鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

福岡史朗 “KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”

“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”は、福岡史朗+2STONE、2018年リリースのアルバムである。

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  福岡史朗のベストアルバム『HIGH-LIGHT』を当ブログで紹介したのが二年前。それから前作『SPEEDY MANDRILL』のレヴューも書いたし、 彼と彼の仲間たちのライヴを鹿児島に観にも行った。演奏後に少しばかり話すこともできた。疲れていただろうに史朗さんは親切だった。穏やかな人柄に、お会いできてよかったなーと思った。だから昨年末に新譜がリリースされたときは、まっさきに感想を書こうと張りきった、んだが。

 なかなか書けずに今日まできた。

 すごい作品だということは、まず声を大にして伝えたい。これほど個性的な楽曲を一年間のあいだに15, 6曲も書いて、しかも形にしてしまえるというのは、稀有な才能である。

 ところが(前作のときにも感じていたんだが)、その良さを換言しようとすると、どうもうまくいかない。どこがどう良いのかを説明する言葉が見あたらないのだ。ここまで独創的作風を確立されてしまうと、もはや○○に似ている、といった手法は通用しなくなる。今回もマスタリングに携わった高橋健太郎氏は<ヨ・ラ・テンゴの域に達しているよな>とコメントしていた。同感だ。福岡の作る音楽にはアメリカのインディーズみたいな肌触りがある。手作り感満載のアレンジメントやメジャーシーンと交わらない佇まいが、最近でいえばそうだな、ローカル・ナイーヴズなんかに共通する風合がある。ばくは前作『SPEEDY MANDRILL』をサイケデリック・エラ前夜の雰囲気があると記した。だとすれば今回は『サージェント・ペッパーズ~』方面に展開しそうなものだが、さにあらず。どちらかといえば『オクデンズ・ナット・ゴーン・フレイク』や『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』に近い、牧歌的なムードが全編に漂っている...... 違うちがう、ぼくは○○みたいだと言いたいわけじゃないのに。

 

 そんなふうに書き出しを迷っているうちに、はや半年が経ってしまった。その間、ぼくにもいろいろなことがあった。新しい仕事に就いて、悪戦苦闘している、正直なところ、音楽や文学に没頭する時間が割けない。帰宅して、パ・リーグTVを観ながら夕飯を食べているうち睡魔に襲われる体たらくだ。それでも、仕事のドレイになったとは思わない。仕事の内容を詳細に記すわけにはいかないが、働くこと自体に面白みと発見があるから。

 そうした自分の過ごす日常と、“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”に表された(好きな言葉じゃないけど)世界観が、徐々にリンクしてきたことを感じはじめて、ようやくこの一時間におよぶ大作を自然と・かまえずに聴きとおせるようになった。

 このアルバムで、福岡史朗が伝えようとしているのはささやかだけど、途方もなくでっかいことだ。彼は、人の一生について語りかけている。生命の誕生から終焉までを、さらには再生についてを。それはこと人類のみならず、地上の生命ぜんぶに及ぶ。こんなことを書くと、ディープエコロジーか? と誤解する向きも現れそうだが、そうじゃない、福岡のメッセージに説教くささは皆無だ。ただ、これだけは言っておかなくちゃいけないってことを、嘘偽りなく表明しているにすぎない。

 でも、それって口先でいうほど簡単なことじゃないんだよ。福岡はいつも飄々としているから、大変さを感じにくいけれども、音楽で“それ”を正確に表すのは、じつに難しいことなんだ。

 

 ある程度ネタばらしになることを、あらかじめ断っておくけど、“KING WONDA~” 1曲め「風が吹くと」は、大久保由希さんの独唱である。まるでロック以前の、60年代のカレッジフォークみたいな素朴さだけど、この歌とうまくコミットできれば、アルバム全体のトーンに心身をチューニングできるだろう(それは通常の音楽と接するときのアプローチとは、ほんのちょっと違う)。それにしても、「白い船が川をくだっている、丸い虹が空を覆い尽くす」というイメージは鮮烈だ。まるで立って歩きを始めたばかりの幼児が、空を見上げながら、そのあまりの広大さに茫然としているような印象を受ける。

