『=7』は福岡史朗、7枚めのアルバムである。
福岡の音楽の虜になってから早幾年、彼の驚異的な創作意欲はとどまることを知らない。2020年も収穫の季節に二枚組が届けられた。あいかわらず装丁がすばらしい。見開きの紙ジャケット。
福岡史朗 @fukuokashirou の最新アルバム『=7』ただいま到着。
— 岩下 啓亮 (@iwashi_dokuhaku) 2020年11月21日
いつも感心するが、今回も紙ジャケットのデザインがすばらしい。 pic.twitter.com/SdcUEJPUyW
などとツイートしてから早くも一ヶ月余が経ってしまった。誰が待っているわけでもないのに、気ばかりが急いて、そうこうしているうちに年末は過ぎ、正月を迎えた。ばくは宿題を片づけられない子どもみたいに、悶々とした日々を過ごしていた。
感想を書くのに、これほど手こずることは滅多にない。ぼくにとって『=7』は手ごわい作品だ。今までの福岡史朗のどれよりも身体に浸透するのに時間がかかった。や、誤解しないでほしい。本作が聞きにくいとかつまらないとかではない。その逆で、これほど愉しくなる音楽は滅多にないと先に断言しておく。ただし、音楽のたたずまいに馴染むには少々時間を要する。ぼくの場合、福岡史朗独特のナラティヴ、すなわち語り口に慣れる必要があった。その理由はおいおい述べる。
二枚組『=7』と、今まで福岡が発表してきた諸作との違いは、今回、彼がほとんど全部のパートをみずからの手で演奏しているという点だ。とくにA面ならぬA diskは、ゲストなしの完全な一人多重録音である。
これは、新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため戒厳令下みたいになった本邦の状況でやむなく、の側面もあるだろう。が、あんがい一遍は全パートを自分一人で演ってみたくなったという単純な理由かもしれない。
一方のB diskはゲストにギタリストの青山陽一と鍵盤奏者のライオンメリーが数曲に招かれている。けれども、基本的にはやはりセルフレコーディングである。ちなみにAは31分40秒、Bは35分11秒。合計しても一枚に収めることが可能な時間だが、あえて二枚に分けているのだろう。
Recorded at Ginjin Studio/Mixed by 福岡史朗
Mastered by 高橋健太郎
Pictured by 伊波二郎
Designed by 真木孝輔
【まずはA diskを聴いてみよう】
01.遠くから
02.=7
03.カフカ
04.今夜
05.闇が溶けて行く
06.通り雨
07.マグカップ
08.ジグザグ轍
09.相槌
10.造花
11.ロータリー
All songs written by 福岡史朗
Vo/Cho/E.G /A.G/G.G/Ba/Dr/Conga/Tabla/Per/Pf./Syn/Rhodes/Pianet.T/Banj/F.Mand/VI
by 福岡史朗
ジョン・サイモンの『ジャーニー』を思わせるしゃれた和音ではじまる(なお、今回は「◯◯みたいな~」を全面解禁する。そのほうが読む人のとっかかりになると思うから)。その温かいギターの音色に乗せて、福岡はいつもより心なしかていねいに、ダブルトラック(一人二重唱)で歌いだす。「遠くからやって来るものを想像してごらん」と、面と向かって語りかけられているようだ。
歌の旋律に対位するベースラインの向こうに、カチカチと鳴る音がかすかに聞こえてくる。メトロノーム? 違うかもしれないが、メトロノームの振り子の往復が目に浮かぶ。
そういえば福岡は、多重録音で音を重ねるときに何をテンポの基準にしているのだろうか。クリックじゃないような気がする。ひょっとしたら、自分の弾いたギターなりピアノなりに合わせているんじゃないか。どうもそんな気がする。
あれこれ考えているうち、ゴツゴツしたピアノが新たなテーマを提示する。サンダークラップニューマンみたいな音色で、なにかが空に潜んでいることを報せる。気がつけば、いつの間にかタイトル曲の「=7」に突入している。福岡は「ふたつを足せば7になるだとさ」とヒントを与える。それが何の暗示だか、考えを促すように。不穏なビートが奥の方で鳴っている。ずっしり、重い。そのリズムが解け、ドラムスがとっ散らかったオカズを叩きだす。収拾がつかなくなったかと思いきや、えっちらもっちらと次なる主題が混沌のなかから浮かびあがる。
