鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

架空のライナーノーツ『21世紀のプロテストソング』

 

21世紀のプロテストソング』は岩下啓亮が2002年に自主制作した作品集の題名である(未発表)。

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 今回、久しぶりに聞き返してみた理由は、9月18日に亡くなった友人Uの遺品に、ぼくの録音したCDが多く残されていたからである。

 音楽活動をやめて十数年が経つ。過去の自作を聞く機会はほとんどない。この『21世紀』を聴くのも数年ぶりだった。というのも、ぼくにとってこれはラストアルバムに相当するので、聞くと少なからずシンドい思いを抱くのだ。

 しかし、2019年の現在に、本作の訴えようとしていた事柄が、当時よりもリアルに伝わると感じるのは錯覚だろうか。アレンジや言葉づかいは時代の影響で古くさく聞こえる部分もあるが、提示した問題意識は、むしろ今日の社会状況に通低しているようにも思える。

 それでは『21世紀のプロテストソング』全16曲の簡単で散漫な解説を試みてみよう。とはいえ、その音楽を(このテキストを読む)あなたは聴くことができないのだけども。架空のライナーノーツとして(笑)想像していただきたい。

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マスターCD-Rのインデックスより

 

1. I Believe

意表を突いたカントリー&ウェスタンスタイルのオープニングナンバー。曲を書いたきっかけは、ある護憲集会で「明日があるさ」の替え歌で「憲法があるさ」と歌われていたので、それならオリジナルな新しい歌のほうがいいじゃん、との思いから。でも気後れして提供するにはいたらなかった。

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2. バンガロー

漢気あふれる歌を書いてみたかった。現実の自分の非力さ、自信のなさにうんざりしていたから。ラップの内容は当時よく読んでいた斎藤貴男の著作に影響を受けた、典型的ワナビーな歌詞だ。アレンジもあまり企まず、シンセ等もあるがままに弾いた。

 

3. ワルツアメリ

世紀を跨ぐ前後に、アコースティックギター一本で弾き語りできる歌を多く書いた。ボブ・ディラン気取りでね。ミドルエイトの歌詞が映像的で大好きなんだけど、今聴くとリズムパターンがちょっとうるさいな。

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4. 渚のハレーション

これはレナード・コーエンの影響下にある旋律。沖縄について書いたつもりだったが、むしろ今では本邦のことを歌っているように聞こえる。アレンジは遠近感や明暗のコントラストといった「対比」を意識している。

 

5. あいにいかなくちゃ

ディラン、コーエンときて、これはポール・サイモンの真似っこだね。でも、日本のポップスに顕著な歌う人=主人公の過剰な自意識から解放された、コメディふうの歌詞を目指していた。それの表れ。

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6. モノリス Monolith

ぼくの歌詞にはダブルミーニングが多いけど、「野を駆ける子どもたち」を「脳欠ける子どもたち」と空耳されたときは、さすがに深読みし過ぎだよと思った。あと、もともとの曲調はボサノヴァ的な軽い雰囲気だったのが、音を重ねる過程で雄大なロックになってしまった。

 

7. あなたの影になりたい

これを書いた経緯は別稿に詳しく書いている。

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

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8. ひとりぼっち・ともだち

たぶんR.E.M.みたいな歌を書いてみたかったんだろう。天気の話・政治の話のくだりなんか、もろ。だけどじつは、この歌の真のテーマは「自分に飽きていること」だと思う。だんだん自己模倣に陥っているような危機感を覚えていたんだ。

 

9. ルサンチマン Ressentiment

ある方に、ロイ・ハーパーみたい歌だねと言われたが、ま、オープンチューニングで曲を作ると、どうしたってトラッドっぽくなるよね。歌詞はなるたけ呑みこみにくい語句を意図して選んだ。

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10. ロック・ミー・ベイビー Rock Me Baby

冒頭曲のバリエーション(変奏曲)だとは録音した後になってきづいた。没にしてもよかったんだけど、ここに置いたら納まりがよかったんで。ぼくなりのR&Bを刻んでおこうと思った。

