フィードバック〔feedback〕
じつは私、以前に書いたMediumの記事をはてなブログに移植しているのです。
いえ、Mediumのサービスがなくなりそうで心配だから、というわけではなくて。
けれども、Mediumに書いた過去の記事が顧みられないのは事実ですね。その点、はてなブログはカテゴリを辿って過去記事が遡れるし、有力な記事は何年前に書いたものでも読まれる。そこは強みです。早い話が、MediumではGoogleやYahooの検索に引っかかりにくいのです。
Mediumに書き始めたころの記事は、最近読み返してみてもなかなかユニークで面白いと思う。だからもう少しいろんな方に読んで欲しいと思い、元記事をコピーしては編集しています。ホラこんな具合に。
MediumというSNSサービスがある。本国アメリカでは今なお隆盛なようだが、日本では(日本支社が撤退したせいもあって)苦戦している。ぼくはアカウントをもっており、昨年は頻繁に更新していたが、今年になって更新が滞った。書きやすさゆえ、やめるつもりはないけれど、あまりにもアクセス数が減少したため、反応も鈍く、書く意欲がわいてこない。この「はてな」にしてもサボり気味だけど、過去エントリーに訪問してくださる読者がいるので、それは書く際の励みとなる。そんなわけで、過去ぼくがMediumに投稿した記事の中から、いま読んでも面白いと感じたものを再掲しようと思います(下掲記事『2月』の前説より)。
kp4323w3255b5t267.hatenablog.com
kp4323w3255b5t267.hatenablog.com
おそらく4月(地震編)記事が突出して読まれることでしょうが(その徴候は既に顕れている)、それに追随して他の記事も目にとまるんじゃないかなと期待しています。とにかく私は書いた記事の埋もれてしまうのが惜しいんだ。一人でも多くの方に読んでほしいのです。
今後もはてなブログに順次アーカイブスを載せる予定です。反響がMediumにも反映すれば新しい記事を更新する意欲も湧いてくるというもの。私は係る作業を徒労だとは思いません。表現活動においての再生利用は常套手段ですし、相互のフィードバックがループし、発振し合うことで、また新しい何かが生じるかもしれません。
なお、Mediumのアカウントをたたむつもりは毛頭ありません。今その魅力を再確認中、ですから。
鰯(Sardine) 2017/09/06
続、草むしり〔feedback vol-2〕
本日アーカイブス第2弾を4編投稿した。このうち7月の記事「草むしり」に以下の文を追加した。
kp4323w3255b5t267.hatenablog.com
①除草の件だけど。近年道路脇が草ぼうぼうになっているのは予算不足および人手不足によるものでしょう。道路そのものの整備を含めて。地方の道路、舗装がひどい状態になっているものね。
②熊本はとくに地震の影響もあってか、道路の整備がおざなりになっている。そこは行政の判断で、今は後まわしだけど、いずれ直すだろうと、淡い期待をしている。
③2ヶ月くらい前に、わが家の前を通る県道の、櫨(はぜ)の木が伸び放題なので、枝を切ってほしい旨を土木センターにお願いした。道路標識が隠れて見えなくなっていると指摘したら早急に対応したよ。優先順位の根拠が行政には必要なんだよな。
④国・地方自治体にかかわらず、予算はどうしても華やかしい方向に配分されがちだ。公共施設の利便や整備点検保守についての費用は、新しい開発やら建設やらに回され、削減の憂き目にあう。その方が潤うし、やってる感が演出できるから。そして新しい道路が敷かれる一方で、昔からある道路の荒廃が進む。
⑤こないだ九大生から聞いた話。<九大は(福岡市の西端)伊都に広大なキャンパスを作った。自分が通う工学部が先に移転しましたが、交通は不便で、周りには何もないんですよ>と。老朽化・手狭になった・移転しよう・新しい学園都市だ。その一連のプロセスはダイナミックだけど、壮大なムダにも思える。
⑥逸れた話を戻すと。夏草の生い茂る道路がみっともない、危険だと思うなら、まずは住む町の行政に連絡することだ。ボランティアの誰かを期待してはならない。草ボーボーでみっともないと思うンなら自分が刈ればいい。そして、国土強靭化計画とは本来そういう主旨ではなかったか?と政治家に問うがいい。
⑦農業と農家が元気だったころは公役などで除草されていた道路も多かったと思います。(合志市議・上田欣也氏の返信)
⑧おはようございます。 今朝、私の通勤途中にある小学校では、何処も保護者と子ども(先生もいると思われ)による除草が行なわれていました。清掃活動はとても有意義だと感ずる一方で、素人の出来る範囲は自ずと限られるのだから、財政難の行政が市民の善意に頼りきりになっても困るなあと思いました。
⑨財政難ではないとは言いませんが、正確には市の事業予算の配分の問題です。市では年間数百万の予算で、緊急の危険箇所修繕や草刈り等を実施する直営の事業はあります。(合志市議・上田欣也氏の返信)
これらの引用は今年(2017年)8月25~26日のTwitterにおけるツイート、および返信である。
Medium読者にとってアーカイヴは既読の記事ばかりだが、ありがたいことに遡って読んでくださった方も何名かいる。今後も懲りずに投稿する予定です。
鰯(Sardine)2017/09/08
公園はイベントが開催されなければ意味ない、のか?
