鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

きわめてパーソナルな領域を俯瞰でとらえた抒情歌集『離してはいけない』

『離してはいけない』は1996年9月に発表した、岩下啓亮の唯一の自主制作盤(CD)である。4月から制作をはじめ、約3ヶ月かかって完成した。作詞・作曲・編曲・演奏・歌・録音・編集・表紙イラストすべては岩下自身による。パートナーが録音の最中に適宜アドヴァイスしてくれたので「道案内」とクレジットを記した。当時はパソコン等を持っていなかったので、マスタリングと印刷は代々木のコジマ録音に頼んだ。500枚・ダンボール5箱を発注した。2000円の価格をつけたが、純粋に「売れた」のはせいぜい200枚程度。あとは方々に配りまくった(まだ押入れに100枚ほど残っている)。
以下、『ミュージックマガジン1997年1月号』の「自主制作盤」に掲載された(266~267ページ)、行川和彦氏の寸評を引用します。
<『離してはいけない』は、ピアノの弾き語り主体の7曲入りCD。エルトン・ジョントッド・ラングレンピート・タウンゼンドらの静かな曲に通じるなめらかな流れ、にじみ出るポップセンス、切なくなる歌声と旋律など、心に残るものがある。>

f:id:kp4323w3255b5t267:20240703123629j:image

f:id:kp4323w3255b5t267:20240703123626j:image

(TuneCoreに提出した作品紹介文より)

open.spotify.com

【ジャケット画像】タイトルとアーチスト名を追加した

f:id:kp4323w3255b5t267:20240627162552p:image

きわめてパーソナルな領域を俯瞰でとらえた抒情歌集

『離してはいけない』

【各曲解説】

1. Z橋で待つ
Z橋で待つ

Z橋で待つ

  • 岩下啓亮 Sardine
  • ロック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

岩下啓亮の代表曲である。
この歌詞を「文学的」だと評した方は少なくない。私は「文学」とは何かが分かっていないから、この指摘にも当惑して、たぶん「ポピュラーではない」「内省的だ」の意味だろうと解釈していた。
この曲はヤンさんがカヴァーしてくれた。彼が歌うのを下北沢のライブハウスで観ていたときに、隣に座ったナカシーが「長い曲だな」とつぶやいていたのを憶えている。たぶん退屈な曲だと思ったのだろうな。
本はよく読むほうだ。このころは図書館へ通って、毎週5冊ずつ読んでいた。

 

2. さかさまの世界
さかさまの世界

さかさまの世界

  • 岩下啓亮 Sardine
  • ロック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

意味深なようだが、じつは子どもを遊園地に連れていき、気の進まないジェットコースターに乗ったときのことを歌詞にしたものだ。意気消沈した私とは裏腹に、子どもはキャッキャと喜び、もう一度乗りたいとせがむのだった。
長いこと私はこの陰鬱な歌を好まなかったが、最近になって「悪くないな」と思っている。これほど抑制の効いた、むだのないアレンジは、私のレパートリーの中でも稀だからだ。

 

3. 雑踏で
雑踏で

雑踏で

  • 岩下啓亮 Sardine
  • ロック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes
サラリーマン時代の私はワーカホリックで、月の大半は出張で全国を飛びまわっていた。そのころのやるせない感情を歌ったもの。歌詞の主語が曖昧だとの指摘を受けたことがある。言われてみれば確かにその通りだが、これは自我が崩壊する私を、もう一人の私が見ているという構図なんだ。前の曲も同様で、『離してはいけない』収録の歌詞はどれも、私を私が観察していると解釈すれば、理解しやすくなるだろう。
ミニマルなギターリフはパートナーの発案だ。自分ではマーヴィン・ゲイのスタイルを気取ったつもりだが、ジェイムス・テイラーみたいに爽やかな曲調だねという感想をもらったことがある。ホントに感じ方は人それぞれだ。

 

4. 運命のままに
運命のままに

運命のままに

  • 岩下啓亮 Sardine
  • ロック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

このE♭のバラードにつけ加えることはあまりない。やたらと複雑な和音を仕掛けてしまったけれども、「(讃美歌のように)格調高く」を心がけたつもりだ。

パートナー(妻)は傍らにいて、ときおり私にサジェスチョンをくれた。リズムマシンを使用しないという方針を定めたこともそうだが、ギターの使い方にも厳しかった。要所要所に挿入し、曲を支えるために用いること、と。この曲の間奏に2声のハーモニーを加えたら、とアドヴァイスしたのも彼女だった。このアルバムのギタープレイをよく褒められるが、それは妻のおかげである。

 

5. 忙しいひと
忙しいひと

忙しいひと

  • 岩下啓亮 Sardine
  • ロック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

私の旧い友人にプロのギタリストがいる。彼は私の制作したデモテープを渡すたびに、「クレヨンで描いた絵みたいなアレンジだな」と酷評するのが常だったが、この曲についてはすぐに電話してきて「ケイスケおまえばっちり弾けるじゃん、ソロのあとオレ思わずyeahって叫んだぜ』と嬉しいことを伝えてくれた。ま、そういった励まされる経験がたまにあるから、音楽活動ってなかなかやめられないのだよね。
でも、この編曲の決めては、ピアノよりもベースプレイだと私は思う。このアルバムは全体的に、「ベースがよく歌ってる」んだ。

