鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

喝采

 

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 昨夜は少し飲みすぎた。目覚めてもまだ酔いが残っている。休みの前の晩はどうしても気が緩む。ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーターの音楽なんか聴きながら、眠りにつこうと目論んでいたのだが、意識の底のほうから、もう一つの旋律が低く鳴り響いてくる。こないだもそうだった。酔っ払って、帰りのバスに揺られていたときに、つい口づさむのは、むかしの歌だった。 

 


 絡まれたことがある。若造だったころ。いい気になって音楽の話をしていたら、いきなり知らないおっさんに噛みつかれたのだ。もちろんかれは酔っ払っていた。

「おまえさんそうやって、洋楽ばかりを誉めそやすが、そんなに洋楽は優れているかね? 邦楽はだめかね? 取るに値しないかね? 」

 え、どうなんだ答えろと、男はろれつの回らぬ口調で、ねちっこく問いかけてきた。ぼくは面倒くさいなあと思いつつも、しばらく相手に応じることにした。

「日本の歌が、嫌いなわけじゃないですよ。ただなんとなく、情緒に流れている感じがするなあ全体的に。歌詞に心情を仮託するってのが、ぼく苦手なんですよ」

「ふん。しかし情緒ばかりじゃあるめえ? いまどきの日本のポップスなんて、カラカラに乾いてやがる。情緒もへったくれもないよ。ドライでクールか。つるんつるんしていて、とっかかりがまるでないや」

「そうですか。最近のポップス事情には詳しくないですが。ともあれ聞かないんですよ。中学生の時分に、ロックに耳を奪われてからずっと。さまざまなジャンルを横断しました。だけど、歌謡曲には目がいかなかった。正直いって、どうでもいいんです」

 ぼくは少しだけ、投げやりに答えた。すると男は、残念だなといった。

「日本の歌にも、いいものがあるぜ。どうしてそんなに洋楽をありがたがる?」

 くどいなーと辟易しながらも、ぼくは違うことを考えていた。中学生の時分に流行ったマンガのワンシーンを、なぜだか思いだしていた。


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《隼人ピーターソンの指した先には、トヨタ2000GTが「バーン」と描かれてたっけ》

 思いだし笑いを、クククと噛みしめていると、男はなにが可笑しいと、不機嫌さを露わにした。

「いやおれだって」とぼくは慌てて調子を合わせた。「ロックを聴く前は、歌謡曲を聴いてましたよ。いや人並み以上に、邦楽のヒット曲が好きだったな」

「 たとえばどんな?」

ちあきなおみの『喝采』なんか、いまでも好きですね」

「おう、嬉しいじゃないか。あれは名曲だよ。1972年の、レコード大賞受賞曲だ」

「覚えていますよ大晦日の晩、レコード大賞があって、その後の紅白があって。家族でテレビを観ていたら親父が、ボソッというんです、『おい、この歌のレコード、買ってきてくれ』と。親父はぜったいに、自分ではレコード店には行かなかった。いつもおれに頼むんです、美川憲一の『柳ヶ瀬ブルース』だの、バーブ佐竹の『女心の歌』だのを。レジカウンターにシングル盤を持っていくと、店員さんにからかわれたもんです。『あら坊や、おませな趣味だこと』、なんてね」

「ハハハ。そいつは恥ずかしいな」

「恥ずかしかったですよ。小学生にとっては。でね、ちあきなおみの『喝采』は、正月開けにすぐさま買いにいった。花畑町の十字屋ってレコード店で。ついでに母にねだって、カラヤン指揮の『運命』も」

「嫌なガキだな」

「ええ。でもベートーヴェンは、それほど聴かなくて。もっぱら『喝采』ばかりかけていました」

「何度も聴くに値する歌だよな」

「イントロがよくてね、エレキギタートレモロが、なんとなくポール・サイモンの『母と子の絆』みたいでね」

「その、なんでも洋楽に例えるの、やめてくれないか」

「すみません、それは後づけの印象です。とにかくメロディーの起伏が大きくて。低い音域から高い音域まで、まんべんなく。しかも長い音符と短い音符の、伸び縮みする旋律が水平的なんですね」

