鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2018年8月のMedium

火消しではないと思うが……

楊井人文氏の報道検証記事、2つとも読んだけども、読売新聞がトーンダウンしたこと、情報リーク先の意図などの、さまざまな要素を考慮しても、現役男性受験者に有利な選考が行われたという疑いが依然として残っている。「三浪以下の男子に加点」が事実ならば尚更、訂正を打ったから一件落着、とはいかない。

しかも今回の報道で、日本の抱える問題(社会における女性の地位の低さ、男性優位の思考が内面化している等)が副次的に明るみになった以上、官邸&検察の意向だからとか誤報の可能性があるからとかの理由で追及するのを手加減してはならない。また、一面トップで報じた責任上、さらなる検証記事を読売は続けるべきだと思う。

さらに、みずからの裡深くにも「検証」の錐が下ろされなくてはならない。日常生活において、性差による不均衡を薄々知りながらも容認していたことを省みなければ「解」は見つからない。「私」を問題の埒外に置いてはならないのだ。

写真は東京医大の入試における「女性受験者の一律減点」を報じた外電の数々である。

The photograph is a number of overseas newspapers reporting “uniform reduction points only for female examinees” in the entrance examination of Tokyo Medical University.

はっきりカタをつけてよ。 鰯 (Sardine) 2018/08/06

 

【追記】

その後、この元記者による検証自体に、疑義が多く寄せられている。

さまさまな意見を一つに要約すると、

“gohoo”の楊井人文氏に関しては、現役新聞記者や元新聞記者がちゃんと反論した方がいいと思う。いつの間にか日本におけるファクトチェックの専門家としてふるまっている。誤報検証機構を検証する機構、が必要だ。1年かそこらの記者経験でインサイダーとして売り出した設定に無理があるから、時間を追って修正していく記事を「誤報だ」と騒ぐ必要にかられる。せっかく始まった「フェイクニュースへの批判や検証」を「フェイクニュース」レベルに落とし、私物化している。

異議ナシ、としかいいようがない。(8/11追記)

 

NHKの忖度原稿を添削してみた。

安倍首相 総裁選3選に向け立候補に強い意欲 | NHKニュース
安倍総理大臣は、山口県長門市にある父親の安倍晋太郎外務大臣の墓参りをしたあと、来月の自民党総裁選挙への対応について...
www3.nhk.or.jp(元記事は削除されています)

まず元テキストをまるっと引用しよう。

11日から地元、山口県を訪れている安倍総理大臣は、12日午前、昭恵夫人らとともに、長門市にある父親の安倍晋太郎外務大臣の墓を訪れ、線香を手向け静かに手を合わせました。/このあと安倍総理大臣は、地元の支援者らを前にあいさつし、自民党総裁選挙への対応について、「この6年間、国民のため、そして日本国のために全力を尽くしてきたが、この夏、しっかりと考え抜きながら、さらに重責を担っていくという判断をしていきたい」と述べ、3選に向けて立候補に強い意欲を示しました。/これに先立って安倍総理大臣は、海に向かって123基の朱色の鳥居が並び、去年1年間の観光客数が100万人を超えた長門市の人気スポット、元乃隅稲成神社を参拝し、観光客との記念撮影に応じていました。

冗長でしょ? ひどい原稿だ。こんなのを読まされるアナウンサーもかわいそうだけど、放送を聞かされるこっちの身にもなってみろよ、と思う(声に出して読んでみたまえ、恥ずかしくなること請け合いだから)。

拙い箇所を指摘および添削してみよう。

11日から地元、山口県を訪れている安倍総理大臣は、12日午前、昭恵夫人らとともに、長門市にある父親の安倍晋太郎外務大臣の墓を訪れ、線香を手向け静かに手を合わせました。

説明と修飾が多すぎないか?

拙い表現;

  1. 地元、山口県の「地元」は不要。
  2. 昭恵夫人らとともに、もトル。
  3. 長門市にある父親、も説明過多。
  4. 線香を手向け静かに手を合わせました。→「静かに」は余計。

添削例;

安倍首相は12日午前、家族を伴い、長門市にて父・安倍晋太郎氏の墓参りをしました。

このあと安倍総理大臣は、地元の支援者ら(中略)に「この6年間、国民のため、そして日本国のために全力を尽くしてきたが、この夏、しっかりと考え抜きながら、さらに重責を担っていくという判断をしていきたい」と述べ、3選に向けて立候補に強い意欲を示しました。

「」内は安倍首相の喋りが挿入される。彼の言葉の空虚さがお分かりだろうか。具体的な内容がないから添削できない。

これに先立って安倍総理大臣は、海に向かって123基の朱色の鳥居が並び、去年1年間の観光客数が100万人を超えた長門市の人気スポット、元乃隅稲成神社を参拝し、観光客との記念撮影に応じていました。

ね、要らん情報つめこみ過ぎだろ?

