鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2018年7月のMedium

スクリーンショット

スクショは趣味じゃないが、今回こんな出来事があった。↓これに関する傍証として、まとめておくべきだと考えた。

韓国プチョン映画祭に招かれた日本人映画監督 鳴瀬聖人、日の丸ハチマキに日本刀で映画館のスクリーンに穴を開ける【温泉しかばね芸者】
韓国の富川(プチョン)映画祭に招かれた大阪芸大出身の『温泉しかばね芸者』の鳴瀬聖人監督が、日の丸に日本刀でレッドカーペットを闊歩、舞台挨拶で日本刀を振りかぶり、スクリーンに穴を空けて250万円を請求されそうになった。… 

私は以下の感想を書いたが、この記述が正確かどうか、自信がなかった。

そこで6月13日〜14日のTwilogから、上記に関するやりとりをピックアップした。

この、ashida10721 というアカウントが、『ファミリーウォーズ』を撮った阪元裕吾監督である。彼はのちに、引用先の予告編動画を載せたツイートを削除した。

すると、前掲 Kase Tamamiさんのツイートに、以下のリプライがあった。

私はこれを見て、かなり腹を立てた。言うに事欠いて、馬鹿はないだろうと。そこで “おしり”氏に返信をかぶせた。ということは、私は絡まれたのではなく、自分から絡んだのだ。そこは訂正します。

↑ここまでが13日、

↓以下は翌朝の14日。

ここで“お しり”氏は〈作品を観ないうちから批判するな〉に近い内容の意見を出しているが、口調は先晩と変わって控えめな感じになった。そこで私は、

と返信した。向こうからも、

というリプライがあった(私が何を健闘するのかは分からずじまいだったが)。

また、カフカ(漫才師にして大学院生)氏の意見も参考にしていただきたい。↓

↑ 最後にKase Tamamiさんが指摘している、出資者等の責任という疑問は、今回の韓国の富川(プチョン)映画祭の一件においても、もっと問題視されるべきポイントだと思う。

さて、件の“お しり”氏、はたしてどんな立場の方だったのだろう。とりまきにしては、語気があまりにもシリアスではないか(だからこそ私は、滅多にしないやりとりを交わしたのだ)。坂元監督本人だとは言わないが、映画『ファミリーウォーズ』の関係者ではないかと睨んでいる。

あまり気は進まないけど、地元で上映されたおりには必ず観に行きます。たぶん酷評するだろうけど、映画人は観客を選べない。頑張って宣伝してくれ。そして、真なる“表現の自由”を獲得してほしい。

健闘を祈る。鰯(Sardine) 2018/07/21

 

Twitterについて思うこと

<今のTwitterは嫌いだ。>

ほんこれ。ヘビーユーザーだけど最近ちょっと無理になってきた。「生産性」がマジでゼロ。親しい相互の人とキャッキャウフフするのは楽しいから良いんだけど、自然と考え方の近い人達でクラスタ化するように設計されてるから、ある思考がクラスタの壁を越えて反対側に届いて理解されることがほぼなくて、いくら「議論」したところでだいたいブロックされて終わる。‪

気持ちはわかる。私もなんだか最近、諦めにも近い心境になっている。先月くらいから私も千をこえるリツイートが幾つかあって、いろんな人の目に触れているように錯覚するけど、でも、広がりに欠けているような気がしてならない。以前の、百前後のリツイートをもらっていた頃のほうが、もっと確実に伝わっていたように思う。

私は、政治や社会のあり方に疑問を感じ、その疑問を誰かに聞いてもらいたくて発言しだした。最初はmixi、次にTwitter、それからはてなブログとこのMediumだ。

とりわけのめり込んだのがTwitter東日本大震災熊本地震の、二つの災害を通じて、私もささやかながら意見を表明しだした。それ以外にもさまざまな出来事があった。プチ炎上したこともあれば、過大にウケたこともある。意外な方と出会えたし、かと思えば物別れに終わったこともある。気脈が通じていると当方が思っていても、相手もそうだとは限らない。

難しいもんだよ、人間関係って。

そう、SNSと言えども人間関係に変わりはない。相互の信頼を築き上げられるかどうか、そこに鍵があると思っている。

だから私は、なるだけ人となりが見えるように、プライベートな部分をある程度だが見せている。趣味や好みも、愚痴や弱みも隠さずにいようと心がけている。

なぜって?

それは自分が飽きないように、だ。

政治や社会問題の話ばかりだと、煮詰まっちゃうんだよ。書くのも、読むのも辛くなる。

だって、Twitterは専門書ではないんだから。それに毎度毎度、安倍政権は怪しからん!ばっかり書いていたら、仕事じゃあるまいし、そりゃ気が滅入るさ。

ところで私は、フォローするとき以下の二つを必ず確かめている。

  1. 自分の話題を持っているかどうか。
  2. 政治問題に特化したアカウントか。

政治のこと「だけ」を語る人や、自分の意見を喋らない人はリフォローしない。だって私は、あなた自身の感想が聞きたいんだ。津田や内田や小田嶋や菅野のリツイートばかりじゃつまらないんだ。あなた独自の見解が知りたいし、語るあなたの人となりを理解したいんだ。可愛い女性の写真をアイコンに使って、そんな問題よりこっちの問題の方が重要だと露骨な誘導を促すような、目的が見え見えなアカウントは警戒している。