 

11. スイート・イマジネーション

だとすれば、これはぼくなりのグラムロックだね。ラジオを聴きはじめたころの感覚を思いだしながら作ったけど、先日なくなったリック・オケイセックがエンディングを聞いたら苦笑するかもな。

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12. どれくらい Slave To Cry

で、ネタばらしのようだけど、この楽想はピート・タウンゼンドへのオマージュ。(本邦のポピュラー音楽の大半を占める)恋愛の初期衝動についてばかりではなく、彼のように生と死、社会と個人、労働と生活についてのシリアスな歌をつくりたかった。

 

13. いついつまでも

では、日本ならではのポピュラー音楽とは? と考えたら、このヨナ抜き音階の旋律が降りてきた。高峰三枝子の「南の花嫁さん」みたいな曲調だが、ジャズ系のギタリストからは「(ウェザー・リポートの)ブラック・マーケットかい?」と訊かれたな。違うって。

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14. ワルツアメリカ Ⅱ

3曲目の「ワルツアメリカ」では友情・愛に満ちあふれたアメリカの理想を歌ったが、ブッシュ政権下のアメリカには、絶望しか感じなかった。それで対をなす「Ⅱ」を書いた。幻聴かもしれないが、ぼくにはエンディング近くで吹きこんだはずのない「アメリカー」というコーラスが聞こえる。

 

15. 4000マイル

惜別の歌。終わりの予感を抱きながら、この歌を録音した。長年使っていたTEACの4trkレコーダーは既に相当ガタがきていた。playボタンが割れたとき、あー終わったな、と呟いた。これは80年代のニューウェーブにアレンジの着想を得ている。

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16. Good Morning ×4

影響されたジャンルを一通りおさらいした前の曲で終わらせるつもりだった。が、あまりにも救いがないと思った。根が楽観的なぼくは、明朗な曲調でアルバムを締めくくりたかった。ワグナーとハンターみたいなツインリードは、新たな道へのファンファーレだった。

 

 

 というわけで、総計66分10秒の16曲をざっとふり返ってみたが、ぼくはこのアルバムを親しい友人や世話になった知人に配った他は、目立ったアクションを起こさなかった。本作を聞いた人数はおそらく三十人にも満たないだろう。

「ワルツアメリカ Ⅱ」の歌詞にもあるように、「誰もなにも言わな」かった。いいとも悪いとも言われなかったが、当然だと思った。ぼくは最早、評価を求めていなかったし、この作品群を携えて世に問うといった気概もなかった。いや、あえて自らの考えを世に問うとすれば、その手段は音楽に限らなくともよい、むしろ文章のみのほうが伝わるかもしれないと考えていたのだ。

 もちろん、つくった音楽に自惚れていたわけではない。むしろその逆で、なんだかオレ洋楽の翻訳作業に勤しんでいるだけかも? と疑いはじめていたし、作風が固まってくるにつれマンネリ化は否めず、自己模倣すなわち過去作品の焼き直しに陥っていると感じていた。だからといって外から新奇なアレンジを取り入れることが挑戦だとも思えず、また、常に内側から湧き出ていた創作意欲も薄れ、自宅録音のアナログなプロセスにも倦んでいた。

 そんなわけで、ぼくの音楽活動は2002年に終わりを迎えた。わりとあっさりと、極私的に、静かに。後悔がなかったわけではないし、煩悶する夜もあった。何曲か録っておきたい未完の楽曲もあった。しかし、ある程度ぼくは満足もしていた。言っておかなきゃならないことは今とりあえず言っておいたからな、という手応えがあった。2002年にぼくが何を思い、何を考え、そして何に憤ったか、もやもやした何ものかを形にすることができたという自負もある。

 だから……

 こういった言い方を許してもらえるなら、ぼくは音楽そのものに挫折したわけではない。これからも此処を起点に自分なりの表現を追求していけると信じている( I Believe)。そんな意味で、かけがえのないラストアルバムなんだ、『21世紀のプロテストソング』は。

