラスの仮面』や、マンガ中マンガを描いた『バクマン。』は、やはり作者の力量というかマンガ家としての膂力が桁違いだったのだな、と再認したのだった。

もちろん『響』の面白さは其処ではないとは百も承知で、あえて無い物ねだりを記した次第です。

鰯 (Sardine) 2018/05/26

 

2018年3,4月のMedium

 

シェイプ・オブ・ウォーター

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』はとてもよかった。今の社会に当てはめてみても、感じいる場面がいくつも見出せるはずだ。筋書きや拵えが回りまわって古典的な結構だと思った。

エンターテイメントの原則である、‪教条主義に陥らないための表現の工夫が随所に施されている。‬

善悪の構図がはっきりしているのがいい。「盗人にも三分の理(ことわり)」が物語の当然になり、権力や支配の論理ばかりが強調される昨今、弱い側に肩入れできる構造の作品は稀である。これは「暴力や差別はよくない」と誰もが痛感できるように演出されている。それを端的に表しているのが、性行為の場面だ。

かたや一方的な欲望(情欲や征服欲)を解消する手段として、こなた相互理解の到達点として性行為が対照的に描かれている。そしてこの映画は、手探り状態からエクスタシーへと導かれる道があることも教えてくれる。つまり(AVや萌えキャラのアニメとは違って)、フィクションから性を学ぶことは決して不可能ではないのだ。

ともあれ、『シェイプ・オブ・ウォーター』は見所の多い、誰にでもお勧めできる傑作である。細部を確かめるため、もういっぺん観たくなるくらいだけど、あまり喋りすぎると先入観になりかねないから、これくらいにしておきます。

鰯(Sardine)2018/03/15

 

“Abegate”

財務省、公文書改ざん。

Ministry of Finance, tampering with public documents.

森友関連問題、再燃。

“Moritomo” related problem, relapse.

安倍政権、崖っぷち。

The Abe administration, a dilemma.

 

From the document before tampering, it can be seen that there was pressure from the Cabinet Office to the Treasury Department.

改ざん前の文書から、官邸から財務省への圧力がうかがえる。

In the process of selling state-owned land, the involvement of Prime Minister Abe’s wife is also suspected.

国有土地売却の過程において安倍昭恵総理夫人の関与も疑われる。

If it's overseas it is a scandal that leads to resignation of the Cabinet. But, the reaction in Japan is still dull.

海外ならば内閣総辞職につながるスキャンダルであるが、日本国内の反応はまだまだ鈍い。

I demand investigation of the truth in the Diet and the resignation of the Abe administration.

私は、国会での真相究明と、安倍政権の退陣を要求する。

鰯(Sardine)2018/03/14

 

タイトルを「アベゲート」に変更しました。

日本では、安倍昭恵首相夫人の名前をもじって「アッキード事件」と呼ぶ人も少なくない(命名山本太郎議員)。現政権は、当時の財務省の担当者に因んで「佐川事件」を定着させようとしましたが、さすがに普及しませんでした。

外電は見つけ次第、紹介していく所存です。鰯(Sardine)2018/03/21

 

The act of spreading salt in Japan depends on the reason for removing the filth.

“Kegare” in this case means “women”.

Women Barred From Sumo Ring, Even to Save a Man’s Life. (New York Times)

Japanese women ordered from sumo ring during first aid. (BBC News)

 Sumo chief sorry after women attempting CPR ordered out of ring. (AFP News)
 Sumo in Uproar as Women First Responders Ordered Out of Ring. (Voice of America)

My cat says, “In overseas coverage seems to focus on women who gave first aid.”

鰯(Sardine)2018/04/06

 

「けしからん」「たるんどる」歪み、腐敗する、日本の政治家と政治、そして行政

“Keshikaran” Tarundoru” Distortion, corruption, Japanese politicians and politics, and administration.

麻生太郎財務相、セクハラ報道の事務次官処分せず。 (タイムズ)

I won’t discipline mandarin over sex claim, says Japan minister.

4月14日、国会議事堂前には主催者発表で50,000もの人びとが集まった。(UPI、ブルームバーグ

Protesters in Japan call for “liar” Shinzo Abe to resign over scandal.