ここにいたって、聞き手のぼくはようやく福岡の構想に気づく。これひょっとしたら全部つながってんじゃないか、と。簡単にいえばメドレー、大仰にいえば組曲、例えれば『アビーロード』のB面。3分前後の短い楽曲が、間断なくくり出される形式。福岡は「睡眠導入剤よろしくカフカは飾り」とうそぶくけれども、モータウンみたいに愉快なリフレインのうえに「高利貸し(氷菓子)みたいな詩人が殺しにきます」なんて物騒なラインを挿みこむ。詞が何をほのめかしているのか、正確なところは掴めないが、聴きながら思いめぐらす、この心理状態は悪くない。ルー・リードはかつて自分のアルバムを「本を読むように聞いてほしい」と注文したが、そういえば『=7』も、二枚組のヴォリュームとは裏腹に、良質な短編小説集の趣がある。
さて、お次は福岡お得意の軽快なロックンロールだけども、快速ですっ飛ばすというより、いまいちエンジンのかかりが悪い。理由は彼の叩くビートが重たいせいだ。大久保由希の不参加を思う。各アルバムでドラムスを担い、前作『+300gram』ではベースを弾いていた。彼女が各パートのあわいを巧く接着していたからアンサンブルが安定していた。多重録音の宿命かもしれないが、今回は継ぎ接ぎが目立つ。いや待て、これもまた福岡の企図かもしれない。
その証拠にホラ、固まってしまったはずの深い夜の闇は、ラジオから君の歌声が流れたとたん、「夜が明けて道が開け雨が上が」ったみたいに溶けていくのだ。なんだ軽いビートも叩けるじゃん。ばくは安堵する。となれば、後退り気味のドラムは、ディアンジェロがヴードゥーでクエストラヴに要求したモタりと同種のものなのかもしれない。ともあれ、福岡は独りでもバンドをドライヴできるのだ。
その独力アンサンブルの極みが「通り雨」で、ここで福岡はなんとヴァイオリンに挑んでいる。それは試みたというよりも、楽器は音を奏でるための道具なんだから鳴らせないはずはないさ、という確信があっての演奏だと思う。決して巧いとはいえないが、田園の雰囲気をみごとに描きだしている。ビートルズは「できないってどういう意味だい? なんだってできるさ」とスタジオのスタッフを説きふせていたそうだが、それは不遜や驕りではなく、やってみようじゃないかという意欲の表れであろう。その姿勢を福岡は受け継いでいる。
にしても「通り雨」は辺鄙な道筋をたどる。主音(キー)がCとして、「虫の時雨か通り雨」の箇所に差しかかると、いきなりE→A→Cと寄り道してGにいたる。わりとありふれたコード進行だのに、なんだか響きがヘン。9thやmaj7を絡めたシの持続音で連結したところへkinkyな歌メロを強引にねじこんでくるあたりが、耳を引っ張られる要因ではないか。
続く「マグカップ」にも同じことがいえる。ロールオフを交えた重厚なリズムは、後期XTCを彷彿とさせる。伏せたマグカップや失った鍵といった近景から、窓越しに舞うつがいの蝶が「まだらな雲に紛れ」て遠景へとフォーカスが移る。まーだーらーなーの長音で外側までぶわっと運ばれる感じがたまらない。こういう情景描写の奥に心理のうごめきが反映されている音楽はきわめて稀だ。私的なようで、そのじつ叙事詩のような、ニール・ヤングの「ドント・レット・イット・ブリング・ユー・ダウン」にも似た果てしなさがある。
かと思えば、シリアスの直後に田舎のでこぼこ道を思わす、牧歌的な「ジグザグ轍」を次に切り出すあたりが一筋縄ではいかないところで、それでも、末尾の「やあ!」が“Ouch !”に聞こえたりすると嬉しくなって頬が緩んでしまう。4曲めの「今夜ぁ」もそうだけど、つい口ぶりを真似たくなる。やつは不思議なエロキューションの持ち主だ。
それに、福岡の操るシンセサイザーも個性的だ。彼はいわゆるストリングスやブラス等の立派そうな音色を使わない。ひゅるひゅる鳴る剽軽な音色や、みゅーんと唸るむず痒い音色を選ぶ。あえて例えれば、サン・ラや初期のブライアン・イーノに通じるが、ありきたりな音色は使わんからねという強い意思を感じる。アウトロ(後奏)の逸脱はやや度を過ぎているようにも思えるが、それはたぶんローラ・ニーロいうところの「音楽は真剣な遊び場」的なココロなんだろう。
間髪いれず、カッコいいフィルインが斬りこみ、ソリッドな「相槌」が始まる。シングルカットするならコレだな、とぼくは独りごちる。ロビー・ロバートソンみたいにパキパキしたギターソロもいかしているけど、「ためたクーポンや無闇に浮かれた週末になりたくないと」の一行が、鮮やかにこんにちの状況をカットアップしているではないか。
