鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

あなたもある日いきなりメディアからファクトチェックされるかもしれない

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Part1 話はそれからだ

きじにゃあさんが上のツイートを投稿したのが1月23日。おりしも石原伸晃議員の入院が話題となっていたころだけに、該当ツイートはご覧の通り“buzzった”。陽性判明後の与野党の扱いの差が、視覚的に表された秀逸なツイートだから、拡散されて当然だと私は思ったし、当然リツイートもした。

ところが、3日後の1月26日に、

毎日新聞が上掲の記事をオンラインで配信する。翌朝27日の朝刊紙面でも、“きじにゃあ”というアカウント名こそ省かれていたものの、3段で組まれ、大きく報じられた(写真を掲載したいところだが、著作権侵害を訴えられかねないので、やめておこう)。

ところで。

ある日とつぜん、全国紙の紙面で、自分のポストしたつぶやきが<ファクトチェック>の対象になったとしたら、あなたはどう思うだろうか。

きじにゃあさんと私はTwitterで相互フォローの関係にあり、面識はないもののDMでのやりとりもある。だからなおさら今回の件を他人事とは思えなかった。自分がこんな目に遭ったらと思うと、恐ろしくて眠れなくなった。

が、きじにゃあさんは果敢にも、1月31日このファクトチェック記事に、ご自身のブログで反証している。

kijinyaa.exblog.jp

まずはこのブログ記事に目を通していただきたい。話はそれからだ。この件についての私的な感想は後日、下に追記します。

鰯 (sardine) 2021/02/01

 

Part2 長い、長い追記

一から稿を起こすことも考えたが、この間に投稿したツイートを基に構成した。未整理で、重複した部分や枝葉が多いので、読みにくいことこの上ないが、ドキュメントとして捉えていただきたい。

 

1月26日

毎日新聞の記事に限らず思うことだが、「ファクトチェック」の名のもとに、新聞社が個人のツイートを槍玉にあげることに私は強い違和感を覚える。なにか牽制のつもりだろうか。それとも政治勢力の代言を買ってでているのか。

牽制とはつまり、SNS上で話題になった言説や政権批判などを、在京マスメディアなりオンラインメディアなりが「信憑性に欠ける情報だ」と一方的に裁定することで、火消し=事態の回収にまわることだ。

「ファクトチェックしました」というタイトルの記事をみると、大抵が既定路線の擁護と維持のために機能している。誤った情報の拡散を抑制するという大義名分を掲げてはいるが、じつは異論を排し、批判的な見解を封じる目的で書かれた記事が少なくない。私は個人のつぶやき=感想までが偽情報として回収されていく事態を黙って見過ごすわけにはいかない、今回の毎日新聞の検証は度が過ぎている、と思った。

あれでは風刺ができなくなる。該当ツイートの骨子は「与野党議員の(保健所や医療機関の)扱いの格差」であるが、痛いところを突かれたと政権与党が反論するならまだしも、ブン屋風情(失礼)が中立にふるまって相対化と希釈化に明け暮れるとは、いったい何をやってンだ、そんな暇があるなら問題の本質(すなわちコロナ禍における検査不足と医療従事者の疲弊と入院病床数の削減といった現場の困難を放置した根本的原因が政治判断にあること)をもっと抉れや、と言いたくなる。

 

1月27日

申しわけないが、この毎日新聞の記事を琉球新報が如何なる意図で転載しているのか、理解に苦しみます。デマ情報の拡散というふうに捉えているのでしょうが、検証すべきファクトは果たしてそこでしょうか。ファクトチェックの名のもとに問題を相対化し、希釈して済ますのがマスメディアの仕事でしょうか。該当ツイートの比較の部分は、検査から入院までの過程における与野党の圧倒的な不均衡=不平等を分かりやすく視覚化し、風刺したものです。本来ならプロ中のプロであるマスメディアが取材調査した上で指摘すべき事柄であるのに、アマチュアの発信をドヤ顔で裁定するとは新聞記者の矜持ってもんはないんでしょうか毎日新聞の記事を転載した琉球新報への引用リプライ)

個人と集団とのあわいにある公に資する情報とも感情のため息ともつかぬ言の葉を抽出してしまうのがツイッターという言語生成ツールだ。/傍からみて楽しげに話しているように思えても表の顔とは裏腹に絶望感に苛まれてのたうち回っているかもしれない。/私は情報のやりとりに終始するだけで、そこに書き手の視座が介在しないテキストには興味がない。/醒めた態度で事象を手際よく捌いただけのファクトなんてチェックする値打ちもない。

<首相は恐怖で社会を支配しようとしている>と、私がポストした感想を菅義偉が読んだとしたら「指摘は当たらない」と反論するに決まっている。その通り、事実であれば困るから、徒手空拳で警鐘を鳴らしているのだ。それだのに新聞が権力側に与し、市民の疑念や憤りを潰してまわる働きをするようなら、私たちはもはや新聞を社会の公器とは呼べない。

buzzる、は狙って打てるものじゃないんだ(その証拠に私は万単位のbuzzを2, 3回しか経験していない)。たまたまだ。なぜ大衆心理の渇きを潤す意見が待望されているのか、既存メディアに欠けている部分は何か、現象を分析し考察するのがfeedってもんだろう。一アカウントを吊るしあげている場合か?

今回の件で、大野友嘉子という毎日新聞・統合デジタル取材センター所属の、着眼点を間違えている記者の名前は覚えた。

プロ中のプロであるはずのマスメディアがアマチュアの発信をファクトチェックするとは、可笑しくって莫迦ばかしいや。皇居のほとり竹橋に在所をかまえる大新聞社にしちゃ、なんとも野暮な振る舞いじゃないの。buzzをfeedしフェイク化するハイエナ稼業なんざ牡蠣食う記者に任せとけ。

 

1月30日

【「自民PCR」大ブーイング】

職場での積極的な感染拡大防止策が、なぜ、ここまで批判が高まったのか。/「党職員の検査は本来批判されることではありません(略)」と、政治評論家の有馬晴海さんは指摘。

ホラ、またそうやって毎日新聞は問題の相対・希釈・沈静化をはかる。

【なぜ「自民党本部職員 PCR検査」は大ブーイングを浴びたのか】毎日新聞がつけた見出しを、【「自民PCR」大ブーイング】ツイッターの文字数に収めるため、さらに圧縮しております。ていうか、見出しって本来そういうもんだよね?

