鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2018年1月のMedium

覚書:表現の自由について

今世紀に入ってから人権の意識が大きく変わった。社会全体はもちろん、個人的にも。世紀末前後をふり返ってみれば今よりずいぶん無頓着だった。人は平気でひどいことばを発し、差別心をあらわにしていた。昨今おおぜいの人が意識的になったが、それは人権を侵害された者の声が可視化されたことによる。

‪インターネットの普及が人権意識を促した。被害を受けた立場からの発信を受け取ることによって、人権侵害とは何か、具体的に何が良くないのかを考える機会が増えた。その結果、昔はセーフだったのに今やアウトになった表現も多い。そのアップデートに対応できずに窮屈さを覚えるばかりの者もまた多い。‬

自由な発言が制限されたと感じ、表現の自由を守れと訴えるものも多い。が、彼らのいう自由のほとんどは〈性と暴力の領域における〉であり、政治的な抑圧には驚くほど無頓着である。ともあれ社会に向けて何らかを表現する場合、他者とのコンフリクトは避けられない。表現者からの一方通行だった時代は終わった。

インターネットの双方向性は、言いっ放し・やりっ放しを許さない。発表者からしてみれば、難儀な時代なのかもしれない。だが、コンフリクトは過去にもあった。今は無視したくとも無視できなくなっただけのことだ。ターゲットと設定した以外の層がどう反応するか、送り手は予めシミュレートしなくてはならない。

今は他者への想像力を試される時代だ。他者の領域に侵害していないかを配慮することは、自由な表現を制約することと同義ではない。むしろ、より高次の表現に至る橋頭堡ともなり得る。萎縮せずに堂々と発表すればいい。が、その表現が他者の苦痛に抵触した場合、批判は免れぬことを覚悟した上で。

昔は良かった配慮する必要がなかったと述懐するような時代遅れの表現者は有名無名を問わず前線から退くべきである。

鰯(Sardine)2018/01/09

 

【附記】

この記事に限ってのことだとは思うが、Statsの数値が定まらない。

投稿してから半日で、80以上のviewsがカウントされていたのに、一日後の今現在34である。

4名の方々からclapsをいただいているのにfansは0。半日前は4と反映されていた。

私はStats画面をMediumの入り口にしている。一覧表になっているので記事を検索しやすいのだ。その上、どの記事が多く読まれているかも一目瞭然で分かる。最近では昨年春に書いた「クレジット」という記事にアクセスが集中していた。

私はTwitterで昨日このように告知した。

ツイートアクティビティは、インプレッション6,064、エンゲージメント総数222、リンクのクリック数93、リツイート18、いいね18である。この数値の信ぴょう性がどれほどのものかも、また定かではないが。

何れにせよ閲覧数に相当するviewsが34というのは、Twitterの反応と比較すれば、あり得ない数字だと思う。

もちろん私自身が頻繁に訪問し、添削したり追記したり更新し直すから、数値の変わる可能性は大いにあるだろうが。

追記:午前7時の時点でviewsは何と21まで下落、しかし45分後には55まで回復……って、株価じゃないんですけど⁈

さらに追記:午前10時の時点でのviewsは94だけれど、パソコンからReferrersを開いてみると、Twitterから130views、その他19viewsがカウントされている。計149と94の誤差は何なんだ⁇

が、その日の午後150viewsを超えた時点で追跡をやめた。

いったいMediumはStatsをどのように管理しているのか。

他の記事の数値が、こう極端に変動したことはなかったように記憶する。減少は該当記事のみの現象である。怒ってないから、説明してもらいたいものだ。

もっともMediumjapanなき今どこに訊けばよいのか。やはりアメリカ本社へ英文で質問するしかないのか。面倒だな……

映画『七人の侍』、津島恵子木村功がお花畑で逢瀬の場面。

鰯(Sardine)2018/01/10 4:44投稿

 

Spotifyをインストールしてみた

(写真はシャーデー・アデュ。本文とは関係ありませんが好きな写真なので。)

私はスマフォにほとんどアプリを入れていない。TwitterはてなブログGoogle翻訳とMedium、あとChromeを検索用、それがすべてである。

ちょっと前から気になっていた。Twitterの音楽好きなアカウントが、Spotifyから引っ張ってくるケースが増えたせいもある。ものは試しとプレミアム無料一週間をお試ししてみた。