「いってることの意味がわかんねえよ」

「ぼくは、そういう聞きかたしかできないんですよ。いまなお『喝采』を面白く感じる理由はなにかなと考えたら、それは作曲家の野心だったと思うんです。旋律は四七(ヨナ)抜き。だけど、コードのあしらいはモダン。サビの部分、Ⅲの和音でずーっと引っ張って、シンコペーションを効かせた主旋律に切迫感を与えているところなど、作曲の中村泰士の、そうとう腐心した跡がうかがえます。編曲もすばらしい。休符のところに入るピチカートや、オーボエのように聞こえるオルガンのオブリガートなど、随所に工夫が施され……」

「おまえさんは、そうやって分析するのが得意なんだな?」

「得意というよりか、好きなんですよ。好きになる理由を穿つのが。測るものさしは洋楽だけど」

「では、歌詞についてはどう思うね」

「歌詞か。歌詞はおれ、あまり気にとめないんですよ。バンドで歌ってたときも、歌詞を覚えられなくてね。頭に入っていかないというか、身に入らない。自分の書いたものでもそうだから、人様の書いた歌詞はなおさらです。

 あ、『喝采』の歌詞は覚えてますよ、さすがに。たぶん諳んじられると思う」

「ならやってみろよ。ここで歌うんだ。ただし、低い声でな」

    そこでぼくは、他の客の迷惑にならないように、小声で歌いだした。

 

 いつものように幕が開き

 恋の歌 うたうわたしに

 届いた報らせは

 黒いふちどりがありました

 

 あれは三年前 止める アナタ 駅に残し

 動き始めた汽車に ひとり飛び乗った

 ひなびた町の昼下がり

 教会のまえにたたずみ

 喪服のわたしは

 祈る言葉さえ 失くしてた



 つたがからまる白い壁

 細いかげ 長く落として

 ひとりのわたしは

 こぼす涙さえ忘れてた


 暗い待合室

 話す ひとも ないわたしの

 耳に私のうたが

 通りすぎてゆく

  
 いつものように幕が開く

 降りそそぐライトの その中

 それでもわたしは

 今日も恋のうた うたってる

 

 驚いた。まさかとは思ったが、ぜんぶ覚えていた。ぼくは間違っていないですかと、男に問うた。

「間違っちゃいねえよ。一言一句、怪しいところは一箇所もねえや。おれは(酔ってるけど)そのくらいはわかるぜ。

 で、どうだった。吉田旺書くところの歌詞は?」

「すこぶる、構造的でした」

「だろ? ただ情緒に流されているんじゃないんだよ。私小説ふう歌謡曲だと当時評された『喝采』だが、それは読みが浅い。これは完璧なフィクションさ。きわめて純度の高い虚構の物語なんだよ。それを、実在の歌手ちあきなおみが歌うことによって、リアリティが生じるんだ。歌すなわち彼女の人生だとね、聴き手は錯覚するが、それを織りこんだうえでの、逸話の創生さ。

『いつものように幕が開き、恋の歌うたうわたし』の一行目で、聴き手は、ああこれは、歌手の独白だなと感じるような仕掛けが施されている。しかし『恋の歌うたう』とは、醒めた認識じゃないか。歌い手の意識とは、離れた位置にある。

 次の『届いた報らせは    黒いふちどりが』の部分。この黒いふちどりが物議を醸したんだな、流行歌にふさわしくないとかいって、難色を示したレコード会社の幹部に書き換えを要求されたとも。しかし制作サイドは、ここは重要だからと撥ねのけた。一言一句、揺るがせにできないというのは、こういうことを指すんじゃないのかね。

 まあ、途中は端折るよ。彼女=ちあきは、故郷に戻り、亡くなったむかし交際した男の葬式に赴くんだ。そこんとこの描写は、まあ日欧ちゃんぽんというか、バタ臭いがね。描写のエッセンスはずばり映画だよ。さまざまな映画のオマージュが歌詞の中に隠されているが。ま、そのへんは好きなように分析すればいい。