それが私の判断基準だ。有名・無名は問わない。人柄の伝わるようなツイートが読みたいし、その人柄を誰かに伝えるためにリツイートしたいな。「ねえ、聞いてきいて、この人なんかとてもいい感じじゃない?」って。

最近、「デマだらけのネトウヨに対抗するためには、こちら(リベラル)も戦略的にツイートするべきだ」という動きがあるみたいだけど、はっきり言って私は乗れない。邪魔だてするつもりはない。が、積極的に応援はしない。

そんな手法で向こう側にリーチするとは到底思えないんだ。

私のツイートはbuzzらない。爆発的にヒットしない。ちょっぴり寂しい思いはするけど、癖のある文体と普遍性に欠ける視点だから、まあ仕方ない。でも、たまに突拍子もないところへ自分のツイートが届いているのを知ったとき、あーオレまだイケるかも、と感じる。その些細な喜びが、続ける糧ではあるんだよね。

あともう一つ、自分が面白い!と思ったアカウントが、ぐんぐん伸びてくところを傍らから見るのは愉快だな。見ていて爽快なんだよ、若い人のツイートは。

くり返すが、オールドスクールの私は若い人の邪魔にならないように一歩引いておく。伸びのびと語らってほしい。論文を発表するんじゃないから、もっと気楽に、自分の部屋で友だちと雑談するように。自分の雑誌を公開するように。Social Network をどう使いたおすかは、人それぞれ、思いおもいだ。どうかきみ自身の考えを自由に表現してくれ、私は読むのを楽しみにしている。

(ゴミ置場に咲いていた名の知らぬ花)※

だって、私はTwitterに倦んでないから。 鰯 (Sardine) 2018/07/25

※この花の名前が“ヒャクニチソウ”だとすぐさま教えてくれる方が現れる。そこがツイッターのいいところ。

 

マイナンバーをめぐる “ゴチャマゼの混乱 ” (Mixed-up Confusion)

Twilogで「マイナンバー」を検索し、関連したツイートを転載。

 

2018年07月31日(火)

(返信)マイナンバー普及は政官財の思惑とは程遠く、職場や窓口での番号提示にも応じない者が多い、民の抵抗は想像以上で、踏み絵がきかぬなら強制加入しかない。官の発想ですね。posted at 05:30:34

マイナンバーの紐付けは収入の捕捉と税収の安定のみが目的だとはとても思えない。政府の執念は何故に?posted at 05:55:48

口座を開設するにも、スマフォを購入するにも、今後マイナンバーの届け出が必須となるというが、民のメリットはきわめて少なく、運営・管理する側のみに便利な制度だ。百歩譲って、手続きの煩雑を省きたい方への「任意」とするべきで、全員の「強制」がデフォルトというのは、為政者の都合でしかない。 posted at 07:10:09

 

2018年07月30日(月)

スマホマイナンバーカード 機能搭載 法改正へ:読売新聞 (記事削除)

政府は、マイナンバーカードに内蔵されている公的な電子証明書を、スマートフォンにも搭載することができるよう制度を見直す方針だ。インターネットでの買い物や銀行取引などが、より安全で簡単になる。来年の通常国会に関連法案を提出する。

<政府は、マイナンバーカードに内蔵されている公的な電子証明書スマートフォンにも搭載することができるよう制度を見直す方針だ。来年の通常国会に関連法案を提出する。>賛成しかねる。利便性の追求もほどほどに。posted at 12:51:57

個人の消費動向を民間の金融機関が把握するのと、政府が一元的に管理するのとでは、まるで意味あいが違う。もう既に私たちの情報は掌握されているのだから今さら騒いだってムダだと諦念に浸っている場合ではない。政府はあらゆる手段を使って庶民の懐に手を突っこんでくる。効率よく巻きあげるために。posted at 13:11:49

 

2017年08月04日(金)

(返信)よいまとめだと思います。手続きの煩雑さが解消されるとの、能天気な賛同の意見がいくつか挟まれていることで、マイナンバーを戸籍に紐つけすることの危うさが逆照射されていますね。ぼくは戸籍制度そのものに疑問があるので、もちろん反対です。posted at 06:32:50

 

2017年07月13日(木)

(返信)ツイートはプライベートな領域を含むから、Twitter&Google社に個人情報を把握されるのはあまり気持ちのいいことではないし、マイナンバーで政府とのつながりを謳うLINE社は一層怖いです。posted at 07:25:09

(返信)ぼくは家族のマイナンバー提示を拒否し、総務は「分かりました」と即答しました。ともあれ、すべての情報が網羅されつくされた社会は、生きていくのにいささかきゅうくつだと思いますね。posted at 07:49:56

 

2015年12月16日(水)

マイナンバー、反対目立たず 自治体「参加するしか…」:朝日新聞

矢祭の根本元町長、国立の上原元市長ら、気骨のある首長が、ほとんど見あたらなくなったことも。posted at 07:29:52

 

2015年11月27日(金)