PCR検査は誰もが・いつでも・気兼ねなく受けられるべきだ、と私は思う。たとえ自由民主党職員といえども、だから検査したことを非難するつもりはない。だが、なぜ平等に検査が受けられないのかという疑問や憤りは、今やツイッターに限らず国民全体に広がっている。その事実を新聞は無視してはならない。

以下に示された住民vs自民の対比を菅義偉がみたら、「指摘には当たらない」と斥けるだろう。だが、これこそが権力のもっとも嫌がる「風刺」なのだ。さらに言えば、ここに挙げられた数例の対比を事実=ファクトかどうかチェックする必要はどこにもない。圧倒的な格差は誰の目にもあきらかであるからだ(中林香氏1月30日のツイートを引用)

https://twitter.com/kaokou11/status/1355292471727697921?s=21

 

1月31日

社会には個人が抱えきれないほど重い苦しみがある。そして本来なら政治は人びとが苦しむ原因となる数々の問題を解決しなければならないはずだ。ところが本邦の政治は人を救済しようという意志も発想もない。それどころか政治のありようをおかしいと指摘しようものなら明後日の方角から礫が飛んでくる。

政府のおかしさを指摘することに夢中になっているわけではない。個人が追いきれないほど、この国の政治には数えきれないほどの問題点がある。それを一つひとつ掬いあげているアカウント諸氏にまずは敬意を表したい。私にはとても無理だ。一度に多くのウサギは追えない。

さて、今から一つのブログ記事を紹介するが、できるだけ多くの人に読んでもらいたい。とりわけ、政治・社会問題をとり上げているアカウント諸氏は、記事に書かれた内容を決して他人事だと考えないでほしい。私はこの数日間、きじにゃあさんのツイートを毎日新聞がファクトチェックしたことが、一番の関心事で、心配事だった。

最初に@pristinanomine さんのツイートで毎日新聞のファクトチェック記事を知ったとき、〈自分がきじにゃあさんの立場になったら〉と想像すると眠れなくなったんだよね。このブログ記事が出てよかったです。降りかかった火の粉はふり払わなければならない。彼はちゃんと反証している(“本件の特殊性に鑑み”さんへの返信)

毎日新聞の<ファクトチェック>は正しいの?:きじにゃあのツイッター備忘録

当方は実質フォロワー500人程度の弱小アカウント。たまたま1万3000件のリツイート、2万2000件の「いいね」をもらったとしても、それだけで毎日新聞からファクトチェックを受けるのは相当に違和感がある。もちろん、社会に害悪を及ぼす看過できないデマの発信元というなら大義名分は立つだろうが、そう認定するには相当に慎重であるべきだ。少なくとも本人への取材、最低ひとつのリプライ、DM等で確認を取るべきではないか?

控えめなきじにゃあさんが、これほど切実に訴えるのには相当の理由がある。

2月1日

とり急ぎ、Mediumに概略を提示しておきます。とにかく、きじにゃあさんの反論記事を読んでください。メディアが発するファクトチェックについての疑念は追って書きますが、今朝はここまで。

として、このMedium記事の上の部分を投函したのである(ふう)。

 

2月2日

私がどれくらい怒っていたか、少しは理解していただけただろうか。例えば、毎日新聞統合デジタルセンターのツイッターアカウントは1月26日に、

新型コロナに感染した国会議員9人のリストを示して「自民党議員は無症状で即入院しているのに野党は自宅待機」といった内容の匿名アカウントのツイートが異例の拡散をしていますが、誤りが含まれています。#ファクトチェック

と記事を要約して紹介しているのだが、私は、

<匿名アカウントのツイートが異例の拡散をしています>? この書きかたでは、匿名アカウントは怪しげで、拡散するのは異例のことだから、まともな“情報”ではないという誤った印象を与える。記事を受けてのことだろうが、新聞社のアカウントにしては(既に何人か指摘しているけれども)表現が雑ではないか?

と返信している(最近そんなふうに食ってかかることは滅多にないのだが)。

私が気になるのは、文中に表れる大野記者の無自覚な匿名アカウントへの偏見である。なによりも「ふざけるな」と思ったのは、なんと毎日新聞は、事前に、該当ツイートを記事に使用する旨を、きじにゃあさんに、連絡していないのである。

さらに、26日12時に配信されたデジタル版には「きじにゃあ」のアカウント名を明記している(翌27日の紙面にはアカウント名は伏せられている、何故か?)。なんという無礼な仕打ちであろうか。

 

2月3日

ファクトチェックは使い方を誤ると非対称の暴力性を帯びる。

なるほど、ひとたび公開されたテキストはTwitterの呟きであれ投稿者が責任を負うものであるのかもしれない。が、その理屈を総てのツイートに適用してしまうことに私は違和感がある。言論の警察化による取り締まりは、SNSの活発な意見交換を萎縮させかねない。

社会の公器であるはずの全国紙が投稿者に何の断りもなく記事の俎上にあげる。これは公平といえるだろうか? 個人の意見や素朴な疑問が、ある日とつぜん「誤情報」として扱われ、「不正確である」と判定されるのだ。投稿した本人は当惑するしかない。この不条理をどうやって解消し、不名誉を回復するつもりか。

私は、ミスリードを誘う意思がなく、また、誘発する要因もなかったから、きじにゃあさんは被害者だという認識である。

さらにいえば、ファクトチェックする資格が毎日新聞にあるのかどうかも疑問がある。いったい何の権限があって「この情報は不正確だ」と警鐘を鳴らすのか。あなた方は裁判官かい、と皮肉ひとつも言いたくなる。意見には意見をもって答えよ、批判なら混じり気なしに批判すべし、だ。

何人にも判定する権利や自由があると思うというご意見をいただいた。もちろんだ、けれどもファクトの真偽のみに興味を持つ向きは大抵、フェアネスの欠如に片目を瞑っている。

 

2月4日

毎日新聞統合デジタル取材センター大野友嘉子記者は、結果的に権力の片棒を担いだことを自覚しているのか? 石原伸晃事務所には入院までの経緯を再確認する一方、ファクトチェックの俎上にあげたツイート主にはDMひとつもよこさないで掲載する。権力勾配に無自覚な取材姿勢だといわざるを得ない。

さらに、匿名アカウントの向こう側には血の通った人間がいるということについて、大野記者および毎日新聞はあまりにも無頓着ではないか。御ツイートを引用しますとの許可を得ないで、まるっとコピペする。発信者の立場など顧みもせず現象として扱う。それで購読料をちょうだいするとは、まっこと新聞社は気楽な商売だ。

問題は、ファクトチェックの行使者があたかも正義のマントをまとっているかのようにふるまい、みずからのチェックの信憑性をみじんも疑っていないことだ。また、発信者の政治的バイアス(現政権に批判的であること)に疑問をはさむ向きは、ファクトチェックによる審判も別角度からみた一つの視点であるに過ぎないことを考慮するべきである。

が、

きじにゃあさんは圧力に屈さぬ勁いこころの持ち主だ。断りもなく全国紙によって下されたファクトチェックで、ツイートは不正確との烙印を押された。けれども削除したり、アカウントを閉じたりはしない。誰が真で誰が偽かはいずれ誰の目にもあきらかになる。その日がくるまで彼は穏やかな顔して淡々と言葉を刻み続ける。

“匿名アカウントが流す情報”を色眼鏡でみる気持ちは分からなくもない。アメリカ大統領選におけるQアノンの狼藉とフェイクニュースによる情報撹乱は、まさに社会構造を揺るがす危険を孕んでいた。が、そんな輩と、きじにゃあさんを一緒にしないでほしい。彼は活動家でも野党の専従でもない。市井に暮らす、名もなき一般人である。