 

6. 夜の煙草
夜の煙草

夜の煙草

  • 岩下啓亮 Sardine
  • ロック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

夫婦喧嘩したときの歌だ(笑)。
口論してどちらかが家を飛び出して、また帰ってきて、しばらくは気まずいが、またふだんの暮らしに戻るという、身近な情景を描いた歌で、小市民的かもしれない。でも、小市民的な歌ってじつは意外と少ないんじゃないか。狙ってつくったわけではないけれど。この歌を好きな友人が、ギターのスライド奏法を「救急車のサイレンみたいな音が入っているね」といっていた。そんなふうに音楽は、聞く人の心になんらかの効果をもたらすようだ。つくる過程で、私に明確なイメージがあったわけではないのにね。

 

7. 抱擁
抱擁

抱擁

  • 岩下啓亮 Sardine
  • ロック
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

1996年、浜松市の楽器メーカーを退職し、私たち一家は埼玉県所沢市に引っ越した。日中、録音する時間は、子どもを家庭保育室に預けていたが、まだ一歳の娘は、預けるたびによく泣いたものだ。それから約十年、私たち一家は寿町のおんぼろアパートに住んだ。タワーマンション建設のため立ち退きが決まったとき、かの女は小学六年生に成長していた。「抱擁」を聞くたびに私は当時のことを思いだす。
そういえばこの曲で私は、風邪薬の空き瓶をトライアングルのビーター(金属棒)で叩いている。前の曲「夜の煙草」でギターをスライド奏法で弾いたときに用いたものだが、この曲が終わった直後、薬瓶は粉々に砕けてしまった。録音中の小さなハプニングだが、そんな些細な出来事もよく覚えている。

 

【CDの装丁について】

f:id:kp4323w3255b5t267:20240703123720j:image

資料1:CDのインナースリーブ(歌詞カード)

f:id:kp4323w3255b5t267:20240703123723j:image

資料2:CDケース(左上はディスク盤面。右下は裏面)

イラストは古本屋のワゴンセールでみつけた心理テストの本に示された統覚検査の絵画を飽きもせずに眺めていた、その影響だと思う。筆ペンで描いた。本職のイラストレーターからは「橋の下の影が間違っている」と指摘された上で、「でも、懐かしい絵柄だね、幼いころ貸本屋で借りた劇画みたいな」という感想をいただいた。

 

【録音プロセスについて】

これまではリズムマシンやクリックのガイドに従って、各パートを一つづつ録り重ねていた(前々回にリリースした『50 / 50』も、リズムのガイドに沿ってピアノを弾いていた)けれども、『離してはいけない』はそのプロセスをやめ、まずピアノの弾き語りをしてから、そのあとにベースやギターやコーラスなど、必要なパートをつけ加えていった。その結果、演奏に微妙な揺れやズレが生じているが、他の録音にはない、独特の雰囲気が醸しだされたように思う。そしてこれも「道案内」のパートナーによる発案だった。

会社を辞めた私は、ゆっくりと流れる時間のなかで曲を準備した。何時間もシンセサイザー(カーツウェル K1200)のピアノを弾きながら、メロディーを探りあて、歌詞を載せていった。ねらいや企みを意識的に外し、内側から湧きあがってきたものを汲みあげる感じで曲をこしらえていった。

このように迂遠なプロセスをたどる録音は、今までに経験したことがなかった。曲の輪郭がはっきりしてきたら、形が定まるまで、何度も練習した。「運命のままに」や「抱擁」を間違えずに弾きおおすのは、かなり難航したが、なんとかやりきった。その経験は今も身体に染みついている。上手には弾けなくても、ポジションも運指もぜんぶ覚えている。


www.youtube.com

【歌詞について】

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

このアルバムを「文学的」だと評されることを、私は長く拒否していた。しかし最近になって、その指摘は的を射ていると思うようになった。私は、私にまつわる諸事情を書いているのだけれど、歌詞に選んだ言葉は、主人公である私のせりふではない。さりとて説明でもない。そのあわいにあるあたりを描いているのが、いまいち聞き手に伝わらないもどかしさを与えるのかもしれない。まあ、意図していなかったとはいえ、その意識の流れは、文学「的」であるのかもしれない。のちに小説を書くようになって、とある賞の最終選考に残ったとき、「文学とお話は違うのだから」と辛辣な講評をもらったが、その文学賞に応募した小説よりも、この『離してはいけない』の制作過程のほうが、よほど文学に近かったと認めざるをえない。

だからお願いがある。この『離してはいけない』を聞く際は、7曲30分間を、通しで聴いてみてほしい。かつてルー・リードは「本を読むように、このアルバムを聴いてほしい」と語っていた。僭越だけども、私も同じ気持ちである。途中とばさずに聞いてみてください。鰯 (Sardine) 2024/07/15

 

 

【過去記事】今回の底本となった記事です

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

 

【既出の配信アルバム】

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com