鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2018年5月のMedium

 

音楽工場の謎

先日キリンビバレッジが「午後の紅茶」の広告で炎上していた。あの広告に使われたイラスト、趣味がよいとは到底いえないが、広告でないなら、「あるあるネタ」として問題にならなかったと思う。

広告主であるメーカーの謝罪もお座なりなもので、火に油を注ぐ形となったが、私がより深刻だと感じたのは、いわゆる「業界の開き直り」である。

この、マーケティングの手法にいちいち目くじらたてるんじゃないよ、といった不遜の態度が改まらぬ限り、広告制作の業界は、今後も「消費者の感情を逆なでするような」広告を性懲りもなく市場に投下し続けるだろう。

 

さて、私は例のごとく(笑)Twitterで企業と上掲記事を批判していたが、その際過去の失敗談をスレッドにつけ加えた。

鰯)むかし楽器メーカーで働いていたとき、学校用オルガンの自動伴奏ソフトを制作した。商品名を決める会議の席、ぼくは軽い気持ちで「音楽工場」はどうでしょう?と提案した。すぐさま「皮肉がキツい」「ビールじゃないんだから」「教育現場にふさわしくない」と却下された。当然、彼らの判断が正しかった。

と、数日後、私の別のツイートに木原さんからメンションが届いた。彼はプロフィールによると「社内研修を担当している」そうだ。言葉の端々に誠実さのうかがえる、私が信頼を寄せるアカウントである。で、以下はそのやりとり。

木原)〜無邪気ついでに伺ってもいいですか?「音楽工場」はどうよくなかったのか分かりませんでした。もし差し支えなければ教えて下さい。

鰯)学校の教室で使われる音楽ソフトに「音楽工場」という名前は似つかわしくない、といったところでしょうか。結局、「うたのポケット」という、教育現場にふさわしい名前になりました。

木原)ありがとうございます。なるほど「うたのポケット」はとても想像力豊かな感じで、それに比べると「音楽工場」は無機質に感じます。作り手はいたって真剣に製品を世に送り出しているんですね。

鰯)「音楽工場」は制作を担当したぼくの単なる思いつき、「うたのポケット」は長く小学校の音楽教諭をつとめた監修者の提案でした。ぼくには実際に商品が流通したあとのイメージがなかったのです。いま思いだすと恥ずかしい話ですが、よい経験をしたとも思います。

木原)製品がどう受け入れられ何をもたらすのかを知ったり想像することはとても大事ですよね。ぼくは営業研修を担当してるんですが、特に新人には「長年当社を利用してくれている顧客が何を気に入って評価してくれているのか必ず尋ねてください」と伝えています。意外とそれを知らない売り手が多いので。

鰯)うん。最近の炎上を上等とした広告は、制作サイドの思いあがりというか、コレが面白いのに何で文句いうのさ?的な開き直りを感じます(謝罪の仕方を含め)。不特定多数のお客様から販売店まで、相手が誰であれ広告を受け取る側への想像が及んでいない。だから似たような過ちをくり返すんだと思います。

木原)想像力とリスペクト、大事ですね。音楽工場の謎が解けてよかったです。ありがとうございました!

私はこういう穏やかなやりとりが好きでTwitter一番の長所だと思っている(もちろんMediumでも可能なのだが、Japanにおいては難しい状況である)。しかしこうして会話を並べてみると、木原さんの提した疑問に答えていないことにハタと思いいたった。

なので、この場を借りてお答えします。

当時(私が浜松の楽器メーカーに勤めていた1993年頃 )、キリン「ビール工場」というヒット商品があったのですよ。

つまり「音楽工場」は、これに引っかけた「パロディ」だったのです。

このことを説明していなかったから、若い(私よりも10歳年下の)木原さんには「謎」に思えたのだろうと気づいた次第でした。

鰯 (Sardine)2018/05/05

 

