鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2018年11,12月のMedium

 

臨場感

を味わうべく、ではなく、よく分からないまま、シネコンで4DXを体験してしまった私。

www.unitedcinemas.jp

カーアクションもバイオレンスシーンもない、音楽ものの映画だったから大丈夫だろうとタカをくくっていた。が、甘かった。観終わったあと疲労困憊でグッタリしてしまった。

数々の仕掛けに気をとられるがあまり物語に没頭できなかった。

カメラの位置が変わるとともに、座席の角度が変わる。ズームインで前のめり、場面転換で仰け反らせ、主人公がクルマに乗るたび椅子の下から振動が伝わるものだから、動きのある場面になるとつい身構えてしまう。

部屋の中での会話のシーンでホッと一息つくものの、油断は禁物、口論になるやいなや体感装置が稼働、ガラスの割れる音やら、フラッシュを焚く光やらが四方八方から襲いかかるので、気の休まる暇もない。

パーティの場面になるとやおら香水の匂いが漂うし、ライブの場面で演奏が盛り上がると座席伝いに重低音が腹に響く。さらにはスクリーンの両脇からはスモークがモクモクと噴出すし、もう、何でもアリのアトラクション状態である。

私は映画を観に来たのだ、遊園地に来たんじゃない、と内心憤った。もちろん窓口では丁寧な説明があったし、上映前にも再三お断り(注意というか警告)動画が流れていたから文句を言える筋合いではない。事前に確かめない方が悪い、のだが。

(何を観たかはバレバレですね……)

まあ、観る映画によっては、スペクタクルな演出が増幅されて面白く感じるかもしれない。戦場の真っ只中にいる気分にもなれるだろう。私はとんと興味がないけど、ゲーセンにある格闘技の対戦ゲームなんかに近い感覚が味わえるかもしれない。さらなる刺激を求める向きには結構な趣向だとも言えるかも。

ただ、くり返すが初老の私には刺激が強すぎた。これを書いている今も頭が痛い。船酔いみたいな感覚が残っている。心臓に疾患のある方などは、ホントに体験しない方がいい。私は二度と4DXでは観ない。3D映像やドルビーサラウンドだって苦手なのだ、これ以上の臨場感はまっぴらゴメンである。

倍近く払った入場料は勉強代だと思うことにする。

鰯 (Sardine) 2018/11/10

 

“Et tu, Brute?”(ブルトゥス、お前もか?)

仏の経済誌レゼコーは日産の西川社長をブルトゥスに喩えたそうだ。となると、カルロス・ゴーンカエサルってことか。

カルロス・ゴーン氏の逮捕をめぐってさまざまな報道が駆け巡っている。当然ながら、日と仏では捉え方がずいぶん違う。日本の報道の殆どが「推定有罪」(ゴーンが悪い)に傾く一方、フランスは、捜査のプロセスや日本の司法制度に疑義を唱えるものが多いようだ。

私の考えを簡潔に申し上げると、大企業役員の高額報酬には反対であるが、今回の〈日産内部からのリーク→司法取引→東京地検特捜部の逮捕→勾留延長〉という一連は、極めて悪手だと思う。しかし事の是非を問うのは、この稿の目的ではない。

ゴーン氏逮捕の翌日に、BSプレミアムで、エリザベス・テーラー主演の『クレオパトラ』が放映されていた。4時間の長丁場だので他のことをしながらチラチラ観ていたが、カエサルをブルトゥスが裏切る場面になるとさすがに身を乗り出した。ああいう史実に基づいた物語には、必ずや衆人が納得する「見せ場」があるものだ。

紀元前後のローマ史など西洋の文化圏においては教養以前の常識だろう(アメリカ訛りのジュリアス・シーザーやブルータスをローマっ子がどう観るかはさておき)。カルロス・ゴーン氏をカエサルに、西川社長をブルトゥスに擬えることで、仏経済誌の購読者は見出しの意味あいを瞬時に理解するのである。「ハハン、謀ったな」と。

「日本はやっぱり外国人嫌いの国」との印象を、フランス人をはじめ外国人に与えたのも確かだ。「サッカーのハリルホジッチ監督も解任したではないか」と言い出す人もいる。フランスのメディアも同様の論調だ。代表紙「ルモンド」や経済紙「レゼコー」は「陰謀説」も流した。「レゼコー」はその後、「陰謀説」には疑問符を付けたが、“ブルータス・西川社長”との表現を使い、主人シーザーに目をかけられながら、暗殺団に加わったブルータス、つまり“裏切り者”に例えている。

出典:web ronza 『パリで感じる「ゴーン事件」の危うさ』山口昌子(在仏ジャーナリスト)2018年11月25日より

比して大半の日本人は、ローマ史にもシェークスピアにも関心が薄い。私も偶さか観た『クレオパトラ』でおさらいしていなかったらピンと来なかっただろう。むしろ謀反の例えとして日本人が即座にイメージしやすいのは「本能寺の変」であろうか。

逮捕の翌々日、さっそくゴーン氏を織田信長に、西川社長を明智光秀に擬えた、お調子者のジャーナリストをワイドショーで見かけたが、辛口のコメンテーターに「それじゃ三日天下になりますね?」と即座に指摘されていた。その後ゴーン氏の逮捕を「本能寺」に例えた論調はにわかに影を潜めたけれども、かの田中康夫氏が自らのウェブサイト上で、西川社長=明智光秀に見立てて言及していたのを、つい二、三日に見かけた。

Vol.431『日産の株式43%保有ルノーからブーメラン! 「強い憤りを感じる」発言の西川廣人CEO 三日天下の「明智光秀」で終わりそうな悪寒w』

田中康夫YouTube公式チャンネル「だから、言わんこっちゃない!」

ブルトゥスの率いる勢力は、のちにオクタウィアヌスアントニウスにより征伐され(そのアントニウスオクタウィアヌスに倒される)、明智光秀羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れ、小栗栖において落ち武者狩りに遭う。カルロス・ゴーンは代表の座を追われ、ルノー・日産・三菱は当分の間「三頭政治」を余儀なくされる現状である。さあ、西川社長が三社連合の覇権を握るのか?それとも初代ローマ皇帝アウグストゥス豊臣秀吉に匹敵するような傑物が現れるのか?や、状況の推移を見るかぎり、日本の二社から現れる気配はなさそうだが……