 2曲めの「爪先までブルース」は、ジャンピン・ジャックな福岡流ロックンロールだけど、ちょっと突き放したようなトーンがフレッシュだ。ヤツも、キミも、オレも、とても傷つくのが悩ましい人生。現代人が直面する人間関係の厄介さと孤独を、福岡はさらりと歌いとばす。

 3曲めの「夜間飛行」は冒頭からミステリアスな雰囲気だ。逆位相のアタッチメントでおぼろげになった各パート。遠くでオルガンが風切り音のように吹きすさぶ。「いよいよ戻れない、手がかりはあまりにも古臭いから」。この不穏さは何を示しているのか? 聞くたびにさまざまな解釈を促される謎めいた曲だ。

(追記;福岡史朗の作る何曲かに、ぼくはジミ・ヘンドリックスの影響を感じる。歌とリフレインの関係性だとか緩いストロークのタイム感だとか。たとえば「夜間飛行」の気だるさには「風の中のマリー」を連想する。)

 4曲めは一転して「午睡」。キンクスのレイ・デイヴィスを想わす暢気なお昼寝ソングだが、童謡のような親しみやすさと「赤い月が欠けて、また満ちる、皆既月食の夜、通りで立ち止まり、見上げる人はまたべつの、キミ」と夢分析のような客観が同居していて、やはり一筋縄ではいかない。

 5曲め「君を想うよ」は、作品集の要所を締めるスタックス・ヴォルト的なミディアムスローのソウルナンバー。「いつか必ず、忘れたころにね」と聞き手に直接語りかけられると、あゝぼくも夜半に感想文を書いているよ、と答えたくなる歌だ。

 6曲め「鳥の言葉」。これもソウルだ。ちょっとメキシカン寄りな。松平賢一の絶妙なリックと、チェリストオブリガートが絡むところで、カッケーな、と軽く嘆息する。

 6曲め「太陽暦」。これは以前、2019/04/02にTwitterで書いた感想をそのまま載っけよう。

福岡史朗 @fukuokashirou 「太陽暦」。

昨年リリースされた、“King Wonda Nug Wonda Ia Kikele”に収録。

予定されていたように 誰かのための礼服と 誰かのための髪飾りを 太陽暦はもう飽きたと うそぶく

優れた表現者は無意識のうちに時代の移ろいをするどく予見する。

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もちろんこの歌は昨日来の、国を挙げてのから騒ぎ(改元)について歌われたものではない。が、結果的にそれを暗示する詞を書いてしまうのは、今の時代と社会を敏感に捉えているからだと思う。それは、先日木原さん @MitsuoKihara が指摘したイヴァン・リンスの歌詞にも通じることだ。

無造作にやってくる結末に、僕らの喉は干上がり、渇れた」。末期を感傷ぬきに描ききるとは、とんでもない歌詞を書くものだ。福岡のシリアスな歌唱は『ジョンの魂』を連想する。

 

 8曲めの表題曲は、インドネシアかマレーシアに古くからある伝承歌だと言われたら信じてしまいそうな、楽しい歌だ。全体を通じていちばんグルーヴを感じるアンサンブルで、大久保由希&磯崎憲一郎の重心の低いボトムに腰も自然と揺れてくる。さらにワンノートで押しきるかと思いきや、意表をつく部分的転調が施されているあたりに、センスの良さを感じる。

 9曲めの「タブレット」。福岡はあえて図式的な文明批判を試みている(ように思う)。自然の変化という奇跡の傑作がそこかしこに転がっているのに、世界中の人びとが手の内のタブレットに夢中である現状を、嘆くでもなく、ただ指摘する。この乾いた視点は、とても重要だ。

 10曲め「水族館」。さあ、そろそろこの作品集の全体像が浮かび上がってきた。忘れかけていた子どもの頃の記憶が不意によみがえってきた経験、あなたにもあるだろう。「度忘れた、あれは水族館」のあとの、大久保さんのダパツン・ドタツンというフィルインがたまらない。このように歌の内容を理解したドラマーは滅多にいない。

 11曲め「エンジン」。単純なようで、美味しいフックが満載の構成。とくに「エンジン」と食い気味に引っかける箇所なんか、ライヴで観たら、絶対カッコいいだろうなと容易に想像がつく。シンプルなコード進行だのに、あざやかな場面転換。

