映画に、ことに邦画に疎いぼくが、唯一シリーズ十二作品をぜんぶ観たのが、市川雷蔵主演の大映映画『眠狂四郎』の一連である。彩の国は野老市の、図書館の視聴覚室で。
その魅力を語るのは、ひじょうに難しい。
先ずはご覧じろ、とお伝えするほかない。
柴田錬三郎の小説では、クールでニヒルな、情け容赦のない孤高の剣士として描かれているが、雷蔵のそれは、柴錬原作とは少し人物造形が異なり、非情を踏襲しながらも、どうしようもなく情に傾く眠狂四郎像が描かれているように思う。それはひとえに、大衆娯楽を旨とした大映の体質であり、のちに直木賞作家となる星川清司の脚本ゆえにであろうが、いちばんの理由は主演の市川雷蔵が持つ生来の資質が、そうさせるのであろうと感じる。
「おれは面倒くさいことに関わりたくない。ただそれだけだ」
とうそぶきながらも、
「乗りかかった船だ。何処へどう着くか分からんが、着いたところで気に入らん奴らに一泡吐かせてやりたくなったまでさ」
「おれが世の中で一番嫌いなものを知ってるか? 品物のように人間を道具にして利用する奴らだ」
と、出会った縁に絆されて、助太刀する、救出する、護衛を買ってでる。お節介な、人情家以外の何者でもない狂四郎。
『眠狂四郎』は市川雷蔵が極めつけである。それだけは自信を持って断言できる。
ぜひご覧になっていただきたい。その魅力にとりつかれること必至である。
【余談】
ぼくがこのブログとツイッターを続けている理由は、ぼくがぼく以外の何者でもないと証明したいがためである。だからアイコンを通じて、文体を通じて、あるいはメッセージを通じて同一性を保持しようと努めている。ぼくは複数の人格を持たない、分人としての多面性はあっても単一の性質を持つ、取り替えようのない、一個人でありたい。
もしもぼくが完全な無頼の徒であれば、当ブログのプロフィールとツイッターのそれに住所・電話番号・漢字四文字による名前を明記したいという願望がある。
属性を持たぬ、完全なる無頼の徒であればの話だけれど。
「」内のせりふは『眠狂四郎語録』より拝借しました。
【過去記事貼り付け】
kp4323w3255b5t267.hatenablog.com
昨日並木坂の古書店で購入した朝日文庫。たんなる俳優のエッセイにあらず。市川雷蔵が、映画とは、演技とは、芸術とは何かを真摯に書き綴っている。そして、なによりも文章のたたずまいがうつくしい。 pic.twitter.com/tohvxBqc54
— 岩下 啓亮 (@cohen_kanrinin) 2017年9月4日