 そう、ぼくは2001年ごろからずっと怒りつづけている※ 。“21世紀の怒れる男” は “反抗の歌” を2019年の今日も口ずさんでいる。

 

 

【関連過去記事】

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

 

※ については、新井英樹氏のインタビュー記事に(プロとアマの程度は違うものの)同じ気持ちが記されていた。以下抜粋。

https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/arai2

『キーチ!!』を描き始めた2001年は小泉政権。いま描いておかないと、この手の作品が描けなくなるっていう思いがあった。

 民主党政権終わった後、安倍政権になって怒り始めた人たちもいるけど、別に偉ぶるわけじゃなくて、俺はもう描いておいたからっていうのがある。

 

 

【過去記事追加】

link.medium.com

 

福岡史朗 “+300gram” レビュー

 福岡史朗、2019年10月6日リリースの新譜“+300gram”は快作である。2019年製のスマートなグラムロックだ、たくさんの人に聞いてほしい。

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 もともと福岡のつくる音楽は簡素かつソリッドだったが、今回は300gramsというスリーピースバンドを結成し、前作までの課題であったダイナミクスを獲得するのに成功している。

 なにしろむちゃくちゃカッコいい。私は最初に聴いた直後に、すぐさまこんな感想をツイッターに投稿した。

福岡史朗の新しいアルバムができた。今回の特徴は柔軟でニュアンスにとんだリズムの三角形。とりわけ大久保由希のベース中原由貴のドラムのスリリングな絡みは絶妙。ストリーミング配信はされていないから、ぜひCDを購入されたし。

 この女性ふたりのリズムセクションが醸しだすグルーヴの妙を聞くだけでもアルバムを入手する価値がある。スピード感があるのに安定感がある。淡々とした演奏スタイルだのに、うねりと粘りがある。

 その主体的なボトムに支えられた、福岡史朗の弾くリズムギターはいつも以上にファンキーだ。自由闊達で自信に満ちあふれている。そして、彼がこれほど多彩な技を持ち合わせている事に驚かされる。引き出しが豊富なギタリストだ。

 それにしても、なんというシンプルで潔いアンサンブルだろう。スピーカーの真ん中で耳を凝らしてみても、聞こえるのはトリオの奏でる音だけ。オーヴァーダビングも最低限で、余計な装飾音は一切ない。痩躯の福岡そのものの、贅肉のないアレンジである。

 そこに福岡のうたう歌がかぶさる。前作の“KING WONDA NUGU WONDA IA KIKELE(2018年)”は全体の調和を意識したトータルアルバムで、内容も吟味された物語性を感じさせる歌詞だったが、今回の“+300gram”の歌詞は、意識的に語義を剥ぎとったかのような印象を受ける。解釈は聞き手に委ねる、それよりも語感そのものを重要視するといったふうな。それにより歌と演奏とがより分かちがたく結びつく。単語の羅列はむしろ視覚的要素を多く含み、聴覚だけではなく五感を刺激する。断片的な映像が目に浮かび、身体がひとりでに動きだす。そのことはタイトルを並べてみれば一目瞭然だ。

01.ソーダ 02.自由 03.ビート 04.子ネズミ 05.ケチャップ 06.ジョーク 07.ルル 08.ハサミ 09.ララ 10.パイを焼こう 11.ビワの実 12.ISO BOOTH55 13.ほつれた袖

 聞いてみようか。YouTubeにアップされている3曲のうちから「ビート」を。


ビート/福岡史朗&300GRAMS

 アルバムの中では落ち着いた雰囲気のナンバーで、福岡とコーラスをうたう大久保由希との息もぴったりだ。

 ……それにしても、今回は低音が効いてるな。

 私はこの記事の最初にダイナミクスが福岡の課題だったと書いた。が、プロを相手に不遜かと思い指摘しなかった。今回の作品では、その課題が克服されており、グイグイ前に出てくる感じがする。迫力の源は奏者3名の演奏によりもたらされた“勢いとゆとり”なのだが(今回も)マスタリングを施した高橋健太郎のセンスかもしれない。とにかく低音が伸びやかに出ており、聞いていて疲れない。音質そのものを愉しめるのだ。