来園者の方からよく問い合わせのあるのが、「今日、 イベントが開催されていますか?」だ。とくに催しはないと答えると、「なんだつまらない」とガッカリされる。「せっかく来たのに、イベントがないと来た意味がない」と失望されることもある。
そうかな?と私は思う。
先日、メールでご意見を承った。公園のホームページのイベント案内の更新が遅い、載せてある情報が古い、と。そして文の末尾はこう結んであった。
管理業務、民間に委託したほうがいいのでは?
そうかな? またしても思う。
確かに、ご指摘の通り新着情報の更新は滞っていた。主催者からの発表の承認や宣材の提供といった「家庭の事情」は言い訳にならないだろう。そこは素直に反省しなければならない、が。
私の勤める公園は地方自治体が運営している。公園には定められた総則がある。イベントの開催は、いわばサイドメニューでありメインではない。入園者に憩いの場を提供することが公園の理念の根本である。
民間に管理業務を委託したとしよう。しかし自治体が運営の主体であるかぎり、委託業者の好き勝手にイベントは打てない。イベントの規模が大きければ首長の決裁を仰がねばならない。公営の宿命である。かりに公園の敷地や設備をぜんぶ民間が買い取り、イベントに特化したアミューズメントパークを運営したとすれば(申しわけないが)二、三年も経たないうちに、大半は経営破たんするだろう。公園は税金で賄われている。県なら県、市なら市の予算で。それでも管理維持には莫大な経費がかかる。私の勤務先でいえば植栽だけでも千万単位の費用がかかる。税金だけでは到底足りない。だから入場料を徴収させていただき、入園者数を増やすためにイベントを招致するのである。
ところで先々月こんな記事を見かけた。
これに対する意見は様々だったが、私的な感想を再掲する(Twitterより転載)。
広大な面積の開放的な緑地が都心部にあることは都民にとっても、地方や他国から東京へ来る客にとっても、大きな財産であるという観点は持てないだろうか?公園の管理維持費がかかると言っても知れたものだし、セントラルパークやハイドパークのような、憩いの場がある都市は単純に魅力的だと思うがな。
数年前に、荒川沿いの都市農業公園にお邪魔したことがある。交通アクセスは不便だけど、手入れの行き届いた、居心地いい場所だった。ああいった「儲からない公共施設」が、もっと脚光を浴びればいいな。
私は(ご存知だと思うが)Twitterではわりと好き放題な意見を述べている。
オリンピックやカジノがヒト・モノ・カネを集結させるための手段というなら、そんなの邪道だ、まともじゃないよ。なんども言うが、イベントは麻薬みたいなもんだ、依存しすぎると、いずれ身を滅ぼす。
公園が儲けに走りはじめたら、公園の「公」がゆがむと思うな。
私は春に地方創生相の失言が報じられたときにも同じようなことを考えていた。