ここで毎日新聞を購読している方は、ぜひ以下の有料記事を読んでみてほしい。中盤に数日前「不正確」な情報だと判断されたツイートがさりげなく引用されているから(校閲は見落としたのかな、それとも見過ごしたのかな? ちなみに執筆は1月26日と末尾に記されている。本紙に掲載されたのは1月31日だ)。ともあれ、歯に絹着せぬ物言いが爽快な松尾貴史氏のコラムである。

 

長い、長い追記のまとめ

さて、どうして大野友嘉子記者は、きじにゃあさんのツイートに着目したのだろう。きっと彼女は、自分は正しいことをした、不確かな情報の流布に警鐘を鳴らす目的で記事をものにしたのだと考えてらっしゃるに違いない。記事からはその自負がうかがえる。が、その正義感はまるでとは言わないまでも、私にはかなり見当違いに思える。

一般のツイートは感想と情報が分かち難く、ファクトチェックし辛い。ところが、きじにゃあさんのツイートのように列挙&比較の形をとると、情報だけ切りとって腑分けし易い。つまり( )内に示されたきじにゃあ個人の意見と政治的傾向を度外視することが容易になる。それは不偏不党を建前とする新聞の記事に扱うには都合がよい、はずである。

社会の公器であり木鐸である新聞は、本来なら国民の生活に困苦をもたらすような政治の無策を批判すべき立場にある。ところが昨今の新聞ときたら、政府におもねり、首相や閣僚や霞ヶ関の官僚の顔色をうかがい、スポンサーからの注文にしたがい、読者からのクレームにおびえ、すっかり批判精神を捨てさってしまっている。そんなメディアは恐かない。現政権や経団連は舐めきっている。当たり前だ。無名のアカウントによるツイートの間違い探しに血道をあげ、元幹事長事務所の言い訳を公平そうに扱えば、そりゃ官邸は喜ぶに決まっている。見事に火消しの役割を担っているから。

そんなふうに、人が無償で書いたテキストを無断で引用もとい書き移し、その不正確性をあげつらった記事をオンラインにアップし、翌日には紙面をかざる。それで読者から購読料を取り記者はサラリーを得る。元手のかからぬ結構な稼業だ。けれども三大紙の一つがそんな取材姿勢でいいのか? それでよく一流企業と胸を張れるものだ。企業倫理はどこに行った

私がもっとも怒りを覚えるのは、匿名アカウント“きじにゃあ”を侮り、使用許可の連絡を怠った毎日新聞社の思い上がった態度である。大野友嘉子記者ならびに統合デジタルセンターの責任者は、今からでも遅くないから、きじにゃあさんに連絡をとるべきだ。それでようやくあなた方はファクトチェックをする権利が得られるというものだ。

最後に断っておくが。

私は三大紙の中で、毎日新聞をいちばん信頼している。『桜を見る会』の追及において、吉井理記記者をはじめとする総合デジタルセンター発の一連の記事には目を瞠ったし(だから『汚れた桜』の本も購入した)、吉村洋文・松井一郎の維新の会ふたりの首長の専横による大阪都構想住民投票に待ったをかけた、大阪本社の『大阪市4分割コスト市の試算で218億円増 都構想実現で特別区の収支悪化』記事もみごとだった。権力の横暴に歯止めをかける在野精神、ジャーナリスト気質の片鱗が竹橋発の記事にはまだ息づいている。定期購読こそやめたものの、私が折々にコンビニエンスストア毎日新聞を購入する理由は貴紙のスクープや検証記事に一縷の望み、期待をかけているからだ。だからどうかがっかりさせないでほしい。これ以上、失望させないでほしい。

私は先に、大野記者は着眼点が間違っている、と批判した。が、記者がなお筆の正義を振るう気概をお持ちなら、ぜひ権力のフェイクに着目してみてほしい。為政者らがどんなギミックを弄し、見せかけのデータで騙すかを、綿密な取材を重ねた上で、微に入り細に穿つチェックをしていただきたい。そういう記事をものにしたあかつきには、私たちさえずるばかりの青い小鳥たちも、惜しみなくあなたを称えることでしょう。

ファクトチェックは、人への幻滅を表明するものではなく、人を活かすためにするものである。

鰯 (Sardine) 2021/02/07 Mediumより転載

 

 

【関連記事】

iwashi-dokuhaku.medium.comiwashi-dokuhaku.medium.com

記事の一部を切りとり。<新聞記事はダイジェストでありテレビニュースはハイライトである。現実の事象を手際よく要約し説明したものを私たちは「記事」と呼ぶ/情報は現実の切り取りであり、手際よく編集されたプロの報道も素人の感想を投稿したツイートも現実の一部分を切り取ったにすぎない。その点においては等価である>

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

 

 

マッカートニー 見過ごされがちな50の傑作

さて、これからポール・マッカートニーのことを書こうと思う。簡単ではないが、やってみようと決心したのは、あるカヴァーヴァージョンを聴いてのことだった。※

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アメリカの二人組ファンクユニット、スケアリー・ポケッツが、凄腕ギタリストとして注目されているマディソン・カニングハムをヴォーカルにフューチャーしたこのシングル、ぼくはしばらく誰の曲だか分からなかった。中盤のブラスセクションのあたりで、ようやく「ポールだ! ロケストラのテーマの前の曲だ」と気づいた。このように「あれ? 誰の曲だったっけ」と意表をついた選曲は、夭折したノルウェーのシンガー、ラドカ・トネフがカヴァーした、ポール・サイモンの「It's been a long long day」以来だった。

しかし「アロウ・スルー・ミー」は、なんてメロディアスで、しかも独創的な曲だろう。念のためにポール(とウイングス)のオリジナル版を聞いてみたが、アレンジはほぼ変わらない。つまりぼくは1979年に作られた楽曲のおもしろさに、40余年後になってようやく気づいたのだ。そうなると俄然、他にもあるんじゃないかと無性に気になりだした。まだ他にもきっとあるに違いない、見過ごされがちな名曲が。

こうして、ポール・マッカートニーのアルバムをおさらいする旅が始まったのである(あーなんて長い前置きなんだ)。

そこで、この稿を書くにあたってSpotifyにふたつのプレイリストを作成した。そのリストに挙げた47曲に3曲を足した50曲を順番に紹介していこうと思う。

 

◆プレイリスト⑴ 『魅力再発見 20世紀編』

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1.「ホット・アズ・サン〜グラシス」

“Ⅰ”と呼ばれる最初のソロアルバム『マッカートニー』に収録された陽気なインストルメンタル。じつはビートルズ関連で最初に知った曲である。ぼくが小学生のころ、郷土のデパートのコマーシャルソングに(おそらく無許可で)使われていたからだ。まさか数年後にポールのアルバムで再会するとは思わなかった。

2. 「リトル・ウーマン・ラヴ」

シングル「メアリーの小羊」のB面。中学生のころポールのシングル盤を買い漁ったが、裏面の方にむしろおもしろい曲が多かった。アップライトベース奏者をゲストに迎え、ごきげんなピアノはポール本人かな。このノリの良さはちょっと他に類を見ない。

(ウイングスのファースト『ワイルド・ライフ』はさすがにパス。あれは練習曲集だね。)