40都府県で510万通 マイナンバー配達、12月ずれこみ 日本郵便朝日新聞 posted at 08:22:09

 

2015年10月05日(月)

今日10/05からマイナンバー法が施行される。収入や財産、年金や納税などの記録は、私たち一人ひとりに割り振られた12桁の番号で一括管理される。それだけならまだしも、政府はこの網で捕捉できる対象をさらに拡げようと目論んでいる。国は私たち民の暮らし方、生き方を雁字搦めにするつもりだ。posted at 08:00:59

国によって割り振られた番号を拒むことは不可能だ。私たちにできることは限られている。マイナンバーによる行政サービスを最小限に食いとめること。お得ですよ・便利ですよの惹句に乗らないこと。個人認証・確認のために番号を提示しないこと。住基カードのようにマイナンバーカードを無効化するべし。posted at 09:17:23

とにかくマイナンバーカードは使う局面を最小限にとどめること。消極的な方法であり、自分でも書いていてイヤになるが、絵空事ではなく、個人情報を自衛するためには、このくらいしか思いつかない。posted at 09:34:20

 

2015年09月09日(水)

手品師は観る側の意識の裏をかく。安保関連法案とマイナンバーは同じコインの表と裏だ。手の内を明かしたかに見せて、まだ袖の裏地に何枚か隠し持っている。posted at 19:15:05

 

2015年05月15日(金)

事務系、とくにデータ管理等の業務に携わる者は、マイナンバー導入に肯定的なんだろう。共通番号で一括管理すりゃ、七面倒くさい入力や検索は一発で済むんだよ!とブツクサいいながら。だが待て、マイナンバー制度が完成したあかつきには、きみの業務は軽減されるどころか、要らなくなるんじゃないか?posted at 06:50:59

(返信)そうですか。見当違いなことをつぶやいてしまったようですね。マイナンバーが納税捕捉のための制度であることはシロウトのぼくも理解できます。ただ、適用範囲の問題がついて回る。免許証番号と同様、「照合」の目的で利用しない、まっとうな企業が大半であることを願いたいものです。posted at 08:02:35

 

2015年01月20日(火)

マイナンバー、番号カードが健康保険証代わりに : 社会 : 読売新聞

この制度および番号カードについて、機能的に不十分であるとする意見が多いことに驚く。それほど国家に個人情報を一括管理されたいのか。posted at 06:17:17

ハハ、同じコトばっか言ってら。以上、私の “ゴチャマゼの混乱” ぶりでした。 鰯(Sardine) 2018/07/31

 

2018年6月のMedium


『タクシー運転手』

ようやく観てきました(於:熊本電氣館)。高い評判に違わず、非常に面白かった。

光州事件に詳しくない方、韓国に興味のない方でも大丈夫、主人公マンソプ(ソン・ガンホ)の運転するタクシーに乗ってしまえば、あとは一気呵成、事件の渦中へ運ばれる(補足:濡れ場は皆無だから子ども連れで観てもオッケー)。

 

さて観客と同様、最初マンソプは傍観者だ。民主化運動のデモに否定的で、学生の本分は勉強だと思っている。警察や軍の正義を疑わない彼は、権力への抵抗を迷惑に思っているが、ドイツ人ジャーナリストを乗せて全羅南道に入るなり、光州市街の様相がただごとでないことに気づく。

軍事政権は、デモに参加する市民を「暴徒」と見做し、催涙ガスで苛み、棍棒で打つ。目の前で起こる惨事をにわかには信じられないマンソプは市民と軍の闘争に巻き込まれまいとする。が、光州市民の人情に触れ、また自らも私服の暴虐に遭い、ようやく「」はどちらの側にあるかを悟る。

いったんはソウルに戻りかける。けれどもドイツ人記者ユルゲンと、世話になった仲間たちが気がかりでならない。マンソプは引き返すことを決意する。ユルゲンを金浦国際空港まで送り届けることが自分のなすべき仕事だから、と。

しかし、軍はついに暴徒の鎮圧を口実に市民に銃口を向けていた。

同じ国の民同士が血で血を流す争い。それは朝鮮半島が南北に分断された悲劇と無関係ではない。韓国軍が市民を統制する理由は北朝鮮との関係に拠る。軍事政権の専横に否定的な市民を「アカ」と称するのもそのためで、分断こそが相互不信の原因なのである。

他の地域の一般市民は、光州で何が起こっているか知らない。夜の外出が規制されるので不満を口にはするが、戒厳令を疑問には思わない。テレビは「暴徒化した市民が軍に抵抗し」と報じ、心ある記者たちが真実を報じようとしても、上司は輪転機を止め、新聞の発行を中止してしまう。

(この徹底した情報統制、一般市民の無関心、デモや反対運動への弾圧、今の何処かの国の出来事に似ていないか?)