それがポピュラーに属するかぎり、音楽は社会とのかかわりを免れない。なにも激しい口吻で現実ありのままを撃つ必要はないが、未だ本邦にあふれる明日は晴れるや今がんばろう式の励ましソングには具体的な事柄が何にも示されていない。ただ空虚に聞き手を応援するだけだ。福岡の歌はそれらと一線を画する。スマートに、しかし確実に、数多ある社会問題を照射する。
呑気に聞こえる「造花」にも、それは言えることで、偽物が耳障りのいい言葉を囁く、フェイクに塗れた世の実相を容赦なく暴きだす。朴訥に聞こえるピアノの間奏にしても、誰もいないと思っていても何処かでエンジェルが監視しているような、不吉な響きを醸しだす。この緊張感はなんだろう。ぼくは最初このメドレーを『アビーロード』に例えたが、切実さはむしろデヴィッド・ボウイ『ロウ』のA面に近い。そしてその緊張を裏づけるものは、福岡史朗の歌唱力。今回もっとも向上が著しいのは、歌声そのものの強靭さ、伸びやかさだと思う。
半音あがってブリッジという技アリの後、最終曲の「ロータリー」がさりげなくはじまる。60年代カレッジフォークみたいに素直な曲調だが、歌詞には苦い悔恨が滲んでいる。かの「青空」を引きあいにだすまでもなく、バスは移動と希望の象徴だ。が、今やバビロン行きのバス停は、行き場をなくした孤独を抱えた人が佇む場所になった。それに運転手さんはもはや簡単にぼくたちを乗せてくれない。
待ちわびた風が吹きロータリーにバスが流れ着く
きっと飛び乗れば違う世界に行けるでもまあ止めよう
ギターを担いで全国のライブハウスをめぐる、痩せっぽちな後ろ姿を想像する。コロナ禍の今、ミュージシャンは音楽活動を事実上封じられている。人前で演奏できないディレンマを抱えて日々を過ごす彼・彼女らの心情を思うとせつない。けれども、歌はどんな形でもいいから人から人へと伝達されなければいけない。福岡は“GoTo”の掛け声には「乗らない」意思を示した。が、漂泊の魂をのせた現代の吟遊詩人が歌う歌を、ぼくは待望している。バスに乗り遅れたっていい、その時まで、このアルバムを聴き続けよう。
【次いでB diskを聴いてみよう】
01.弦
02.ブルーバードブルー
03.木霊
04.タブタップ
05.ジョーニーの小部屋
06.欺瞞の渦
07.ジャズ
08.君が出て行く
09.動きだす音楽
10.記憶のムード
11.空
All songs written by 福岡史朗
except song 01 with 青山陽一
Vo/Cho/E.G /A.G/G.G/Ba/Dr/Conga/Per/Pf./Syn/Rhodes/F.Mand 福岡史朗
E.G (song 01.02.03.04.05.06.07.09.10) by 青山陽一
Pf./Rhodes (song 03.04.06.09) by ライオンメリー
2枚めに収められたナンバーは、スポンテニアスな即興が重視されたものだ。とはいえ、形式を逸脱してはおらず、先ず土台となるリフレインがあって、そこへ自由な発想をトッピングするスタイルだ。
動機となるは旧くからの伝統的なリフレインが大半だが、紛いものの気配は微塵もない。それはパガニーニの主題を用いて作曲したリストやラフマニノフのような再構築という名の創造であるから。サンシャイン・ラヴみたいなリフやディグ・ア・ポニーみたいなワルツは、着想を推し進めるきっかけに過ぎない。
間を活かすに達者な福岡のギタープレイの間隙を縫うように、ゲストの青山陽一は粘っこいフレーズをくり出すが、この対照的なスタイルは狙ってのものだろう。さっぱりしたそばつゆに胡麻油を垂らしたようなチョーキングが、コシのある楽曲に旨味を加える。
ライオンメリーの弾くローズピアノも同じく、福岡の明快な音像に曖昧模糊とした要素を加え、楽曲に奥行と陰陽を与える。いったい何をどのように弾いているかは杳として掴めないが、あるとないとでは印象もがらりと変わるだろう(例外として「動きだす音楽」の華麗なピアノソロにはラテンフレーヴァーがかすかに漂う)。
しかし、単純なようで複雑な編曲だ。モチーフのリフレインに違う要素が次々と絡みあう。シンセサイザーが奇妙なフレーズを織り重ねる。古典的な様式に思えても意匠は新しく、ノスタルジアには陥らない。ちゃんと2020年製の音響になっている。
