今年8月8日に亡くなったグレン・キャンベル。ぼくのクルマでは20曲入りベスト盤(写真)がへヴィーローテーションでかかっている。
Glen Campbell - "Wichita Lineman" - Original Stereo LP - HQ
とりわけ「ウィチタ・ラインマン」は、何べん聴いても飽きることがない。「名曲」の安売りは避けたいところだが、この歌は真に語り継がれるべき「名曲中の名曲」である。
なにしろ歌詞が素晴らしい。
Wichita Lineman
I am a lineman for the county and I drive the main road
Searching in the sun for another overload
I hear you singing in the wire
I can hear you through the whine
And the Wichita lineman is still on the line
I know I need a small vacation
But it don't look like rain
And if it snows
That stretch down south won't ever stand the strain
And I need you more than want you
And I want you for all time
And the Wichita lineman is still on the line
And I need you more than want you
And I want you for all time
And the Wichita lineman is still on the line
(Written by Jimmy Webb)
電線といえば、レナード・コーエンが作り、 (“If I Were A Carpenter”を歌った)ティム・ハーディンの歌唱で世に広く知られた「電線の鳥“Bird On The Wire”」をすぐさま連想するが、この「ウィチタ・ラインマン」も、言葉と習慣の違いを越えた普遍性を有している。
ヘタな訳を試みてみようか。
ぼくは郡の電線保安員。幹線道路を走りながら、灼熱で電線に負荷がかかってないかを点検してる。鉄線を伝ってきみの歌が聞こえる。ひゅうと風の唸る雑音まじりの。そしてウィチタのラインマンは未だ電線の上。/少し休暇が必要だと自分でも分かってる。だけど雨は当分降りそうにないし、それに雪でも降れば南行きの線は重みに耐えかねるだろう。必要というよりもきみが欲しいんだ。いつだってぼくはきみを求めているんだ。けれどもウィチタのラインマンはずっと電線の上。(Twitterに「つぶ訳」っぽく書いたものに加筆)
ジム・ウェッブはクルマを走らせているとき目にとまった、電線を架ける作業中の男性に思いを馳せ、この「ロンサムロード・ソング」の着想を得たという。ジムは現代版のカウボーイを探し求めていたのかもしれない。描写は感傷に傾いてはいるが、溺れてはいない。保安員が鉄柱に耳を寄せ、語りかけている先の“You”は、恋人か女房か、それとも架空の女性か? あるいは代わりに働いてくれる誰かを求めているのか。さまざまな解釈が可能だけど、いずれにせよ作業員の孤独と寂寥を、聴く側の誰もが容易に思い描ける、視覚的な歌詞だ。
労働者の素朴な心情を描いた歌は、どうしてだか日本に少ない。三橋美智也が活躍していた時代には多く歌われていたが、ニューミュージック・J-POPが多勢を占めるようになってからは皆無に等しい。もっとも事情は欧米でもさほど変わらないようだが、それでもアメリカのポピュラー音楽には、市井の人びとの日々の営みを映しだそうとする試みが随所にみられる。それはアメリカ社会の根底に流れる「フロンティア精神」とも通底しているように感じる。
その精神の継承者が、“Dad Loves His Work”と「働く人」にこだわったジェイムス・テイラーだろう。これはオバマ前大統領時代のホワイトハウスで「ウィチタ・ラインマン」を歌ったときの映像。
James Taylor performs "Wichita Lineman" | In Performance at the White House
JTにもオバマにもそんな意図は毛頭ないだろうが、労働(者)を称えた表現は、ともすれば権力に取りこまれがちだ。とくに日本社会において、勤労感謝の表明は、権力迎合として憚られる風潮がある。