 12曲め「風の絶え間」にはプログレッシヴな陰影がある。欲をいえば、もっと大胆に(大げさに)演奏してもいいかなと私的には思う。それだけのスケールを備えた楽曲だから。ぼくは今回のアルバムに良質な絵本に共通する“怖さ”を感じるが、この歌だとたとえば、トミー・アンゲラーの『すてきな三にんぐみ』のような、ダークブルーな色彩を思い浮かべる。それは怖いけど、すこぶる魅惑的で、心を捉えて離さない、暗闇だ。

 13曲め「終わりの鐘」。これも冒頭の長閑さにうっかり油断しそうだが、身辺雑記かと思いきや、いきなり剣呑な展開を見せる。「セミが死ぬ、すると終わりの鐘がリンドン」。生と死はつねに隣り合わせだと、いやがおうにも知らされる。とくに常日ごろ子どもと接していると、そういう場面に出くわすものだ。子どもが虫の死骸をつまんでいる。これ、触ってたら潰れちゃたのと。大人は虫が死んでいることを教え、亡骸を捨てるように諭す。そのとき、ぼくの耳にも弔いの鐘の音が低く聞こえている。

 14曲め「風が吹くと(Reprise)」。冒頭の歌が、親から子へと受け継がれる。ここにいたって、この壮大なコンセプトの全体像が誰の耳目にもあきらかになるだろう。

 15曲め「春の歌」は君の歌だ。この歌の歌詞に、このアルバムで語られた諸々のことが、一点の曇りもなく明示されている。次を受け継ぐ者へ贈る、真摯なメッセージだ。一瞬のブレスを置いたあとに吐き出される「強さも弱さもそのままに、小石は無限の意味を持つ」。君が生まれてきたことは、それだけで意味があることなんだと、力むことなく、けれども力強く伝える。春の歌は(五指の音列で成り立つ)歓喜の歌、そして今を生きる者たちすべてに贈られた賛歌である。

 

 人生は、光と闇の交錯する複雑怪奇な絵巻物だ。いったん生の舞台に上がった以上、命脈が尽きるまで努め、演じ、舞わなければならない。あらしのよるの闇の深さに、君は慄くだろう。けれども春の陽ざしに包まれて微睡むこともあるだろう。出会いもあれば別れもある。憂うつもあれば怒りもある。大人社会は厄介かつ面倒くさくて嫌いなヤツとも手を組まなきゃならないこともある。場を与えてはならないと声高に訴えたところで事態は好転しない。なにしろ大人は多かれ少なかれ、自分以外のことに時間を費やさなくちゃいけない。自分事だけにかまけていては社会の一員とは言えない。公共を意識してこそ一丁前の大人である。親となればなおさら子どもとの時間が大切になる。子どもと向きあう時間を惜しんではならない。子どもが大人から教わる以上に、大人は子どもから多くのことを学べる。無駄な時間は一瞬もない。ぼくたちは与える、これからの未来を生きる子どもたちへーー

 福岡史朗の、“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE”を聴きながら、ぼくはそんなことを考えている。時おりへヴィーな気分にもなるが、音楽自体は風通しのよい耳に負担をかけない軽やかな種類のものだ。福岡作品は旧作も含めて、Spotifyなどのサブスプリクションで聴けるけど、できればCDを購入してほしい。たぶん十年くらい後になったら誰もが福岡史朗の真意を理解できるようになると思う。そしてそんな円盤を所有しているオレは、まんざらでもないなと独りで含み笑いしている。 2019年5月19日

 

 

KING WONDA NUG WONDA IA KIKELE

KING WONDA NUG WONDA IA KIKELE

 

 

【過去記事】

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劇画『I・飢男』に登場したザ・フー

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左:ピート・タウンゼンド、右:ロジャー・ダルトリー

 

mainichi.jp

著名な劇画原作家、小池一夫さんが平成31年4月17日に亡くなった。82歳だった。

ぼくは小池一夫作品の良い読者ではない。代表作の『子連れ狼』も全巻は読んでいない。だが、青春のときどきに、そこにある雑誌を手にとれば、小池一夫原作の劇画は、必ず連載されていた。昭和から平成を生きた自分のような中高年は、好む好まざるにかかわらず、氏の作品に触れ、影響されているはずである。