光州の人びとは、軍と市民の衝突する様子を8ミリで撮影していたユルゲンに望みを託す。韓国国内の報道は期待できない。世界に真相を伝えてほしい、この酷い状況をと。

ユルゲンを「東京」行きの旅客機に乗せるため、マンソプは道なき道を走る……

 

細部をもう少し詳細に描いてもよいと感じる箇所がないわけではないけれど(たとえば検問を抜ける場面など)それでは長所であるテンポの良さが削がれてしまうだろう。徹頭徹尾この映画は市民の側に肩入れしており、軍事政権を悪として描いている。権力の「」を扱うことで善悪を相対化してしまうと途端につまらなくなる。先に観た『シェイプ・オヴ・ウォーター』でも感じたことだが、悪は悪として明確に位置づけられたほうがいい。権力には権力を及ぼすべき理由があるのだという懇切丁寧な説明はまっぴらだ。

銃口はどちらに向いている?

きみは銃口を突きつける側か?

それとも銃口にさらされる側か?

二つに一つを、なら私は後者を選ぶ。

『タクシー運転手』で私はそう思った。一人でも多くに観てほしい映画である。 鰯 (Sardine) 2018/06/02

 

【参考】公式でトレイラー(予告編)試聴が可。

klockworx-asia.com

 

くまモンの放送事故」について

昨夜は知人が、くまモンの中の人をdisるインターネットの風潮に憤りをあらわにしており(後追いで知った)ぼくも同感で「あんなの目くじらたてるような案件ではない」と思う派ではあるけども、しかし情報の波に乗って伸してきたキャラクターだけに、そういう批判も織りこんだ上で活動‬せざるを得ないのが、現在の彼の立ち位置なのではないかと思う。あらゆるメディアの表現は視聴者により吟味され、取りざたされ、裁定される。人気者であれば尚更の宿命である。もしあれが〈くまモンの放送事故〉でなければ誰も見向きもしないし、されない。そして一定数の批判が寄せられている以上、彼の周辺は無視できないし、してはならない。‬ ‪私自身小うるさいのはゴメンだし、細かな事柄にいちいちケチをつけるのは嫌いだ。が、しかし他者の意見を疎み、雑言だとして排除し、「聞かなくても良し」と開き直ってきた結果が今の箍(たが)の外れた社会の現状ではないか。意見があるなら遠慮なく言う。批判すべきなら臆さず批判する。度が過ぎれば互いに注意し合うのが、言論の自由な社会だと私は思うのである。

鰯 (Sardine)2018/06/05

 

Goodbye Cruel Japan

I really dislike this country.

I would like to escape from Japan where Prime Minister Shinzo Abe and Deputy Prime Minister Taro Aso ruin the government.

 

ラッドウィンプスの“Hinomaru”って歌、

論ずるに値しない、で切って捨てたい。もちろん社会への影響を考えると見過ごせない問題だけど。すでに多くの方々が指摘するように、日本語の程度が相当お粗末な歌詞だし、それよりもなによりもあの類のJ-POP が端から受けつけられない。音楽的な興味がまるで湧かない。だめ。/音楽に、政治や思想を持ちこむのは大いに結構だけど、林檎もゆずも今回の日の丸も、表現のありようが全くエレガントでない。アイロニーと解釈するには幼すぎるし、国粋主義への誘いにしても妖しさに欠けている。甘く危険な香りがしない。意図的な低レベルだとしたら「愛国力」とやらの蔓延は尚更タチが悪い。/この際だから言っておく。日本語のポップスやロックで私が良いと思える音楽は驚くほど少ない。ワニマのような健全パンクがもて囃され、大御所が相変わらずの借用和音で平たく堅な節を回す、マンネリな風土からは、できるだけ離れておきたい。その微温さが退廃だと私は思う。ラッドウィンプス?  勿論お呼びでない。

鰯 (Sardine) 2018/06/09

 

【参考】

関連記事を一通り見渡して一番腑に落ちたのは、赤木智弘氏の論考。「図書館の自由に関する宣言」を持ちだしたところが秀逸。あと、音楽評論家・田中宗一郎氏の、

この国に蔓延する幼稚で質の低いポップ・ソングに大した作家性などない。それを作り上げているのは彼らのファンダムと、そのファンダムのあり方を容認し、持ち上げてきたこの国の文化的な磁場。それがゆえに、周りにまともな大人がいたら普通は再考を促すような三流ソングがまた作られる。

というコメントが的を射ていた。赤木・タナそう両氏とも、あまり私の得意な論者でないのだが、それだけ事態は深刻ということだろう。(追記:2018/06/17)

 