公園のみならず公共施設は集客数によって評価される。現場を知らない評議委員は数字で判断する。実績が前年比の横ばいや下回りではマズいとの理由で指定管理者は外部のアイディアに頼りがちである。代理店主導の派手な花火を打ち上げれば一時的に動員は増すけれとも、イベントは注射よろしく内側を蝕み、施設本来の意義を損なう。
「お・も・て・な・し」のスローガンに代表されるアメニティの提供など不要だと言いたいわけではない。が、それぞれの公共施設には、施設本来の目的があることを忘れてはならない。
行ってみるといいよ、博物館や美術館や図書館に。公共施設の静かな環境で、ゆっくりと文化に触れる時間が、個人の内面をどれだけ充してくれることか。行ってみるといいよ、できれば一人で。そこで育まれたものが、生きていくために必要な教養になるから。
ただ、「お客さま目線」を意識するあまり、肝心の内容が空っぽになってしまっては本末顛倒である。保管される資料や展示物の管理といった、文化の基礎的な部分に光を当てないかぎり、公共施設の建築物は、ただの箱モノに成り下がる。
話が逸れかけたけど、公園もまた然り。
初めて足を運んだ君は、その静けさが不安になるかもしれない。けど、そのほうがいずれ居心地よくなると思うよ。
つっけんどんでも冷淡でもない、淡々とした対応の公共施設が、豊かな社会には必要なんだ。
クールジャパンを推進する国としては、もっと公共施設に観光資源としての役割を担ってほしいのだろう。観光客の誘致は確かに大切だ。けれどもその手段が高じて、何処もかしこもイベントだらけになってしまったら、人はいったいどこで寛げばいいだろう。のんびりとした憩いの場を提供するのが、公園の本分だと私は思うし、それは利潤を常に追求する民間企業には難しいことではないかとも思うのである。
鰯(Sardine) 2017/09/10
ある局面など〔feedback vol-3〕
わがTwitterのタイムラインでは、断末魔の悲鳴にも似たリベラル諸君の嘆きに溢れているが、同じくリベラル左派に属する私は、前原誠司をそれほど責める気にはならない。それが民進党代表として最善の判断かとうかは定かではないけれども、誰が代表になろうとも結局は同じような方向に進んでいったのではないかと思う。ともあれ、護憲を標榜する日本リベラル左派は少し落ちついたらどうだろうか。あなた方の抱く理念は、掲げる旗は、状況によって崩れさるほど脆いものなのか? 改憲を急ぐ現政権をくい止めるためには具体的にどうしたらいいか、そこを考えれば自ずと答えは導きだせるはずだ。矢継ぎ早に差し出されるあやふやな情報に惑わされるな。観測気球が相当の割合で含まれたフェイクニュースに右往左往して、我を忘れるようじゃ心もとない。私は野党共闘は必然的に定まるといったが、それは地方区における情勢を鑑みれば自ずと答えが出ることだ。都市部と違って選択肢はないんだ。即ち自民か自民でないかの二択なんだ。少なくとも私の地元の選挙区ではそうだ。ならば投票先は決まっている。好き嫌いを言う次元ではない。もしもそんな政治風土が不満なら、この先じっくり年数を重ねて有権者の民意が反映するよう世論を少しずつ変えていくしかない。違うかな?