ぼくは、労働条件の改善、つまり安すぎる賃金や長すぎる勤務時間の是正を経営者側に要求したい(I want)一個人であるが、その反面、労働そのものへの尊厳を率直に表すことが悪いとは思わない。それが支配層への隷従へ直ちにつながるとは考えにくいし、自分が一方的に扱き使われる側であるとの前提に立ったものの見方も好まない。むしろ「社畜」や「やりがい搾取」みたいに刺激的なキーワードが独り歩きすることで、働きそのものを白眼視する傾向が強まっていることを懸念する。
(前略)一切の、これ以上の努力を放棄して楽に生きさせろ!それが当たり前だろ?みたいな感覚、辟易する時がある。
と、どなたかがTwitterでこぼしていた。同感である。が、ぼくもまた、奴隷根性の典型例だとして何処かで誰かに辟易されているかもしれない。
でも、基本的にぼくは、まじめに勤め、額に汗し、相当の報酬を得る資本主義システムそのものを悪だと思っていない。ポール・サイモンが歌うところの “Workman's wages”は働く者の当然の権利である。だから勤労への意欲を、労働運動の対立概念にしないでほしいし、それをことごとく排除する言説も、分断の変奏曲であるように思えてならない。
閑話休題。
引く手あまたのセッションギタリストとして、ビーチ・ボーイズに短期間雇われるなどの歌手として、キャリアを培ってきたグレン・キャンベルは、1967年にジムの作った「恋はフェニックス」で高い評価を受ける。そして68年にリリースされた「ウィチタ・ラインマン」は、彼の代表作となった。
トニック(主調)をひたすら回避しながら浮遊感を漂わせる斬新なコード進行。名手ジェームス・バートンのギターにジム・ゴードンのドラムス。ジム自身の奏でるモールス信号のようなオルガンと、これもジムのペンによる空模様を反映したような弦楽セクション。そしてグレンが弾く低音弦を響かすギターソロ、総ての要素が渾然一体となった穏やかな竜巻のような演奏は、カントリーベースのアレンジではあるが、既存の楽曲の枠組を逸脱し、結果的にポピュラー音楽の領域を拡大したといえよう。
その証拠に、ジャンルを超え、さまざまなアーティストにカヴァーされている。
Billy Joel Jimmy Webb Wichita Lineman - YouTube
ビリー・ジョエルが、ジミー・ウェッブの書いた詞について、コミカルに解説しながら歌っている。
Jose Feliciano - Wichita Lineman - YouTube
ホセ・フェリシアーノは荒野の風景を惹起する烈しいギターのつま弾きを聞かせる。
REM - Wichita Lineman - 1994 - YouTube
レス・ザン・ゼロ世代の代表格R.E.M.による、意外とストレートな解釈。
カンザス州ウィチタと言えば、アメリカ人には何もない中西部の田舎町の代表で、そのイメージはスティーブ・マーチンのロードムービーに描かれている。(11/14の「つぶ訳」を補完してくれた、ありがたい反応)
パット・メセニーとライル・メイズのアルバム『ウィチタ・フォールズ』のジャケット写真。「ウィチタ・ラインマン」が着想の源になっていることは誰の目にも明らか。
かように秀逸なカヴァーは枚挙にいとまがないけれど、この歌を世に知らしめたグレン・キャンベルが、やはり普遍性をいちばん的確に表現していると思う。口はばったいことを言わせてもらうと、ポピュラーを標榜するからには、大衆音楽は基本的に聞く人を労り、かつ幸せな気持ちへ誘う働きを持っていなくてはならないだろうし、それが歌うたい本来の務めではないだろうか。ラストは僚友ジミー・ウェッブとのデュオをご覧いただきたい。
Glen Campbell & Jimmy Webb - Wichita Lineman (2000)
もう一曲おまけ。ぼくはこの映像を観てから、本格的にグレンを好きになった。もちろんジムの作詞・作曲(初出は英国を代表する俳優・リチャード・ハリスの盤)。
今回は音楽を紹介するにとどめたかったが、主旨とは関係ない余計なオブリガートを挿入してしまった。そこだけ文字を薄い色に変えておくので、興味ない方は飛ばしてください。
【追記】
晩年のグレン・キャンベルを追ったドキュメンタリー映画『アルツハイマーと僕』が日本でも公開されるので、ホームページをリンクしておきます。
アルツハイマーと僕 〜グレン・キャンベル音楽の奇跡〜wowowent.jp