1分で十分ですよ。

かなり以前にこんな連続投稿をしたことがある。以下twilogよりC&P。

  1. これは突飛な考えだと思うし、どうか怒らないでほしいんだけど。日本のヒットチャートに上る音楽を聴いていると、どうもかったるくっていけない。早い話が冗長なのだ。だったら、と私は考える。曲の長さ、短くしちゃえばいいじゃん、と。
  2. 今どきのシングルをフルにかけると、大概4分を超え、4分半くらいになるものがほとんどだそうな。なるほどね、だから退屈なんだ。ちょっと昔(とはいっても20年ほど前)は3分半だったのに、1分も長くなっているとは。そりゃあ長いなーと感じてとうぜんだ。
  3. どだい今の日本社会、ますます軽薄短小の傾向にあるのだからしてヒット曲もそれにあわせて短くするべきだ。ツイッターなんかその典型じゃないか。140文字という絶対的な制限。Jポップもそういう制限をあらかじめ設けたらどうだろう、たとえば「シングルカット曲は1分30秒までとする」とか。
  4. 個人的には30秒でもじゅうぶんだと思うけど、まあ、1分半ぐらいが妥当な線じゃないかな。その時間の制約があれば、みんなもっとヒットチャートに耳を傾けると思うんだがな。どうせテレビ・ラジオでも途中で切られちゃうんでしょ。だったら、自分のほうから先にEDITしちゃえばいいじゃないか。
  5. いいたいことがじゅうぶんに伝わらないとか、曲が盛り上がる前に終わってしまうとか、泣き言を言う向きもあるだろう。でも、私の提案の狙いは、まさにそこ。1分半だったら、音楽はもっとドライになるだろう。インスタントで一丁上がりの、切れ味のいいポップチューンが量産されるだろう。
  6. そうすりゃ若い人たちが積極的に参画できるようになる。アイデア一発勝負で、世の中を席巻できるかもしれないし。Aメロ・Bメロ・さび頭でちょうど1分です的な「大人の手の入った」楽曲が淘汰されるかもしれない。想像するだけでもわくわくするじゃないか。
  7. 長くは続かない試みだとは思うけど、一度はやってみる価値があると思う。誰かどこか、勇気のある音楽業界関係者はいないかね? したら“ヒット曲を1分半に縮めたオトコ”の称号を、私の方から恭しくさしあげるよ。

書いた日付をみると2011/09/14である。

その後も日本のJ-POP(二重表現)の楽曲構造は、7年前と大差ないけど、海を跨いだ北中南米大陸のヒットチューンは、大いに変貌を遂げた。具体的に説明すると長くなるから、こちらを参考にしてください。

wired.jp

この記事にも示されるように、ヒット曲が短く煎じ詰められる傾向は、ストリーミングが主流になって一気に加速した。今は2分ちょいで決着がつく。飽きる前に終わってしまう。あっさりと。

Spotifyを利用するようになってから、私は新譜をよく聞くようになった。今を反映する新しい音楽に接すると、やはり楽しいし、気持ちが明るくなる。錯覚かもしれないが、今現在を生きているぞと実感するのだ。

チャーリー・プースやら、チャイルディッシュ・ガンビーノやら、ジョルジャ・スミスやら、はてはカミラ・カベロやら、流行りの歌を年甲斐もなく聞いている私。

そしてついに、7年前の夢想を具現化したポップスが、先月末に発売された。

Tierra Whackの“Whack World” である。

まあ、聴いてみてください。私の予言をはるかに上回る、1曲1分の世界を。

それは決定的に新しいから。 鰯 (Sardine)2018/06/14

 

野暮な解説

映画『ブレードランナー』の迷セリフ、「ふたつで十分ですよ」にちなんで。

 

 

「鳥の歌」を想像してごらん

昔おつきあいのあった音楽家のご夫妻がいてね。

ある日ピアニストの奥さまが私にそっと打ち明けた。

私、イマジンあまり好きじゃないのよね。頼まれたら弾くけれど、音楽として単調というか、つまんなくて

するとチェリストの旦那さんもこっそり耳打ちした。

ここだけの話だけど。ぼく『鳥の歌』弾くと眠たくなるんだ、退屈で

シロウトの私は、はあそうですかと返すしかなかったな。じっさい、そんなもんかなと思ったし。

音符の連なりという意味からすれば、確かに両者とも素朴の一言だ。シンプルというより捻りがない。私も若い時分には聴いていて退屈に感じたものだ。

けど、

最近になって、あれらはやっぱり凄い歌だと思うんだよ。虚飾のなさにおいて。

(註:音楽家ご夫妻の名誉のために付記しておくと、それらの楽曲の重要性については、当然深く認識しておられた。)

イマジンについては、以下のツイートを今朝がた記した。

イマジンは嫌いです、という意見をみた。ぼくも若い頃そうだった。理想の夢想、退屈な楽想だと。でも最近やっぱりあらためて凄い歌だなと思っている。だって素っ裸なんだもん、選ぶ言葉も使う和音も、あまりにも無防備すぎて、誰も真似できないよコレは。思想?ないよ多分。

ここMediumではパブロ・カザルス採譜のスペイン民謡、「鳥の歌」をご紹介しておこう(Spotifyに良い音源がないのでYouTubeを)。

カザルスは、1971年10月24日の世界国際平和デー国際連合本部で演奏会を行った際にも、この曲をアンコールで演奏し、これは世界中に放送された。演奏にあたってカザルスは、平和を求めるメッセージとともに、「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は peace、peace と鳴くのです」と付言している(wikipediaより)。

*カザルスについてのツイートも追加。

パブロ・カザルスを好きになったのはNAXOSから出ていたこのCDを聴いてから。このカザルス三重奏団によるメンデルスゾーンOp.49のなんとスリリングなことよ。ドライヴしまくり。邦盤の帯の煽り文句がまた良くって。「コルトーpf、ティボーvn、そして使徒カザルスvc」って。

黒猫くん、ブロック塀の上は危ないよ。 鰯(Sardine)2018/06/22

 

2018年5月のMedium

 

音楽工場の謎

先日キリンビバレッジが「午後の紅茶」の広告で炎上していた。あの広告に使われたイラスト、趣味がよいとは到底いえないが、広告でないなら、「あるあるネタ」として問題にならなかったと思う。