あー便利だ。もう引き返せない。

私はApple Musicを利用していない(例外は数年前にU2の“Age of innocence”を無料ダウンロードした時)ので、今まで「聞きながら他のアプリを操作」していなかった。YouTubeで何か見聞きする際は、その都度TwitterやMediumを中断していた。

しかし、もうこれからは違う。私はいま「ベスト・オヴ・バート・バカラック」を流しながら、このテキストを打っているが、あーッ便利すぎて堕落しそうだ。

何よりも検索しやすい。アルバム単位で楽曲を探せるのは(私みたいなロートルには)ありがたい。例えば先ごろ惜しくも亡くなったフランス・ギャルを偲んでみようか。

open.spotify.com

追記:この曲の作者、ミシェル・ベルジェについては下掲記事を参照のこと。

aomori-france.com

あーこのシンセサイザーソロ、スティーヴ・ウィンウッドを彷彿とさせるなと思えば、今までスマフォで聞けなかった、

open.spotify.com

YouTubeでは管理の厳しいアーチストが、即座に呼び出せる。ああそうだ、こないだゴドレーとクレームの『フリーズ・フレイム』が唐突に聞きたくなったが、あれもYouTubeにはアップされてなかったな……

open.spotify.com

あるじゃないか。んじゃ、フランスに戻って。ミッシェル・ポルナレフで、デモの時には必ず合唱される歌があったよね?みなバラディソに行くだろうって内容の、

ハハ、彼の再生回数第1位だったよ。

と、初めてYouTubeを観たときみたいに、今夜は歌探しに夢中になっていたのです。

あ、こないだラジオでかかってた、♪タバコがぷーかぷーか〜、って歌も聞いてみよう。国産だぞ。

ぶじ30秒間試聴ができましたか?いや、この後に転調するところが凄いんだよ。音楽の勝利って感じで。

ま、きりがないので、このへんでお終いにしますけど「音楽を聴くのに動画は不要だな」が今回の発見でした、ではね。

軽薄鰯 (Sardine)2018/01/16

 

とうぜん、殆どのアルバムがリストアップされています。

Sade, can also hear almost all songs with Spotify.

下のプレイリストはシャーデー本人の投稿と表示されておりますが、さて?

Although the playlist is shown as Sade herself’s post, true?

open.spotify.com

Anyway, this kind of photogenic singer is rare.

これほどフォトジェニックな歌い手も稀だね。

ミーハー鰯 (Sardine) 2018/02/05

 

男らしく?

男らしくない、と何度言われたことか。

ケイスケ、男らしくないゾと言われた日にゃ、ケイスケって名前の響きにまで嫌気がさしていた。

男らしく、の在りようが分からなかったのさ、若い時分の私は。

ビートルズの4人が歌ってましたっけ。

ボーイ、その荷を背負っていけ長い間。

 

男らしさの檻に囚われた男の子は、この狭い場所から出してくれ!と叫ぶ。

一人前の大人の男になるためには、さまざまな儀礼を通過しなければならない。

飲酒、喫煙いうに及ばず、男たるもの、女を抱かねば一人前とは言えまい?と。

童貞喪失の強迫観念。十代の早いうちに植えつけられる概念。先輩がからかう、同級生が自慢する、遅れをとってはならないと焦りばかりが募る。テレビが雑誌が、インターネットが、性交の甘美さをのべつ幕なしに煽りたてる。

だがボーイ、気をつけたまえ。女性は君の性欲を満たすための道具ではないぞ。

君は肝心かなめの初手から間違えているんだ。女性に出会う前に、相手の気持ちを確かめる前に、手前の欲求を処理することばかり優先的に考えているだろ?

それを拗らせた挙げ句の果てに「モテない俺たちに女をあてがえ」と喚くのは、あまりにも惨めじゃござんせんか。あのさ、童貞を捨てたからって、急に男らしくはならないんだよ。第一、童貞を捨てるって言い草はなんだい。女を性の対象としか看做していないことがモロバレじゃんか。そういう尊大さ、見抜かれているんだよ。その自己中心な考え、そろそろあらためたらどうなんだい。

かつて、男は黙って◯◯というキャッチフレーズがあった。黙っていれば女が寄り添ってくる(都合の)いい時代が……

あるわけないだろ。黙ってたら、伝わらないよ。

いいか、君はとうに見くびられているんだ。自尊心を守るのに精一杯で、相手を慮る気持ちの余裕がないヤツだと。「されンのは好きだけど、するのは嫌」だって手前勝手さが言葉の端々から感じとられるの。だって相手の気持ちを理解しようと努められるならば、少なくとも相手の嫌がることはしないよね?