鰯 (Sardine) 2018/11/30

 

“Not In My Back Yard” ニンビーの使い方に要注意

港区南青山の児童相談所建設について説明会における反対の声が酷すぎると話題になっている。

www.asahi.com

青山ブランドに「児相の子つらくなる」 建設に住民反発:朝日新聞
周辺住民らの反対で難航している児童相談所などの複合施設「港区子ども家庭総合支援センター」(仮称)の整備について、東京都港区は14、15の両日、説明会を開いた。

南青山ブランドの価値が下がるのは困るという、思いあがった反対意見は確かに噴飯もので、これに批判が集中するのも無理はない。事なかれ主義の糸井重里氏は、

<ぼくは近所の住人ですが反対してる人なんかいませんよ。ヘンなことを言う人ばかり集めて「取材」してるんじゃないの?>

などとうそぶいていたが、週明けのテレビが荒れる説明会の様子を各局とも長々と取り上げたので、たとえ「一部」とはいえ、南青山にも困った住民がいるという事実は全国的に知れ渡る結果となった。

まぁいつもの私なら「怪しからん」と気勢を上げるところだが、ちょっと待てよ、と思い留まったのにはわけがある。辺野古基地建設再開における土砂投入の報道が影に隠れたように思えたからだ。そこで私は月曜の晩、こんなツイートを投稿した。

港区南青山児相建設について、反対する理由は確かに噴飯ものだが、過熱する報道には〈建設反対は住民エゴである〉との意図が含まれているようにも思える。辺野古の新基地建設と混同する言説には警戒すべき。

さらに翌朝、著名な精神科医斎藤環氏がこんな意見を投稿していた。

来年の授業で「NIMBYISMとはなにか」を学生に教えるのに素晴らしい教材。青山NIMBYISMは生涯忘れられない記憶になるでしょう。「必要なのはわかるけどよそでやってくれ」というアレ。地域住民の公共心をはかるモノサシ。

このNIMBYISMの文字面をみて、嫌な記憶が蘇った。私は数年前、ある民事裁判を集中して傍聴した。産廃の処理について地域の大企業と一住民が争っていたのだが、〈家のそばにゴミを捨てないでと反対する訴えは、地域の公益を無視したいわゆる“NIMBY”ではないか?〉との意見や、また〈騒いでいるのは一部の者で大部分の住民は大して問題視していない〉という意見を見聞きした。SLAPP訴訟で大企業から訴えられた)被告の側を支援する立場で裁判をレポートしていた私も「余所者が口を挟むな」と匿名の集団から中傷されたものである。

閑話休題。ともあれ“NIMBY”の語源を確かめてみよう。

NIMBY(ニンビー)とは、英語 “Not In My Back Yard”(我が家の裏には御免)の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉である。日本語では、これらの施設について「忌避施設」「迷惑施設」「嫌悪施設」などと呼称される。/NIMBYによる反対運動は、「施設が建設されると地域や住民に対して環境被害などの損害をもたらす」などと主張し、以下の理由で建設や誘致の反対運動を起こす場合もある。①施設から直接ないし間接的に衛生・環境・騒音などの面や健康上・精神的な被害を受ける。②施設の存在により地域に対するイメージが低下する。③また、それによって不動産の資産価値が下がる。④施設の影響で治安が悪化する。⑤住宅地や学校の近くに建設されると児童の目につきやすくなるため、教育に悪影響を与える。(Wikipediaより抜粋)

さよう、南青山児相建設の件は、斎藤先生が仰る通り、典型的な“NIMBY”である。それに異存はないが、でも、なにか引っかかる。私は週明けのワイドショーで、冷やかな笑みを浮かべた識者が、紛糾する説明会のあとに加えた妙なコメントを思い出していた。

つまり……反対する一部住民の極端な言い分をことさら論うことにより、ホラこれこそがNIMBY(ニンビー= “Not In My Back Yard”)というんだよ、という風潮を醸し出す企みに思える。考えすぎかもしれないけど、昨日も「沖縄の問題もそうだけど」と余計な一言を挿むコメンテータを見かけたんだ。要注意。

さらに、青山児相の話題で辺野古の問題が蔑ろにされている、との意見に、

港区児相の報道、杞憂かもしれませんが、建設を反対する一部住民の極端な言い分をクローズアップすることにより、建設反対=住民エゴの図式を醸成しようとする意図があるように思えてなりません。昨日も、説明会の映像のあとに「沖縄の問題もそうですが〜」と余計なコメントを挿む論者をTVでみました。

と返信の形で念押しした。また、私の他にも、

>「南青山選民思想」、ちょっと注意したいのは、児相の民営化ビジネスとか、立地の不味さとか、他にマトモな反対理由があるのを住民エゴに見せかけようと、故意に選民思想が流されたりする件。以前、保育園反対でそういう世論操作が行われていた。

と警告する方(‪@kinokuniyanet)もいた。

そう、私はマスメディアが「辺野古の反対も地域住民のエゴだ」という印象を与えるのではないか、と危惧したのである。青山児相の問題はスピン(目くらまし)であり「反対運動そのものの無効化」に使われるのではないか、と。

しかし、辺野古新基地建設(註:普天間基地移設とは断じて呼ばせない)反対の声が、かき消されることはない。例えば、ホワイトハウスへの要望書に署名した人の数は既に10万を突破している。

そんな中、

>南青山の児相反対運動と、米軍基地は必要だとしながら沖縄におしつけている日本中の人とはNIMBYで通底している。

というユニークな内容の意見を見た。なるほど、これだと〈南青山在住を特権的に考える人たちの思いあがりは沖縄に基地を押しつける本土の人を象徴している〉と捉えることができる。言葉の扱い方や光の当て方で、〈地域住民のエゴ〉に回収されそうな嫌なムードを、〈いや違う、基地反対は沖縄県民のエゴではない。むしろ沖縄への基地定着を我が事と捉えず、他人事としか感じない大多数の日本国民のエゴこそが“Not In My Back Yard”なのだ〉と撥ね返すことができる。