3. 「リトル・ラム・ドラゴンフライ」

レッド・ローズ・スピードウェイ』に収録されているが、傑作『ラム』のアウトテイクらしい。ゆっくりと曲想が変化していく、時が経てばたつほど好きになっていく、穏やかで牧歌的な歌だ。

4. 「ミセス・ヴァンデビルト」

人気曲が居並ぶ『バンド・オン・ザ・ラン』のA面の中では、比較的地味なナンバーだけど、ぼくはこの「ホッ、ヘイホ」ってコーラスが大好きなんだ。最初はここに「西暦1985年」を入れてみたが、最近は隠れた名曲の上位に数えられているので、その他を選んだ。

5. 「磁石屋とチタン男」

豪華な『ヴィーナス・アンド・マース』の中では埋もれがちな曲だが、単体で聴くと着想の奇抜さとアレンジの巧みさに唸らされる。このようなコミカルを描けるのは、ポールと、キンクスのレイ・デイヴィスくらいだな(と、当時レコードを購入したときに付属の小冊子に書いてあったことを受け売り)。

6. 「ビウェア・マイ・ラヴ」

スピード・オヴ・サウンド』再リリース時のボーナストラック。いわゆるリハーサルだけど正規ヴァージョンより数等おもしろい。理由は明白で、ドラムをジョン・ボーナムレッド・ツェッペリン)が叩いているから。ボンゾの爆走をポールが「オーライ、オーライ、ワン、ツー、スリー、フォー、イェー」と強引に遮るところなんか最高だ。

7. 「ドント・レット・イット・ブリング・ユー・ダウン」

ウイングスにおいて、デニー・レインの存在は重要だ。彼がリードヴォーカルの「アイ・ライ・アラウンド」や「君のいないノート」も良い曲だった。彼がいたからこそ、ポールは英トラッドを意識するようになったし、この曲も少し温めの『ロンドン・タウン』に、ピリッと辛い風味を添えているように思う。

8. 「アロウ・スルー・ミー」

ウイングスのラストアルバム『バック・トゥ・ジ・エッグ』は、とりとめのない印象だったから、この曲の存在も殆ど覚えていなかった(※ 冒頭を参照)。ひねった旋律、凝ったコード進行、時おり変拍子。ポールは誰を意識したのだろう。ドゥービー? ダン? いや、やっぱりスティーヴィー・ワンダーだろうな。

9. 「ブルー・スウェイ」

マッカートニーⅡ』。あの時期の録音で最大の成果といえば、あの有名な「ワンダフルクリスマスタイム」だろうが、ぼくのお気に入りは(たぶん)没曲にリチャード・ナイルズがオーケストレーションを施したコレだ。すこぶる視覚的な音像だと思う。

10. 「ボールルーム・ダンシング」

ジョージ・マーティンをプロデューサーに招いて入念に制作された『タッグ・オヴ・ウォー』は、前作と違ってさすがに隙がない。この曲も随所に細かい細工が見受けられる。けど、こんな賑やかしいニューオリンズ・スタイルのピアノを鳴らされると、そんな些事は気にならなくなってしまう。

11. 「ドレス・ミー・アップ・アス・ア・ラバー」

フュージョン風味はジョージ・マーティンの差し金かもしれない。英国一の名手デイヴ・マタックスのドラムや、ポールみずからが弾くガットギターの爪弾きもすばらしいが、ぼくはデニー・レインのギタープレイに敢闘賞をあげたい。彼のカッティングは絶妙だよ。

12. 「スウィート・リトル・ショー」

パイプス・オヴ・ピース』は全体的に落ち着いた印象があるけど、暗くはない。曲調の変化にしたがって、いろんなタイプのコーラスが楽しめる。↙︎

13. 「アヴェレージ・パーソン」

続くこの曲もアレンジとコーラスがすばらしい。これほど緻密に構成された曲はポールのキャリアでも滅多にないだろう。そして、彩り豊かなコーラスの決め手は、リンダ・マッカートニーの声質による。

14. 「アングリー」

プレス・トゥ・プレイ』にはがっかりした。資質の似たエリック・スチュワート(10cc)でケミストリーは得られまい。とはいえ、ポールはどんなアルバムでも聴きどころを作る。何に怒っているかは判りかねるが、とにかく疾走感がカッコいい。ちなみにギターはピート・タウンゼンド、ドラムスはフィル・コリンズ

15. 「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」

当時でたベスト盤に収録された単発シングル。フィル・ラモーンのプロデュースは中途で頓挫したらしいが、このベタだけどシルキーな仕上がりを聴くとアルバム全編を任せたらどうなったろうと想像してしまう。

16. 「ディストラクションズ」

エルヴィス・コステロとのコラボレーションばかりが取りざたされるが、『フラワーズ・イン・ザ・ダート』はもう少し顧みられてもいい作品だ。とくにこの曲はラテン風味のメロディーもストリングスアレンジメントも最高ではないか。故ロバート・パーマーあたりがカヴァーしたら似合っただろうなぁ。

17. 「プット・イット・ゼア」

ポールお得意の、この種の素朴でフォーキーなナンバーには抗いがたい魅力がある。ジョージ・マーティンのストリングスもツボを心得たもので、余計なものは何もない。こちらから添える言葉もとくにない。

18. 「明日への誓い」

カリプソふうの明朗なナンバー。『オフ・ザ・グラウンド』は、やや厚化粧だった80年代を反省したのか、バンドアレンジを意識しているようだ。これはまさしくライブ向きというか、一緒に歌いたくなるような曲調だ。

19. 「バイカー・ライク・アン・アイコン」

こないだ出た『Ⅲ』を聴いていて、なぜだかこのカントリータッチの曲を連想した。最初は地味に感じていても、噛めばかむほど味がでる、スルメのような楽想だ。演奏している本人たちがいちばんおもしろがっているような感じというのかな。それは何回も聞いてから、ようやく同調できる種類のものじゃないかと思うんだ。

20.  「ピース・イン・ザ・ネイバーフッド」

ポールの作曲ってスタンダードなようでいて、意外と他の誰にも似ていないものだ。この曲も淡々と始まったかと思いきや、ラテン風味のピアノに乗せて景色が次々と移り変わる。聞き流していると気づかれないような転調を、さらりとやってのけている。

21. 「サムデイズ」

胸を締めつけられる、さびしく厳しい歌だ。『フレイミング・パイ』は全体に寂寥感が漂っている。

22. 「カリコ・スカイズ」

ハリケーンに遭遇し停電中に書かれた曲だという。ポールの非凡さは、こうした逆境にめげず、むしろ不慮不足の状況に活路を見出し、ひとつの仕事を成し遂げてしまうところである。そのポジティヴな姿勢を(コロナ禍にある現代人も)見習いたいものだ。

23. 「ヘブン・オン・ア・サンデイ」

最初このプレイリストを締めくくるのに、僚友リンゴとのリレーションシップが麗しい「ビューティフル・ナイト」を据えていた。が、見過ごされがちな傑作を発掘するという目的から、あえてこの切なくも悲しいナンバーを選んだ。