牛久の入国管理センターで10ヶ月に渡り拘置されていたインド人の男性が金曜、自殺と思われる状態で発見された。入国管理センターで亡くなった移民は2006年から数えて14人目、自殺は去年に引き続き2人目となる。(ロイター)

An Indian man who was held in Ushiku ‘s Immigration Control Center for ten months was found on Friday in a state considered to be suicide. Immigrants who died at the Immigration Control Center will be the 14th person since 2006 and suicide will be the second person since last year.

4/15(ロイター)小泉元首相のコメント。

Former premier Koizumi told reporters on Saturday he thought it would be difficult for Abe to win a third term as LDP leader.

“He has lost trust and whatever he says sounds like an excuse,” he told reporters.

ウォール・ストリート・ジャーナル 4/16

Japan’s Abe is facing slumping poll numbers and a sexual-harassment probe against a top government official.

Top Japan Finance Official Denies Sexual Harassment, Says to Sue Publisher

そして、2018/04/16のN.Y.Times

As Scandal-Tarred Abe Meets Trump, ‘the Situation Is Getting Dangerous’

“Even now the vultures are starting to circle. People are trying to figure out what comes next after Abe,” an assistant professor said, as Japan’s prime minister, Shinzo Abe,

と、財務次官のセクシャルハラスメントを問題視している(4/16 世界中に配信)。

で、4/15 ガーディアン紙も。

Japan’s prime minister, Shinzo Abe, is likely to resign in June after two cronyism scandals sent his approval ratings to an all-time low and risk damaging his party’s fortunes in elections next year, according to one of Japan’s most popular postwar leaders.

福田事務次官セクシャルハラスメントは世界中に配信された(4/16ロイター)。

It called on female reporters to come forward and contact the law firm if they were willing to cooperate with the investigation.

と、財務相・省の「手口」についても。

Junichi Fukuda denies the accusations but said he would leave finance ministry because it was impossible to do his job amid the furor.

ウォールストリート・ジャーナルによる、福田事務次官辞任の報道。2018/04/19

#MeToo hits Japan as top official resigns
A Japanese broadcaster says it will file a complaint against the finance ministry alleging a top official sexually

BBCは#MeToo と関連する形での報道。

LDP lawmaker calls sexual harassment whistleblowing almost ‘crime’

毎日新聞 April 24, 2018 (Mainichi Japan)

The vast majority of Japanese are indifferent to politics, and There is a tendency to hesitate about the story of politics.

日本人の大部分は政治に無関心であり、政治の話を躊躇する傾向があります。

Government skillfully manipulates the media. Repeat the intervention to deal with the problem.

政府は巧みにメディアを操作し、問題に対処するために介入を繰り返します。

It is necessary to tell more about the facts of Japan to various countries around the world.

この日本の実情を、世界に伝える必要があります。

鰯 (Sardine)2018/04/16

 

しかし、これらの報道から1年以上が経過しても、依然として安倍政権は安泰である。いったい日本はどうしてしまったのか? この国に、正義はないのか?

 

「1マイル競争」

コーチはトーマスを手招きして伝えた。

「トム、ボブのタイムはきみより2秒速い。明日の競技会、きみはボブのペースメーカーをつとめてくれ。」

トーマスは「わかりました、コーチ」と答えた。やるべきことは決まっている。トップをキープし、残り一周でロバートに先頭を譲ること、だ。

それが陸上競技部に所属する者のつとめだと、トーマスは自分に言い聞かせた。

 

競技会当日は曇天だった。トーマスとロバートは市営グランドに赴いた。ふだんは仲よく話す間柄なのに、ふたりとも何故か口数すくなく、レースが始まるまで黙ったままだった。

「次は1マイル走です、選手は準備してください。」と、係員が呼びかけた。

ふたりはスタートラインに立った。トーマスはわりと落ち着いていた。

『ラスト一周で、速度を緩めたらいいんだ。最後までがんばる必要ないんだ。』

そう思うと気もちが楽になった。

対するロバートは、緊張した面持ちだった。

ピストルが鳴り、選手たちがいっせいにスタートした。トーマスはすぐに集団から飛び出し、そのまま先頭を走った。

いくぶん湿った空気が心地よい。ずいぶん調子がいいなとトーマスは思った。だから先頭を走るプレッシャーも、それほど感じなかった。どうせラストでロバートに先を譲るのだから……。

