鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

福岡史朗 “SPEEDY MANDRILL”

 

福岡史朗2017年のアルバム『スピーディー・マンドリル』、ぼくは毎日聴いている。

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どんな書きだしの感想がいいだろうか。ぼくはずっと考えていた。悩んでいるうちに月日が経ってしまった。おまけにプールサイドで滑って転んで、突いた右手首を痛めてしまった。放っておいたらずきずき痛むし、37度強の微熱が続くから、整形外科で診てもらったところ、はく離骨折なんだそうだ。「きみのつまずきなど取るに足らないこと」と、どこからともなく忠告する声が聞える。仕事中の事故だから労災を申請することになったが、書類を書くのが面倒くさい。一事が万事、やる気が起きない。パートナーパリーグTVで西武戦を観ている。一応もと所沢市民のぼくも、つきあってライオンズを応援する。そのうち睡くなる。歓声が遠ざかる。狭山丘陵はもう、はるか昔のこと。

散文的な政治のニュース。誰がどれだけくだらないことぬかしたか、そればかり気を揉むぼくは、四六時中しょっちゅうスマフォの画面を弄んでいる。だからか、「でも……」とため息みたいに挿まれる音符にもならないような声に、それ以前ぼくも使った手法だと権利を主張したくなる。ホラこんなふうに、福岡の歌は、いつの間にか、するするっと懐中に忍びこむ。いや忍びこむは違うな、溶けこむとも違う、気づいたらそこにいる。気の置けないともだちが、ふらっと訪ねてきたような感じ。四人一組で踊ることは、今のぼくには叶わないことだけど、それが月を飛びこすくらいの、喜びだってことは知っている。

ずっと目論んでいたんだ、楽曲の長所を挙げて並べて、激賞してやろうと。たとえばベース。今回どれもベースラインが躍動している。実をいうと昨年の2枚組を聴いて、ベースがもう少し遊んでもいいかなと感じていたので、嬉しかった。2曲め3曲めではなんとチューバを使っている。チューバはうたう朴訥なラインを。リンク・レイ?もちろん知っている。ボ・ディドリーがワンコードならリンク・レイはツーコードの雄だ。そういや前作『HIGH-LIGHT』の一曲にはこんな一節があった。「そして今では臨海に棲むコミューンの雄」。これをぼくは「古民(家)の湯」と勘違いしていた。お台場に温泉場があるじゃない、あんな感じの。

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com 

さて何が言いたいかっていうと、そんなふうに福岡史朗の歌の詞は、意識にするりと(やはり忍びこむが適切なのかなあ)潜りこみ、住みついてるってことだ。たとえば「あー猫がステップ、」の「」。この字余りが最初は妙にぎくしゃくした風に聴こえるけれども、二、三度くり返されればアラ不思議、その「」の来るのが待ち遠しくなる。そこにバップを経由した松平賢一(敬称略)の6度を多用したリックが絡めば、真夏のうだるような夕暮れ時の交通渋滞も、ゴキゲンにやり過ごせるってもんだ。

むだな構えのない福岡史朗の歌どもは、60年代中期の、サイケデリックに離陸寸前の英米ロックを彷彿とさせる。輝かしい近未来を先取りしたような、デイ・トリッパーやらデヴィッド・ワッツやら(ソー・ユー・ウォント・トゥ・ビー・ア・)ロックンロール・スターやら、カラフルだけど、クリアーで朦朧としていないナンバーを。「次の月曜、次の週末」ってコーナーにおけるきびきびとしたハンドル捌きはどうだ。福岡の弾くリズムギターはドライヴしている。打ちたてのもり蕎麦みたいに歯切れがよい。そうだ、ぼくは誰それの何に似ている式の解説はしたくない。そういう穿さくは得意中の得意だけど、それこそ野暮ってもんだよ。〇〇の影響がうかがえる〜なんて解説は避けたい。福岡の歌に反映した今日性はオールディーズ趣味とは無縁だから。

それよりも、この書き散らした記事を読んだ方が「ふむ、この『スピーディー・マンドリル』は良さそうだな、どれ聴いてみるか」という気持ちがわき起こるかどうかが甚だ不安だ。むしろ、とりとめもない作品ではないかと疑われるんじゃないかと心配している。いや誤解しないでください。ごちゃごちゃした印象はぼくの悪文のせいです。福岡史朗の作品は混沌とは無縁だ。どの曲も焦点が絞れており、アレンジはすっきりしており、アッという間に持っていかれる。粋で、素早く、鮮やかに。十代の頃に憧れたカッコいい先輩みたいに。