ロック少年だったぼくに、とくに衝撃を与えた作品は、これから紹介する『I・飢男(アイウエオ・ボーイ)』である(作画:池上遼一)。最初『週刊現代』に連載されたが、のちに『劇画ゲンダイ』へ、それから小学館の『GORO』と、掲載誌が転々としている。ぼくが目にしたのは、『GORO』掲載時の「アメリカ編」である。通常より大きなサイズの雑誌に、池上遼一のシャープなタッチで描かれる美男美女の艶姿は、思春期のぼくに鮮烈な印象を与えた。

そして、この『I・飢男』には、今なお現役で活躍する実在のロックバンド、ザ・フーが登場する。例えばそれは『巨人の星』に長嶋茂雄王貞治が登場するような、虚実ない交ぜの面白さがあった。

説明はほどほどにしよう、このブログ記事では「フーの諸君(byギラム)」が登場する場面だけを、ざっとかいつまんで紹介したい。

 

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昼の部のコンサートを終えて、意気揚々と楽屋にひきあげたザ・フーの4人。ところが、楽屋には怪しげな闖入者が一人(主人公:暮海猛夫)。男は殺人者として追われている身だと自己紹介し、金は払うからレストランの夕食につきあってほしい、と申し出る。何のために? と訝るフーの面々に、男は、映画プロデューサーのギラムと会わなければならないと告げる。ヴォーカリストロジャー・ダルトリーが差し出したコーラを一気に飲み干した男は、そのまま意識を失う。フーの4人は、スーツケース一杯に詰まった金を奪って、この男をほっぽり出すことも可能だったが、自分たちを信じて眠りについた見知らぬ日本人の男に、意気を感じ、要求を受け入れる。ギタリストのピート・タウンゼンドは男の携えていたケースを「見ろよ」とメンバーにうながす。

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「ガッツなんだな!」「ハードでストロングな男だ」

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「おれは引き受ける(ロジャー)」

「勿論(ピート)」

「おれも!(キース・ムーン、ドラムス)」←似てる。

「Me Too!(ジョン・エントウィッスル、ベース)」

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『フーズ・バイ・ナンバーズ(旧題:ロックンロール・ゲーム)』は(『I・飢男』連載時)1975年のアルバム。ちなみにジャケットのイラストはジョン・エントウィッスルによるもの。

 

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熱狂するファンに囲まれるザ・フー。彼らを煙幕とした暮海猛夫は警察の張った非常線を突破し、Aギラム氏の待つ高級レストラン、ブラウンダービーにたどりつく。

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<高級レストランに入店したダルトリーがウェイターにラフな服装を咎められ、その場で解いた靴紐をネクタイ代わりにして、ほれこれでいいだろってカマしたところ。>兵庫県伊丹市在住・樹山さんの回想)

突然の珍客にもギラムは平然と、フーの諸君も席につきたまえと、食事を振る舞う。夜の部のステージに備えて料理にがっつく野蛮なバンドマンたち。だが、この時点でケン・ラッセル監督『トミー』の主役を張り、さらに『リストマニア』が公開されているだろうロジャー・ダルトリーは、ハリウッドの大物プロデューサーに独自の映画論をぶつ。

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これも映画への関心は人一倍のピート・タウンゼンドも映画論に一丁噛みする。

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ここで改めて『I・餓男』の筋書きを紹介する。
<写真を職業とする広瀬未来は偶然、大物政治家のスキャンダル写真を撮ってしまったため口封じに強姦されて自殺してしまう。それを知り復讐を誓う恋人の暮海猛夫。巨大組織との、あらゆる手段を使用した壮絶な戦いがはじまる。>

プロデューサーのギラムは、暮海猛夫の「物語」に興味を持つが、どう扱うかは態度を保留していた。が、それを「フーの諸君」は後押しするのである。

「『ポセイドン(アドベンチャー)』の次には何が来るんでしょうかね! ミスター・ギラム。あなたがアーウィン・アレンを追い越すためには『ポセイドン』を超えるものをつくらなければならないだろうなあ、やっぱ! おれたちゃあ期待で胸が膨らむね! 執念をかけてあなたが次につくろうとする映画は何だろうと! アレンに勝負を挑む企画は何なのだろうとね!(ロジャーのセリフより)」