もちろん予断は許さない。国家権力はあの手この手を使って、沖縄の米軍基地問題を相対化したり矮小化したり鎮静化させようとしたりするだろう。その企てに乗らないことと、権力に追随する識者らの空疎な言説を凌駕する理路を備えることが、今後ますます重要になってくるだろう。

鰯 (Sardine) 2018/12/19

 

すてきなホリデイ

クルマの中でラジオを聴いていたら、パーソナリティの松任谷由実が自曲の「恋人はサンタクロース」をかけた後に、「この歌が流行したことで、クリスマスをシングルで過ごす人たちを悲しませたという、私はいわば、戦犯なわけですが〜」と喋っていて、戦犯とはまた大げさなと思いつつも、私の脳裏を過るのは、山下達郎の「クリスマス・イブ」で、そういや山達「クイーン・オブ・ハイプ・ブルース」という曲で、「あなたじゃ駄目、私と格(クラス)が違う」と、ユーミンの女王様然としたセリフを皮肉っていたなあ、なんてことを思い出していた。

山下達郎という人は日本には珍しいタイプの歌手&作家で、手強い横丁の旦那よろしく頑固でコンサバティヴなスタンスは、ある意味かれの音楽よりも興味深いが、奥方の竹内まりやは、それに輪をかけた鉄壁の強面ぶりで、日曜2時の番組での夫婦の掛け合いを聞いていると、これは達郎氏、頭あがんないだろうなと思わせる、竹内まりや氏の隙のない態度に感心することしきり、の私ではある。

だが、私は竹内まりやの音楽そのものには殆ど関心がない。ピーチパイとか元気を出してとか駅とか、いくつか代表曲を知ってはいるが、ちょっとドメスティック色の強すぎるメロディーがあまり得意でないのだ。さらに、竹内まりやの作品を聞くたびにいつも思うことだが、歌詞の手強さというか、平易ゆえの“あけすけさ”が苦手である。

何というか、彼女の作る歌詞は、深読みができないほど表層的なのだ。その典型例が、往年のアイドル河合奈保子に提供した「けんかをやめて」である。「けんかをやめて、二人をとめて、私のために争わないで」というアレだ。まだ若かった私は初めて聞いたとき、思わず耳を疑った。これは何だ、聞き手を愚弄しているのか?それとも、マジかと戸惑うのだった(広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」も竹内まりや作だった)。

以来、竹内まりやの歌声に遭遇するたび、私は耳にしないようそれとなくやり過ごしていたのだ。が、毎年、年の瀬になると避けて通れない歌が聞こえてくる。フライドチキンのCMでお馴染みの「すてきなホリデイ」である。

このアメリカンスタンダード的な曲調は、かなり好きなんである。よく出来た、などという冷めた感想は言いたくない。この夢心地な音楽に浸りたいと思うほど。だが歌詞がダメなんだ。私にはやはり飲みこみ難い。

新たに書き起こすのも面倒なんで、昨年某所に投稿した感想を並べてみよう。

①れいの、ニワトリさんが恐怖する竹内まりやのクリスマスソングを二度ほどちまたで耳にした。しかし、あの歌に限らず、常套句が満載の割り切りのよい歌詞には毎度のことながら感心する(ほめてない)。広瀬香美といい勝負だ。

②歌詞の全部を載せるわけにはいかないから、気になった行だけ抜き書き。

すやすやと眠る子供達の手に

かじかんだ指をママが温める

嬉しさを隠せない犬や猫まで

穏やかな毎日が続くぜいたく」

と、書き起こしてみると書割感がものすごい。とりわけ空虚なのが次の行。

いつもより優しそうなパパの目が笑ってる

優しそう。ぜんぶ絵空事なんだ……

③ けど、こういう揚げ足取りもまた空虚なものだ。「元気を出して」とか「勇気をください」とか「感動をありがとう」とかにアイロニーしか感じなくなって久しいが、「頑張ろうね」としか言いようのないシチュエーションだってあるんだから。歌詞にケチをつけるのはほどほどにしないと、自分の首を絞めてしまう。

さて、「クリスマスが今年もやってきた」。

④しかし、あゝ今年も聞いてしまった(歌い手のダンナさんが自分のラジオ番組でラストにかけていたのです)。

嬉しさを隠せない犬や猫まで」の箇所で、「ンなワケないだろ!」と突っこんじゃうのも毎度の年末である。

まっ、この年齢になると、赤くラッピングされたプレゼントも丸いケーキも七面鳥がわりのチキンも無縁ではあるが、クリスマスソング自体はそれほど嫌いではない。誰かが、<日本人はこの季節、去年のクリスマスにこっぴどく振られた歌と、クリスマスだってのにベトナム爆撃していることを嘆く歌(鰯:ジョンとヨーコ“ War is over”のことだろうか?)ばかり聴いて気が滅入らないのだろうか。いつも疑問>とつぶやいていたけど、そうかなあ? ザ・ポーグスの「ニューヨークの夢」なんか、今年は二度も聞いたよ。

と、カッコよく終わろうと思ったが。

どうも私、〽︎クーリスマスがこっとっしっもやーってくるぅ、と事あるごと何気に口ずさんでいるらしい。パートナーからからかわれました、「ホントはその歌、好きなんじゃないの?」って。……ん、かもしれないね。🎉  鰯(Sardine) 2018/12/21

 

2018年10月のMedium

ワナビー

高橋源一郎氏が新潮11月号にて発表した、「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」がWeb上にも載っていた。

kangaeruhito.jp

読めばお分かりの通り、「」つきの文藝評論家である小川榮太郎氏の文筆活動を、作家高橋源一郎の筆は、容赦なく腑分けしてみせる。純粋(でやや時代遅れな)文芸評論家としての小川氏をAと、安倍政権を称賛し、擁護する文章を量産した小川氏をBと、氏の文章に表れた二面性を、残酷なまでに浮き彫りにしている。

さすがだ、と思いつつも私は、自分の過去をふり返り複雑な気持ちになってしまった。それは当の高橋源一郎氏自身も、抱えているであろう複雑さである。

 

私は、地方都市主催の小説新人賞に応募し、高橋氏と一度お会いしたことがある。佳作を得たその席で、「とにかく書いて書いて、書きまくってください」と励まされた。優しい方だな、と思ったが、その二年後、違う文学賞の最終選考に残った時は、厳しい講評をいただいた。「マンガみたい、でもマンガだともっと上手く描ける」と。つまり私の小説はマンガのようであり、同種のテーマを上手に扱ったマンガが他にたくさんある、と指摘していたのだ。