広告主であるメーカーの謝罪もお座なりなもので、火に油を注ぐ形となったが、私がより深刻だと感じたのは、いわゆる「業界の開き直り」である。

この、マーケティングの手法にいちいち目くじらたてるんじゃないよ、といった不遜の態度が改まらぬ限り、広告制作の業界は、今後も「消費者の感情を逆なでするような」広告を性懲りもなく市場に投下し続けるだろう。

 

さて、私は例のごとく(笑)Twitterで企業と上掲記事を批判していたが、その際過去の失敗談をスレッドにつけ加えた。

鰯)むかし楽器メーカーで働いていたとき、学校用オルガンの自動伴奏ソフトを制作した。商品名を決める会議の席、ぼくは軽い気持ちで「音楽工場」はどうでしょう?と提案した。すぐさま「皮肉がキツい」「ビールじゃないんだから」「教育現場にふさわしくない」と却下された。当然、彼らの判断が正しかった。

と、数日後、私の別のツイートに木原さんからメンションが届いた。彼はプロフィールによると「社内研修を担当している」そうだ。言葉の端々に誠実さのうかがえる、私が信頼を寄せるアカウントである。で、以下はそのやりとり。

木原)〜無邪気ついでに伺ってもいいですか?「音楽工場」はどうよくなかったのか分かりませんでした。もし差し支えなければ教えて下さい。

鰯)学校の教室で使われる音楽ソフトに「音楽工場」という名前は似つかわしくない、といったところでしょうか。結局、「うたのポケット」という、教育現場にふさわしい名前になりました。

木原)ありがとうございます。なるほど「うたのポケット」はとても想像力豊かな感じで、それに比べると「音楽工場」は無機質に感じます。作り手はいたって真剣に製品を世に送り出しているんですね。

鰯)「音楽工場」は制作を担当したぼくの単なる思いつき、「うたのポケット」は長く小学校の音楽教諭をつとめた監修者の提案でした。ぼくには実際に商品が流通したあとのイメージがなかったのです。いま思いだすと恥ずかしい話ですが、よい経験をしたとも思います。

木原)製品がどう受け入れられ何をもたらすのかを知ったり想像することはとても大事ですよね。ぼくは営業研修を担当してるんですが、特に新人には「長年当社を利用してくれている顧客が何を気に入って評価してくれているのか必ず尋ねてください」と伝えています。意外とそれを知らない売り手が多いので。

鰯)うん。最近の炎上を上等とした広告は、制作サイドの思いあがりというか、コレが面白いのに何で文句いうのさ?的な開き直りを感じます(謝罪の仕方を含め)。不特定多数のお客様から販売店まで、相手が誰であれ広告を受け取る側への想像が及んでいない。だから似たような過ちをくり返すんだと思います。

木原)想像力とリスペクト、大事ですね。音楽工場の謎が解けてよかったです。ありがとうございました!

私はこういう穏やかなやりとりが好きでTwitter一番の長所だと思っている(もちろんMediumでも可能なのだが、Japanにおいては難しい状況である)。しかしこうして会話を並べてみると、木原さんの提した疑問に答えていないことにハタと思いいたった。

なので、この場を借りてお答えします。

当時(私が浜松の楽器メーカーに勤めていた1993年頃 )、キリン「ビール工場」というヒット商品があったのですよ。

つまり「音楽工場」は、これに引っかけた「パロディ」だったのです。

このことを説明していなかったから、若い(私よりも10歳年下の)木原さんには「謎」に思えたのだろうと気づいた次第でした。

鰯 (Sardine)2018/05/05

 

邦画の中の自転車のシーン

連休中はAmazonプライムで映画を観た。1日2本ペースで、負担にならないものを。

ちょっと前の邦画を立て続けに3本観て、自転車に乗る場面が多いなあ、なんでこんなに俳優を自転車に乗せたがるのだろう、と感じた。

綾瀬はるか主演の『海街diary』は、広瀬すずの自転車に乗るシーンが頻繁だ。とりわけ印象的なのは、鎌倉の桜並木のトンネルを、二人乗りしてくぐるシーンで、すずがうっとりと目を閉じる表情は、後の飛躍を予感させる名場面だった。さすがは是枝監督、押さえるべき箇所はきっちり押さえている。(追記:映画好きの知人は、広瀬すずのプロモーション作品みたいだとシビアに評価していたが。)

一方、

黒川芽以が主演の『愛を語れば変態ですか』は、冒頭でキングオブコメディ今野浩喜が自転車に乗って登場する。バイト先となる店先の看板に激突するが、看板を立て直さないまま放置する。この序盤の演出が物語の不穏さを暗示させる、

と、好意的に解釈したものの……

レビューの評価が低かったから、あえて観てみたんだけれど、うーむ確かにひどかった。冒頭の自転車の場面も「住宅地がこの映画の舞台ですよ」という説明でしかない。ロケ地は千葉だか茨城だかだったけれど、場所設定が何処だろうと一緒のような気がする。

