鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

努力しないで出世する方法 How to Succeed in Business Without Really Trying

 

 弘兼憲史氏にうらみがあるわけではない。以前ぼくは「島耕作」を最初からきらいだったとツイートしたが、それは嘘とは言わぬまでも本心じゃない。サラリーマン時代には、けっこう愉しんで読んだものだ。弘兼氏は〈こうだったらいいのになー〉という男性の願望をくすぐるのがじつに巧かった。

 

 先日ぼくは、一粒で二度おいしい、こんなツイートを投稿した。140近くリツイートされ、20,000を超える閲覧数がカウントされている。

 結果としてぼくは、「島耕作」シリーズを宣伝しているようなものだ。ハツシバ電器㈱の総合宣伝部に、広報担当者として雇ってもらいたいものだ。

 

 弘兼憲史氏本人と、作品「島耕作」シリーズは、分かち難くある。上掲した記事は、成功譚である「島耕作」の作者に訊くかたちをとっている。上のツイートに、「記事は弘兼氏の主張というより一つの現実を指摘しているだけだと思うけど」という反応があったが、ぼくはそう思わない。たとえどんな体裁をとっていようとも、そこから導きだされる結論は、「島耕作のように成功したかったら家庭を顧みるな」である。さらに、「女性のつとめは家庭にとどまること」というメタメッセージが含まれている。それは現政権の一部が唱える復古調の家族回帰論と軌を一にしている。すべては意図がらみなのだ。ぼくは、このように返信した。

 

 ご存知のように、「課長・島耕作」は調子のいい中年男が、たいした努力もせず、強運と周囲の手助けで評価を得ていく夢物語である。立ちふさがる困難はいつの間にか解決し、宿敵はなぜか失脚し、主人公は傷つかない。「いい女」が次々と現れ、一夜をともにするが、かの女らはステディな関係や結婚の束縛を強要せず、あくまでも受け身である島耕作の負担とはならぬよう配置されている。

 一マンガ、一娯楽作品としてなら、それらの設定は見過ごせる。アメリカ文化に造詣の深いだろう弘兼氏の、ミュージカル好みを日本流にアレンジしたものだと解釈すれば、ご都合主義に目くじらを立てるまでもない。

How to Succeed in Business Tony Performance - YouTube

(ご本家をちょっとご覧あれ。ハリポタのダニエル・ラドクリフが2011年度のトニー賞を獲っている。)

 しかし、弘兼氏と講談社は、島耕作を本当に出世させてしまった。連載開始から30年余を経て、いま島耕作は会長である。「課長」で止めておけばよかったのに、と思う。立ち振る舞いだけで派閥間を飄々と横断していく島耕作は、やがて社の命運を担い、国家の動向にも積極的にかかわってゆく。

 その過程において、作品の質もおのずと変わっていった。ユーモアやペーソスは薄れ、かわりに経済界なり政府なりのもくろむ方向性が随所に散りばめられた。戦前の「のらくろ」さながらに。「のらくろ」も講談社だったが、「島耕作」シリーズもまた、国策に絡めとられてしまった。

 そのプロセスは斎藤貴男 2003年の著書『精神の瓦礫』の、「(3)ある流行漫画家の変転」に詳しい。最初に接近したのが誰かは知らぬが、作品に「鯉住総理」が登場したあたりから、政権寄りの姿勢は露骨になった。

 ぼくはツイッターで、その部分をたびたび叩いている。以下ピックアップ。

久しぶりに「週刊モーニング」を読んだ。あの例の、くだらない家電メーカーの社長さんのマンガを、ついうっかり見てしまった。「島さん、今度の小野田総理は、よさそうですね」「うん、原発の継続にも一定の理解を示しているしな」云々、みたいなくだりが目に留まって、気分最悪だったぞ弘兼憲史posted at 17:57:30 

2011年09月17日(土)

 

今週の「社長 島耕作」より。→ 社員「社長、老婆心ながらサンパウロの路上では社章を隠した方がよろしいかと思います。日本のビジネスマンは強盗のターゲットになりますから」島耕作「わかった。日本では社章着用を義務づけているが、ブラジルの事情を理解してはずそう」。なんたる説明的なセリフ! posted at 18:17:34

このセリフを最低だなと思った理由は、説明的で不自然であるのもさることながら、セリフに込められた思想すなわち「ビジネスマンたるもの常に社章を着用せよ」というメッセージである。作者弘兼憲史は、松下電器仕込みの処世訓みたいなものを、作品中にこっそり盛りこむのが得意なので要注意だ。posted at 18:27:21