そうとうヘコみましたよ当時は。たぶんそれは、小川榮太郎氏が『新潮』に抱いたであろう感情と、程度は違えど同種のものだったと想像がつく。悔しさと諦めがない交ぜになった感情。おのれの筆の未熟さや欠点を省みる以上に、承認されなかったことへの絶望が優っていたのではないか。私の場合、冷静になって文章の拙さを自覚できるようになるまで相当な時間を要した。

もし、認められなかった悔恨が解消されていない時に、「君の過去の作品を出版しましょう。その代わりに」と耳打ちされたら、果たしてどうだろう。自分の意に染まぬ内容の文章を書くことも辞さなかったのではないか。しかも相手が海千山千の編集者だったら、誰彼にどんな文章を書かせたら冴えるかくらい、あらかじめ織込み済みで交渉してくるだろう。私だったら、その誘惑に抗えないと思う。執筆料がもらえるという現実的な利益はもちろん、自分の文章が雑誌に載り、著者名つきの書籍になることを約束されたら、それこそ「書いて書いて書きまくる」ことだろう。それが物書きの性(さが)というものだ。小川榮太郎氏の全著作を読んだという高橋源一郎は、そのことが身にしみて分かるからこそ、「おれは泣いた」と題したのだろう。僅か数年間物書きを志した私でさえ、身につまされる思いがしたくらいだから、文芸の最前線に立ち、数多の作家たちの栄光と挫折を嫌というほど見てきた高橋氏ならなおさら、小川榮太郎Aが小川榮太郎Bに変貌した理由が痛いほど理解できたに違いあるまい。

そういう悔恨は時を経ても、いまだになんかの拍子によみがえるものだ。たとえば最近、コラムニストの小田嶋隆氏は日経ビジネス2018年9月28日の連載記事に、こんなことを書いていた。

というのも、メディア企業に粘着する(ツイッター)アカウントの多くは、つまるところ、自分自身マスコミに就職したくてそれがかなわなかったいわゆる「ワナビー」であり、同様にして、ライターやコラムニストに直接論争を挑んでくるのも、その大部分はライターやコラムニストになりたかった人たちだからだ。彼らは、メディアの中で発言している有象無象の低レベルな論客よりも、自分の方が高い能力を持っていると思っている。にもかかわらず自分に発言の場が与えられていない現実に不満を感じている。だからこそ彼らは何かにつけて突っかかってくる。

まあ、書かれた内容に異存はないし、小田嶋氏の社会・文化批評のスタンスに私は依然として共感しているが、しかし、文中の「ワナビー」という雑駁な括りには少なからず失望した。読む側の勝手ではあるが、ワナビーの文字面に傷ついたのである。そりゃあ何かと突っかかってくる有象無象の連中に辟易するのは分かるけどもさ、自分に意見してくるものを「マスコミに憧れたけれども果たせなかった者ども=ワナビー」と一括りにするのはちょっと酷いンじゃないかオダジマさんよ、と言いたくなったのである。

小川榮太郎氏は、小林秀雄江藤淳に擬えて「文藝評論家」と自称したわけだが、彼こそ「ワナビー」の典型であった。幻惑されたネトウヨやら冷笑家やらの有象無象が、いつまた小川Bに化けるやも知れぬ。マス・コミニュケーションの担い手たちは、今一度かかる危険性を考慮すべきではなかろうか。

さよう、私は「小説家になろう」という、あてどない夢を抱いた者である。ひたすらに書く努力を怠り、原稿の発送を躊躇ったため、あえなく夢はやぶれたが、君もワナビーの典型だねと言われれば、頷く他ない。今は表現者になる意思も気概も潰えたけども、SNSの発展したインターネット社会の片隅で、気まぐれな戯言を今後も綴っておりたいと希っている。

私は何者にもなれなかった。出版にも文壇にも無縁の人生だった。この歳で今さら無謀な挑戦をする気力はない。

が、時に夢想することもある。私の駄文がもう少し世間に認められないものか、と。そんな邪心が芽ばえたときに、悪魔のようなあいつが「書かないか」と囁いたらどうだろう? 眠らせていた“Wanna Be”が目覚めるかもしれない。そのおそれは私のみならず誰にでもある筈だ。

鰯 (Sardine) 2018/10/19

 

二つの『うつくしいひと』。

熊本出身の行定勲監督が、同郷の高良健吾ら人気俳優とともに撮った短編「うつくしいひと」。その完成から3か月後、熊本は震災に襲われ姿を大きく変えてしまう。番組前半は「熊本が復興に向け歩む姿を映像に刻み続編を放送。後半は、女優・石田えり益城町や南阿蘇村などを訪れ、震災ける」と決意した監督が震災直前と直後の熊本を舞台に撮影した2つの短から1年を迎えようとする熊本の人々の今と未来を見つめる▽初・2017年放送

今日2018/10/22、再放送を観たのだけれど、震災前に撮られた『うつくしいひと』は、よくできた熊本の観光案内図のようだった。嫌味をいえば橋本愛のプロモーションフィルムのようにも感じた。ホイットマンの詩の一節を吟ずる文学おじさま姜尚中に誘われ、いかにも熊本らしい場所を探索するという趣向。上江津湖、菊池電鉄、菊池水源、熊本城、阿蘇草千里と、さまざまな風景のなかに、初老の姜さんは高校時代の自分(たち)の姿を幻視する。8ミリ映写機を夢中になって回す高校生は、若き行定勲姜尚中アマルガムである。

二高出身の行定勲監督が、熊本の高校生を表すのに、姜尚中の出身校の済済黌を使う理由と距離感、分かるなあ。※

このノスタルジックで上品な短編映画が菊池映画祭で上映された翌月に、熊本は震災に見舞われる。帰熊していた行定監督は、俳優高良健吾と合流し、給水活動に奔走する。そして被災地の惨状を目の当たりにした監督は『うつくしいひと』の続編、『うつくしいひと サバ?』を撮ろうと決意する。