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今回とくに顧みた6枚のアルバム(鰯所有)

追記:ポールのアルバム、だいぶん少なくなったけど、B◯◯K◯F Fの CDコーナーなんかでは、まだ容易に中古を探しだすことができる。汚れ等を気にしなければ、20世紀にリリースされた何枚かは約500円以下で購入可能だから、これを機会に買い揃えてみてはどうだろう。ポールの駄作は凡百の傑作よりも聞き応えあるぞ。

 

さて、ニつめのプレイリストに移る前に、もう一つ別のプレイリストを掲げておきたい。

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24. 「ハニー・ハッシュ」

25. 「ラン・デヴィル・ラン」

ラン・デヴィル・ラン』は、リンダが生前に発案したカヴァーアルバムで、ギターにミック・グリーン(ジョニー・キッド&ザ・パイレーツ)と、デイヴ・ギルモア(ピンク・フロイド)、ドラムにイアン・ペイス(ディープ・パープル)といった凄腕を引き連れてポールは歌とベースに専念、激しくも艶やかなシャウトを聞かせる。プレイリストの冒頭と末尾に選んだ二つを、他の優れたロックンロールと比較してみてほしい。このバンドが、いかに突出したポテンシャルを持っているかが理解できよう。

 

◆プレイリスト⑵『前人未到の荒野 21世紀編』

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26. 「ヘザー」

何かと評判の悪い二番めの別れた妻の名前をタイトルにした曲を冒頭に持ってくるとは、我ながら人が悪いなあと思う。でも、ブルース・ホーンズビーを思わせる雄大な楽想は、他のポールのレパートリーにない魅力を放っているとも思う。

27. 「ドライヴィング・レイン」

同名のアルバムが発表された2001年は、個人的に音楽から離れつつある時期だった。だからか不明瞭なジャケット写真のように、ポールの音楽もくすんでいるように感じた。今回聞き直しても、当初の印象は覆らなかった。が、ポールには珍しくMajor7主体のコードをあしらったタイトル曲には、渋い味わいがある。

28. 「タイニー・バブル」

ドライヴィング・レイン』は、工夫するのを途中でやめたような演奏が多い中、粘りあるリズムを強調し、ちょっとU2のONEにも似たこのソウルフルなナンバーは、一聴の価値がある。このアルバムからポールの声質はあきらかに衰えはじめるが、その枯れた喉を無理なく活かしている。

29. 「ジェニー・レン」

今回の聞き直しで個人的にもっとも収穫があった盤は、『裏庭の混沌と創造』である。「ブラックバード」タイプの歌の中でも、これは最高の出来ではないか。サビで展開するアコギのコードの、歌うような低音の移り変わりはさすがだ。

30. 「アット・ザ・マーシー

ポールは内省的な傾向を上手くコントロールするスキルを身につけたようだ。レディオヘッドを手がけたナイジェル・ゴドリッチの起用により、作品に複雑な陰影が加わった。それは、

31. 「ライディング・トゥ・ヴァニティ・フェア

のような、辛辣で悔恨に満ちた内容の歌詞にふさわしい、妖しげでオブスキュアな音像を提供していることでも分かる。これはあきらかに新境地だったのだと、今になってようやく理解できる。

32. 「プロミス・トゥ・ユー・ガール」

ポールのマルチな才能が全開のナンバー。ひとりで全パートを演奏しているわけだが、こんなに巧いドラマーは滅多にいないぞ。コーラスワークも才気が迸っている。

33. 「エヴァー・プレゼント・パスト」

追憶の彼方に〜』の2曲め。これはYouTubeを観てもらったほうがいいだろう。

(削除されていました)

ぼくの歌はこんなに単純な構造なんだよ、とインターネットの時代に対応したポールが教えてくれる。それにしても、こんなに愉快なメロディーを、よく思いつくなあ。

34. 「オンリー・ママ・ノウズ」

嗄れ声を上手にコントロールしている。バンド演奏の醍醐味みたいなものを見せつけてくれる。決めがライブ映えする、堂々としたロックナンバー。

35. 「ホワイ・ソー・ブルー」

とはいえ『追憶の彼方に〜』は全体に大味で、前作ほどの出来ではないように思う。これはデラックスエディションにのみ収められた曲。どうやらぼくは、やや沈みがちなポールの側面に惹かれているようだ。

 

36. 「マイ・ヴァレンタイン」

open.spotify.com

ここでプレイリストから外した曲を一つ挿入する。2012年の『キス・オン・ザ・ボトム』に収録されたオリジナルナンバー。この盤はダイアナ・クラールをはじめとした面子による、極上の演奏が堪能できる、ニルソン『夜のシュミルソン』を思わせる、ジャズ・スタンダードのカヴァーアルバムだ。

 

37. 「アーリー・デイズ」

この『NEW』が発表されたころ、ポールを師と仰ぐプロのベーシストが、「聴いていてつらい。才能は枯渇するもんだね」とぼくに漏らしたことを覚えている。が、それは聴く側の受けとり方によるものかもしれない。ポール本人はいろいろと新しい試みに挑戦しているが、結句ぼく(ら)の心に残るのは、この曲のような「ふり返りもの」だったりする。

38. 「アイ・キャン・ベット」

だけどポールは、まだ賭けると自分に言い聞かせている。自分がこなせる範囲を限定しない彼だが、衰えを自覚もしている。この曲に表れた普段着の装いは、何回か聞いているうち、自然と身になじむ。

39. 「ロード」

ポールはアルバムの終盤に、やや長尺で展開の多い曲を置く。それは『レッド・ローズ・スピードウェイ』からの習慣だが、そこには必ず実験の要素が加味される。ここでは、今までに使わなかったコード進行やベースラインといった土台の部分を変えてみようと試みている。その飽くなき探究心が、次につながると確信して。

40. 「ホープ・フォー・ザ・フューチャー」

2014年、コンピューターゲーム「Destiny」のテーマソングとして書かれた。120名もの壮大なオーケストレーションには仰け反るが、曲の着想そのものは素朴なものだ。

(そして翌年、ポールにとって21世紀最大のヒットシングル、「フォー・ファイヴ・セカンズ」がリリースされる。もっともこの大ヒットは、カニエ・ウェストとリアーナの人気に依るところが大きい。)

41. 「アイ・ドント・ノウ」

エジプト・ステーション』の先行シングルで、ニール・イネスみたいな作風のこれを聞いたとき、ぼくは「枯淡の境地だ」と覚え書きした。嗄れた歌声もやや緩んだリズム感も、全てが良いふうに収まっていて、辛くならない。それにベースとドラムのコンビネーションなどに丁寧な仕事が施されており、ポールの復権を強く感じた。

42. 「ハンド・イン・ハンド」

アリスみたいな題名はともかく、美しいメロディーのバラード。だが勿体つけたところはなく、素直な表出だ。これはポールが、自らの老境と向きあった末に会得した、老人力だと思う。

43. 「ドミノズ」

エジプト・ステーション』は捨て曲なしの佳作。どの曲も好きだから選ぶのに苦心した。この地味なナンバーにも多くの人が注目してほしいと思う。ありきたりで標準的なロックの道筋をたどりながらも誰の真似にもならない、曲作りの極意がそこにある。