選挙というプロセス自体を疑問に思うのもいいだろう。政府がどうあろうと関係ない、政治は茶番だと冷ややかにながめるのも人それぞれだ。けれども、政権の意思決定がどれだけ私たちの生活に影響するか? 誰を代議士に選ぶのかは言うまでもなく大切なことだ。シニシズムに酔っている場合ではない、と私は思う。
落ちついて、冷静に判断しよう。怒りは目を曇らせる。状況を、正確に見定めよう。あなたが絶望的だと感じている局面は、じつは格好の好機なのかもしれないのだから。
比例区? それこそ自分に一番しっくりくる政策を提言する候補者に一票を投ずればいいだけの話だ。党派性を念頭から外して、シンプルに考えてください。
追記:上の書き方は誤解を招くかもしれない。以下の件、ご注意ください。
こんな感想を述べるつもりはなかったのだが、長くなってしまった。いちおう本来の目的である、告知をしておきます。16年2月から17年2月までの一年分をアーカイヴしたので、シリーズはいったんここで打ち切りです。
猫写真はサービス(撮影はパートナー)。
鰯(Sardine)2017/09/28
表明:今回の衆議院選挙について
私の住む選挙区は熊本1区です。
熊本1区では、今回ふたりが立候補しています。
私は、「安倍内閣を交代させるべきだ」と考える者ですから、この一対一の対決では松野候補に戦略的一票を投じます。
木原候補は、自民党青年局長時代に、メディア規制を声高に主張し、沖縄での祈念式典で安倍首相を批判した市民について「組織的に動員された人たちだ」と言いました。この発言は自民党内でも問題視され、木原議員は青年局長を更迭されましたが、その後も現政権を支える一員として財務副大臣の座に就いています。
一方、
松野議員は、前回の衆院選では、民主党を脱けて維新から出馬しました。そして今回は民進党を脱けて希望の党の公認を得ました。まさに政界渡り鳥で、その足元の定まらなさは感心しません。しかし彼は元々が保守派で、細川護煕の秘書が政界入りのスタートでしたし、改憲派でもありますから、希望の党と齟齬が合わないわけではありません。民進党代表・前原誠司と同様、今回の合流劇の中心にいると見るべきでしょう。
そんな松野候補に一票を投ずるにあたって、私的には忸怩たるものがあります。しかし木原候補と比較すれば、人間的には数等ましです。そういえば彼は動物保護の領域で積極的に活動していました。希望の党の公約に「殺処分ゼロ」がありましたが、ひょっとしたら彼の提案かもしれません(想像です)。
前回の選挙を思いだします。亡き父と揉めたのだった。自民党員だった彼は、私にこう告げたのです。
「無理して選挙には行かんでもいいぞ」
私は「なぜ?」と反撥しました。
「おれは投票するけんね。維新から出る松野に」
「何ということを」
「自民も、福田康夫の頃ならなおしも、安倍政権になってからは最悪だ。生活弱者の切り捨て、防衛費増大の一途、何のよかこともなか」
「共産党のようなことば言いよるな」
「共産党に入れても勝ち目はなかろうが(前回、共産は候補を立てていた)。接戦だけん、木原に勝つ見込みのある、松野に入れる」
「勝手にせい」
けれどあのとき私はこれほど苦しくはなかった。投票行動に迷いはなかった。前回で克己したはずだのに、今回より苦しいのは、なぜか?
民進党が事実上二分し、立憲民主党が発足した今、私のSNS上の知り合いは、大半が立憲を支持している。私は或る理由があって枝野幸男という政治家を信頼できないが、彼の結党した立憲民主党が日本型リベラルの砦として期待されていることに異論を唱えるつもりはありません。
けれども。
SNS上、いやTwitter上とハッキリ言おうか。Twitterにおける希望の党への恨みつらみの言葉には、正直いってうんざりしています。いちいち列挙はしないけれども、目にするたびに辛くなる。昨日もこんな投稿を見かけました。
立憲民主が40台に達するなら無所属民進系と希望離脱組を合わせて、細野や前原、松原、松野らをスポイルした『きれいな民進』を野党第1党として再建できるかも。
私は思わず反論しました(自己嫌悪に陥りそうなんで、削除しましたけどね)。
じゃあ何かい? 「きたない民進」しか立候補してない選挙区民は棄権しなさいとでも言いたいのかい?
おりしも思想家の東浩紀氏が、今回の選挙はくだらないので棄権しましょうよと呼びかける、呆れたキャンペーンを行なっていますが、私には「希望に投票するような愚民ども」と見下すような風潮と、東氏の極論に、さほど変わりはないように思えます。Twitter上の政治論客諸氏には依然として「希望の党は自民・公明の補完勢力でしかなく、選挙後は連立するに決まっているから、希望に投票してはならない」と説く者が多いのですが(そういう輩に限って、日経新聞が与党300議席迫るの予想をたてるやいなや狼狽え、希望の人気が失速したせいだと責任転嫁する始末。いやはや)、では、問おう。
私の投票行動は間違っているか?
私が、戦略的に、極右とさえ揶揄される党の候補者に投票することが、間違っているとでもいうのか?