そして、最後の一周にさしかかり、鐘が振り鳴らされた。

ペースメーカー役のトーマスは、外側に位置を変えた。コースの内側を、背後のロバートが追い越していく予定だった。

ところが、ロバートは出てこない。

不安に思ったトーマスが、後ろを振り返ると、ロバートは苦しそうに顔をゆがめているではないか。

「ボブ?」

すると、ロバートは短くさけんだ。

「行け、トム!」

トーマスは、何がなんだか分からなかったが、無我夢中で走った。他のランナーのことなど、まったく意識しなかった。ただひたすらに、ゴールを目指した。

ついにトーマスはテープを切った。

気がついたら1着でゴールを駆けぬけていたのだ。すると、背後からロバートが歩み寄ってきて、

「やったなトム、新記録じゃないか。」

と、チームメイトを祝福した。〈了〉

 

私は、こんな感じの掌編を小学校の高学年で読んだ記憶がある。下に掲げた記事に引用されている『星野君の二るい打』という道徳の教科書に収められた話を知って、『1マイル競争』をにわかに思いだしたのである。そこで、記憶をたぐり寄せながら書いてみた(コーチはどうした?とツッコむのはナシね)、昔と今では同じ道徳の教材でもずいぶん違うものだと感じるが、皆さんはどうだろうか?

なお、『星野くんの〜』は、先週聞きに行った前川喜平氏の講演会でも取り上げられていた。併せて読まれたし。

鰯(Sardine) 2018/04/18

 

なじめない

昨年できた市内のショッピングモール。

見晴らしのよいカフェでランチの時間。

玄米のごはん、きんぴら牛蒡と白和え。

無農薬の野菜。自然の素材でゆったり。

一面のガラス窓から眺めるビルの屋上。

ここさ大洋デパートの跡地なんだよね。

食べてるときに言うことじゃないなと、

自分を戒める、お行儀よくしとこうと。

(でも窓外の景色は撮ってしまったよ)

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夕飯すませたら近所のスーパーで買い物。

帰りがけスタバに寄ってドライブスルー,

こぎれいなスタッフが微笑みかけてくる。

屈託なく、ごく自然な「こんばんは」。

戸惑いを隠せないまま「こんばんは」。

機能的な動線に無駄なものは存在せず、

スマートな接客も予め設定された構造。

隙のないサービスになじめない中高年。

どこかいい加減な余地がないかと探す。

ほんとうにざっくばらんだと困るくせ、

ちょうどいい塩梅の居場所を探してる。

なじめずに、なじめずに、なじめずに。

鰯 (Sardine) 2018/04/30

 

2018年2月のMedium

書き換えはほどほどに

私のブログ『鰯の独白』のアクセス数が今年に入って倍増した。訪問者の割合はGoogleからが6割弱、Yahoo!からが2割強、残り1割がTwitterの告知からである。

当初、私は「はてな」の一言紹介欄で、

短編小説、音楽寸評、エッセイ、その他もろもろ、基本的には思い出話。

と自己規定している。このうち短編小説は反応のあまりの少なさに懲りてやめてしまったけど、音楽寸評は今も月イチのペースで、気ままに投稿し続けている。

音楽寸評で人気のエントリーは、いにしえのロックについての記事である。有名どころを扱ったものより、やや有名くらいの対象が注目されやすい。アーティスト名をGoogleで検索すれば、私の記事が最初のページに表示される場合もある。狙ったわけではない。検索上位に来るまで凡そ2年はかかる。どうやら音楽性を分析した記事よりも、私が友人に勧める時のような調子で、気軽に書いたものほど多くの方々に読まれているようだ(※蛇足だが、「はてな」の注目記事に採りあげられたことは二、三回しかない)。