 また、◯◯に似ている、という感想ほど野暮なものはないと思うが、

 私は“+300gram”を聴いて、かのプリンスがデビュー前にトリオで録った“Jazz Funk Sessions”を連想した。対象への距離感や、覚醒した演奏のありようが共通するというか(上手く言えないが)。つまり、それくらいカッコいいと言いたいんだよ。

 もう一曲、アルバムのラストを締めくくる「ほつれた袖」を聴いてみよう。


ほつれた袖/福岡史朗&300GRAMS

 あ、もう一つ触感の似ているアルバムがあった。ジョン・レノンの『ジョンの魂』。どちらも基本的にギターとベースとドラムの三位一体で成立している音楽だ。

 ここで、あらためて確認しておきたい。

福岡史朗は“+300gram”において新境地を開拓した。自己模倣の罠に陥ることなく、前作とは全く違うスタイルを提示した。

 それって凄いことだと思うよ。

diskunion.net

 なお、前掲のツイッターでも触れたが、福岡史朗の作品群はSpotify等のサブスクリプションでは聞けない。YouTubeにアップされた3曲もいいが、アルバムには他にも優れたナンバーがめじろ押しだ。私は「子ネズミ」の宮沢賢治的リリカルな描写と、「ルル」のファンクネスが目下のお気に入り。

 だから、悪いことは言わない。入手して損はない。一家に一枚の傑作です、“+300gram”は。

鰯 (Sardine) 2019/10/12

Mediumより転載:今回は読者が聴く前に余計な先入観を持たないよう、思い入れを排し抑制して書いた。文中敬称略)

 

 

【過去記事】

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2018年11,12月のMedium

 

臨場感

を味わうべく、ではなく、よく分からないまま、シネコンで4DXを体験してしまった私。

www.unitedcinemas.jp

カーアクションもバイオレンスシーンもない、音楽ものの映画だったから大丈夫だろうとタカをくくっていた。が、甘かった。観終わったあと疲労困憊でグッタリしてしまった。

数々の仕掛けに気をとられるがあまり物語に没頭できなかった。

カメラの位置が変わるとともに、座席の角度が変わる。ズームインで前のめり、場面転換で仰け反らせ、主人公がクルマに乗るたび椅子の下から振動が伝わるものだから、動きのある場面になるとつい身構えてしまう。

部屋の中での会話のシーンでホッと一息つくものの、油断は禁物、口論になるやいなや体感装置が稼働、ガラスの割れる音やら、フラッシュを焚く光やらが四方八方から襲いかかるので、気の休まる暇もない。

パーティの場面になるとやおら香水の匂いが漂うし、ライブの場面で演奏が盛り上がると座席伝いに重低音が腹に響く。さらにはスクリーンの両脇からはスモークがモクモクと噴出すし、もう、何でもアリのアトラクション状態である。

私は映画を観に来たのだ、遊園地に来たんじゃない、と内心憤った。もちろん窓口では丁寧な説明があったし、上映前にも再三お断り(注意というか警告)動画が流れていたから文句を言える筋合いではない。事前に確かめない方が悪い、のだが。

(何を観たかはバレバレですね……)

まあ、観る映画によっては、スペクタクルな演出が増幅されて面白く感じるかもしれない。戦場の真っ只中にいる気分にもなれるだろう。私はとんと興味がないけど、ゲーセンにある格闘技の対戦ゲームなんかに近い感覚が味わえるかもしれない。さらなる刺激を求める向きには結構な趣向だとも言えるかも。

ただ、くり返すが初老の私には刺激が強すぎた。これを書いている今も頭が痛い。船酔いみたいな感覚が残っている。心臓に疾患のある方などは、ホントに体験しない方がいい。私は二度と4DXでは観ない。3D映像やドルビーサラウンドだって苦手なのだ、これ以上の臨場感はまっぴらゴメンである。

倍近く払った入場料は勉強代だと思うことにする。

鰯 (Sardine) 2018/11/10

 

“Et tu, Brute?”(ブルトゥス、お前もか?)