SNSでいうならマウンティングとか。

抗う口を塞ぎたい目的がありありの。

いちいちクソリプ(クソみたいなリプライの意味)飛ばしてるんじゃねえよ。

みっともないし、情けない。同性として恥ずかしい。そういうコソコソした振舞い、頼むからやめてくれ。

それこそ、男らしくない、だろ?

痴漢する男が後を絶たないから女性専用車両を設けなけりゃならないし、暴力を振るう男が絶えないから #MeToo というムーヴメントが発生するんだ。つまり、

原因あってこその結果じゃないか。男性が生き辛くなった理由を女性に責任転嫁するんじゃない。首を絞めているのは他ならぬ君、すなわち男性自身なんだよ。

 

たぶん君は、期待される男性像とやらに囚われすぎているんだ。その期待は誰も望まない、幻想に近いものだってのに。

女性を、男性の従属物のように考えているかぎり、君にとっての社会は地獄にも等しいだろうな。だけどボーイ21世紀だぜ? 日本も真の意味での近代国家にならなきゃならない段階だろうに、何、その前近代的な思考法は。いい加減そこから脱却しなよ。

世間がこしらえた男らしさの虚像から。

男らしくのみならず、女らしく・子どもらしく・夫らしく・妻らしく・日本人らしく、らしくらしくの枷を外してみないか?

そして、背負ったその荷を降ろし給え。

東映やくざ映画に出ていた菅原文太を私はそれほど好きではなかった。でも、亡くなる直前に「オール沖縄」で応援演説した時の、覚悟を決めつつも、ひょうひょうとした構えには心底痺れたよ。

どうせ男らしくあるなら、あらねばならぬのなら、私は文太兄ィみたくなりたいものだなあ。鰯(Sardine)2018/01/25

 

【追記】

このブログに書き起こしと動画が載っていました。ご参照ください。

kiikochan.blog136.fc2.com

 

福岡史朗 “KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”

“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”は、福岡史朗+2STONE、2018年リリースのアルバムである。

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  福岡史朗のベストアルバム『HIGH-LIGHT』を当ブログで紹介したのが二年前。それから前作『SPEEDY MANDRILL』のレヴューも書いたし、 彼と彼の仲間たちのライヴを鹿児島に観にも行った。演奏後に少しばかり話すこともできた。疲れていただろうに史朗さんは親切だった。穏やかな人柄に、お会いできてよかったなーと思った。だから昨年末に新譜がリリースされたときは、まっさきに感想を書こうと張りきった、んだが。

 なかなか書けずに今日まできた。

 すごい作品だということは、まず声を大にして伝えたい。これほど個性的な楽曲を一年間のあいだに15, 6曲も書いて、しかも形にしてしまえるというのは、稀有な才能である。

 ところが(前作のときにも感じていたんだが)、その良さを換言しようとすると、どうもうまくいかない。どこがどう良いのかを説明する言葉が見あたらないのだ。ここまで独創的作風を確立されてしまうと、もはや○○に似ている、といった手法は通用しなくなる。今回もマスタリングに携わった高橋健太郎氏は<ヨ・ラ・テンゴの域に達しているよな>とコメントしていた。同感だ。福岡の作る音楽にはアメリカのインディーズみたいな肌触りがある。手作り感満載のアレンジメントやメジャーシーンと交わらない佇まいが、最近でいえばそうだな、ローカル・ナイーヴズなんかに共通する風合がある。ばくは前作『SPEEDY MANDRILL』をサイケデリック・エラ前夜の雰囲気があると記した。だとすれば今回は『サージェント・ペッパーズ~』方面に展開しそうなものだが、さにあらず。どちらかといえば『オクデンズ・ナット・ゴーン・フレイク』や『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』に近い、牧歌的なムードが全編に漂っている...... 違うちがう、ぼくは○○みたいだと言いたいわけじゃないのに。