つまり、暮海猛夫の持ちこんだ企画(政界スキャンダルに巻きこまれ恋人を殺害された男の復讐譚)を撮れ、と焚きつけているのである。

さて、食事を終えたフーの面々は、ごちそうさんとギラムに告げ、おさらばするぜ、と席を立つ。同時に、いったん暮海から受け取った日本円の札束を彼の目前に放りやる。そして以下のように、この劇の一場面から退場する。

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キザはどっちだい? と言いたくなるが、このセリフはやはり、ザ・フーでなくてはならなかった。

ぼくは2011年12月に、こんなツイートを投稿している。

そして、2019年4月19日に、

追悼。小池一夫さん。

先生の『I・飢男』におけるザ・フーの配置は的確でした。物語の展開上、フー以外はあり得ない。ローリング・ストーンズレッド・ツェッペリンではダメなのだ。「ガッツなんだな」「ハードでストロングな男だ」等のセリフも「キザだけど」「いい線いってる。」でした。

と、この劇画について再び投稿している。それほど衝撃だったのだ。なぜなら、『I・飢男』によって我がザ・フー観は醸成されたようなものであるからだ。

ザ・フーは漢気あふれ、義侠心に満ちた、インテリジェンスを備えたバンドである、と。

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そう思わせるにいたった、小池一夫氏のテキストに思いを馳せる一助となるなら、この記事をまとめた甲斐もあろうというものだ。

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<説明:マキの姉、夏子の助けを借りて単身、アメリカに渡った暮海猛夫。復讐を遂げるために、ハリウッドの超大物映画プロデューサー、A・ギラムに接触を試みるが……。

収録作「アメリカ編 兇殺行 アンクル・トド」ほか「サンセット・ブルバード 夕日に向かう道」「目的」「桜ンボのマール」「地獄を通ってでも行くぜ」の全5話を収録。>

この「地獄を通ってでも行くぜ」に、ザ・フーの諸君が登場する。インターネットで無料でも読めるようだが、できれば単行本を入手していただきたい。

 

 

【過去記事】

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SNSの囚われ人達に読ませたい一冊、『悪童日記』

 思うところあって『悪童日記』を新たに買い求めた。

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悪童日記』はハンガリー出身の女性作家アゴタ・クリストフが1986年に発表した中編小説である。以来、世界の20ヶ国で翻訳・出版されており、日本では1991年、堀茂樹の翻訳により早川書房より発行された。2001年には文庫化され、昨年に21刷を数えている。

 海外の小説だからといって、かまえる必要はない。東欧らしき国境付近の小さな町が舞台であるが、覚えにくい人名や地名は出てこない。最初のページこそマンガレリ『おわりの雪』みたいな少年の微妙な内面を描いた心象小説か? と思わせるけれども、ページをめくるとその予想は大きく裏切られる。

 読者はたちまち、文章の「速さ」に身を委ねることになる。双子の少年が戦時下の窮乏を凌ぎ、生き抜くために知恵を絞りだすさまに魅了される。みずからに課した一つひとつの試練を遂行していくことで、彼らは強く、逞しく成長する(ただし、かなりいびつに)。そして読者は、次はどんな出来事が起きるのだろう? 彼らはどう対処するだろう? とワクワクし、ページを繰る手も速くなる(本好きならば小学生高学年でも読みおおせると思う)。

 贅肉のない簡素な文体は、この小説が悪童二人が互いに記した日記という体裁をとっているからだが、作品中に、その簡潔明瞭な理由を、悪童みずからが説明している箇所がある。解説で訳者の堀氏が引用しているので、少し長くはなるが、私も倣って書き写してみよう。

 

〔作文が〕「良」か「不可」かを判断する基準として、ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。

 たとえば、「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことは禁じられている。しかし、「おばあちゃんは『魔女』と呼ばれている」と書くことは許されている。

「〈小さな町〉は美しい」と書くことは禁じられている。なぜなら、〈小さな町〉は、ぼくらの眼に美しく映り、それでいて他の誰かの眼には醜く映るかも知れないから。

 同じように、もしぼくらが「従卒は親切だ」と書けば、それは一個の真実ではない。というのは、もしかすると従卒に、ぼくらの知らない意地悪な面があるのかも知れないからだ。だから、ぼくらは単に、「従卒はぼくらに毛布をくれる」と書く。

