ずいぶん長く更新をサボってましたにゃあ。
思いかえすと、インターネットに文字を書き散らすようになってから7年が経過していた。始めたのは2010年11月、mixi、それからTwitterの順番だ。はてなブログで『鰯の独白』を開始したのは2013年12月である。
それから、書きはじめる前の頃のことを、いろいろと回想していた。
ネット上を回遊しながら、いろんなブログを訪問したものだ。いずれブログをはじめるつもりでいたから、参考にしようと思って。「内田樹の研究室」から「きっこの日記」まで有名どころには足しげく通ったし、白状すれば「世に倦む日日」や「chikirinの日記」もよく読んだ(この2アカウントからは後にTwitterでブロックされる)。ブログに適した文体とは何だろう、が当初の課題だった。「村野瀬玲奈の秘書課広報室」みたいに、内容は濃くても読むのにツラいページはあるものだ。ヨニウムは内容に偏りがあったけど、アジテーション的な煽りの文が一気呵成に読ませるコツだろうと思った。残念ながらブログのブームは既にピークを過ぎており、TwitterやFacebookといったSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)がそれにとって代わる。2010年は端境期だった。
けれども、読む専門だった時分に通ったブログのことはよく覚えている。たとえば先日、ひょんなことから名前の挙がった「世川公介放浪日記」なんか、ぼくは小沢びいき(で、しかも文学志向)だったから、たまさか目にしていた。あの湿った文体で書かれた赤裸々な話を深夜に読むと、どこまでも堕落してゆくような奇妙な感覚に陥ったものだ。あるいはまた、その頃は言論プラットホームとして機能していた『The Journal』にも頻繁に訪問していた。ぼくは政治評論家やジャーナリストのご高説よりも、その下に投稿された膨大な数のコメントを読むのが好きだった。後にその中の何人かとはTwitterで知りあうことになる。
テサロミケ(旧名)さんがぼくに質した記事のことも、うん、もちろん鮮明に覚えている。
🔗 ダブル辞任はどちらが仕掛けたのか? ── それはともかく、さあ、菅政権! (News Spiral) 註:2010年6月12日
これを読んで憤りに震えがきたほどにね。結局、ぼくにとってこの記事は、主筆である高野孟の意図とは真逆の効果となった。すなわちそれは菅総理・仙谷官房長官コンビに対する不信であり、ひいては彼らの直系・枝野幸男への疑念にもつながるものだった。
なるほど7年間が経過するうちに政治の状況は大きく変わったし、枝野氏も昔の彼のままではないだろう。だからぼくは、立憲民主党の鮮やかすぎる躍進を冷ややかに眺めながらも批難はしなかったし、これからも感情的な批判は慎む心算である。
第一ぼくは小沢一郎が代表の自由党の支持者であるから民進党の行く末を案じる義理はない。それでも野党第一党が立憲民主党と希望の党と無所属に分割された現状を黙視するには忍びない。ちなみにぼくの理想に近い政策を打ち出すのはむしろ社民党で、毎日えらぼーと(選ぶ+vote)のアンケートを試すと決まってそういう結果になる。けれども社民党に期するところはほとんどない。政治にはダイナミズムが必要だと思うから、政権交代を旗印に掲げ、山本太郎や森ゆうこを擁す自由党を、ぼくは今後も支持する。
それにしても7年とは短くない年月だ。ぼくもいつのまにかTwitterではベテランと呼ばれる部類に入った。こうも長くやっていると、いろんな経験をする。先日もここに掲げた3枚の写真を「今日の外猫たち」と題して投稿したところ「イワシさん外猫を飼っているなんて見損なったな」という空リプがタイムラインに流れた。あわてて調べてみると、外猫というのは「外で飼っている猫」を意味するらしい。どうやらぼくは、餌づけしていると誤解されたようだ。が、後の祭りである。正確に「今日出会った野良猫たち」と題すべきだった。
そのように、速さが身上のTwitterには、じつにさまざまな思いが交錯する。まるでスクランブル交差点を眺めているようなものだ。大勢の人が、好き勝手に気ままにさえずっているのだから、まともに見つめ続けていると精神衛生上ひじょうによくない。
ところで先般こんな記事を見かけた。
🔗 この選挙で、ネット右翼は終わり新たに「ネット左翼」が生まれた(古谷 経衡,辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
記事は前・後編に分かれており、後編で古谷氏が安倍晋三を「日本経済を立て直した中興の祖」と位置づけるあたり、日本型リベラル左派を自認するぼくとしては、とうてい承服できかねる内容ではあったが、それでも、記事が指摘する「ネット左翼」の台頭は、ぼくも昨今うすうす感じていたことで、頷かざるを得ない部分が多々あった。
影響力のある人が「これは敵だ」と指し示すと、ワッと群がる。行動様式が、ネット右翼と非常に似てきている。(辻田真佐憲)
指摘に思い当たるふしがあった。この記事を紹介した方も<今回の衆院選での一部のリベラル系の人たちのネット上でのふるまいはひどかった>と述べていた。同感である。と同時に、3年前に激しく反撥したはずの、モーリー・ロバートソン氏の冷ややかなツイートが、ぼくの脳裏を過った。
これを言うと誤解する人も多いかもしれないのですが、左のアジテーションを間に受け、いても立ってもいられなくなる人も、日本を外敵や内なる裏切者から防衛しなければと勇んでいる人も、どちらも円軌道に乗っていて、最終的には強い独裁的な指導者を待望するところで出会う気がしています。(モーリー・ロバートソン2014年のツイート、傍線岩下)
これを否定できなくなっている自分と、今現在の状況がある。
誰がどんな発言をしたか、いちいち取りざたするまい。架空設定ではないから実名を挙げるのも可能だが、具体例を列挙しだしたら最後、泥沼化しそうだから。けれどもぼくは、彼らがどのような口調で難詰したかをはっきりと覚えている。それは批判の域を遥かに超えていた。そして彼らはそれを恥じたり、間違っていたと省みたりはしない。訂正することもなかろう。学者が作家がジャーナリストが挙って、市民の声を代弁した態で指弾する。そのターゲットは政権与党ではなく、同じ野党である。政策がほとんど違わない野党候補者を「裏切り者」と「謝罪すべし」と「万死に値する」と罵倒する。識者と目されるアカウントが揃いも揃って!