このニュースをラジオで聞いていて、私は頭が痛くなったよ。

余計な装飾;

  1. これに先立って、をトル。
  2. <海に向かって123基の朱色の鳥居が並び、去年1年間の観光客数が100万人を超えた長門市の人気スポット、元乃隅稲成神社>云々の過剰な説明も省く。

添削例;

また、安倍首相は長門市の元乃隅稲成神社を参拝し、観光客との記念撮影に応じていました。

こんな忖度だらけのニュースに、のべつ幕なしさらされていたら、そりゃあ国民は洗脳されるわ。でもNHKは官報じゃなく公共放送なんだから、少しはわきまえてもらわないと。

安倍首相は12日午前、家族を伴い、長門市にて父・安倍晋太郎氏の墓参りをしました。/このあと首相は、地元の支援者らに自民党総裁選の3選に向けて立候補に強い意欲を示しました。/また、首相は長門市の元乃隅稲成神社を参拝し、観光客との記念撮影に応じていました。

ほらスッキリした。煎じ詰めればこれでじゅうぶんだ。鰯 (Sardine) 2018/08/12

 

【追記】

けど、年末になってもNHKの報道姿勢は変わらない。むしろ悪化する一方である。2018/12/22

安倍首相 報道写真展鑑賞し1年振り返る 東京 NHKニュース
安倍総理大臣は22日午後、東京・中央区で開かれている「報道写真展」の会場を訪れ、(中略)そして、安倍総理大臣は、(中略)このあと、安倍総理大臣は記者団に対し、(中略)ことし1年を振り返っていました。

そして2018/12/25、日経平均株価は下落、20,000円を割って19,000円台に突入したが、アベノミクスの失敗を指摘するマスコミは、ほぼ皆無に等しい。

 

デッサン

文章の手つきが気にくわないと言われたことがある。いまだに根に持っているくらいだから、当時その講評に相当こたえたんだと思う。

私は文章を書くのが得意ではない。巧くなりたいと思うけれども一向に上達しない。「てにをは」が正しいか、句読点の配置はどうか、文意は通っているかの三点は必ず確認するけれど、自分で読み返してみると、あゝヘタだなあ、言葉に遊びが少ないなあと自己嫌悪に陥るのである。

文章の巧い人は二、三行で全部を語る。説明という余計な枝葉なしに核心のみを書いて事足りてしまう。そういう達筆をいくら拝んでみても手前の筆は良くならない。写経よろしく好きな文を丸写ししてみるのも手だが、写した先の猿真似になる危険性もある。自分なりの書法を会得するにはどうしたら良いのだろう。

藤堂高行という美術の研究者が、先日こんなことをTwitterに書いていた。

デッサン(素描)というのは上手い絵の描き方・方法論を学ぶためにやるんではないんです。いかに自分の眼に見えてるつもりのものが実際には見えてないかを自覚するためにやるんです。あれを繰り返すと、言語的把握に圧縮される前の視覚のRawデータを意識するようになる(把握できるになるとは言わない)。

次いで藤堂先生は十代からデッサンを学べる画塾が少なくなっていることを憂いておられたが、これらを読んで私は思わず唸った。「デッサンする意味」がストンと腑に落ちたのである。それまで私はデッサンを絵が上達するための修行のようなものだと思っていたし、筆の運びが巧みになるための(ピアノの練習に例えれば)ハノンのようなものだと勘違いしていたが、そうじゃないのだ。

デッサンは、「自分の眼に見えているものが、実際にはいかに見えていないかを自覚するためにする」ものなのである。

なるほどねえ……(なんでも相手がいる場合の「なるほど」は失礼らしいが、この際そんな駄法螺は無視だ無視)だから私の文章は良くならないんだ。なまじパソコンやスマフォでスラスラ書けるから、いかに対象が見えていないかを自覚していないんだ。その錯誤がようやく分かった。

手書きだと、否応なしに自覚するのだろう。が、情けないことに私は悪筆で、しかも手紙やら公宛の文書やら、慣れない手書きを書く際にゃ手が震え字が捩れる始末だ。今さら手書きには戻れない。

しかし、筆致とか筆づかいというようにキーで打った文章にも書き手の筆の運びは表れる。ならば文章のデッサンに勤むが一番だ。苦手を克服するではなく、苦手が何処にあるやを自覚することだ。

白状すると、私は情景描写が苦手だ。視覚的なイメージを書き表すことが億劫なのである。上の写真を描写すれば、

夕空を見上げてみれば、細く長い雲が、あかね色に染まっていた。

みたいに凡庸な表現になる。あかね色などという常套句でお茶を濁してしまう。でも、過剰な修飾や余計な説明はもっときらいだ。

三年坂から下通へ下りていく途中、アーケードの屋根の上に狭い空がのぞいた。色あせたような青を背景に、絹を引き裂いたような一筋の雲が、夕陽の朱い色に染まりながら、薄情そうにたなびいていた。

なんてね。恥ずかしいじゃないの、野暮だなって自分でも思うよ。

だけど、こういうデッサンを、厭わずに繰り返そうと思う。確かに私は巧くないし、引き出しも多くない。が、その悪戦苦闘をすることで、自分の得手不得手が見えてくるような気がする。

さらには見えていない欠点を回避したり利用したりもできるようになるかもしれない。いやいや、その雑念を頭から除外せねば。それから……(以下、悶々と続くので割愛)。

先ずは、<言語的把握に圧縮される前の視覚のRawデータを意識>してみよう。

文章を書くとは、言語的把握に圧縮する作業に他ならないから。 鰯 (Sardine) 2018/08/28