高良健吾が演ずる私立探偵と仲間たちの溜まり場は前作同様、橙書店であるが、前作では新市街、後作では練兵町に移転した店舗が舞台となっている。フランスの異邦人が、病死したパートナーの遺骨を抱いて震源地である益城町の実家を訪れる。家屋という家屋は崩壊し、町並は見る影も形もない。ようやく会えた亡妻の実父は、仮設住宅に住んでおり、地震で何もかも奪われたと、堅く心を閉ざしている。一行が途方にくれていたそのとき、亡き妻にそっくりな女性があらわれる。

www.kumamotoeiga2.com

筋書きの好都合はこの際問うまい。益城町の復興市場で石橋静河がダンスを舞うシーンに、私は息を呑んだ。彼女が動きをとめた刹那、ワーッと感情を爆発させる、そのときに背景が荒涼と一変する。益城町のみならず、立野の阿蘇大橋、寸断された国道57号線、そして熊本城の石垣と、地割れと瓦礫の残骸のなか、ゆっくりとした動作で女性は踊る。じつは震災以後に私は、崩壊した日の光景をなるべく思い出さないよう用心していたが、その防禦は叫びとともに破られて、さまざまな思いが一挙にフラッシュバックした。去来はしかし、必ずしも辛いばかりではなく、むしろ懐かしいような、不思議と甘美な感覚をもたらした。そして私は何故か、震災の前に撮られた、前編の熊本城のシーンを回想していた。

熊本市民である私は、写生大会などで子どものころから慣れ親しんでいた熊本城を、あたりまえのものだと内面化していた。が、武者返しと呼ばれる石垣の優美な弧線は、震災によって無惨にも毀されてしまった。私が生きているあいだに、石垣は元どおりに復元されるのだろうか? 城址の傍を通るたびに、そんなことをつい考えてしまう。

思えば『うつくしいひと』前編は、それぞれが記憶の底に焼きつけた城のイメージを、なんと見事に保存してくれたことだろう。熊本県民は、原風景を喪失ってしまった。けれども『うつくしいひと』を再生すれば、かつて存在した武者返しのうつくしさに、再びめぐり会えるのである。

だけど『うつくしいひと』は震災後に撮られた『サバ?』の方が圧倒的によい。高良健吾もいい顔している。ああいう若モン、熊本によくいる。

『サバ?』の方が圧倒的によい理由。それは人間が活き活きと描かれていることだ。高良健吾らの演ずる若モンたちの表情は、観ていて清々しく、たくましい。それは今リアルに暮らす市内にいても日々感じることだ。熊本は以前よりも活性化している、より喜怒哀楽を表に出す県民性が育っている。その過程においては、祭のあり方やら議会のあり方やらの、是正しなければならない旧弊な慣習が立ちはだかるだろう。が、破壊の後には創造があり、創造の道程には希望がある。だから私は熊本の地域の未来をあまり悲観してはいない。熊本地震の前後を併せて一編だ。二つの『うつくしいひと』を観ながら、私はそんなことを考えていた。

手放しの地元礼讃であり、とくに前編にはある種の閉鎖性を感じられるかもしれない。が、震災後に撮ったアクティヴな後編と対比することにより、ややスノッブな前編も震災前を記録した映像として新たな意味がもたらされた。『うつくしいひと』は、二つ続けてみてこそ真価を発揮する短編映画である。‬

 

※『サバ?』に鮨屋の主人役で出演の井手らっきょ氏はわが出身校の先輩に、監督の行定勲氏は後輩にあたる(もちろん面識はない)。

 

河瀬直美監督のいう「物語性」の、向かう先が気になる。

石橋静河さん直近の仕事は下掲リンク参照のこと。

が、それより気になるのは、映画監督の河瀬直美氏が、東京オリンピックの公式記録映画を撮ることに決定したという報道だ。

東京五輪の公式映画 監督にカンヌ映画祭河瀬直美氏 | NHKニュース
2020年の東京オリンピックを描く公式映画の監督を、映画監督の河瀬直美さんが務めることになりました。www3.nhk.or.jp

河瀬監督は「単なる記録ではなく今の日本にオリンピックでどのような変化があるのか、物語性をもった作品にすることが、世界の人の心を動かすことになるのでは」と会見で語った。

彼女の起用については、さっそく「レニ・リーフェンシュタールの再来」を懸念する声が上がっている。

註:リニ・リーフェンシュタールナチス政権下のドイツで開催されたベルリンオリンピック(1936年)を記録した映画『民族の祭典』を撮影した、女流映画監督である。

河瀬監督は会見で、東日本大震災からの復興やボランティアにも焦点をあてたいとして、大会前に足を運んで競技以外も撮影していきたい、さまざまなところのドラマを見つめ続けることがドキュメンタリーであると語っているが、この話の持って行き方には「ほぼ日」や「プラハン」と共通する“香ばしさ”が感じられる。

さらに、

シャーマニスティックな作風の映画監督が、独自の主観で森羅万象に臨み、過度な「物語性」を演出すれば、国家に都合のよい映像作品に仕上がる可能性が大である。

ただし、

間違えてはいけないのは、あくまでも制作における方向性である。国際的な評価を得ている河瀬監督に対して、世評が警戒を促すことで、これから撮られる映画が、政府とJOCの期待する国策映画に陥らずに済むかもしれない。

この懸念が杞憂に終わりますように。

鰯 (Sardine) 2018/10/24

 

2018年10月28日 フジテレビ『ワイドナショー』、安田純平さん解放について、三浦瑠麗氏発言書き起こし

YouTubeにアップされていた動画から国際政治学者・三浦瑠麗氏の発言をできるだけ忠実に書き起こした(句読点の位置や辻褄の合わないところも「ママ」である)そのあいだ私は、胸のムカつきが治らなかった。ひどいなと感じた場面が何箇所かあったが、どこが酷いのかは各自が発見してほしい。

 

(番組開始後、27分20秒から;)

司会・東野)ご無事で何よりですね。

三浦瑠麗)そうですね。

まず、われわれ(は安田さんが)拘束されていたことをずっと知っていたわけですけど、それがまあついに解放されて、で、お見受けしたところ健康状態も、そこまで深刻ではなさそうだ、ということは喜ばしいことですし、メディアの中、あるいはツイッターなどにですね、さまざまな自己責任論みたいなものが出てきていますけれども、本来政府というのは、それがどんな国民であったとしても、その海外で拘束されたというときにですね、救出する責務があるんですよ。自国民を守るというのは、国家のほんとにベーシックな、あの義務であって、それは自己責任論とは当たらないなとは思ってますね。