その点、

前田敦子主演の『もらとりあむタマ子』は、舞台が山梨県甲府市である必然性を強く感じさせる映画だった。街の規模が主人公タマ子の閉塞感を表すのにぴったりのサイズだ。けれども、画面に映った甲府の街並みは、それほど悪いものでもない。撮る側の視線が街に優しい。

ここに掲げた写真は、映画の後半でタマ子が諦念まじりに決意する場面だ(と思う)が、この(東京に通じる脱出口でもある)駅の側を自転車に乗って走り去るシーンは、時間を計ればちょうど30秒である。つまり、

我々は、徐々に前田敦子の背中が小さくなる様子を30秒も見続けることになる。

良くも悪くも、これが日本映画である。静的な描写をすれば、すわ小津的だ、と評されるところの。しかし前にも述べたが、この「風景を長回しすることで登場人物の心象を観客に想像させる」手法は便利だ。自動車では難しい。自転車という小道具を駆使することによって、街の景色から心情らしきものが惹起される。

逆説的に、そういった湿り気のある意味を予め剥奪した『愛を語れば〜』は、敢えて自転車を粗雑に扱うことで邦画の内包する制度から逃れようと試みたのかもしれない。

と、考えながら書き綴れば、自分でも予想できない結論に達するケースもある。

風景に心境を仮託することは、観ている私の側が備えた怠惰ではないか? と。

鰯 (Sardine) 2018/05/07

 

イマジン

想像してごらん。

意識して、想像力を駆使して、

あなたが心地よいと感じたことを。

縁側でのんびりと日向ぼっこする猫みたいな気持ちになって。

目を閉じて、しばらく想像してごらん。

 

町を歩いていて、街角から街角へと、瞬間的に移動したことはない?

現実に、ではないにせよ、なにか自分と別のところから、引っ張られて、ふわりと身体ごと運ばれるような経験が。

シャガールの絵みたく浮かんで、

波に運ばれたときのような感覚で。

バスからひらりと降りたった時などに。

そんなふうな、実感を伴った想像をしてしまうのは、私だけの錯覚なのかな?

気持ちいいんだけどな。

 

あるいはまた、

あなたの信頼できる誰がが、

ただ何も言わずに側にいて、

とくに何するわけでもなく、

身体とからだを寄せあって、

でもハグ以上にはいたらず、

しばらくくっついたままの、

状態でいることは?

想像してごらん。

延長線上に性交を結ばずに、

セックスを帰結に置かない、

たんなる肌の寄せ合い。

悪くないと思わない?

私?

私は猫と昼寝してます。

肌寄せあって。

想像してみて。

じわりと伝わる温もり。

鰯 (Sardine) 2018/05/13

 

スチール100YEN

5月23日、福岡ヤフオクドームで、埼玉西武ライオンズ福岡ソフトバンクホークスを観戦した。結果は2対1でライオンズが勝利し、元所沢市民の私は大いに溜飲下げたのだが、上着を着たとき胸ポケットに入れていた帰りの新幹線の切符がないことに気づいた。たぶんユニフォームに着替えたときに落としたのだろうが後の祭りだ、博多駅で5千円弱で片道切符を買うはめになった。なんたるドシ。

その後、帰路の車中で私は下掲のマンガを思いだしたのである。以下ツイッターから5つを転載(主語:ぼく → 私)。

  • そういや昨日の野球観戦中、帰りの新幹線の切符を紛失したことに気づいたときに、ふと水島新司のマンガを思いだした。福岡ドームなら『あぶさん』だろうって?違うよ『野球狂の詩(うた)』だよ。私は野球を題材にしながらも庶民の人情を描く、初期の短篇群が好きだった。そこでさっそく本棚の奥を探してみた。

  • 1974年発行『野球狂の詩』第4巻、第1話の「スチール100YEN」。貧乏な親子が野球に夢中な観客の懐中を失敬する掏摸の話だ。私の意識下に是枝裕和監督のカンヌ映画祭受賞作品『万引き家族』があったから思いだしたのだと思うけど、「家族と軽犯罪」以外とくに共通点はない。水島新司お得意の、野球にかこつけた人情話である。

  • 掏摸の話は反社会的だろうか? 野球を冒とくしているだろうか?しかし「スチール100YEN」をけしからんと怒る読者は殆どいないと思う。他にも初期の『野球狂の詩』には、現在だと雑誌に掲載できないようなテーマがいくつもあるが、水島作品の根底にはヒューマニティーが溢れている。今ふり返るのも悪くない(しかし、今の目でみても絵に躍動感がある。運ぶ筆の勢いが違う)。

  • 球場の客席には、いろんなタイプの人がいるじゃない?年齢も性別も職種も性格もさまざまな。けど、俗に「サイレントマジョリティ」と呼ばれる何万もの人びとが、球のゆくえに一喜一憂しているさまを見ていたら、自分も含めてだけど、人間ってホント「おもろかしい」存在だなと思ったんだ。
  • そして思った、どうしたら抗う声をみんなに届けられるのだろうか、と。

私は是枝監督を反日呼ばわりし、『万引き家族』を国辱ものだとする、ネットウヨクたちの言説に我慢ならなかった。さいわいイタリア映画『自転車泥棒』を引き合いにした反論などが現れ、私もまた以下のようなしかつめらしい投稿をし、