44. 「バック・イン・ブラジル」

ポールは世界中のさまざまなジャンルを横断して自らの音楽に取り入れているが、とくに中南米からの影響は大きい。あからさまなサンバやボサノヴァは作らないが、それらの本質をヒョイと掴みとる。結果、剽窃に陥らない(イチバンを連呼するあたりマルコス・ヴァーリの洒脱を連想するけど)。こういう明るい曲、やっぱりもっと聞きたいな。

45. 「ゲット・イナフ」

オートチューン(音程補正用ソフトウェア)を積極的に用いている。一ぺんは使ってみたかったのだろう。この年流行ったチャーリー・プースなんかにも通じる、フットワークの軽さもポールの身上だ。

追記:ポール・マッカートニーはサービス精神が旺盛で、人を楽しませ、喜ばすことが生き甲斐のように見える。けれども、この数年でリスナーへのもてなしを減らしはじめ、より自然な表現を心がけているように感じる。と同時に、自分の中にある疑問や諦念や後悔や憤怒を隠さなくなってきた。一般的には負の感情とみなされる、そうした心の働きを、オブラートに包まず、正直に打ち明けるような歌詞が増えてきているように思う。

46. 「ロング・テイルド・ウィンター・バード」

47. 「プリティ・ボーイズ」

48. 「ディープ・ディープ・フィーリング」

49. 「ザ・キス・オブ・ヴィーナス」

50. 「ウインター・バード/ホエン・ウィンター・カムズ」

さて、現時点(2021年1月)での最新作、『マッカートニーⅢ』に、あまり多くの説明は要らないだろう。31年ぶりに全英1位を獲得したこの完全ソロアルバムは、2020年の新型コロナウイルス感染拡大によるロックダウンの最中に制作された。ひじょうに引き締まった、無駄な装飾を削ぎ落とした録音で、本質が剥きだしになったような音楽である。トラッドからDTMまで、音楽の歴史がポールの肉体を通して一つに統合されている。彼に先行するランナーはもはや居らず、彼の目前に広がるのは前人未到の荒野である。その光景そのままを映しだしたような「ウインターバード」の厳しい響きに、澱んだ空気が一掃される。さらに、「ディープ・ディープ・フィーリング」で、ポールはぼくたちに呼びかける。もっともっと深くまで到達するんだ、ぼくの深層に潜むフィーリングを、きみにも共有してほしいんだ。こっちに来いよ、一緒に行こう。果てしなく続く、音楽は旅だ、と。錯覚かも知れないが、ぼくにはそう聞こえる(きみはどうだい?)。そしてようやく理解する、ポール・マッカートニーの音楽は、受動的に聞いているだけではなく、リスナーみずからが参加することによって、完成する種類のものだということを。それはたぶん、ポールが全キャリアを通して常づね訴えてきたことだ。バンドは荒野を目指す。人類はこれから先どこまで行けるだろう。彼の前に道はなく、彼のたどった跡に道ができる。が、その気さえあれば、ぼくたちは歌を通じて、ポールが目にする原風景を見ることだってできるんだ。We can work it out. 

 

 

【過去関連記事】

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福岡史朗『=7』に寄せて 瑣末な事柄を穿ちつづける

 『=7』は福岡史朗、7枚めのアルバムである。

 福岡の音楽の虜になってから早幾年、彼の驚異的な創作意欲はとどまることを知らない。2020年も収穫の季節に二枚組が届けられた。あいかわらず装丁がすばらしい。見開きの紙ジャケット

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同時代の表現者として福岡史朗に信を置く(中略)感想は近々、月末には投稿するつもり。 

 などとツイートしてから早くも一ヶ月余が経ってしまった。誰が待っているわけでもないのに、気ばかりが急いて、そうこうしているうちに年末は過ぎ、正月を迎えた。ばくは宿題を片づけられない子どもみたいに、悶々とした日々を過ごしていた。

 感想を書くのに、これほど手こずることは滅多にない。ぼくにとって『=7』は手ごわい作品だ。今までの福岡史朗のどれよりも身体に浸透するのに時間がかかった。や、誤解しないでほしい。本作が聞きにくいとかつまらないとかではない。その逆で、これほど愉しくなる音楽は滅多にないと先に断言しておく。ただし、音楽のたたずまいに馴染むには少々時間を要する。ぼくの場合、福岡史朗独特のナラティヴ、すなわち語り口に慣れる必要があった。その理由はおいおい述べる。

 

 二枚組『=7』と、今まで福岡が発表してきた諸作との違いは、今回、彼がほとんど全部のパートをみずからの手で演奏しているという点だ。とくにA面ならぬA diskは、ゲストなしの完全な一人多重録音である。

 これは、新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため戒厳令下みたいになった本邦の状況でやむなく、の側面もあるだろう。が、あんがい一遍は全パートを自分一人で演ってみたくなったという単純な理由かもしれない。

 一方のB diskはゲストにギタリストの青山陽一と鍵盤奏者のライオンメリーが数曲に招かれている。けれども、基本的にはやはりセルフレコーディングである。ちなみにAは31分40秒、Bは35分11秒。合計しても一枚に収めることが可能な時間だが、あえて二枚に分けているのだろう。

Recorded at Ginjin Studio/Mixed by 福岡史朗

Mastered by 高橋健太郎 

Pictured by 伊波二郎

Designed by 真木孝輔

  

【まずはA diskを聴いてみよう】

01.遠くから

02.=7

03.カフカ

04.今夜

05.闇が溶けて行く

06.通り雨

07.マグカップ

08.ジグザグ轍

09.相槌

10.造花

11.ロータリー

All songs written by 福岡史朗

Vo/Cho/E.G /A.G/G.G/Ba/Dr/Conga/Tabla/Per/Pf./Syn/Rhodes/Pianet.T/Banj/F.Mand/VI 

by 福岡史朗

 ジョン・サイモンの『ジャーニー』を思わせるしゃれた和音ではじまる(なお、今回は「◯◯みたいな~」を全面解禁する。そのほうが読む人のとっかかりになると思うから)。その温かいギターの音色に乗せて、福岡はいつもより心なしかていねいに、ダブルトラック(一人二重唱)で歌いだす。「遠くからやって来るものを想像してごらん」と、面と向かって語りかけられているようだ。

 歌の旋律に対位するベースラインの向こうに、カチカチと鳴る音がかすかに聞こえてくる。メトロノーム? 違うかもしれないが、メトロノームの振り子の往復が目に浮かぶ。

 そういえば福岡は、多重録音で音を重ねるときに何をテンポの基準にしているのだろうか。クリックじゃないような気がする。ひょっとしたら、自分の弾いたギターなりピアノなりに合わせているんじゃないか。どうもそんな気がする。