ただ、その自己責任論みたいなものの出てきた背景であるところの、ここまで危険な地域に入って行って数時間で捕まってしまったってこととか、あるいは、その彼自身がですね、機内で話した言葉の中で、えー「日本政府が動いて解決したと思われたくない」と、これ、正確にそのままではないですけど、そうした主旨の、発言されてましたよね。

もともとジャーナリストって、政府の邪魔になるようなことをして真実をあばき出したり、政府が来て欲しくない危険地域に入って欲しい情報を取るものなので、政府の邪魔をするのは全然構わないのですよ。

だけれども、そのワイル(?聞きとり不明)な職業をしている人は、助ける価値があるんだけども、やっぱり、その背景で何が行われていたかって、彼は知らないわけでしょ?つまり牢獄にいたわけだから。で、その拘束している人だってペーペーなテロリストですよね?その人たちから聞いた情報しかないわけだから。

この、今の時点での彼の言い分ていうものをですね、まぁものすごく壮大なストーリーにしてしまうのは、ちょっと違うかなという気がするんです。だから自己責任論もおかしいし、安田純平さんが機内で語ったことを指して、ホラ日本政府は何もやんなかったじゃないか、というようなね、あのー彼は別に機密を知っているわけじゃないので、という話も違うんじゃないかなと思うんです。

東野)カタールが身代金を支払ったという報道も、

松本人志)具体的に3億円、みたいなことも言われてますよね?

三浦)あ、はい。

カタールが払ったという情報は、かなり確度が高い情報のようですね。ですから、カタールって、これまでさまざまな人質解放に身代金を払ってきたというところがあって、でも、なんでカタールがそんなに頑張るのか、って皆んな思うじゃないですか。これは親切心ってだけじゃ実はなくて、カタール自身がですね、やっぱりシリアでアサド政権に対して戦っている、テロリスト組織だったり反政府組織だったりする人たちに、援助をしてるんですね。

で今回、安田純平さんを拘束したところは、反政府組織なんですけど、最初はアサド政権を倒すために必要だとアメリカは皆んな思っていたんですよ。けれども、実際にはこの人たちテロリストじゃないの、とテロリスト認定したんですよアメリカも。だから、テロ組織に対してアメリカや、いろんな外国人を拘束して処刑する、ような人たちを支援する、というのは、たとえ彼らが反アサドでも、やっぱり許しがたい、ということになるわけですよね。

ところが、カタールは、彼らを支援したいわけです。すると、テロ組織にはそのままお金は流せない、で今、国際的な報道で言われているのは、やはりカタールが、そのままテロ組織に資金を与えられないから、ま、ある意味捕虜解放のためのお金として払う、という方針をとっているんじゃないかと。

東野)でも、それがテロの資金源に、

三浦)資金源になるんです。

で、それはビジネスとして実際に「捕虜ビジネス」になっていますから、そこらへんを歩いてる欧米のジャーナリストとか、カソリックの修道長さんとか、そういう人たちを次から次へと捕まえればお金になるということを、カタールが下支えしているというふうな指摘もね、けっこう国際的なメディアとしては報道されているという。

東野)シリアの情勢は非常にややこしく、山ちゃんどう思われます? 今回の自己責任論とか。

山里)はい。SNSを開いて、その文字通りを受け取ったら、ものすごく攻撃的な意見が多いから、こういうふうにちゃんとした話を聞いてから〜(略)あと、シンプルな質問なんですけど、安田純平さんはいろんな情報を持って帰ってくるわけですよね。その情報を言うことによって、シリアの内戦が収まってくるという、情報は持っているんですかね?

三浦)あの、持ってないと思います。

イドリブ(県)から、出ていないですし、実際に、その最後の牙城と言われている所なんですね。ではその彼らの内情を知ると言っても、じゃ、その実際のテロ資金ネットワークとか、いろんなことを知りたい中で、彼が独自に入って行った、あの本来は後藤健二さんの、情報を取りに行きたいような話を言っていましたけれども、そういうなんて言うんですかね、___(?聞きとり不明)全体的に戦場ジャーナリストは、独立派の人たちから、情報を得ているんですよ。助けにはなってるから必要なんだけど、今回の件によって、じゃあ結局、総合的に見て、安田さんが現地入りしたことで何が起きたかっていうと、結局のところはテロ組織にお金が渡ったという。で、これは悲しいことなんだけども、でもその彼の活動って言うのは、全然否定されるものではないけども、結果として言うと……そういうことですよ。

東野)武田鉄矢さんはどう思われますか?

武田)私は、自己責任論とかあるんですけど、いないと困る種類の人たちではあるな、とは思います。知りうる限りのことで結構ですから、健康を回復されたら、その悲惨さでも語っていただけたら、何かの役には必ず立つとは思いますね。

東野)そして松本さんは?

松本)まあ、いろいろと辛辣な意見は聞きますけれども、たとえばNHKのニュースとかでね、「お帰りなさい、良かった」と言うのは当たり前で、それは絶対大事なことで、それがなかったら日本怖いよね。そこで一人の人をみんなで叩くような、そんなん日本大丈夫かと思いますよ。だから、それは良かったよかったでいいと思います、ぼくは。安田さんと、個人的にたまたま道で会ったら、ちょっと文句は言いたいと思います。個人的にね。あのーだから極端な話、わざと人質になって身代金折半しようや、みたいな奴が出てこないとは限らないですからね、この先。もしくは、何だろ、そういうISの参加をするような奴が出てくるかもしれないですから。もちろん安田さんは絶対違うと思いますよ、でもそういうことを考えたら、もうこれ以上はもうやめようね、って感じにはしてほしい。

東野)今後、安田さんがどういう活動をされるかというのは、ぼくも興味あるわけですよ。それでまた中東に……

松本)うーん、それは。それはちょっと、ぼくは許せないなあ。

三浦)いや、だから、政府としては、たぶん行ってほしくないと思います。これだけの労力をかけなきゃいけないし、しかもテロ組織に資金を渡したくないというのもあるし、というのはあると思います。

