ぼくは『「少年の心をもった音楽家」エルメート・パスコアール in やつしろハーモニーホール(5月10日)』というタイトルで、このブログに記事を書こうと試みた。
が、書けなかった。
エルメートの音楽はまさに「翁にして童」と喩うべきものだった。ぼくはそれを「少年の心をもった」という視点で語りたくなった。というのも、こんな記事を発見して、ぼくは激しく動揺し、かつ憤ったからである。
この記事は、いわゆるSNS上のフェミニストたちによって槍玉にあがった。そうやって甘やかすから日本の男性は成熟しないのだという批判である。もっともだ、とぼくは思う。昨今の社会問題で、政治家や官僚やスポーツ指導者に顕著な「小児性」の発露を、この記事が指摘する「少年の心」に置き換えるのも、当然の帰結だと思う。
けれども、それはそれとして「少年の心」は、それほど否定されるものだろうか? と、ぼくは疑問に感じるのだった。
言葉を控えろ、もっと優しくしろと言っているんじゃない。その逆だ、もっと正面から「大人げない、子どもじみた中高年男性」をストレートに批判していいんだよ。そのほうが腑に落ちる。揚げ足取りのようだけど、「少年の心」を軸にするのは、違うんじゃないかと思うんだ。
エルメートのコンサートは、子ども連れで観るのも自由だった。会場内には6人のメンバーが繰り出す(ヴィラ・ロボスではないけども)ブラジル風バッハと呼びたくなる強烈なパルスに、喚声をあげる子どもたちが何人もいた。少年の心を持った大人が子どもの心を揺さぶっている。そのさまを〈すてきな光景だ〉と感じながらも、ぼくは頭の片隅に貼りついた、朝がた読んだ記事の内容を、ついぞ剥がすことができなかった。
どうして楽しめないのだろう。目の前に繰り広げられるすばらしいアンサンブルに没頭できないんだろう。なぜ、エルメートが未だにヤマハDX-7を使っていることに意識を奪われてしまうのだ。理由は使い勝手がよくて音色が気に入っているからに他ならない。どうでもいいじゃんか使用機材が何だって。そんな些事にこだわるから思考が肥大化して、本質を見失ってしまうのだよケイスケ。
いつも、ぼくは、そんな感じだ。
心の底から楽しめない。
エルメート・パスコアールの音楽は精神を解放する類いのものだった。けれどもぼくは(このブログのため)どんなレヴューをものにしようかと、思考をいちいち文字に置き換えていた。その邪まな、身についた習性が恨めしくてならない。
5月23日に、
福岡ヤフオクドームで、埼玉西武ライオンズ対福岡ソフトバンクホークスの試合をみた。結果は2対1でライオンズの勝利という、元所沢市民の夫婦にとっては喜ばしい結果だったが、そんな楽しい時においても、野球観戦とはまったく別の思念が、再び頭をもたげてくるのだ。
《あゝここにいる四万人余の、はたしてどれくらいの人数が、政治に関心を持っているのだろう? やっぱり現政権を支持する層が多いのだろうか。このうち、選挙に必ず行くという有権者はどのくらいの割合だ? そして安倍内閣を批判している人は何人ぐらいいるのか.....》
と、圧倒的な大多数を前に、途方にくれている。
ぼくは野党支持で・体制に批判的で・やや左寄りな自分の属性を、特権的に位置づけていた。そして野球観戦に夢中な庶民は政治に関心がないものだと勝手に決めつけていた。さらに彼らにどう〈働き方改革〉の危うさを伝えればいいのか、なーんてエリートでもインテリでもないくせに教え導きたい気持ちを膨らませていた。なんて思い上がったやつだケイスケ!
ネトウヨになってしまったお父さんの話を知っているだろうか? 実の子に向かって「オマエは○○人か!? 」とヘイトスピーチしたという、愚かな父親の話を。指さされ、罵られた子どもの心中察するにあまりある。たまらない気持ちになっただろうなぁ。
ぼくはネトウヨの正反対で、かなり反体制の立ち位置だけど、ひょっとしたら極端な思考に傾いてはいないかと、しょっちゅう自問している。この日本で暮らすのに、思想信条をさらすことはあまりにも危険で、変わり者の烙印を捺され、いつ社会からはじかれるか分からないから。穏便に、悟られないように、喋らずに、騒がずに、本音を隠して暮らさなきゃならない......
《あゝ、そうやって萎縮して、自粛することこそ、まさに体制側の思うつぼだのに!》
ぼくは楽しいときも陰険なことばかり考えているから、心の底から楽しめない厄介な性分なのだ。
と、ぶざまな終わり方だけども、このへんでタッチペンを置くことにする。
1997年発表のベスト盤、入門編に最適だ、聴くべし。
Grandes Mestres da MPB by Hermeto Pascoal on Spotify