 

 そんなふうに書き出しを迷っているうちに、はや半年が経ってしまった。その間、ぼくにもいろいろなことがあった。新しい仕事に就いて、悪戦苦闘している、正直なところ、音楽や文学に没頭する時間が割けない。帰宅して、パ・リーグTVを観ながら夕飯を食べているうち睡魔に襲われる体たらくだ。それでも、仕事のドレイになったとは思わない。仕事の内容を詳細に記すわけにはいかないが、働くこと自体に面白みと発見があるから。

 そうした自分の過ごす日常と、“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”に表された(好きな言葉じゃないけど)世界観が、徐々にリンクしてきたことを感じはじめて、ようやくこの一時間におよぶ大作を自然と・かまえずに聴きとおせるようになった。

 このアルバムで、福岡史朗が伝えようとしているのはささやかだけど、途方もなくでっかいことだ。彼は、人の一生について語りかけている。生命の誕生から終焉までを、さらには再生についてを。それはこと人類のみならず、地上の生命ぜんぶに及ぶ。こんなことを書くと、ディープエコロジーか? と誤解する向きも現れそうだが、そうじゃない、福岡のメッセージに説教くささは皆無だ。ただ、これだけは言っておかなくちゃいけないってことを、嘘偽りなく表明しているにすぎない。

 でも、それって口先でいうほど簡単なことじゃないんだよ。福岡はいつも飄々としているから、大変さを感じにくいけれども、音楽で“それ”を正確に表すのは、じつに難しいことなんだ。

 

 ある程度ネタばらしになることを、あらかじめ断っておくけど、“KING WONDA~” 1曲め「風が吹くと」は、大久保由希さんの独唱である。まるでロック以前の、60年代のカレッジフォークみたいな素朴さだけど、この歌とうまくコミットできれば、アルバム全体のトーンに心身をチューニングできるだろう(それは通常の音楽と接するときのアプローチとは、ほんのちょっと違う)。それにしても、「白い船が川をくだっている、丸い虹が空を覆い尽くす」というイメージは鮮烈だ。まるで立って歩きを始めたばかりの幼児が、空を見上げながら、そのあまりの広大さに茫然としているような印象を受ける。

 2曲めの「爪先までブルース」は、ジャンピン・ジャックな福岡流ロックンロールだけど、ちょっと突き放したようなトーンがフレッシュだ。ヤツも、キミも、オレも、とても傷つくのが悩ましい人生。現代人が直面する人間関係の厄介さと孤独を、福岡はさらりと歌いとばす。

 3曲めの「夜間飛行」は冒頭からミステリアスな雰囲気だ。逆位相のアタッチメントでおぼろげになった各パート。遠くでオルガンが風切り音のように吹きすさぶ。「いよいよ戻れない、手がかりはあまりにも古臭いから」。この不穏さは何を示しているのか? 聞くたびにさまざまな解釈を促される謎めいた曲だ。

(追記;福岡史朗の作る何曲かに、ぼくはジミ・ヘンドリックスの影響を感じる。歌とリフレインの関係性だとか緩いストロークのタイム感だとか。たとえば「夜間飛行」の気だるさには「風の中のマリー」を連想する。)

 4曲めは一転して「午睡」。キンクスのレイ・デイヴィスを想わす暢気なお昼寝ソングだが、童謡のような親しみやすさと「赤い月が欠けて、また満ちる、皆既月食の夜、通りで立ち止まり、見上げる人はまたべつの、キミ」と夢分析のような客観が同居していて、やはり一筋縄ではいかない。

 5曲め「君を想うよ」は、作品集の要所を締めるスタックス・ヴォルト的なミディアムスローのソウルナンバー。「いつか必ず、忘れたころにね」と聞き手に直接語りかけられると、あゝぼくも夜半に感想文を書いているよ、と答えたくなる歌だ。