ただ、こういう職業の人たちっていうのは、やっぱり自分にしかできないというプライドがおありだと思うんですよね。で、そうするとね、戦争って研究すると癖(くせ)になる人って結構いて。私はそういうタイプではなく血が怖いんですけど、でも、そういう戦争がもたらす興奮みたいなものとか。

東野)戦場ジャーナリストとか、海外の外国人傭兵とか、

三浦)だから、それが、何でそればかり撮るんだというのは、やっぱりそれに興味を惹かれるから、だと思うんですよ。

松本)だから、ジャーナリズムって何なんだろうなと。みんな結局、ジャーナリズムを利用しているみたいなとこがあって。結構ジャーナリズムで何でも行けちゃうなあ、みたいな。われわれ芸人も結構叩かれるけど、われわれも突き詰めれば、ジャーナリズムだからね。

三浦)だから、松本さんがおっしゃる気持ちも、なんとなく分かるところがあって。

つまりジャーナリストって、安田純平さんは、もともと日本が戦争をしない国だから従軍記者ではないけれども、イラク戦争に従軍した記者ってのは、もう大興奮で戦車に乗って行っちゃって、その見たまま聞いたままを、アメリカ軍目線で書いちゃう人いっぱいいるわけですよ。だから、ジャーナリストっていうと、そのやっぱり、戦場に興奮してしまって、お上の言うことを垂れ流したり、逆に真逆のことをやってみたり、でその、テロ組織に同情的なことを書く人もいるし。

東野)マスメディアがなかなか取材に行けないところを、いわば下請け的に行っていただくことによってニュースになる、という側面もある。

三浦)その側面もあるし。

でもジャーナリズムって本来、そういう意味で猥雑なものであって。先程その、政府の邪魔になっていいと申し上げたのは、そういうことなんですよ。政府の邪魔になることを、非難すべきじゃないと。ただ問題として、結果としてジャーナリストである以上は、なんか良いことをしたか、かつ伝えるでもいいし、あるいはそこの難民の子ひとりを助けたとか、何かないと、というのは、まぁこれは私が言うことではないんでしょうけどね、ご本人、みんな考えてると思いますよ。

武田)でも、つまんない意見を言います。俺、まだ行ってほしいですね。はい、もう一回、何回でも。それが、この人が人生で初めて行かれたことの一番辻褄の合う方法じゃないですかね。

東野)犬塚弁護士は、どう思われますか。

犬塚)一応これは犯罪であり、この方は犯罪被害者なんですよね。実は日本国民が海外で誘拐にあって監禁されたら、これは日本の警察は捜査をすることになります。ただもちろん海外のことですから、帰国した本人から事情を訊いた上で海外の調査となる、けれども、権限はかなり限られていると。

(37分55秒、このコーナー終了。)

 

しかし、国際政治学者を名乗るわりには、シリア情勢を正確に把握できていない。あいまいな印象を撒き散らすばかりで具体的な例示は一つもなし、話す内容は支離滅裂で脈絡がなく、説明は何れもが尻切れトンボである(そのくせ、ジャーナリスト全般を思うさま侮蔑している)。

冷笑的な物言いを、何箇所か太字で強調してみたが、ぜんぶを書き起こしてみると、三浦氏の論調は、

  • 仄めかしが多く、
  • 具体的な説明が少なく、
  • 相対化するように見せかけ、
  • 実は対象を思いっきりこき下ろ、

していることが分かる。また、(武田鉄矢はともかく)他の芸人たちが三浦氏の言説に同調することで、安田純平氏の行動は全くの無駄骨であり、国家にとって迷惑である、との印象を視聴者に植えつけようとしていることも分かる。

フジ『ワイドナショー』以外の、殆どのショー番組も、程度差はあれ、似たような造りになっている。自己責任論を批判しつつも、自己責任論を補完する役割を担っている。いったいテレビ局は誰に忖度しているのか。日本政府か? いいや、テレビから情報を得る大多数の国民に、である。

私は、三浦瑠麗の発言を、冷静だとか論理的だとか言っている連中の気が知れない。終始うわずりっ放しではないですか!

鰯 (Sardine) 2018/10/28

 

【追記】

ぼうごなつこさんが、この記事をヒントに、今回の三浦発言を漫画化した。

セリフの配置、黒レースのドレスと、なすこさんさすがの出来映えである。

また、4コマめに登場する、三浦瑠麗氏と『正論大賞』を同時に受賞した文藝評論家、小川榮太郎氏に関連する拙記事(記事の頭 ↑ に戻ル)も参照されたし。

追記;2018/10/30

 

2018年9月のMedium

映像の訴求力

9月に自民党総裁選と沖縄県知事選が行われることを、皆さんはご存知か?

ひょっとして、後者のことは知らない方が多いかもしれないね。なにせ日本のテレビは沖縄県知事選を殆ど報道しないから。したとしてもチェリー・ピッキング、現政権に都合のいいようにしか報じないから。

石破茂公開討論会を要求しているのに安倍晋三が外遊を理由に応じようとしないこととか、

玉城デニー自由党の幹事長で、立憲民主、国民民主、社民、共産の各党からの支持を取りつけたにもかかわらず、渋谷区神南の日本放送協会は、社民・共産などの推薦を〜、としか報じないこととか、

体操協会のゴタゴタばかりを延々と流す、テレビしか観ないサイレントマジョリティの皆様がたはご存知あるまい。

おそろしいことに、日本のテレビ放送から、政治関連のニュースがほぼ駆逐されてしまっているのですよ。

安倍晋三が(マンガ「加治隆介の儀」を真似て)、桜島を背景に決意を表明したプロモーション画像以外は。

安倍首相 総裁選立候補を正式表明「先頭に立つ決意」 | NHKニュース
来月の自民党総裁選挙を前に、安倍総理大臣は視察先の鹿児島県で「『平成』の、その先の時代に向けて、新たな国造りを進めていく...
www3.nhk.or.jp(記事は削除されています)