仏の経済誌レゼコーは日産の西川社長をブルトゥスに喩えたそうだ。となると、カルロス・ゴーンカエサルってことか。

カルロス・ゴーン氏の逮捕をめぐってさまざまな報道が駆け巡っている。当然ながら、日と仏では捉え方がずいぶん違う。日本の報道の殆どが「推定有罪」(ゴーンが悪い)に傾く一方、フランスは、捜査のプロセスや日本の司法制度に疑義を唱えるものが多いようだ。

私の考えを簡潔に申し上げると、大企業役員の高額報酬には反対であるが、今回の〈日産内部からのリーク→司法取引→東京地検特捜部の逮捕→勾留延長〉という一連は、極めて悪手だと思う。しかし事の是非を問うのは、この稿の目的ではない。

ゴーン氏逮捕の翌日に、BSプレミアムで、エリザベス・テーラー主演の『クレオパトラ』が放映されていた。4時間の長丁場だので他のことをしながらチラチラ観ていたが、カエサルをブルトゥスが裏切る場面になるとさすがに身を乗り出した。ああいう史実に基づいた物語には、必ずや衆人が納得する「見せ場」があるものだ。

紀元前後のローマ史など西洋の文化圏においては教養以前の常識だろう(アメリカ訛りのジュリアス・シーザーやブルータスをローマっ子がどう観るかはさておき)。カルロス・ゴーン氏をカエサルに、西川社長をブルトゥスに擬えることで、仏経済誌の購読者は見出しの意味あいを瞬時に理解するのである。「ハハン、謀ったな」と。

「日本はやっぱり外国人嫌いの国」との印象を、フランス人をはじめ外国人に与えたのも確かだ。「サッカーのハリルホジッチ監督も解任したではないか」と言い出す人もいる。フランスのメディアも同様の論調だ。代表紙「ルモンド」や経済紙「レゼコー」は「陰謀説」も流した。「レゼコー」はその後、「陰謀説」には疑問符を付けたが、“ブルータス・西川社長”との表現を使い、主人シーザーに目をかけられながら、暗殺団に加わったブルータス、つまり“裏切り者”に例えている。

出典:web ronza 『パリで感じる「ゴーン事件」の危うさ』山口昌子(在仏ジャーナリスト)2018年11月25日より

比して大半の日本人は、ローマ史にもシェークスピアにも関心が薄い。私も偶さか観た『クレオパトラ』でおさらいしていなかったらピンと来なかっただろう。むしろ謀反の例えとして日本人が即座にイメージしやすいのは「本能寺の変」であろうか。

逮捕の翌々日、さっそくゴーン氏を織田信長に、西川社長を明智光秀に擬えた、お調子者のジャーナリストをワイドショーで見かけたが、辛口のコメンテーターに「それじゃ三日天下になりますね?」と即座に指摘されていた。その後ゴーン氏の逮捕を「本能寺」に例えた論調はにわかに影を潜めたけれども、かの田中康夫氏が自らのウェブサイト上で、西川社長=明智光秀に見立てて言及していたのを、つい二、三日に見かけた。

Vol.431『日産の株式43%保有ルノーからブーメラン! 「強い憤りを感じる」発言の西川廣人CEO 三日天下の「明智光秀」で終わりそうな悪寒w』

田中康夫YouTube公式チャンネル「だから、言わんこっちゃない!」

ブルトゥスの率いる勢力は、のちにオクタウィアヌスアントニウスにより征伐され(そのアントニウスオクタウィアヌスに倒される)、明智光秀羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れ、小栗栖において落ち武者狩りに遭う。カルロス・ゴーンは代表の座を追われ、ルノー・日産・三菱は当分の間「三頭政治」を余儀なくされる現状である。さあ、西川社長が三社連合の覇権を握るのか?それとも初代ローマ皇帝アウグストゥス豊臣秀吉に匹敵するような傑物が現れるのか?や、状況の推移を見るかぎり、日本の二社から現れる気配はなさそうだが……