先日も私は上掲の記事を三つまとめて投稿したが、その際、Twitterに余計な説明を書き加えた。

  1. 好きな音楽についてを書くことは楽しい。だって基本的には、なぜ好きか?を書けばいいんだもの。ただ、数年後に読んでも恥ずかしい内容にならないように表現は工夫する。だってぼくの文章を読んで、音楽を嫌いになってほしくないから。グーグル検索で1ページ目にかかるようになると「迂闊なことは書けない」と思うよね。
  2. 自分のブログ記事が「ゴミみたいな検索ノイズ」に堕してしまわぬように。「インターネットでまともな情報を掴むことができなくなった」と嘆かれる原因にならないように。資料としての役に立たなくても、何かぼくなりに与えられるものはあるんじゃないかと、「熊本県在住の音楽好きさん」は思うわけです。
  3. 書いてから二、三日は、誤字脱字や内容の誤りの訂正、余分を削り、不足を補う作業を行います。読み直しを重ねて、ある程度納得できたら、それ以上手を加えないようにします。更新し過ぎると、書き始めた当初の意気込みが文章から感じられなくなるからです。
  4. <言葉に対し、細心の注意を払っていらっしゃると同時に、ご自分の感じたこととの擦り合わせを綿密に何度もされていらっしゃるからなのだな>との感想に「過分なお言葉、恐縮です。何度も添削するのは、編集者が不在なゆえ。セルフプロデュースは難しいですね。たまに自分の中の編集者がボツを出すことも(あります)」と返答し、
  5. クラシックやジャズ(のレヴュー)は大変そうですね。うるさがたが大勢いそうで、それこそ迂闊なことは書けません。ロックも最近は資料主義に傾いており、やたらと時代考証の正確性を要求されるようになりました。ともあれ、どのジャンルにもめちゃくちゃ詳しい御方が大勢いらっしゃいます。ぼくなぞ足元にも及びません。と付け加えた。

これらのツイートを書いた動機は、〈安倍首相の予算委での質疑応答からうかがえる、エンゲル係数の無理解〉と、それに呼応したかのように、Wikipediaの「エンゲル係数」に関する記述が、論戦の翌日に(政権よりの解釈に)二転三転したという、インターネット上のちょっとした騒動が背景にあったからである。詳しくは下掲の記事を参照されたい(元記事はJ- cast。現在は削除されています)。

エンゲル係数ウィキペディア書き換え合戦 首相答弁直後に...官邸の陰謀説まで(J-CASTニュース
国会でエンゲル係数をめぐる議論が行われた直後、ウィキペディア(日本語版)の「エンゲル係数」の内容が、あるユーザーによって書き換えられたことが注目を集めている。

つまり、私が心に留めておきたい事は、

インターネットに発表したテキストは、その大半が書き換え可能であるため、容易に添削が可能である反面、内容を改ざんすることもまた容易いということだ。

書かれた内容の信ぴょう性を担保するものは何か?投稿者の誠実さと責任感に帰結すると考える。それはブログ記事のみならず、このMediumにおいても同様で、投稿者みずからが信頼を築きあげなければならない。でたらめな投稿を繰り返せば、信頼は直ちに損なわれる。

私は、よく読まれる記事を定期的に巡回してはメンテナンスしている。加筆修正も必要最小限に施すが、最初に投稿したときの主旨が変わってしまわないよう気をつけている。前に読んだときと違う?と読者が不審に思うような変更を、徒らに重ねてはならないと思う。

私は本を書いたこともなければ出版社に勤めたこともない。が、新聞・雑誌・書籍の信頼性について、をよく考える。

紙媒体はいったん流通したら、容易に回収できない。だが、だからこそ、編集者をはじめとする大勢の人が目を通し、複数回の校正を経て、ようやく発行されるのだ。言わずもがなの事だが、そのプロセスが信頼を築いている、と言えよう。

私たちインターネットのユーザーは一人ひとりが作家であり、編集者であり、発行人である。そのことはいつも意識しておきたい。間違いを恐れるがあまり、投稿を億劫がってはならないが、気安く投稿したり、出した記事を簡単に引っ込めたり、手前に都合よく書き換えたり、削除してなかったことにしたりするのは慎むべきである。それらは読み手の信頼を損なうだけではなく、書き手が書くに必要な「自信」をも失う所業に他ならないから。

慎重に、しかし決然と投稿すべし。 鰯(Sardine)2018/02/02

 

フレンズ

親同伴ではなく映画館で最初に観た映画は、アル・パチーノ主演の『セルピコ』だった。面白かったが、中学生にはちと重すぎたので、次に観るのは軽く明るく爽やかな青春映画を選んだ。

つもりだったが、

リバイバル上映の『フレンズ』も、やはり重たい内容だった。あまりにも印象が強烈だったものだから、併映の(お目当てだった)『小さな恋のメロディー』を子どもっぽく感じてしまった。ちなみに、一緒に観に行った友人は『フレンズ』の間ずっと寝ていた。

オープニングでかかる音楽も印象的だった。映画館でシングル盤を買い求めた。エルトン・ジョンの「フレンズ」。

バーニー・トーピンの書く歌詞がまたいい。“ Childhood fly”などという言葉の選択に、SF好きなセンスがうかがえる。

上掲の、ポールとミシェルが海岸で手をつないでいる写真は、シングル盤に同封されていたインナースリーブである。一枚ペラ、裏には何も印刷されていない。

私は写真を貼ったアルバムの中に、これを保管していた。肝心のドーナツ盤はとうに紛失しているというのに。

典型的だけど、

見ているだけでせつなくなる、

束の間の青春を象徴するような写真だ。

鰯(Sardine)2018/02/03

 