「社長 島耕作」で喜べるおめでたい人なんて、皆無だと思うのだが、あれを読んで「おれも成功したい」と願っているビジネスマンは、どうやら少なからずいるようである。ご勝手にどうぞって感じだが、あれは「社蓄になれ」って言ってるも同然のマンガだぞ。ぼくはそんなの、まっぴらゴメンだな。posted at 18:36:15

2012年02月24日(金)

 

忘れないうちに指摘しておこう。今週(先週発売)号の週刊モーニング「会長 島耕作」に取り上げられた、マグロ養殖の先駆・世耕弘一とは、現官房副長官の祖父である。つまり漫画家弘兼憲史世耕弘成は昵懇の仲ということか……あ、みなさんご存知でしたか。 pic.twitter.com/ou1ZoDp66Z

posted at 11:52:23 2014年10月21日(火)

 

官報漫画「島耕作」。二週に渡って集団的自衛権の正当性を絵解きする(文字ばっかりだけど)。しかしここまで描くと、若手二世タカ派議員の脳天気さ・滑稽さ・人命軽視の危険さを風刺しているように読める。いや違うな。次頁は拍手喝采のシーンだから。 pic.twitter.com/lnb7E3cGO7

posted at 19:35:39 2014年11月24日(月)

 このように変転してしまったのは、いったいいつごろだろう?

 先日ぼくは偶に通うラーメン屋で、「部長・島耕作」を読んでみた。そこで冒頭のシーンを発見したのである。

 この星という部下からの痛烈な批判を島耕作はシビアに受けとめる。反論もせずただショックを受けるのだ。そしてそれ以降、島耕作はある意味「強く」なる。出るべきときは打って出、容易に引っこまなくなる。出世譚の典型としての「島くんも成長したな」の部分である。

 時系列に沿っていけば、この指摘された「弱さ」こそが、当時の日本が置かれていた状況の、「カネは出すが、行動はしない」とみごとに合致している。そう読むのは、穿ちすぎだろうか? 思えば島耕作は優柔不断な男だった。そしてその優柔不断さは、じつに戦後ニッポンを体現していた(下半身にだらしない部分も含めて)。しかし米国から態度表明を突きつけられた日本は、旗色を鮮明にするのを余儀なくされる。その一連と「島耕作」の作風の変化は、いかに似通っていることか。

 細部は各自で読み取ってもらいたい。ぼくは、上記の「部長:第10巻」が分岐点だったと考えている。その後、島耕作の表情はだんだんと強張ってゆく。救いとなる柔和な表情をめったに見せなくなった。というより、作者が描けなくなってしまった。

 いまの「島耕作」シリーズは、政府官報の絵解きのようなものである。絵に生気がなく、描線に動きがない。それは弘兼氏の画力の衰えではないように思う。他誌で連載されている「黄昏流星群」は、もう少し絵柄が生き生きとしている。

 

 さて、週刊ポストの記事の件だが、ぼくは以上の理由で、弘兼憲史=「島耕作」シリーズの作者、だと捉えている。そして、出世というタームを利用する以上、「出世ができる男の条件」が該当記事の伝えたい主眼であり、現状認識の例などでは断じてないと思っている。

 さらに、「島耕作」シリーズにおける女性の描写、とりわけ配置の仕方から判断すると、弘兼氏の意見と「島耕作」に描かれた世界観に、さほど違いはないと言いきれる。作品の中で弘兼氏は主人公に「プライオリティは家庭より仕事だ」と、はばかることなく再三言わせており、子どもは女性が育てるべきであるという世界観で作品は覆われている。権力者は例外なく愛人を囲い、泣く目に遭うのは決まって女性の側だ。それでも、〈それが世の中というものだ〉という風刺を含んだ一種のピカレスクロマンならば、ぼくもムキになって批判はしない。だが、架空の作品と現実社会の境界線に明確な線引きをしない、〈マンガと官〉をミックスさせる弘兼氏の手法を、訝しげにみてきた一読者からすれば、今回の記事も政府・官僚・財界の意向に沿った発言であると疑わざるを得ない。

 だから批判するのである、「島耕作」シリーズの作者である、弘兼憲史氏を。

 率直に言わなきゃ分からないか?

「努力しないで出世する方法」とは、「家庭を蔑ろにすることである」だ!

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「はつり」を率先する中沢社長。いまの「島耕作」は、魅力的なキャラクターが居なくなってしまった。

 

 

 しかし、もし弘兼氏が、現実世界の展開を踏まえたうえで、「このような男が出世したら会社は傾き、このような男に権力を与えたら国家の存亡にもかかわる」ことを、「島耕作」という大河マンガの最終テーマに据えているとしたら、それはある意味、壮大な構想だといえるのかもしれない……(まさかネ)。