邦画の中の自転車のシーン

連休中はAmazonプライムで映画を観た。1日2本ペースで、負担にならないものを。

ちょっと前の邦画を立て続けに3本観て、自転車に乗る場面が多いなあ、なんでこんなに俳優を自転車に乗せたがるのだろう、と感じた。

綾瀬はるか主演の『海街diary』は、広瀬すずの自転車に乗るシーンが頻繁だ。とりわけ印象的なのは、鎌倉の桜並木のトンネルを、二人乗りしてくぐるシーンで、すずがうっとりと目を閉じる表情は、後の飛躍を予感させる名場面だった。さすがは是枝監督、押さえるべき箇所はきっちり押さえている。(追記:映画好きの知人は、広瀬すずのプロモーション作品みたいだとシビアに評価していたが。)

一方、

黒川芽以が主演の『愛を語れば変態ですか』は、冒頭でキングオブコメディ今野浩喜が自転車に乗って登場する。バイト先となる店先の看板に激突するが、看板を立て直さないまま放置する。この序盤の演出が物語の不穏さを暗示させる、

と、好意的に解釈したものの……

レビューの評価が低かったから、あえて観てみたんだけれど、うーむ確かにひどかった。冒頭の自転車の場面も「住宅地がこの映画の舞台ですよ」という説明でしかない。ロケ地は千葉だか茨城だかだったけれど、場所設定が何処だろうと一緒のような気がする。

その点、

前田敦子主演の『もらとりあむタマ子』は、舞台が山梨県甲府市である必然性を強く感じさせる映画だった。街の規模が主人公タマ子の閉塞感を表すのにぴったりのサイズだ。けれども、画面に映った甲府の街並みは、それほど悪いものでもない。撮る側の視線が街に優しい。

ここに掲げた写真は、映画の後半でタマ子が諦念まじりに決意する場面だ(と思う)が、この(東京に通じる脱出口でもある)駅の側を自転車に乗って走り去るシーンは、時間を計ればちょうど30秒である。つまり、

我々は、徐々に前田敦子の背中が小さくなる様子を30秒も見続けることになる。

良くも悪くも、これが日本映画である。静的な描写をすれば、すわ小津的だ、と評されるところの。しかし前にも述べたが、この「風景を長回しすることで登場人物の心象を観客に想像させる」手法は便利だ。自動車では難しい。自転車という小道具を駆使することによって、街の景色から心情らしきものが惹起される。

逆説的に、そういった湿り気のある意味を予め剥奪した『愛を語れば〜』は、敢えて自転車を粗雑に扱うことで邦画の内包する制度から逃れようと試みたのかもしれない。

と、考えながら書き綴れば、自分でも予想できない結論に達するケースもある。

風景に心境を仮託することは、観ている私の側が備えた怠惰ではないか? と。

鰯 (Sardine) 2018/05/07

 

イマジン

想像してごらん。

意識して、想像力を駆使して、

あなたが心地よいと感じたことを。

縁側でのんびりと日向ぼっこする猫みたいな気持ちになって。

目を閉じて、しばらく想像してごらん。

 

町を歩いていて、街角から街角へと、瞬間的に移動したことはない?

現実に、ではないにせよ、なにか自分と別のところから、引っ張られて、ふわりと身体ごと運ばれるような経験が。

シャガールの絵みたく浮かんで、

波に運ばれたときのような感覚で。

バスからひらりと降りたった時などに。

そんなふうな、実感を伴った想像をしてしまうのは、私だけの錯覚なのかな?

気持ちいいんだけどな。

 

あるいはまた、

あなたの信頼できる誰がが、

ただ何も言わずに側にいて、

とくに何するわけでもなく、

身体とからだを寄せあって、

でもハグ以上にはいたらず、

しばらくくっついたままの、

状態でいることは?

想像してごらん。

延長線上に性交を結ばずに、

セックスを帰結に置かない、

たんなる肌の寄せ合い。

悪くないと思わない?

私?