 6曲め「鳥の言葉」。これもソウルだ。ちょっとメキシカン寄りな。松平賢一の絶妙なリックと、チェリストオブリガートが絡むところで、カッケーな、と軽く嘆息する。

 6曲め「太陽暦」。これは以前、2019/04/02にTwitterで書いた感想をそのまま載っけよう。

福岡史朗 @fukuokashirou 「太陽暦」。

昨年リリースされた、“King Wonda Nug Wonda Ia Kikele”に収録。

予定されていたように 誰かのための礼服と 誰かのための髪飾りを 太陽暦はもう飽きたと うそぶく

優れた表現者は無意識のうちに時代の移ろいをするどく予見する。

open.spotify.com

もちろんこの歌は昨日来の、国を挙げてのから騒ぎ(改元)について歌われたものではない。が、結果的にそれを暗示する詞を書いてしまうのは、今の時代と社会を敏感に捉えているからだと思う。それは、先日木原さん @MitsuoKihara が指摘したイヴァン・リンスの歌詞にも通じることだ。

無造作にやってくる結末に、僕らの喉は干上がり、渇れた」。末期を感傷ぬきに描ききるとは、とんでもない歌詞を書くものだ。福岡のシリアスな歌唱は『ジョンの魂』を連想する。

 

 8曲めの表題曲は、インドネシアかマレーシアに古くからある伝承歌だと言われたら信じてしまいそうな、楽しい歌だ。全体を通じていちばんグルーヴを感じるアンサンブルで、大久保由希&磯崎憲一郎の重心の低いボトムに腰も自然と揺れてくる。さらにワンノートで押しきるかと思いきや、意表をつく部分的転調が施されているあたりに、センスの良さを感じる。

 9曲めの「タブレット」。福岡はあえて図式的な文明批判を試みている(ように思う)。自然の変化という奇跡の傑作がそこかしこに転がっているのに、世界中の人びとが手の内のタブレットに夢中である現状を、嘆くでもなく、ただ指摘する。この乾いた視点は、とても重要だ。

 10曲め「水族館」。さあ、そろそろこの作品集の全体像が浮かび上がってきた。忘れかけていた子どもの頃の記憶が不意によみがえってきた経験、あなたにもあるだろう。「度忘れた、あれは水族館」のあとの、大久保さんのダパツン・ドタツンというフィルインがたまらない。このように歌の内容を理解したドラマーは滅多にいない。

 11曲め「エンジン」。単純なようで、美味しいフックが満載の構成。とくに「エンジン」と食い気味に引っかける箇所なんか、ライヴで観たら、絶対カッコいいだろうなと容易に想像がつく。シンプルなコード進行だのに、あざやかな場面転換。

 12曲め「風の絶え間」にはプログレッシヴな陰影がある。欲をいえば、もっと大胆に(大げさに)演奏してもいいかなと私的には思う。それだけのスケールを備えた楽曲だから。ぼくは今回のアルバムに良質な絵本に共通する“怖さ”を感じるが、この歌だとたとえば、トミー・アンゲラーの『すてきな三にんぐみ』のような、ダークブルーな色彩を思い浮かべる。それは怖いけど、すこぶる魅惑的で、心を捉えて離さない、暗闇だ。

 13曲め「終わりの鐘」。これも冒頭の長閑さにうっかり油断しそうだが、身辺雑記かと思いきや、いきなり剣呑な展開を見せる。「セミが死ぬ、すると終わりの鐘がリンドン」。生と死はつねに隣り合わせだと、いやがおうにも知らされる。とくに常日ごろ子どもと接していると、そういう場面に出くわすものだ。子どもが虫の死骸をつまんでいる。これ、触ってたら潰れちゃたのと。大人は虫が死んでいることを教え、亡骸を捨てるように諭す。そのとき、ぼくの耳にも弔いの鐘の音が低く聞こえている。

 14曲め「風が吹くと(Reprise)」。冒頭の歌が、親から子へと受け継がれる。ここにいたって、この壮大なコンセプトの全体像が誰の耳目にもあきらかになるだろう。

 15曲め「春の歌」は君の歌だ。この歌の歌詞に、このアルバムで語られた諸々のことが、一点の曇りもなく明示されている。次を受け継ぐ者へ贈る、真摯なメッセージだ。一瞬のブレスを置いたあとに吐き出される「強さも弱さもそのままに、小石は無限の意味を持つ」。君が生まれてきたことは、それだけで意味があることなんだと、力むことなく、けれども力強く伝える。春の歌は(五指の音列で成り立つ)歓喜の歌、そして今を生きる者たちすべてに贈られた賛歌である。

 