エロス

先日、こんな記事を読んだ。

イギリスのマンチェスター市立美術館が、J. W. ウォーターハウスの《ヒュラスとニンフたち》(1896)の一時的な撤去に乗り出し、騒動となっている。美術手帖 2018/02/02】

詳細は記事を読んでいただくとして。私は正直な感想をここに記しておきたい。

  1. 公共施設において、その展示物が誰かの感情を害するものであれば、たとえ対象が一人であろうとも、撤去することを検討しなければならない。
  2. ただし、どんな表現形態であれ、芸術は人が鑑賞することによって成立するものである。人目に触れない作品は、芸術として認知されることもない。
  3. ファインアートからポップアートにいたるまで、表現の根源にエロスは抜きがたくあり、避けては通れない。

私は、エロスの欠如した表現に、魅力を感じない。自分の表現(そう、今ここに記すテキストを含めて)から、エロスが無くなったと感じたら、文章を書くのはやめようと思っている。

私は基本的にフェミニストである。だがフェミニズム表現の自由を、天秤にかけるような愚考はしない。私は自然人でありたいと思う。人間性の欠した一般のモラルには従わない場合もありうる。

この作品に描かれた、若き王を池に引きこもうとするニンフたちの姿が、はたして<女性を「受動的な着飾り」や「ファム・ファタル」とする、「非常に時代遅れ」な表現である>ものなのかどうかは意見の分かれるところだが、美術館の所蔵庫に収められてしまっては、議論の対象にもならない。人が見ない絵画など絵具の塗られた板でしかない。この絵を見て不愉快に思う方は少なくなかろうし、媚態だと捉える方も多いだろう。私的には、女性の描かれ方がステロタイプであるように思える。が、しかしそれは上の画像を見たからこそ言えることなのだ。

少なくともこの絵は、劣情を煽るために描かれた「ポルノ」ではないと思う。

嫌なら見なければいいなどと陳腐ことは言わない。が、美術館の展示であるのなら、ゾーニングが成立した状態であるとは言えないか。もし「それでもこの絵の描写は怪しからぬ、だから排除すべきである」とエスカレートするなら、それは焚書と何ら変わらない。アート無罪と言いたいのではない。しかし、度の過ぎた追及は、表現の幅を狭め、しいては社会を停滞させる活動にもなりかねない。

文化はどうあるべきか。それは私たち人類に課せられた普遍的命題である。だからこそ、せっかちな結論を求めることは避けるべきである。

私は大まじめにエロスを称えたい。それは古典であり、かつ前衛である。社会における表現の在り方は常に問われるべきだが、エロスというテーマ自体は永久に古びないし、日々更新されるべきものであると考える。なぜなら、

私は、森羅万象すべてに“Eros”を見出す者だから。

鰯(Sardine)2018/02/04

 

母性に関する歌について

認識とは更新されるものだと、最近つくづく感じたことがあって。ちょうどいい機会だから、記しておこうか。

立派なあなたの母になる為に、私は出来る限りを尽くしてゆく所存です

その歌がBGMで流れてきたとき、思わず「はぁ?」とふり返った。私は耳を凝らして次の展開を聞き漏らすまいとした。

母はあなたの母になる為に、真面目に貯金も始めます

次の二行では、喉がカラカラになった。

ご飯の美味しいところは全部、あなたが先に食べて下さい

母より綺麗で気立てが良くて、強い彼女を連れて来なさい

そして、ダメ押しの一行……

歌詞の断片から検索をかけ、それがシンガー・ソング・ライター阿部真央さんが昨年2月に発表した「母である為に」という歌であることを知った。

その歌がなぜ私の耳に引っかかったか。言うまでもない、最近タイムラインを賑わしている、のぶみ氏の「あたしおかあさんだから」を連想したからである。もちろん歌の制作過程も、歌われるに至った背景も、ずいぶん違う。そして歌詞に表された、言葉の強度は、阿部氏の「母である為に」のほうが圧倒的に強い。

しかし、歌から伝わる“as a mother”の情念は、聞いていて息苦しくなる。

それは、「ぼく」が男性であるからか?