 ぼくらは、「ぼくらはクルミの実をたくさん食べる」とは書くだろうが、「ぼくらはクルミの実が好きだ」とは書くまい。「好き」という語は精確さと客観性に欠けていて、確かな語ではないからだ。「クルミの実が好きだ」という場合と、「お母さんが好きだ」という場合では、「好き」の意味が異なる。前者の句では、口の中にひろがる美味しさを「好き」と言っているのに対し、後者の句では、「好き」は、ひとつの感情を指している。

 感情を定義する言葉は、非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。(文庫294~295p 解説より)

 

 主人公の双子「ぼくら」は戦時下であるがゆえ、まっとうな公教育を受けられない。しかし、自堕落にならないように、あえてみずからを律し、お互いを教育し合い、採点し合うのである。そんなディシプリンの果てに、文体は鍛えられ、余情や曖昧さは排除される。

 皮相な見方をすれば、これもまたジョージ・オーウェル1984年』に描かれた「ニュースピーク」の変種かも知れない。悪童たちが用いる言葉の隙のなさは、情操の欠落であるとも言えそうだ、が。

 私は今回『悪童日記』のソリッドな書法にひどく惹かれる。見習いたいとも思う。それは、このところSNSを利用していて感じることだが、情報を正確に記さず、自らの印象を混ぜこむような「意見」が、目に余るからである。

 ある者は「誰が」の主語を省略し、ある者は在りもせぬ仮想の敵を設定し、またある者は「思うのですが〜」と明言を避けつつも、結尾は必ず「〜なのです」と断定するという、仄めかしや焚きつけが横行している。影響力のあるアカウントやら政治/社会学者やらジャーナリストやら、果ては政治家にいたるまでが、いい加減な言説を振り撒いたあげく、誤謬を指摘されても訂正も詫びもせず、反省の色はまったくなく、毎日いけしゃあしゃあと嘘をつきまくる。そういう意味で、SNSとくにツイッターは戦場と大差ない。死骸のかわりに屍体のような言説が其処彼処に転がっている。反吐が出そうな風景だ。私は、連中と同類に堕したくない。

 ならば私も、SNSの戦火を潜り抜けるために、自分自身が操る言葉を鍛えなくてはならない。もちろん、間違いを指摘されまいと守りを固めた文章に魅力はないけれども、こと政治や社会など公に広く問う種類の題材を扱う場合に曖昧さは禁物である。己の中に一人の批評者を設定して、表明すべきかどうかの可否を診断してみようと思う。

 そのための具体的なメソッドが『悪童日記』には山ほど記されている。中には猥褻や殺害といった目を背けたくなる場面もあるけれども、〈感情を定義する漠然とした言葉〉を回避することにより、事実を事実として描写することができるし、さらに、率直に徹した言葉だからこそ、欺まんや言い逃れにトドメを刺すこともできる。

 最後に「“牽かれていく”人間たちの群れ」の章から一部を抜粋してみよう。

 

ぼくらは司祭の部屋に行く。司祭が振り向く。

「おまえたち、私といっしょに祈りたいのかね?」

「ぼくたちがけっしてお祈りをしないことは、ご存じのはずです。そうじゃなくて、ぼくたちは理解したいんです」

「こういうことは、おまえたちには理解できないよ。もう少し大人にならないと……」

「でも司祭さん、ぼくたちはともかく、あなたは立派な大人でしょう。だからこそ、お伺いするんです。あの人たちは誰なんですか? どこへ連れて行かれるんですか? なぜ、連行されるんですか?」(文庫 162p)

 

 司祭は悪童たちに「彼らはユダヤ人でナチスドイツ軍が収容所に連行しているのだ」と、本当のことが言えない。ただ「神の御心は計り知れぬ」と嘆きながら、両手を少年たちの頭上に載せるのみだ。

 一切を曖昧にせず何もかもを伝えることは不可能だ。知らないこともあれば、知らせられないこともある。けれども私たちは「いい大人」なんだから、せめて自分が口にした言葉には責任を持ちたいものだ。

悪童日記』を読みながら、私はそういう卑近なことを考えていた。 鰯 (Sardine) 2019/02/22

 

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