最初ぼくは、クリック(電子音による規則的な拍子ガイド)を用いていないのでは、と疑った。その推測をすすめると、どうしても福岡の設けた録音プロセスにおける独自ルールに気づかざるをえない。
例えば福岡は、リバーブ(ここでは残響を加味するエフェクトを指す)を殆ど使わない。とくに歌声には絶対に使わない。彼の歌声はいつもドライなままだ。生々しく、エッジが際立っている。ユニゾンで歌うと特有の倍音が発生する。それは初めて「たまさかの町」のコーダ部を聞いたときにも感じたことだが、彼には独特の“音程”がある。容易に混じらない、埋もれない声質。だがそれゆえに、ややアウトofキーに聞こえることもある。そのファンキーさに親しむのに、一般の耳には少し時間がかかるかもしれない(でも、慣れるとクセになる声だ。わがパートナーは「タブタップタップダンス、タブタップタップダンス」と呪文みたいなリフレインを何気なしに口ずさんでいる)。
同じことは楽器の調律にもいえる。福岡は電子チューナーを使わないのではないか。先の「通り雨」で感じたことだが、彼のアンサンブルは時として古楽器のそれに似通った響きがある。それは平均率とオートチューンに馴らされた耳には違和と感じるけれども、その響きを調和と認識すれば、好き嫌いの位相もたちまち逆転するのだ。
この唯一無二の音楽を、もっと多くの人に知らせたい。だからぼくは、自分が面白く感じたことをこうやって書きつらねている。オッケーそいつがロックンロールさ、理屈も解説も不要だぜと構えてみたってなにも始まらない。ぼくみたいな素人さんは微に入り細を穿つことでしか対象に近づけない。福岡が生来的に備え持つファンクネス。それがどういう意味だかを解こうとするのが、僭越かもしれんが、ファンのつとめだと思うから。
福岡の音程について、語るべき事柄はまだまだたくさんある。たとえば第3音の歌い分けについて。主音がドのとき、ミの音が乗っかったりぶら下がったりするけれども、彼はその峻別を誤らない。計ったみたいに正確で、しかも規則性がある。それ本人はどこまで意識して歌っているんだろう。
また、タイトルの『=7』にも通じることかもしれないが、福岡のたどる旋律は、ことごとく7thを経由し、それどころか7thを単なる経過音とせず、♭(フラット)そのものを強調し、メロディーの核に据えることが頻繁だ。が、そういった傾向をどれほど自覚しているんだろう。
ぼくはそれらの疑問を訊ねてみたい。それがブルースさ、ブルーノート・スケールというんだよと教えてくれなくてもいい。「ジャズ」というナンバーには、ミュージシャン特有の自己韜晦が感じられる。それは風刺かも知れないし弁解かもしれない。が、分かるやつだけに分かってもらえればいいという、表現者にありがちな思い上がりとは無縁であってほしいし、かかる疑問にたいする回答は、ぜひ次の作品に結実してもらいたい。
えらそうなことを書いてしまったが、これも福岡が音楽に誠実であるからこその注文なんだ。彼の作る人工的な夾雑物のない、オーガニックな楽曲は他に類をみないものだから、なるだけ自力でまかなうD.I.Yの信条を堅持しつつの、さらなる活躍を心から願っている。
追記:<彼の作る人工的な夾雑物のない、オーガニックな楽曲>の部分について。福岡はレコーディングにあたって、ProToolsに代表される音楽制作ソフトウェアを使っていないのではないか。ひょっとしたらリズムマシーンさえ使っていない可能性がある。少なくともぼくの耳に聞こえる演奏は全パートが手弾きで、自動演奏の気配がまったく感じられない。ローテック志向はテクノロジーを拒否する偏屈さゆえにではなく、彼がみずからに課したルールなのだと考えたい。これは今回の『=7』のみならず、彼がソロになってからの諸作に共通していることだ。なぜ人力にこだわるかって? それはたぶん、生演奏のほうが弾いても聴いてもおもしろいから、じゃないかな。
ラストの「空」は、チターを模したシンセサイザーの音色やMajer7thの平行和音が、ちょっとラングレンを思わせる、浮遊感ただようナンバーだ。こういうメランコリックなバラードをさらりと書きあげてしまう福岡史朗の才覚を、ぼくは微塵も疑っていない。
【公式インフォメーション】
【過去記事(初出より順に)】
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