鰯 (Sardine) 2018/11/30

 

“Not In My Back Yard” ニンビーの使い方に要注意

港区南青山の児童相談所建設について説明会における反対の声が酷すぎると話題になっている。

www.asahi.com

青山ブランドに「児相の子つらくなる」 建設に住民反発:朝日新聞
周辺住民らの反対で難航している児童相談所などの複合施設「港区子ども家庭総合支援センター」(仮称)の整備について、東京都港区は14、15の両日、説明会を開いた。

南青山ブランドの価値が下がるのは困るという、思いあがった反対意見は確かに噴飯もので、これに批判が集中するのも無理はない。事なかれ主義の糸井重里氏は、

<ぼくは近所の住人ですが反対してる人なんかいませんよ。ヘンなことを言う人ばかり集めて「取材」してるんじゃないの?>

などとうそぶいていたが、週明けのテレビが荒れる説明会の様子を各局とも長々と取り上げたので、たとえ「一部」とはいえ、南青山にも困った住民がいるという事実は全国的に知れ渡る結果となった。

まぁいつもの私なら「怪しからん」と気勢を上げるところだが、ちょっと待てよ、と思い留まったのにはわけがある。辺野古基地建設再開における土砂投入の報道が影に隠れたように思えたからだ。そこで私は月曜の晩、こんなツイートを投稿した。

港区南青山児相建設について、反対する理由は確かに噴飯ものだが、過熱する報道には〈建設反対は住民エゴである〉との意図が含まれているようにも思える。辺野古の新基地建設と混同する言説には警戒すべき。

さらに翌朝、著名な精神科医斎藤環氏がこんな意見を投稿していた。

来年の授業で「NIMBYISMとはなにか」を学生に教えるのに素晴らしい教材。青山NIMBYISMは生涯忘れられない記憶になるでしょう。「必要なのはわかるけどよそでやってくれ」というアレ。地域住民の公共心をはかるモノサシ。

このNIMBYISMの文字面をみて、嫌な記憶が蘇った。私は数年前、ある民事裁判を集中して傍聴した。産廃の処理について地域の大企業と一住民が争っていたのだが、〈家のそばにゴミを捨てないでと反対する訴えは、地域の公益を無視したいわゆる“NIMBY”ではないか?〉との意見や、また〈騒いでいるのは一部の者で大部分の住民は大して問題視していない〉という意見を見聞きした。SLAPP訴訟で大企業から訴えられた)被告の側を支援する立場で裁判をレポートしていた私も「余所者が口を挟むな」と匿名の集団から中傷されたものである。

閑話休題。ともあれ“NIMBY”の語源を確かめてみよう。

NIMBY(ニンビー)とは、英語 “Not In My Back Yard”(我が家の裏には御免)の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉である。日本語では、これらの施設について「忌避施設」「迷惑施設」「嫌悪施設」などと呼称される。/NIMBYによる反対運動は、「施設が建設されると地域や住民に対して環境被害などの損害をもたらす」などと主張し、以下の理由で建設や誘致の反対運動を起こす場合もある。①施設から直接ないし間接的に衛生・環境・騒音などの面や健康上・精神的な被害を受ける。②施設の存在により地域に対するイメージが低下する。③また、それによって不動産の資産価値が下がる。④施設の影響で治安が悪化する。⑤住宅地や学校の近くに建設されると児童の目につきやすくなるため、教育に悪影響を与える。(Wikipediaより抜粋)