 人生は、光と闇の交錯する複雑怪奇な絵巻物だ。いったん生の舞台に上がった以上、命脈が尽きるまで努め、演じ、舞わなければならない。あらしのよるの闇の深さに、君は慄くだろう。けれども春の陽ざしに包まれて微睡むこともあるだろう。出会いもあれば別れもある。憂うつもあれば怒りもある。大人社会は厄介かつ面倒くさくて嫌いなヤツとも手を組まなきゃならないこともある。場を与えてはならないと声高に訴えたところで事態は好転しない。なにしろ大人は多かれ少なかれ、自分以外のことに時間を費やさなくちゃいけない。自分事だけにかまけていては社会の一員とは言えない。公共を意識してこそ一丁前の大人である。親となればなおさら子どもとの時間が大切になる。子どもと向きあう時間を惜しんではならない。子どもが大人から教わる以上に、大人は子どもから多くのことを学べる。無駄な時間は一瞬もない。ぼくたちは与える、これからの未来を生きる子どもたちへーー

 福岡史朗の、“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”を聴きながら、ぼくはそんなことを考えている。時おりへヴィーな気分にもなるが、音楽自体は風通しのよい耳に負担をかけない軽やかな種類のものだ。福岡作品は旧作も含めて、Spotifyなどのサブスプリクションで聴けるけど、できればCDを購入してほしい。たぶん十年くらい後になったら誰もが福岡史朗の真意を理解できるようになると思う。そしてそんな円盤を所有しているオレは、まんざらでもないなと独りで含み笑いしている。 2019年5月19日

 

 

KING WONDA NUG WONDA IA KIKELE

KING WONDA NUG WONDA IA KIKELE

 

 

【過去記事】

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劇画『I・飢男』に登場したザ・フー

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左:ピート・タウンゼンド、右:ロジャー・ダルトリー

 

mainichi.jp

著名な劇画原作家、小池一夫さんが平成31年4月17日に亡くなった。82歳だった。

ぼくは小池一夫作品の良い読者ではない。代表作の『子連れ狼』も全巻は読んでいない。だが、青春のときどきに、そこにある雑誌を手にとれば、小池一夫原作の劇画は、必ず連載されていた。昭和から平成を生きた自分のような中高年は、好む好まざるにかかわらず、氏の作品に触れ、影響されているはずである。

ロック少年だったぼくに、とくに衝撃を与えた作品は、これから紹介する『I・飢男(アイウエオ・ボーイ)』である(作画:池上遼一)。最初『週刊現代』に連載されたが、のちに『劇画ゲンダイ』へ、それから小学館の『GORO』と、掲載誌が転々としている。ぼくが目にしたのは、『GORO』掲載時の「アメリカ編」である。通常より大きなサイズの雑誌に、池上遼一のシャープなタッチで描かれる美男美女の艶姿は、思春期のぼくに鮮烈な印象を与えた。

そして、この『I・飢男』には、今なお現役で活躍する実在のロックバンド、ザ・フーが登場する。例えばそれは『巨人の星』に長嶋茂雄王貞治が登場するような、虚実ない交ぜの面白さがあった。

説明はほどほどにしよう、このブログ記事では「フーの諸君(byギラム)」が登場する場面だけを、ざっとかいつまんで紹介したい。

 

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昼の部のコンサートを終えて、意気揚々と楽屋にひきあげたザ・フーの4人。ところが、楽屋には怪しげな闖入者が一人(主人公:暮海猛夫)。男は殺人者として追われている身だと自己紹介し、金は払うからレストランの夕食につきあってほしい、と申し出る。何のために? と訝るフーの面々に、男は、映画プロデューサーのギラムと会わなければならないと告げる。ヴォーカリストロジャー・ダルトリーが差し出したコーラを一気に飲み干した男は、そのまま意識を失う。フーの4人は、スーツケース一杯に詰まった金を奪って、この男をほっぽり出すことも可能だったが、自分たちを信じて眠りについた見知らぬ日本人の男に、意気を感じ、要求を受け入れる。ギタリストのピート・タウンゼンドは男の携えていたケースを「見ろよ」とメンバーにうながす。