これを、女性が聞いたらどう思うだろうか?

感想は、人それぞれだろう。共感も、反発もあるだろう。

Youtube阿部真央さんオフィシャルのPVがあった。

ぜひ観て、聴いて確かめてほしい。

歌詞の良し悪しをあげつらいたいのではなく、音楽性を取りざたしたいわけでもない。

が、発表された昨年2月に「母である為に」を聞いていたら、果たして私はこれほど耳を奪われただろうか?

認識は日々刻々と変わってゆく。昨日まで当たり前だと思っていたことが、今日には違って感じることもある。

以上、Twitterで連続投稿したものを並べてみた。主語を私に変更し、二、三箇所あらためた。

Twitterで、「のぶみの歌詞を呪いというんなら、『母である為に』だって同じだよ。むしろ、山岸凉子のマンガなみにおっかない。そこスルーするのはフェアじゃないんじゃ?」などと書いたら、さすがに反論が来たかもしれない。

けれども私は「狩り」をしたいわけではない。あれはダメ・これも良くないといった、表現の取り締まりに関与したくはない。

ただ、「母である為に」を聴いたときの違和感を、自意識の変化についてを控えておきたかったのだ。

創作物は、作者の手から離れたと同時に、さまさまな角度から解釈される。賞賛もあれば批判を浴びることもある。本人の意思と関係ないところで、不本意な評価が下される場合も。だけど作品の独立性は担保されるべきだし、創作の背景を斟酌しすぎてもよくない。表現の自由と同様、感想の自由もある。

私は、一個人の作った歌について注文をつけるつもりはさらさらない。が、日本社会が、この歌に表された母性の表れや個人的な覚悟を、滅私や自己犠牲といった精神論で讃め称えるようであるなら、それは違う! と批判するでしょう。‬ 鰯(Sardine)2018/02/10

 

高速で〜私だけかなあ。

高速で、小山を切通ししたような場所にさしかかっていると、時どき「えっ、こんな急勾配どうやって登るの?」って思うような側道に出くわしませんか?

私は見るたびにその狭そうな道を通ってみたくなる。まあ、通ったところでどうなるものでもないんだけど(笑)。こんなこと考えちゃうの、私だけかなあ。

追記:もっと急勾配の坂道を見つけたので、これも貼っておきます。

鰯(Sardine)2018/02/20

 

耳にした瞬間からすでに懐かしく感じる音楽がある。

小川美潮「窓」はそういった曲だ。

この素朴で、しかも雄大な歌は『4to3』という1991年発表のアルバムに収録されている。

ということは27年前の作品である。

四半世紀を過ぎているとはにわかに信じられない鮮度を保っている。まるで昨日できたばかりの音楽のようにみずみずしい。

ピアニシモの歌いだしはシューベルトの歌曲やランディ・ニューマンのようだ。が、そのひそやかなワルツは次第に膨らみ、やがて大波のようなうねりを伴って聴き手の意識を包みこむ。

プログレッシヴと形容したくなるような雄大なスケール。作曲と編曲を担当したMa*Toの手腕が光る。その複雑な構成を故)青山純の豪胆なドラムが一手に束ねる。そして(小川が在籍したバンド)チャクラ時代の盟友、板倉文の満を持したギターソロで最高潮に達する。やがて楽曲はたっぷりと余韻を残しつつも最後の一滴まで搾り尽くして収束する。

後世に語り継がれるべき名バラードとの意見もみたが、私は大げさだとは思わない。『4to3』は日本語で歌われたポピュラー音楽の頂点に達した傑作であるし、その中でもとりわけ異彩を放つのが、この「窓」なのだから。

これを聴くたび私は、人と人との出会いやら恋情やら悩みやら別離やら、それら諸々ぜんぶをひっくるめて人生なのですよ、と教わっているように感じる。

そして聴くたびに新たな発見があり、充足を得られるのだ。

YouTube市川準が監督した『4to3』の映像作品がアップされている(下)。また、これを基にレトロ調にアレンジされた動画もあるので、そちらも観てみるといい。音楽の世界観を壊さずに引き立てている、これも秀逸な作品である。

いつか花があふれだす

かがやく春が来ることを

そう、時は流れ、季節はめぐる。吹く風の中に、春の匂いがかすかに漂う。

2月は今日で終わりだけれども、私はこの歌を聴きながら来る3月を迎えたい。

鰯(Sardine)2018/02/28