さよう、南青山児相建設の件は、斎藤先生が仰る通り、典型的な“NIMBY”である。それに異存はないが、でも、なにか引っかかる。私は週明けのワイドショーで、冷やかな笑みを浮かべた識者が、紛糾する説明会のあとに加えた妙なコメントを思い出していた。

つまり……反対する一部住民の極端な言い分をことさら論うことにより、ホラこれこそがNIMBY(ニンビー= “Not In My Back Yard”)というんだよ、という風潮を醸し出す企みに思える。考えすぎかもしれないけど、昨日も「沖縄の問題もそうだけど」と余計な一言を挿むコメンテータを見かけたんだ。要注意。

さらに、青山児相の話題で辺野古の問題が蔑ろにされている、との意見に、

港区児相の報道、杞憂かもしれませんが、建設を反対する一部住民の極端な言い分をクローズアップすることにより、建設反対=住民エゴの図式を醸成しようとする意図があるように思えてなりません。昨日も、説明会の映像のあとに「沖縄の問題もそうですが〜」と余計なコメントを挿む論者をTVでみました。

と返信の形で念押しした。また、私の他にも、

>「南青山選民思想」、ちょっと注意したいのは、児相の民営化ビジネスとか、立地の不味さとか、他にマトモな反対理由があるのを住民エゴに見せかけようと、故意に選民思想が流されたりする件。以前、保育園反対でそういう世論操作が行われていた。

と警告する方(‪@kinokuniyanet)もいた。

そう、私はマスメディアが「辺野古の反対も地域住民のエゴだ」という印象を与えるのではないか、と危惧したのである。青山児相の問題はスピン(目くらまし)であり「反対運動そのものの無効化」に使われるのではないか、と。

しかし、辺野古新基地建設(註:普天間基地移設とは断じて呼ばせない)反対の声が、かき消されることはない。例えば、ホワイトハウスへの要望書に署名した人の数は既に10万を突破している。

そんな中、

>南青山の児相反対運動と、米軍基地は必要だとしながら沖縄におしつけている日本中の人とはNIMBYで通底している。

というユニークな内容の意見を見た。なるほど、これだと〈南青山在住を特権的に考える人たちの思いあがりは沖縄に基地を押しつける本土の人を象徴している〉と捉えることができる。言葉の扱い方や光の当て方で、〈地域住民のエゴ〉に回収されそうな嫌なムードを、〈いや違う、基地反対は沖縄県民のエゴではない。むしろ沖縄への基地定着を我が事と捉えず、他人事としか感じない大多数の日本国民のエゴこそが“Not In My Back Yard”なのだ〉と撥ね返すことができる。

もちろん予断は許さない。国家権力はあの手この手を使って、沖縄の米軍基地問題を相対化したり矮小化したり鎮静化させようとしたりするだろう。その企てに乗らないことと、権力に追随する識者らの空疎な言説を凌駕する理路を備えることが、今後ますます重要になってくるだろう。

鰯 (Sardine) 2018/12/19

 

すてきなホリデイ

クルマの中でラジオを聴いていたら、パーソナリティの松任谷由実が自曲の「恋人はサンタクロース」をかけた後に、「この歌が流行したことで、クリスマスをシングルで過ごす人たちを悲しませたという、私はいわば、戦犯なわけですが〜」と喋っていて、戦犯とはまた大げさなと思いつつも、私の脳裏を過るのは、山下達郎の「クリスマス・イブ」で、そういや山達「クイーン・オブ・ハイプ・ブルース」という曲で、「あなたじゃ駄目、私と格(クラス)が違う」と、ユーミンの女王様然としたセリフを皮肉っていたなあ、なんてことを思い出していた。

山下達郎という人は日本には珍しいタイプの歌手&作家で、手強い横丁の旦那よろしく頑固でコンサバティヴなスタンスは、ある意味かれの音楽よりも興味深いが、奥方の竹内まりやは、それに輪をかけた鉄壁の強面ぶりで、日曜2時の番組での夫婦の掛け合いを聞いていると、これは達郎氏、頭あがんないだろうなと思わせる、竹内まりや氏の隙のない態度に感心することしきり、の私ではある。