答えてくれなくてもよい。責めるつもりは毛頭ありません。
私は22日の選挙当日は仕事だから、今日のうちに区役所の投票所に赴き、期日前投票を済ます予定です。
私は、忸怩たる思いを抱きつつ、いや違う、迷わず、松野に一票を入れます。
先日たまさか彼の第一声を聞きました。
先ほど武蔵ヶ丘プラザ前で松野候補にそうぐう。ちょうど街頭演説を終えて選挙カーに乗りこんだところだった。取材陣は複数。なかなか精悍な顔つきでスカしたポスターよりも感じがよい。私は柄にもなく車中から手を振った。ともあれ、頑張れ。自民王国の牙城を崩してくれ。 pic.twitter.com/ZF2fUO5iZ4
— 岩下 啓亮 (@iwashi_dokuhaku) 2017年10月10日
このときの気持ちに偽りはありません。
比例をどこにするかは投票所で決める。
(追記:比例は1区で立候補を見送った「共産」に仁義を切った。)
誰の指図も受けない。
誰の意見にも左右されない。
投票する意思は私のものだから。
鰯(Sardine)2017/10/13
【追記】
ホントに最低なPRだよ。14日に木原候補の応援に来熊した安倍のスローモーション・リプレイに、被災地の風景が次々と映しだされるという噴飯ものの動画。災害を選挙選に利用しないでほしいね。
公平を期すために木原候補の画像も貼っておく。上の写真は今朝(10/14)わが家の郵便受けに入っていたハガキ。宛先は亡父になっていました。
あまりにも腹だたしいから引用リツイートはしないが、ぼくは許せない。選挙選のために熊本地震を、地震からの復興をダシにする、いかにもなイメージ動画を作る自民党広報と、その党の総裁が。
拉致被害者の方々、電通の女性社員、政治のために利用しているようにお思えてしまうのは私だけでしょうか? 被害にあった人々を利用するのはとても冷酷に思えてしまう。(私宛てのリプライ)
「やってます感」の演出でしょうが、あまりにもあざといですね。城が着々と再建されている一方、仮設住宅に暮らす人は今なお多い。被災者の感情を逆なでするような、これこそまさに「印象操作」ではないでしょうか。(上への返信)
以上、10/15の私のツイートより。鰯 2017/10/15
*選挙の記事はMediumにはあまり好かれなかったねえ。反響は皆無に近かった。
“Home” The Coors
『ホーム』は2005年に発表した、コアーズ5作めのスタジオアルバムである。
収録曲の大半はトラディショナルで、伝統的なケルト音楽のスタイルに則っている。
私がこのアルバムをB◯◯K◯FFにて250円で救出した理由は、100回聞いても飽きのこない3分30秒、「オールド・タウン」が収録されているからです。
これは、ハードロックのバンド、シン・リジィのリーダーだった故フィル・ライノットの作った、ダブリンの街を闊歩していた「ボーイ」の恋が、はかなく砕け散ってしまうというせつない歌である。
だけど三女アンドレアがおきゃんな声で歌うと、それほど深刻には聞こえない。続く長女シャロンが歌う、リチャード・トンプソン作の「ディミング・オン・ザ・デイ」も、オリジナルほど手強い感じはしない。どのナンバーも一様に、聞く人の負担にならないような気配りを感じる。これはリーダーである長男ジムの、卓越したバランス感覚のなせる技だろう。
この『ホーム』は次女キャロラインの発案である。アイルランド生まれの兄妹4人組コアーズは、世紀を跨ぐ前後にヒットを連発し、出したアルバムは数百万単位のセールスを記録した。が、その快進撃も『ホーム』をリリースした頃には陰りをみせ、アイルランド以外での売り上げは低調に終わったようだ。
けれども内容の充実は前4作をはるかに凌ぐ。どのナンバーも丁寧に拵えられており、途中で撓むこともない。くり返し聞くに耐える、気のおけない友人みたいな作品集である。
さらに、日本盤のCDにはボーナストラックには、“Return from Fingal”というインストルメンタルが収録されており、これがまた出色の出来なのです。
先日この曲をTwitterに貼ったら、コアーズUK(ファンクラブと思われる)からこんなリプライが送られてきた。
One of the best violin solos EVER in my opinion ♥️
私は、“I think so too. Jim’s piano chords are also beautiful.”と返信した(こういうサプライズなやりとりがあるからTwitterはやめられない)。
秋の季節にぴったりの音楽だと思う。
鰯(Sardine)2017/10/18