私は猫と昼寝してます。

肌寄せあって。

想像してみて。

じわりと伝わる温もり。

鰯 (Sardine) 2018/05/13

 

スチール100YEN

5月23日、福岡ヤフオクドームで、埼玉西武ライオンズ福岡ソフトバンクホークスを観戦した。結果は2対1でライオンズが勝利し、元所沢市民の私は大いに溜飲下げたのだが、上着を着たとき胸ポケットに入れていた帰りの新幹線の切符がないことに気づいた。たぶんユニフォームに着替えたときに落としたのだろうが後の祭りだ、博多駅で5千円弱で片道切符を買うはめになった。なんたるドシ。

その後、帰路の車中で私は下掲のマンガを思いだしたのである。以下ツイッターから5つを転載(主語:ぼく → 私)。

  • そういや昨日の野球観戦中、帰りの新幹線の切符を紛失したことに気づいたときに、ふと水島新司のマンガを思いだした。福岡ドームなら『あぶさん』だろうって?違うよ『野球狂の詩(うた)』だよ。私は野球を題材にしながらも庶民の人情を描く、初期の短篇群が好きだった。そこでさっそく本棚の奥を探してみた。

  • 1974年発行『野球狂の詩』第4巻、第1話の「スチール100YEN」。貧乏な親子が野球に夢中な観客の懐中を失敬する掏摸の話だ。私の意識下に是枝裕和監督のカンヌ映画祭受賞作品『万引き家族』があったから思いだしたのだと思うけど、「家族と軽犯罪」以外とくに共通点はない。水島新司お得意の、野球にかこつけた人情話である。

  • 掏摸の話は反社会的だろうか? 野球を冒とくしているだろうか?しかし「スチール100YEN」をけしからんと怒る読者は殆どいないと思う。他にも初期の『野球狂の詩』には、現在だと雑誌に掲載できないようなテーマがいくつもあるが、水島作品の根底にはヒューマニティーが溢れている。今ふり返るのも悪くない(しかし、今の目でみても絵に躍動感がある。運ぶ筆の勢いが違う)。

  • 球場の客席には、いろんなタイプの人がいるじゃない?年齢も性別も職種も性格もさまざまな。けど、俗に「サイレントマジョリティ」と呼ばれる何万もの人びとが、球のゆくえに一喜一憂しているさまを見ていたら、自分も含めてだけど、人間ってホント「おもろかしい」存在だなと思ったんだ。
  • そして思った、どうしたら抗う声をみんなに届けられるのだろうか、と。

私は是枝監督を反日呼ばわりし、『万引き家族』を国辱ものだとする、ネットウヨクたちの言説に我慢ならなかった。さいわいイタリア映画『自転車泥棒』を引き合いにした反論などが現れ、私もまた以下のようなしかつめらしい投稿をし、

羅生門』、『楢山節考』、今回の『万引き家族』。いずれも社会の暗部を描いた邦画である。国際的な評価を受ける理由は、人種や民族を超えた普遍的な題材を扱っているからだと思う。万引きするような国に思われたくないという「身内の恥」的な意識は、国家というイエに取り込まれたゆえの発想である。

『万引き』の題材を恥じる心性を批判したけれど、なんかちょっと違うな、とも感じた。

《いつから日本社会は、創作と現実の弁別がつかなくなったのだ?》

もちろん万引きは悪い。掏摸も悪い。でもね、『万引き家族』がパルムドールを受賞したとき私が真っ先に思い浮かべたのは中村文則の小説『掏摸』だった。軽犯罪をおかさざるを得ない者の視点から社会を描く、是枝監督の意図とも共通点がおおいにあると思う。

娯楽作品の中には、もっとカジュアルに悪人が描かれているではないか。『鼠小僧次郎吉』から『ルパン三世』にいたるまで盗っ人は庶民のヒーローだったはず。そりゃあ万引きは犯罪だ。罰せられる行為だ。が、だからこそ人の目を盗み、警固の網の目をくぐりぬけ、上手に頂戴する場面に、大衆は喝采を送る。