群雄割拠でも構わないんだ。それぞれの理念や信条を曲げる必要もない。ただ、連帯を断ち切ってしまうのはマズい。常に連携できるように、相互の連絡を怠らないことだ。でないと、いざとなった時に力を結集できなくなる。純化と差別化にばかりかまけていると、ここぞの賭けどきを見誤ってしまうだろう。(岩下・10月24日)
この誓いにうそ偽りはない。が、
先にリンクした高野孟の記事を思いだす。彼は「シリウス」の存在を、隠すでもなく誇らしげに語っていた。ひょっとして、その体質は当時のまま変わっていないのではないか? ぼくは懸念をどうしても払しょくできない。奇しくも件の政策集団と同名のアカウントが戯言をほざいていた、<これで立憲中心の「きれいな」野党を再編できるかも>と。
Sigh……
反撥や復讐心からは、なにも生まれない。ぼくは先日、自由党支持者を「政権交代病」だと揶揄する意見について、ネット上の同志にこう呼びかけた。
①「『政権交代』病」発言について:確かに噴飯ものの暴論だけど、該当アカウントへいっせいのせーで反論メンション飛ばすと「これだからオザシンは」などと嘲りの材料にされます。異論狩り集団か?と目されるのも上手くない。言いたいヤツにゃ好きに言わせとけ。「そんな貴方も守りたい(by太郎)」精神で臨もう。
②嘲笑のネタを探している輩に燃料投下してやる必要はないですよ。政権交代とは数合わせではなく目的のための手段であることを彼らが否応なく理解する日が早晩来ます。国会審議で野党の質問時間を減らそうと目論む与党の動きを見れば尚更、確かな野党なんて呑気なお題目を唱えている場合ではないことを。
③頭の柔らかな人はうすうす気づいています。純化路線ではいずれ立ち行かなくなることに。それとなく発言の軌道修正をはかっていますから。異論のなかに苦渋の色が滲んでいるのを見過ごさぬよう。いくさ事にかまけて、いたずらに敵を増やしてはならない。手を結ぶ局面は、これから何度でもあるのだから。(岩下・10月29日)
堀茂樹さんに克己的な態度だと過大に褒められたのには困惑してしまったが、違う、ぼくは揶揄した先のアカウントたちを許してはいない。小沢のように勝利を掴むためならば(かつて自分を攻撃した)共産党の志位や穀田とも手を結ぶといった度量や胆力はないのだ。トランプが来日し、アメリカ製の兵器を購入せよと迫り、ハイハイたくさん装備しますよと安倍が約束する最悪の事態になっても、未だ気に入らない政党や政治家を「ゴミ」扱いし、自説と異なる見解を「トーンポリシング」の一言で斥けるような了見の狭い方々とは、当面は距離をとっておきたい。いずれ来るだろう政権奪取の機会までは(だが、その機会は果たして訪れるのか? 今のままでは永遠にチャンスは巡ってこないのではないか)。
まあカッカしなさんなと、どこからともなく嘲る声が聞える。
《キミのその苛立ち、ネット左翼の典型的気質ではないのかね?》
そうさ、インターネットの情報を通じて「お花畑」な思想を育んでいったぼくこそ、紛うことなく紛いもの左翼の「ネット左翼」さ。だからこそ行動様式を、ふるまいを自制している。何かと排除したがる内ゲバ好きの連中とは一緒くたにされたかないからね。
長くなった。ぼくのTwitterにおける煮えきらない発言や忸怩たる思いを、少しは理解してもらえただろうか。じっさい、新政党への期待に冷や水を浴びせるような投稿をしだしてから、市民派・日本型リベラル左派からの反応はめっきり減った。でも、組織的な共感なんかほしくない。ぼくはこれからも、ぼくであり続けたい。
①このひと月、理性を保つためにあえて「私」を主語にさだめていた。そのせいで上から目線の態度に感じた方も多いだろう。でも、もういいや、自分に縛りをかけ過ぎた。これからぼくは前みたく好きなように書くつもり。政治に特化した話題には興味がない。もっと人間味と生活感のある言葉を読みたいんだ。
②政治の話を避けるつもりは毛頭なくて、むしろその逆。ぼくに反省する点があるなら、それは著名なアカウントの言説を信用し過ぎていたってこと。彼らの説く理念の多くが、党派性を維持するために、あるいは個々の好き嫌いから発せられていることに気づけたことは、反省すると同時に、良かったとも思う。(岩下・10月23日)
最後に音楽でも聞いてみないか? ラリー・コリエルのグループ、イレヴンス・ハウスのスタジオライブ。<今年2月に亡くなったラリー・コリエル、最近になって良さに気づいた。過去にクロスオーバー/フュージョンの文脈でギターの巧拙ばかり気にしたから誤解したのだ。ロック的な側面を発見してから俄然面白みが増してきた。今までなんか妙な偏見が自分にあったなと反省(10月24日)>している。
Larry Coryell and Eleventh House live in Oslo
私見だが、イレヴンス・ハウスのアンサンブルは、トッド・ラングレンのユートピア(初期)に似ていると思う。「アイコン」の世界だ。
Ah, but remember that the SNS is a funny place!