集団行動について、あれこれ書くのはやめようと思っていたのだが、やはりきちんと記しておかねばなるまいと思い直した。
先日、ぼくのツイッターに、こういうリプライがあった。
<私も「集団行動」の行進に背筋が寒くなるのに、一方で例えばムーランルージュの一糸乱れぬ完璧なラインダンスに「芸術」を感じるのはなんでだろう? と考えると、前者は心の余裕に有無を言わさぬ想像力の欠如だと、私もそう思う。>
大切な人からの、この問いかけは、あだやおろそかにできない。
軽々に答えず、一日あたまのなかで、いろいろと考えを転がしてみた。
芸術、とくに二人以上で「表現」を行う場合には、行動の一致というものが、どうしても必要不可欠な要素になってくる。
各自てんでばらばらに表現されても、受け手=観る側は納得できない。
それは舞台芸術全般の持つ宿命的な構造であり、芝居にも、舞踊にも、音楽にも、その他もろもろの表現形態にも適応される縛り=コードである。
(たとえば、ハプニング性をはらんだ前衛劇や、フリージャズやミュージックコンクレートなどの、「予め仕組まれた秩序破壊」は、なおさら「一致」からの逸脱という、ある意味では、一般の表現よりもさらに強固なルールを敷いているといえよう。ただしこの件に関しては、長くなりそうなので、ここで止めておく)
芸術を鑑賞する側の、あるいは芸能を享受する側の「受け手」は、表現されるものの行動様式が如何に一致しているかどうかを、興味の焦点とする。
考えてもみるといい、私たちは何に感心し、何に感動するのかを。
それは舞台上の演者が、一糸乱れぬ動作を披露したときである。
それがすべてであるとは言わないが、表現のカタルシスの最大は、そこにある。
大勢の人間が、ルールにのっとって行動することによって表現されるものに、人は賛美を惜しまない。
たとえば、往年のハリウッド映画で観られるシーン。
八頭身の女性たちがプールの中で円陣を組み、長い脚を一斉に振り上げる。
人々はため息を洩らす、なんて美しいんだろうと。
そこにエロティックなにおいを感じることはない。
ただ、動きの一致そのものを「すばらしい」と感じるのである。
そういった例を類挙する暇はない。
音楽でいえば、チャイコフスキー交響曲第4番第4楽章やフランク・ザッパの「インカ・ロード」に見られる、超絶技巧のユニゾン大会。
様式に従って、達者な腕前の持ち主が、音を、ピタッと揃える。それに触れたときに人は快哉をあげる。うひょー、コイツぁ凄えや! と。
さよう、表現において、動作の一致とは、すなわち「快楽」なのである。
その、動作の一致における快楽を、わかりやすく規格化し、統合したのは、MJことマイケル・ジャクソンであろうことは、菊地成孔が指摘するまでもなく、誰もが気づいていることだ。
だから、人(この場合は演者)が、あるひとつの意思・価値観・理念に基づき、一貫した行動を呈示すれば、おのずとそこには感動が発生するはず、である。
――するはずなのだが。
私たちは、すでに知っている。その行動様式の一致は、じつに危険なものであるということも。
ナチス党大会の模様を撮ったフィルムを、観たことはあるだろう。
「金日成のパレード」なら、ニュース等で何度も目の当たりにしているだろう。
それから、最初に挙げた、日本体育大学の「集団行動」を、小学生が模したものも。
整然と動くさまを、一糸乱れぬ行動様式を。
なぜ、ぼく(ら)は、素晴らしいと肯定できないのだろう。
政治的コンテンツを抜きにして。
(お叱りを受けるのを承知でいえば、ナチ党大会の様式美には、たまに圧倒される)
しかし、抗いがたい誘惑を撥ね退けてでも、ああいった集団行動を、否定する。
その、理性はどこから発生しているのだろう。
教育課程において、学習したものか。
はたまた、経験則として、体得したものなのか。
余談になるが、ぼくは20代のころ、就職したときに、浜松の航空自衛隊で3泊4日の「研修」を受けたことがある。
正直に言おう。行軍の訓練も、整列も、申告も、たいして苦痛ではなかった。
それなりに、こんなものだという、心の防衛を施していたせいもある。
しかし、最大の理由は、頭を使わずに、従っているだけの状態が、ひじょうにラクだということに、気づいたせいもある。
ハイそこで左、と、言われるがままに動いてりゃいいわけだから。
まあ、そんな温い集団訓練とは、比べものにならないくらいの困苦を、集団行動の子どもたちは受けているわけで。
だいたい、自分らが何で、一致団結して動かなきゃならないのか、と。
指導者にも、合理的な説明は、できないだろう。
だって、それは、美ではないから。
美を表現するための、行動様式ではないから。
結果として、それを「美」と評価されたとしても、それは本人たちへの評価ではないから(指導者への評価だから)。
彼らは、あくまでも「駒」に過ぎぬのであり、そこに表現者が自覚するべき、表現者の主体性を、要求されていないから。
むしろ、表現者としての主体性を、あらかじめ剥奪されているから。
だから、観ていて悲しくなる。
集団行動にいそしむ子どもたちと、金日成のパレードを構成する平壌の市民が、二重写しに見える理由は、じつにそこなのだ。
身もふたもない言い方になるが、ぼくは、そんなものに身銭を切りたくない。
お金を払う余裕はない。
資本主義の権化みたいな言いぐさで、自分でも嫌になるけれど。
ただ、整然と並んで、行進して、ぶつからないように交差して。
そんなもののどこが面白いというのだ。
それを「やり遂げた」という場面が、見所になるというなら、なおさら醜悪だ。
それは、表現ではない。
芸能ではないし、ましてや芸術でもない。
ただの見世物に過ぎない。
芸能者が、整然とした動きをお客様に披露し、その見返りとしての御代をいただく。
正当な要求である。
価値あるもの=表現に対しては、それ相応の対価を支払わなければならない。
それは資本主義の社会に生きている限り、原則である。
テレビは、その垣根を、すっかり低くしてしまった(インターネットも然り)。
芸能に、敬意を払わなくなった。
それが、しいては芸術の退潮をもひき起こす。
芸を極めた末に、芸術の域へ到達する。
(それが芸術であるかを決するのは、後世の者の仕事だ)
そういった健全なプロセスが破壊されてしまったがゆえに。
集団行動という情けない見世物が、大手を振って罷り通っているのである。
フルトヴェングラー指揮による「ニュルンベルグのマイスタージンガー」に聴き入る少女(1942年)
【追記】
子ども(この場合、高校生以下を指す)を使った表現に、ぼくがもうひとつ乗り切れないジャンルが、二つある。
それは「吹奏楽」と「マーチングバンド」である。
ことに後者は、〈行動を厳しく律しなければ成立しない〉という点において、考える余地が大いにある。
ほんのちょっとの意思のありようで、単なるしごきに堕してしまう可能性が否めない、境界線上にある表現ジャンルだといえる。
この件に関しては、後日、熟考したうえで書いてみたいと思う。
むかし、仕事の上で、少なからず関わった経験もあるので、その責任上。