水島新司の『野球狂の詩』には、今となっては少年誌(初出:少年マガジン)に掲載できない内容のものが多い。選手の孫を誘拐して八百長を強要する話やらヤクザの親分が球場で抜刀して応援する話やら、タイトルに「乞食」を使うわ「くノ一」とも知らずにセクハラしまくるわ、NGのオンパレードである。

だから昔は良かった、表現の自由があった、と言いたいわけではない。むしろ人権に配慮するようになった現在のほうが社会のありようとしては望ましい。当の水島新司だって、今なら表現のモラルに配慮するだろう。

Twitterに〈若い女性にわざとぶつかる男性〉の動画がアップされているようなご時世である(#わざとぶつかる人 で検索してみるといい。酷いから)。父子が観客の懐を狙う画像はセンシティヴな問題があるかも、と思った。自分が不快でなくても、不快に思う人がいるかもしれない。それは不快に思った方の責任ではなく、不快な画像をアップした側の責任である。それゆえ私は上の画像を含めたツイートを削除することにした(どのみち反響は殆どなかったのだ)。

たぶん私が「スチール100YEN」を持ちこんで伝えたかったことは、こうだ。

  • 軽犯罪を題材にした創作物は星の数ほどある。ネットウヨクの諸君にとって映画『万引き家族』のタイトルと国際的な評価は許しがたいものかもしれないが、そう目くじらをたてなさんな。
  • 例えばこの「スチール100YEN」に描かれる掏摸の親子は野球を冒とくしているか?少年マンガの表現として相応しくなかったか?しいては高度成長期の日本社会を辱める内容であったか?
  • 私はそうは思わない。なぜなら「スチール100YEN」に描かれているのは親子の情愛と世間の人情だ。さらに憎むべきは貧困であり真に必要なのは子どもへの教育だと問題提起もしている。
  • 映画も小説もマンガも、表現の方法に違いはあるけれども、現実社会に訴える役割がフィクションにはあるという点では一致するところだから。

そんなことを私はTwitterに問いかけてみたかった。が、言葉たらずだった。ゆえに改めてMediumに記しておく次第です。 鰯 (Sardine) 2018/05/26

 

『響』の書いた小説は?

子どもに勧められ、柳本光晴作『響・小説家になる方法(ビッグコミックスペリオール連載)』を、既刊9巻まで読んだ。評判通り、面白かった。

細かい箇所を論う無粋な真似は避けたいが、私が唯一気になったことは、

《主人公、響の書く小説とは、いったいどんな小説なんだろう?》

である。説明は最小限に抑えられ、小説の内容は読者の想像力に委ねられる。これに近い構造のマンガは『BECK』だろうか。ロックバンドの歌が)どんな歌詞でメロディーかは読者が自由にイメージしてくださいという。『響』の小説もそれと似ていて、詳細はわからぬままだ。

その点クラシックは有利だ。例えば『ピアノの森』だったら、ピアノを弾くシーンに「ショパン練習曲・第◯番」と添えればよい。あとは読者が好きなピアニストの演奏を勝手に思い浮かべてくれる。実際にCDをかけながら読むかもしれない。「絵解き」ならぬ「音解き」である。

比して、マンガで小説を書くのは至難のわざだ。圧倒的な天才である響の小説が凡百の作家の小説よりもどう優れているか、まるで分からない。ライヴァルはみな響の作品を読んで打ちのめされ、あるいは当の響によって善し悪しを無慈悲に宣告される。なんだか『遊戯王』みたいで、そこが面白いところだけれども。

そうして思い返してみると、劇中劇ならぬマンガ中劇をこれでもか、と描いた『ガラスの仮面』や、マンガ中マンガを描いた『バクマン。』は、やはり作者の力量というかマンガ家としての膂力が桁違いだったのだな、と再認したのだった。

もちろん『響』の面白さは其処ではないとは百も承知で、あえて無い物ねだりを記した次第です。

鰯 (Sardine) 2018/05/26