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「ガッツなんだな!」「ハードでストロングな男だ」

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「おれは引き受ける(ロジャー)」

「勿論(ピート)」

「おれも!(キース・ムーン、ドラムス)」←似てる。

「Me Too!(ジョン・エントウィッスル、ベース)」

open.spotify.com

『フーズ・バイ・ナンバーズ(旧題:ロックンロール・ゲーム)』は(『I・飢男』連載時)1975年のアルバム。ちなみにジャケットのイラストはジョン・エントウィッスルによるもの。

 

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熱狂するファンに囲まれるザ・フー。彼らを煙幕とした暮海猛夫は警察の張った非常線を突破し、Aギラム氏の待つ高級レストラン、ブラウンダービーにたどりつく。

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<高級レストランに入店したダルトリーがウェイターにラフな服装を咎められ、その場で解いた靴紐をネクタイ代わりにして、ほれこれでいいだろってカマしたところ。>兵庫県伊丹市在住・樹山さんの回想)

突然の珍客にもギラムは平然と、フーの諸君も席につきたまえと、食事を振る舞う。夜の部のステージに備えて料理にがっつく野蛮なバンドマンたち。だが、この時点でケン・ラッセル監督『トミー』の主役を張り、さらに『リストマニア』が公開されているだろうロジャー・ダルトリーは、ハリウッドの大物プロデューサーに独自の映画論をぶつ。

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これも映画への関心は人一倍のピート・タウンゼンドも映画論に一丁噛みする。

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ここで改めて『I・餓男』の筋書きを紹介する。
<写真を職業とする広瀬未来は偶然、大物政治家のスキャンダル写真を撮ってしまったため口封じに強姦されて自殺してしまう。それを知り復讐を誓う恋人の暮海猛夫。巨大組織との、あらゆる手段を使用した壮絶な戦いがはじまる。>

プロデューサーのギラムは、暮海猛夫の「物語」に興味を持つが、どう扱うかは態度を保留していた。が、それを「フーの諸君」は後押しするのである。

「『ポセイドン(アドベンチャー)』の次には何が来るんでしょうかね! ミスター・ギラム。あなたがアーウィン・アレンを追い越すためには『ポセイドン』を超えるものをつくらなければならないだろうなあ、やっぱ! おれたちゃあ期待で胸が膨らむね! 執念をかけてあなたが次につくろうとする映画は何だろうと! アレンに勝負を挑む企画は何なのだろうとね!(ロジャーのセリフより)」

つまり、暮海猛夫の持ちこんだ企画(政界スキャンダルに巻きこまれ恋人を殺害された男の復讐譚)を撮れ、と焚きつけているのである。

さて、食事を終えたフーの面々は、ごちそうさんとギラムに告げ、おさらばするぜ、と席を立つ。同時に、いったん暮海から受け取った日本円の札束を彼の目前に放りやる。そして以下のように、この劇の一場面から退場する。

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キザはどっちだい? と言いたくなるが、このセリフはやはり、ザ・フーでなくてはならなかった。

ぼくは2011年12月に、こんなツイートを投稿している。

そして、2019年4月19日に、

追悼。小池一夫さん。

先生の『I・飢男』におけるザ・フーの配置は的確でした。物語の展開上、フー以外はあり得ない。ローリング・ストーンズレッド・ツェッペリンではダメなのだ。「ガッツなんだな」「ハードでストロングな男だ」等のセリフも「キザだけど」「いい線いってる。」でした。

と、この劇画について再び投稿している。それほど衝撃だったのだ。なぜなら、『I・飢男』によって我がザ・フー観は醸成されたようなものであるからだ。

ザ・フーは漢気あふれ、義侠心に満ちた、インテリジェンスを備えたバンドである、と。

open.spotify.com

そう思わせるにいたった、小池一夫氏のテキストに思いを馳せる一助となるなら、この記事をまとめた甲斐もあろうというものだ。

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<説明:マキの姉、夏子の助けを借りて単身、アメリカに渡った暮海猛夫。復讐を遂げるために、ハリウッドの超大物映画プロデューサー、A・ギラムに接触を試みるが……。

収録作「アメリカ編 兇殺行 アンクル・トド」ほか「サンセット・ブルバード 夕日に向かう道」「目的」「桜ンボのマール」「地獄を通ってでも行くぜ」の全5話を収録。>

この「地獄を通ってでも行くぜ」に、ザ・フーの諸君が登場する。インターネットで無料でも読めるようだが、できれば単行本を入手していただきたい。

 

 

【過去記事】

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