鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

アルゲリッチとアバド

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 (左クラウディオ・アバドマルタ・アルゲリッチ右)

 

マルタ・アルゲリッチを聴くと、他のピアニストを物足りなく思ってしまうほど、彼女のイメージは鮮烈で、ある意味〈典型的〉でもある。ぼくと同世代のピアニスト志願の女性たちは、たいていアルゲリッチに惹かれていた。いま振り返ると奏法のみならず、髪型からドレスまで、影響を受けていたように思う。>

 

<思えばあなたは、アルゲリッチそっくりだった。長く波打った黒い髪も、アーモンド形の双眸も、少し反った鼻筋も、への字に結んだ薄いくちびるも。気まぐれに揺れるテンポルバートも、気ぜわしく駆け上がり滑り落ちるスケールも、感情のありったけを降り下ろしたスフォルツァンドも。

 腕前さえを除けば。>

 

<あなたクラウディオ・アバドにちょっぴり似てるわ。
 彼女は言った。誰だそれと、ぼくはうそぶいた。
 名前は知っていた、マエストロだということも。
 ただ彼女のなまいきな口調に、ぼくはきみょうな反撥心を覚え、素直に喜べないまま、憎まれ口を叩いてたんだ。>

 

 誰だそいつとうそぶいたぼくに、数日後彼女は、ミンツが弾くヴァイオリン協奏曲のCDをぼくに手渡すのだった。

 

<プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲 第1番・第2番。アバド指揮、ミンツ演奏
とにかくあれは中身の音楽もさることながら、表紙の写真が好きだった。

 指揮者を見上げるヴァイオリンを携えた紅顔の美少年ミンツ。

 どうしたの? と首を傾げて独奏者に問いかけるアバド。
 リハーサル時の一瞬を真横から捉えた、あれこれと想像を掻きたてるツーショット。>

 

<たとえばフランクのヴァイオリンソナタなら、カヤ・ダンチョフスカとクリスティアン・ツィマーマン。

 独グラモフォンはホントにイメージ作りが巧い。黄色いレーベルに、うっとりするような物語性の強い写真。>

 

 伴奏を、弾いてくれないか。

 ぼくは彼女に訊いてみた。彼女は面倒くさそうな表情で、いいよと頷いた。

 声楽のレッスンの伴奏をお願いしたのだ、イタリア歌曲の、「カロラッチョ」だか「カロミオベン」だか。

 しかし彼女は、レッスンに現れなかった。次の週もそれが続いた。三週目にぼくは怒った。

「もういいよ、来週からほかのひとに頼む」

「えーっ、来週はかならずくるから」

 謝りつつも、ちっとも悪びれちゃいなかった。そういういい加減なところがあった。

 

 よく一緒にタバコを喫んだ。

 ぼくが一服していると、猫みたいにそろりそろりと近づいて、一本ちょうだいと目の前に二本指を突きだす。自分で買えよたまには、といいながら、ぼくは彼女の指にセブンスターを挿み込む。

 そして火をつけてやって、他愛ない話をしながら、休憩室の窓から斜めに差し込む光の束を、ぼんやりと眺めていた。

 彼女はぼくに訊ねた。

「ミンツとアバドの、聴いた?」

 聴いたよとぼくは答えた。第二番の第二楽章がいいな、ポリスの「見つめていたい」のギターリフとおんなじだ。アンディ・サマーズは自らぱくったって認めてるんだよ。

「そうじゃないって。あーいったい何を聞いてるんだろ。聴きどころ、間違ってるよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 不満げな横顔にむかって、今度はぼくから訊ねてみた。

「ところで。おれ、アバドに似てるかな」

「面長なところがね」彼女はくちびるを尖らした。「だけど、音楽性はまーったく似てないね」

「きみだって――」

 ぼくは言いかけたことばを呑みこんだ。きみだって、アルゲリッチを意識しまくっているじゃないかと。言いかけて、やめた。言うべきじゃないなと、とっさに思った。

「あなた陰でなんて言われてるか知ってる? ロールも叩けないパーカッショニスト」

「うるせえな」

「ティンパニは任せられない。小物打楽器が関の山、だってよ」

「自覚してるって」

「もっと練習しな。ここであぶら売ってないで」

 

 業を煮やしたぼくは、彼女のあたまをひっぱたこうとする真似をした。すると彼女は「やー暴力反対っ」と言いつつも、笑いながら身をひるがえすのだった。

 憎まれ口を叩くのが得意だった。だけど憎めないところがあった。

 彼女は、いろんな男性とつき合っていると、風のうわさに聞いた。ぼくはたいして気にならなかった。彼女のことを気に入ってはいたのだが、恋心は抱かなかった。

 ただ、なんとなく、気の置けない間柄だった。

 

 学内演奏会(音楽学校ではそういった催しがあるのです)のときに、ぼくははじめて彼女の弾くピアノをまともに聴いた。

 曲はなんだったか、ショパンかシューマンか、誰だかのソナタだった。

 彼女は、ほかのピアノ科の同級生たちと比べても、技術的に劣っているわけではなかった。しかし、彼女の弾くピアノは拙かった。ひとことでいって、練習不足。譜読みの足りてないのが、すぐに見て取れた。つっかえた分をカバーしようとするがあまり、アクセントで妙に力んで、汚い音を響かせた。見ているこっちまでが苦しくなった。

 ようやく弾き終わった。会場から、安堵のため息が洩れて聞こえた。

 ぼくは席を立ち、舞台の裏へまわった。柘植の植え込みのそばの、薄手のドレスが汚れるのも厭わず、彼女はブロックのうえに腰掛け、髪の毛をかきむしっていた。

 ぼくの靴先を認めると、彼女はぼくを見上げた。そして、

「ま、あんなもんよ」

 と自嘲したような、片笑みを浮かべた。

 居心地の悪さに、収拾をつけたくて、ぼくは努めて明るく、軽口をたたいた。

「いや、フォルテの連打、迫力あったじゃん。まるでアルゲリッチ…」

 そういった途端、彼女は目を見開いた。そして、歯をむいて唸った。

「……ひどい。だい嫌い!」

 あっち行って!

 ここに居ないで!

 あっちに行けーっ!

 か細く抗う声は、次第に大きくなって、叫び声に変わっていった。

 ぼくはその場から、そそくさと逃げ出した。振り返ってみると彼女は、あたまを掻き毟って、自分の足元を、見つめているようだった。

 彼女がどんな表情だったか、確かめることはできなかった。

 

 卒業してしばらく経って、街角でひょっこりと出くわしたことがある。

 彼女は、ブルーのしゃれたツーピースに身を固めていた。あんなに長かった髪の毛をばっさりきって、ショートカットで、アクティブな印象だった。

 仕事の内容は教えてくれなかったけど、音楽はやめちゃったの、とあっさり答えた。

「あなたはまだ、音楽やっているの?」

 演奏家じゃないけどね、とぼくは答えた。

 鍵盤ハーモニカや、トライアングルやカスタネットやタンブリンなんかの指導をしに、全国の小中学校を回っているんだ。

「へえ、よかったじゃない。小物打楽器ばっかり宛がわれてたのが、役に立ったね!」

 

 じゃあね、と片手をあげて、彼女はさっそうと歩いていった。すんなりと伸びた脚と、ハイヒールのかかとの鋭さが、いまでも目に灼きついている。

 

 

 それ以来、彼女とは会っていない。

 だが、マルタ・アルゲリッチの弾く、シューマンの「クライスレリアーナ」を聴いたり、クラウディオ・アバドの訃報にふれたりするたび、なまいきそうな彼女の微笑みが、ちらりと脳裏を掠めるのだ。