だから「狂った魚が水槽で暴れている」三連バラードにしても粘っこくはなく、二曲でさりげなく採りいれられたレゲエのリズムにしても借りモノっぽさはなく、埃っぽいガレージにJBとオーティスが一曲に同居していても特に違和感はなく、後半に聞こえるリフレインや喋りと歌の中間を狙った(断じてラップではない)ジミなスポークンも、新境地かもしれないが、作為的な感じはしない。あくまでも自然体、そして等身大。自分をことさら大きく見せようとはしない。

ぼくが福岡の音楽に信を置く理由は、実にそこなのかもしれない。彼の歌には虚飾と、まやかしがない。素朴な衣装を身にまとい愛想笑みを浮かべない。たぶんステージに上がっても「こんばんは、それじゃ一曲め」と口ごもりながら淡々とカウントを数えるだろう。独特の視点は日常からかい離しない。あてどない夢をいたずらに追いかけたりはしない。しっかり現実を見据えている。プリコラージュの迷宮に嵌ることもない。けれども倦んではいない。内に秘めた想いはふつふつと滾っている。怒りや哀しみを漂白しようとはしない。ただ心のありようを正確に抽出しようと試みる。

「ここはふざけた選挙のニュース、外は激しい風の音がする」

福岡史朗は、音楽に・政治を・持ちこまない。なぜなら政治は持ちこむまでもなく、日常の延長線上にあり、ごく自然に語られるものであるから。

「外は激しい雨音、ここはふざけた政治のニュース」

「愛と平和と自由」。2013年、福岡史朗アルバム『Let's Frog』収録。 この歌は福岡さんの新譜ではないし、紹介するのも少し躊躇いがあったけど、今このタイミングで聴くと最高にタイムリーな歌詞だ。ぜひみなさんも聴いてみてほしい(Youtubeで動画を検索してごらん)。posted at 09:33:05 7/26のツイート

かつて書かれた「愛と平和と自由」は、正真正銘のプロテストソングだ。福岡は、世襲議員による縁故政治を痛烈に批判していた。それに比べたら今回の「法王のハーレー」は、一歩退いた印象を抱くかもしれない。しかし抑制された表現を源までたどれば、ぼくは彼が表層的ではない、よりいっそうの怒りを抱いていることに気づく。

追記:本人がどれほど自覚しているかは分からないが、「法王のハーレー」というテキストは、レベルミュージックとして成立する可能性を秘めている。弾むカリプソのリズムに乗って「今日も・今日も」と連呼するあたり、白日の下で鳴り響けば、さらに強烈なうねりを発するだろうと想像してしまう。8/12

ときどきぼくは虚しくなる。政治家の妄言を、ひたすらあげつらうことに。できればぼくも、そんな空騒ぎから遠ざかっていたい。政治のことなんてどうでもいいさと、口笛ふいて、楽しいことだけを考えていたい。シェルターに潜りこんで、カレイドスコープな夢想に耽って、趣味の世界に没頭していたい。

だけど、それでは生きていけない。食べて、飲んで、眠って、話して、働いて、たまには骨も折らなきゃならない。

 

最終曲の「ギフト」は寂しい歌だ。イントロのアルペジオの爪弾きが聞えてきただけで、切なく、しんみりとする。「テレビの画面、縮んで消えた」。あゝ、これは諦念の歌か、それとも喪失の歌か。

跳ねたボールを夕陽が呑む。何気ない時はすべて、ギフト」

まるで黒田三郎の詩をジョン・レノンが歌っているみたいじゃないか。

〈小説家が何万語も費やして語る内容を、彼は一行で言い表してしまう。〉

誰もがうらやむような才を福岡史朗は持っている。日々の些細な感情をひょいと捕まえ、三分間のロックンロールに凝縮してしまえる、稀な才能だ。これを独り占めしておくのはもったいない。もっと多くの人に知ってほしいし、彼のことばに耳を傾けてほしい。

ぼくは福岡史朗の歌を聴くたびに生きる希望というか活力のようなものが湧いてくる。だからいつもアルバムを手もとに携えている。そしてこの、とっちらかった拙い記事を読んでくれた方が、少しでも彼の歌に興味を持ってくれたらなと切に願う。

聴いてくれ、PLAY IT LOUD! あーそれでいい、それでぼくはじゅうぶん満足だ。

 

SPEEDY MANDRILL

SPEEDY MANDRILL

 

 

 

 

 

 

【スピンオフ】

 

【※追伸】

クルマの中で「きみの好きなその素数は〜」がかかったとき、助手席のパートナーが「素数を順番に数えてみて」と問いかけた。算数に弱いぼくが「2,3,5,7, 11,13,17,19……」とたどたどしく数えているうち、瞬く間に曲は終わってしまった。