 あれこれ考えているうち、ゴツゴツしたピアノが新たなテーマを提示する。サンダークラップニューマンみたいな音色で、なにかが空に潜んでいることを報せる。気がつけば、いつの間にかタイトル曲の「=7」に突入している。福岡は「ふたつを足せば7になるだとさ」とヒントを与える。それが何の暗示だか、考えを促すように。不穏なビートが奥の方で鳴っている。ずっしり、重い。そのリズムが解け、ドラムスがとっ散らかったオカズを叩きだす。収拾がつかなくなったかと思いきや、えっちらもっちらと次なる主題が混沌のなかから浮かびあがる。

 ここにいたって、聞き手のぼくはようやく福岡の構想に気づく。これひょっとしたら全部つながってんじゃないか、と。簡単にいえばメドレー、大仰にいえば組曲、例えれば『アビーロード』のB面。3分前後の短い楽曲が、間断なくくり出される形式。福岡は「睡眠導入剤よろしくカフカは飾り」とうそぶくけれども、モータウンみたいに愉快なリフレインのうえに「高利貸し(氷菓子)みたいな詩人が殺しにきます」なんて物騒なラインを挿みこむ。詞が何をほのめかしているのか、正確なところは掴めないが、聴きながら思いめぐらす、この心理状態は悪くない。ルー・リードはかつて自分のアルバムを「本を読むように聞いてほしい」と注文したが、そういえば『=7』も、二枚組のヴォリュームとは裏腹に、良質な短編小説集の趣がある。

 さて、お次は福岡お得意の軽快なロックンロールだけども、快速ですっ飛ばすというより、いまいちエンジンのかかりが悪い。理由は彼の叩くビートが重たいせいだ。大久保由希の不参加を思う。各アルバムでドラムスを担い、前作『+300gram』ではベースを弾いていた。彼女が各パートのあわいを巧く接着していたからアンサンブルが安定していた。多重録音の宿命かもしれないが、今回は継ぎ接ぎが目立つ。いや待て、これもまた福岡の企図かもしれない。

 その証拠にホラ、固まってしまったはずの深い夜の闇は、ラジオから君の歌声が流れたとたん、「夜が明けて道が開け雨が上が」ったみたいに溶けていくのだ。なんだ軽いビートも叩けるじゃん。ばくは安堵する。となれば、後退り気味のドラムは、ディアンジェロヴードゥーでクエストラヴに要求したモタりと同種のものなのかもしれない。ともあれ、福岡は独りでもバンドをドライヴできるのだ。

 その独力アンサンブルの極みが「通り雨」で、ここで福岡はなんとヴァイオリンに挑んでいる。それは試みたというよりも、楽器は音を奏でるための道具なんだから鳴らせないはずはないさ、という確信があっての演奏だと思う。決して巧いとはいえないが、田園の雰囲気をみごとに描きだしている。ビートルズは「できないってどういう意味だい? なんだってできるさ」とスタジオのスタッフを説きふせていたそうだが、それは不遜や驕りではなく、やってみようじゃないかという意欲の表れであろう。その姿勢を福岡は受け継いでいる。

 にしても「通り雨」は辺鄙な道筋をたどる。主音(キー)がCとして、「虫の時雨か通り雨」の箇所に差しかかると、いきなりE→A→Cと寄り道してGにいたる。わりとありふれたコード進行だのに、なんだか響きがヘン。9thやmaj7を絡めたシの持続音で連結したところへkinkyな歌メロを強引にねじこんでくるあたりが、耳を引っ張られる要因ではないか。

 続く「マグカップ」にも同じことがいえる。ロールオフを交えた重厚なリズムは、後期XTCを彷彿とさせる。伏せたマグカップや失った鍵といった近景から、窓越しに舞うつがいの蝶が「まだらな雲に紛れ」て遠景へとフォーカスが移る。まーだーらーなーの長音で外側までぶわっと運ばれる感じがたまらない。こういう情景描写の奥に心理のうごめきが反映されている音楽はきわめて稀だ。私的なようで、そのじつ叙事詩のような、ニール・ヤングの「ドント・レット・イット・ブリング・ユー・ダウン」にも似た果てしなさがある。

 かと思えば、シリアスの直後に田舎のでこぼこ道を思わす、牧歌的な「ジグザグ轍」を次に切り出すあたりが一筋縄ではいかないところで、それでも、末尾の「やあ!」が“Ouch !”に聞こえたりすると嬉しくなって頬が緩んでしまう。4曲めの「今夜ぁ」もそうだけど、つい口ぶりを真似たくなる。やつは不思議なエロキューションの持ち主だ。

 それに、福岡の操るシンセサイザーも個性的だ。彼はいわゆるストリングスやブラス等の立派そうな音色を使わない。ひゅるひゅる鳴る剽軽な音色や、みゅーんと唸るむず痒い音色を選ぶ。あえて例えれば、サン・ラや初期のブライアン・イーノに通じるが、ありきたりな音色は使わんからねという強い意思を感じる。アウトロ(後奏)の逸脱はやや度を過ぎているようにも思えるが、それはたぶんローラ・ニーロいうところの「音楽は真剣な遊び場」的なココロなんだろう。

 間髪いれず、カッコいいフィルインが斬りこみ、ソリッドな「相槌」が始まる。シングルカットするならコレだな、とぼくは独りごちる。ロビー・ロバートソンみたいにパキパキしたギターソロもいかしているけど、「ためたクーポンや無闇に浮かれた週末になりたくないと」の一行が、鮮やかにこんにちの状況をカットアップしているではないか。

 それがポピュラーに属するかぎり、音楽は社会とのかかわりを免れない。なにも激しい口吻で現実ありのままを撃つ必要はないが、未だ本邦にあふれる明日は晴れるや今がんばろう式の励ましソングには具体的な事柄が何にも示されていない。ただ空虚に聞き手を応援するだけだ。福岡の歌はそれらと一線を画する。スマートに、しかし確実に、数多ある社会問題を照射する。

 呑気に聞こえる「造花」にも、それは言えることで、偽物が耳障りのいい言葉を囁く、フェイクに塗れた世の実相を容赦なく暴きだす。朴訥に聞こえるピアノの間奏にしても、誰もいないと思っていても何処かでエンジェルが監視しているような、不吉な響きを醸しだす。この緊張感はなんだろう。ぼくは最初このメドレーを『アビーロード』に例えたが、切実さはむしろデヴィッド・ボウイ『ロウ』のA面に近い。そしてその緊張を裏づけるものは、福岡史朗の歌唱力。今回もっとも向上が著しいのは、歌声そのものの強靭さ、伸びやかさだと思う。

 半音あがってブリッジという技アリの後、最終曲の「ロータリー」がさりげなくはじまる。60年代カレッジフォークみたいに素直な曲調だが、歌詞には苦い悔恨が滲んでいる。かの「青空」を引きあいにだすまでもなく、バスは移動と希望の象徴だ。が、今やバビロン行きのバス停は、行き場をなくした孤独を抱えた人が佇む場所になった。それに運転手さんはもはや簡単にぼくたちを乗せてくれない。