だが、私は竹内まりやの音楽そのものには殆ど関心がない。ピーチパイとか元気を出してとか駅とか、いくつか代表曲を知ってはいるが、ちょっとドメスティック色の強すぎるメロディーがあまり得意でないのだ。さらに、竹内まりやの作品を聞くたびにいつも思うことだが、歌詞の手強さというか、平易ゆえの“あけすけさ”が苦手である。

何というか、彼女の作る歌詞は、深読みができないほど表層的なのだ。その典型例が、往年のアイドル河合奈保子に提供した「けんかをやめて」である。「けんかをやめて、二人をとめて、私のために争わないで」というアレだ。まだ若かった私は初めて聞いたとき、思わず耳を疑った。これは何だ、聞き手を愚弄しているのか?それとも、マジかと戸惑うのだった(広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」も竹内まりや作だった)。

以来、竹内まりやの歌声に遭遇するたび、私は耳にしないようそれとなくやり過ごしていたのだ。が、毎年、年の瀬になると避けて通れない歌が聞こえてくる。フライドチキンのCMでお馴染みの「すてきなホリデイ」である。

このアメリカンスタンダード的な曲調は、かなり好きなんである。よく出来た、などという冷めた感想は言いたくない。この夢心地な音楽に浸りたいと思うほど。だが歌詞がダメなんだ。私にはやはり飲みこみ難い。

新たに書き起こすのも面倒なんで、昨年某所に投稿した感想を並べてみよう。

①れいの、ニワトリさんが恐怖する竹内まりやのクリスマスソングを二度ほどちまたで耳にした。しかし、あの歌に限らず、常套句が満載の割り切りのよい歌詞には毎度のことながら感心する(ほめてない)。広瀬香美といい勝負だ。

②歌詞の全部を載せるわけにはいかないから、気になった行だけ抜き書き。

すやすやと眠る子供達の手に

かじかんだ指をママが温める

嬉しさを隠せない犬や猫まで

穏やかな毎日が続くぜいたく」

と、書き起こしてみると書割感がものすごい。とりわけ空虚なのが次の行。

いつもより優しそうなパパの目が笑ってる

優しそう。ぜんぶ絵空事なんだ……

③ けど、こういう揚げ足取りもまた空虚なものだ。「元気を出して」とか「勇気をください」とか「感動をありがとう」とかにアイロニーしか感じなくなって久しいが、「頑張ろうね」としか言いようのないシチュエーションだってあるんだから。歌詞にケチをつけるのはほどほどにしないと、自分の首を絞めてしまう。

さて、「クリスマスが今年もやってきた」。

④しかし、あゝ今年も聞いてしまった(歌い手のダンナさんが自分のラジオ番組でラストにかけていたのです)。

嬉しさを隠せない犬や猫まで」の箇所で、「ンなワケないだろ!」と突っこんじゃうのも毎度の年末である。

まっ、この年齢になると、赤くラッピングされたプレゼントも丸いケーキも七面鳥がわりのチキンも無縁ではあるが、クリスマスソング自体はそれほど嫌いではない。誰かが、<日本人はこの季節、去年のクリスマスにこっぴどく振られた歌と、クリスマスだってのにベトナム爆撃していることを嘆く歌(鰯:ジョンとヨーコ“ War is over”のことだろうか?)ばかり聴いて気が滅入らないのだろうか。いつも疑問>とつぶやいていたけど、そうかなあ? ザ・ポーグスの「ニューヨークの夢」なんか、今年は二度も聞いたよ。

と、カッコよく終わろうと思ったが。

どうも私、〽︎クーリスマスがこっとっしっもやーってくるぅ、と事あるごと何気に口ずさんでいるらしい。パートナーからからかわれました、「ホントはその歌、好きなんじゃないの?」って。……ん、かもしれないね。🎉  鰯(Sardine) 2018/12/21