羅生門』、『楢山節考』、今回の『万引き家族』。いずれも社会の暗部を描いた邦画である。国際的な評価を受ける理由は、人種や民族を超えた普遍的な題材を扱っているからだと思う。万引きするような国に思われたくないという「身内の恥」的な意識は、国家というイエに取り込まれたゆえの発想である。

『万引き』の題材を恥じる心性を批判したけれど、なんかちょっと違うな、とも感じた。

《いつから日本社会は、創作と現実の弁別がつかなくなったのだ?》

もちろん万引きは悪い。掏摸も悪い。でもね、『万引き家族』がパルムドールを受賞したとき私が真っ先に思い浮かべたのは中村文則の小説『掏摸』だった。軽犯罪をおかさざるを得ない者の視点から社会を描く、是枝監督の意図とも共通点がおおいにあると思う。

娯楽作品の中には、もっとカジュアルに悪人が描かれているではないか。『鼠小僧次郎吉』から『ルパン三世』にいたるまで盗っ人は庶民のヒーローだったはず。そりゃあ万引きは犯罪だ。罰せられる行為だ。が、だからこそ人の目を盗み、警固の網の目をくぐりぬけ、上手に頂戴する場面に、大衆は喝采を送る。

水島新司の『野球狂の詩』には、今となっては少年誌(初出:少年マガジン)に掲載できない内容のものが多い。選手の孫を誘拐して八百長を強要する話やらヤクザの親分が球場で抜刀して応援する話やら、タイトルに「乞食」を使うわ「くノ一」とも知らずにセクハラしまくるわ、NGのオンパレードである。

だから昔は良かった、表現の自由があった、と言いたいわけではない。むしろ人権に配慮するようになった現在のほうが社会のありようとしては望ましい。当の水島新司だって、今なら表現のモラルに配慮するだろう。

Twitterに〈若い女性にわざとぶつかる男性〉の動画がアップされているようなご時世である(#わざとぶつかる人 で検索してみるといい。酷いから)。父子が観客の懐を狙う画像はセンシティヴな問題があるかも、と思った。自分が不快でなくても、不快に思う人がいるかもしれない。それは不快に思った方の責任ではなく、不快な画像をアップした側の責任である。それゆえ私は上の画像を含めたツイートを削除することにした(どのみち反響は殆どなかったのだ)。

たぶん私が「スチール100YEN」を持ちこんで伝えたかったことは、こうだ。

  • 軽犯罪を題材にした創作物は星の数ほどある。ネットウヨクの諸君にとって映画『万引き家族』のタイトルと国際的な評価は許しがたいものかもしれないが、そう目くじらをたてなさんな。
  • 例えばこの「スチール100YEN」に描かれる掏摸の親子は野球を冒とくしているか?少年マンガの表現として相応しくなかったか?しいては高度成長期の日本社会を辱める内容であったか?
  • 私はそうは思わない。なぜなら「スチール100YEN」に描かれているのは親子の情愛と世間の人情だ。さらに憎むべきは貧困であり真に必要なのは子どもへの教育だと問題提起もしている。
  • 映画も小説もマンガも、表現の方法に違いはあるけれども、現実社会に訴える役割がフィクションにはあるという点では一致するところだから。

そんなことを私はTwitterに問いかけてみたかった。が、言葉たらずだった。ゆえに改めてMediumに記しておく次第です。 鰯 (Sardine) 2018/05/26

 

『響』の書いた小説は?

子どもに勧められ、柳本光晴作『響・小説家になる方法(ビッグコミックスペリオール連載)』を、既刊9巻まで読んだ。評判通り、面白かった。

細かい箇所を論う無粋な真似は避けたいが、私が唯一気になったことは、

《主人公、響の書く小説とは、いったいどんな小説なんだろう?》

である。説明は最小限に抑えられ、小説の内容は読者の想像力に委ねられる。これに近い構造のマンガは『BECK』だろうか。ロックバンドの歌が)どんな歌詞でメロディーかは読者が自由にイメージしてくださいという。『響』の小説もそれと似ていて、詳細はわからぬままだ。

その点クラシックは有利だ。例えば『ピアノの森』だったら、ピアノを弾くシーンに「ショパン練習曲・第◯番」と添えればよい。あとは読者が好きなピアニストの演奏を勝手に思い浮かべてくれる。実際にCDをかけながら読むかもしれない。「絵解き」ならぬ「音解き」である。

比して、マンガで小説を書くのは至難のわざだ。圧倒的な天才である響の小説が凡百の作家の小説よりもどう優れているか、まるで分からない。ライヴァルはみな響の作品を読んで打ちのめされ、あるいは当の響によって善し悪しを無慈悲に宣告される。なんだか『遊戯王』みたいで、そこが面白いところだけれども。

そうして思い返してみると、劇中劇ならぬマンガ中劇をこれでもか、と描いた『ガラスの仮面』や、マンガ中マンガを描いた『バクマン。』は、やはり作者の力量というかマンガ家としての膂力が桁違いだったのだな、と再認したのだった。

もちろん『響』の面白さは其処ではないとは百も承知で、あえて無い物ねだりを記した次第です。

鰯 (Sardine) 2018/05/26