 それよりかおれが、この歌詞は凄えなって思うのは、『暗い待合室〜』からあとの一連さ。とくに『耳にわたしのうたが、通り過ぎていく』の一行。ここ、どういうことだか、おまえさん分かるかね?」

「主人公が我に返るんですね。茫然自失の状態から」

「それもある。だが、我に返らせたものの正体とは、彼女自身の歌だ。てめえの歌った歌が、待合室に流れてきたんだよ。『四つのお願い』だか『X+Y=LOVE』だかが。その陽気な、お色気まじりのポップスが、ちあきなおみの『恋の歌』だろ? それを彼女は耳にした。『耳にわたしのうたが、通り過ぎていく』んだ。

 そして『いつものように幕が開く』んだ。『それでも私は、今日も恋の歌、うたってる』んだよ。それでも、ということばに、諦めと、決心と、その両方が込められている。分かるか? それは情緒なんかじゃない。認識であり、覚悟だ。

 おまえさん、構造に興味があるんなら、歌詞の構造にも目を向けないと。優れた流行り歌には、かならず確かな構造がある。それは、世界観とかいうあやふやなものではなく、理路もありゃ、企みもある。歌謡曲のセオリー、あらかじめ定められたルールを、いかに揺さぶるかが、作詞家の腕の見せ所ってわけだ。そうだろ? 違うかね?」

 ぼくはなにも言いかえせなかった。ただ、たったいま口ずさんだうたの余韻が、まだぼくの周りに漂い、くすぶっているように感じた。

 黙ってしまったぼくを一瞥すると、男は女将に「勘定を」と告げた。が、席を立って帰る間際に、男は思いだしたように、

「ま、その後のちあきは『宿命の女』になっちまったわけだが。ファム・ファタール。ベルベット・アンダーグラウンドは、知っているよな?」

 と言い残して、縄のれんをくぐって行った。

《何者なんだ、あのおっさんは?》

 いや、たんなる酔っ払いだ。むかしは説教好きやおせっかいが、市井のそこかしこに潜んでいた。

 

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《タイトルだけ覚えている。どんな歌だったか……》

 

 ――それにしても、とぼくは考えをめぐらす。

「降りそそぐライトの、その中」に絡めとられたのは、はたして歌うたいの宿命と単純に解釈していいのだろうか、と。

 眩いスポットライトを浴び、拍手喝采を受ける場所へと、主人公の歌手は、舞い戻っていった。そこで再び生きることは、諦めか、決心か、それだけか? もしかしたら名声への渇望も含まれるのではないか。「それでも」歌うのはなぜか。認識や覚悟といった、意思の表れというよりも、もっと潜在的で他動的な何ものではないか。歌の主人公が欲するものの正体を、『喝采』という、流行歌としては分かりにくいタイトルが象徴しているとは思えないか。

 おっさん、あれからからずいぶん時が経った。ぼくは酔狂にも未だ穿ってる。みんなが「え、そんなの当たり前じゃん、今ごろ気づいたの?」と呆れるような部分に、今だにこだわり続けている。

 便利なものだぜインターネットは。あんたが披露してくれた「ふちどり」のエピソードの他にも、Wikipediaをみれば、ちあきなおみが「わたし、これ歌いたくない」と漏らした(という)逸話まで記されている。手前勝手な解釈の余地は、限りなく少なくなってきている。だけど、あの晩交わした与太話ほど、想像力は掻きたてられない。

『喝采』のレコード、いまは手元にない。紛失したか捨ててしまったかの、どちらかだ。聴こうと思えばYouTubeでも聴けるだろう。だけど、あらためて聴く必要はない。ぼくの記憶のなかに、しっかりと刻みこまれているから。
 歌手を引退したちあきなおみ。降りそそぐライトに背を向けたまま。それでも彼女は、今日も恋のうた、歌ってる。