 待ちわびた風が吹きロータリーにバスが流れ着く

 きっと飛び乗れば違う世界に行けるでもまあ止めよう

 ギターを担いで全国のライブハウスをめぐる、痩せっぽちな後ろ姿を想像する。コロナ禍の今、ミュージシャンは音楽活動を事実上封じられている。人前で演奏できないディレンマを抱えて日々を過ごす彼・彼女らの心情を思うとせつない。けれども、歌はどんな形でもいいから人から人へと伝達されなければいけない。福岡は“GoTo”の掛け声には「乗らない」意思を示した。が、漂泊の魂をのせた現代の吟遊詩人が歌う歌を、ぼくは待望している。バスに乗り遅れたっていい、その時まで、このアルバムを聴き続けよう。

 

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次いでB disk聴いてみよう

01.弦

02.ブルーバードブルー

03.木霊

04.タブタップ

05.ジョーニーの小部屋

06.欺瞞の渦

07.ジャズ

08.君が出て行く

09.動きだす音楽

10.記憶のムード

11.空

 

All songs written by 福岡史朗

except song 01 with 青山陽一

Vo/Cho/E.G /A.G/G.G/Ba/Dr/Conga/Per/Pf./Syn/Rhodes/F.Mand  福岡史朗

E.G (song 01.02.03.04.05.06.07.09.10) by 青山陽一

Pf./Rhodes (song 03.04.06.09) by ライオンメリ

  2枚めに収められたナンバーは、スポンテニアスな即興が重視されたものだ。とはいえ、形式を逸脱してはおらず、先ず土台となるリフレインがあって、そこへ自由な発想をトッピングするスタイルだ。

 動機となるは旧くからの伝統的なリフレインが大半だが、紛いものの気配は微塵もない。それはパガニーニの主題を用いて作曲したリストやラフマニノフのような再構築という名の創造であるから。サンシャイン・ラヴみたいなリフやディグ・ア・ポニーみたいなワルツは、着想を推し進めるきっかけに過ぎない。

 間を活かすに達者な福岡のギタープレイの間隙を縫うように、ゲストの青山陽一は粘っこいフレーズをくり出すが、この対照的なスタイルは狙ってのものだろう。さっぱりしたそばつゆに胡麻油を垂らしたようなチョーキングが、コシのある楽曲に旨味を加える。

 ライオンメリーの弾くローズピアノも同じく、福岡の明快な音像に曖昧模糊とした要素を加え、楽曲に奥行と陰陽を与える。いったい何をどのように弾いているかは杳として掴めないが、あるとないとでは印象もがらりと変わるだろう(例外として「動きだす音楽」の華麗なピアノソロにはラテンフレーヴァーがかすかに漂う)。

 しかし、単純なようで複雑な編曲だ。モチーフのリフレインに違う要素が次々と絡みあう。シンセサイザーが奇妙なフレーズを織り重ねる。古典的な様式に思えても意匠は新しく、ノスタルジアには陥らない。ちゃんと2020年製の音響になっている。

 最初ぼくは、クリック(電子音による規則的な拍子ガイド)を用いていないのでは、と疑った。その推測をすすめると、どうしても福岡の設けた録音プロセスにおける独自ルールに気づかざるをえない。

 例えば福岡は、リバーブ(ここでは残響を加味するエフェクトを指す)を殆ど使わない。とくに歌声には絶対に使わない。彼の歌声はいつもドライなままだ。生々しく、エッジが際立っている。ユニゾンで歌うと特有の倍音が発生する。それは初めて「たまさかの町」のコーダ部を聞いたときにも感じたことだが、彼には独特の“音程”がある。容易に混じらない、埋もれない声質。だがそれゆえに、ややアウトofキーに聞こえることもある。そのファンキーさに親しむのに、一般の耳には少し時間がかかるかもしれない(でも、慣れるとクセになる声だ。わがパートナーは「タブタップタップダンス、タブタップタップダンス」と呪文みたいなリフレインを何気なしに口ずさんでいる)。

 同じことは楽器の調律にもいえる。福岡は電子チューナーを使わないのではないか。先の「通り雨」で感じたことだが、彼のアンサンブルは時として古楽器のそれに似通った響きがある。それは平均率とオートチューンに馴らされた耳には違和と感じるけれども、その響きを調和と認識すれば、好き嫌いの位相もたちまち逆転するのだ。

 この唯一無二の音楽を、もっと多くの人に知らせたい。だからぼくは、自分が面白く感じたことをこうやって書きつらねている。オッケーそいつがロックンロールさ、理屈も解説も不要だぜと構えてみたってなにも始まらない。ぼくみたいな素人さんは微に入り細を穿つことでしか対象に近づけない。福岡が生来的に備え持つファンクネス。それがどういう意味だかを解こうとするのが、僭越かもしれんが、ファンのつとめだと思うから。

 福岡の音程について、語るべき事柄はまだまだたくさんある。たとえば第3音の歌い分けについて。主音がドのとき、ミの音が乗っかったりぶら下がったりするけれども、彼はその峻別を誤らない。計ったみたいに正確で、しかも規則性がある。それ本人はどこまで意識して歌っているんだろう。

 また、タイトルの『=7』にも通じることかもしれないが、福岡のたどる旋律は、ことごとく7thを経由し、それどころか7thを単なる経過音とせず、♭(フラット)そのものを強調し、メロディーの核に据えることが頻繁だ。が、そういった傾向をどれほど自覚しているんだろう。

 ぼくはそれらの疑問を訊ねてみたい。それがブルースさ、ブルーノート・スケールというんだよと教えてくれなくてもいい。「ジャズ」というナンバーには、ミュージシャン特有の自己韜晦が感じられる。それは風刺かも知れないし弁解かもしれない。が、分かるやつだけに分かってもらえればいいという、表現者にありがちな思い上がりとは無縁であってほしいし、かかる疑問にたいする回答は、ぜひ次の作品に結実してもらいたい。

 えらそうなことを書いてしまったが、これも福岡が音楽に誠実であるからこその注文なんだ。彼の作る人工的な夾雑物のない、オーガニックな楽曲は他に類をみないものだから、なるだけ自力でまかなうD.I.Yの信条を堅持しつつの、さらなる活躍を心から願っている。

追記:<彼の作る人工的な夾雑物のない、オーガニックな楽曲>の部分について。福岡はレコーディングにあたって、ProToolsに代表される音楽制作ソフトウェアを使っていないのではないか。ひょっとしたらリズムマシーンさえ使っていない可能性がある。少なくともぼくの耳に聞こえる演奏は全パートが手弾きで、自動演奏の気配がまったく感じられない。ローテック志向はテクノロジーを拒否する偏屈さゆえにではなく、彼がみずからに課したルールなのだと考えたい。これは今回の『=7』のみならず、彼がソロになってからの諸作に共通していることだ。なぜ人力にこだわるかって? それはたぶん、生演奏のほうが弾いても聴いてもおもしろいから、じゃないかな。

 ラストの「空」は、チターを模したシンセサイザーの音色やMajer7thの平行和音が、ちょっとラングレンを思わせる、浮遊感ただようナンバーだ。こういうメランコリックなバラードをさらりと書きあげてしまう福岡史朗の才覚を、ぼくは微塵も疑っていない。

 

 

【公式インフォメーション】

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 【過去記事(初出より順に)】

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