臨時ニュースよろしく緊急速報されたけど、まぁ甚だしき陳腐なプロモだった。

さて、唯一の対抗馬である石破茂

私的には、彼のウルトラタカ派とも言える防衛論・改憲論にはとてもじゃないがついていけないが、それでも話の内容が空疎な安倍晋三よりか余程ましである。

ちゃんと日本語として成立しているし。

とりわけ私が唸ったのは、昨日8/31にリリースされた、以下の映像である。石破茂はなんと、<すべての都道府県を語る47本のメッセージ動画を配信>したのである。私も石破氏のサイト(下写真)で地元・熊本県の映像を観てみたのだが、

や、びっくりした。熊本のデータと県民性を詳細に把握していることに驚いた。「献血 22年連続1位」なんて自分も知らなかったよ。

www.ishiba.com

 

また、熊本のみならず、秋田出身の方が、

秋田の自慢すべきものが全て網羅され尽くされ驚嘆。ババヘラの果てまでも!これを見たら秋田の皆さんは喜ぶでしょう。とにかく研究し尽くされている。全都道府県のを見てみると、社会科の勉強にも役立つかもしれません。

兵庫出身の方も、

これらは流石に丁寧で大した仕事。幾つか馴染みの県を見てみた。是非、兵庫県の6分あたりから見てほしい。あの「反軍演説」と言われた斎藤隆夫代議士の話に及んでいる。

と言及している。あなたもぜひ自分の住む都道府県をクリックしてみるがいい。

(もっとも、ひと昔前の政治家は、地方の現状について、この程度の認識は当たり前だったと思う。今の政治家の教養が足りなさすぎるのだ。)

ご近所の爺さまや婆さまにも、「石破茂の地方創生」を見せてあげよう。きっとコロリと参ること請け合いである。

追記。

①「イシバサンのプロモ動画なんてまっぴら」と思いながら見たら、唸った。それで、東京、埼玉、沖縄、山口…と、興味のあるところを次々に見てしまった…

② 「石破茂のプロモーション動画」ではなく、「47都道府県のプロモーション動画」であるところが注目すべきポイントだと思います。

③ ああそうか。アベは全てを利用して自分をアピール。石破さんは47都道府県のアピールなんだ。あれ見て自分の県や他県のいい所を知ることができる。

以上、この記事への反響。②は私。  2018/09/02

 

石破茂の話が長くなった。玉城デニーの話がしたい(なにせホラ、私は「オザシン」ですから、自由党幹事長を応援しないわけにはいかないのです)。彼は29日、正式に沖縄選挙選への出馬を表明した。

また、玉城デニー衆院議員であると同時に、FMコザでパーソナリティを務めるDJである。ビーチボーイズスリップノットについても訥々と語れる、筋金入りのロック好きでもある。

沖縄の若い人たちの間から、デニーさんが沖縄県知事選に出てほしい、との声が自然と湧き上がったそうだけど、なるほどそのことがよく分かる。親しみ持てるパーソンだ。

そしてこちらも8/31、自らのTwitterで、決意表明の模様を画像で示した。

既に何人もの方が言及しているが、玉城デニーさんのメッセージ映像は、とても感じよく仕上がっている。清新で、センスがよく、しかもハートが熱い。訴求力がある画面。できれば選挙戦の最中にも逐次アップしてほしい。沖縄の様子が全国にもビビッドに伝わるように。

と、私はTwitterに感想を書いた。それほど嬉しく思ったのである。なぜなら、

私は以前、こんな記事をブログにしたためたことがある(2016年2月3日付)。 

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

アメリカ合衆国の大統領予備選、民主党候補者バーニー・サンダースのキャンペーンコマーシャル。バツグンのセンス。なぜ日本の野党は、これに匹敵するクオリティのキャンペーンを打てないのだろう。

と書いてから2年あまりが経って、ようやく日本にもセンスある政治のプロモ映像が登場してきたな、と感慨深かった。

むろん画質はよくないし、編集も粗い。けれどもその粗さが、むしろプラスに感じる。臨場感あふれており、嘘っぼくないのだ。もちろんそれは、玉城デニーのキャラクターがかもしだすGood vibration に依るところが大だけど。

とにかく、広告代理店の作った、金のニオイが臭うような、嘘くさいプロモーションはもうまっぴらだ。

テレビや新聞の政治面は、官邸の意向に逆らえない。政権に批判的な番組を作ったら最後、ディレクターもキャスターもすぐさま排除される(例:テレビ朝日報道ステーション』)。お茶の間の薄型液晶テレビの画面に、誠実さが反映しない時代となった。

けれども、私たちにはインターネットがある。インターネットにアップされた動画を観ることもできるし、また動画を作ってアップすることもできる。超管理社会に絶望するにはまだ早い。私たちはこんなメッセージがあるんだよ、と人づてに伝えることができる。情を報せる、すなわち情報だ。昨日、2018/08/31に配信された二人の政治家の動画は、そのことをあらためて知らしめてくれる。映像の訴求力は送る側の意思の反映であるという、当たり前の事実をーー

 

9/20自民党総裁選、9/30沖縄県知事選。それぞれの選択が決まるまで、目を離せそうにない。

鰯 (Sardine) 2018/09/01

 

反体制フォークはカッコ悪いか?

‪ずいぶん前に、東京国際フォーラムボブ・ディランを観に行ったのね。となりの席に座ったおっちゃんが、まだ若僧だった私に、「公民権運動におけるディランの意義」を語りはじめて、ひじょうに困惑したことがある。本人が登場するとボビィ!って怒鳴るわ、アンコールで「風に吹かれて」が始まるとすすり泣くわ。

‪でも、今になってみると、あのおっちゃんの心境が分かるね。自分の生きた時代についてを誰かに伝えたかったんだろうな、と。ボブの社会的な影響よりも音楽の構造に興味が向いていた私だけど、あの日となりに座ったおっちゃんの、暑苦しい反戦フォーク運動の講釈が、けっきょくいちばん意識の隅に残っていたりする。

あれは、もう15年くらい前になるかしら。N区の勤労会館で、あるジャーナリストの講演会を聞きにいったとき、質疑応答が終わったあとで、主催者が歌詞をコピーした半紙を配って、白髪の長いお爺さんが古いガットギターをポロンポロンと搔き鳴らし始めた。すると会場に集った人がみんな歌いはじめた。そのとき私はちょっと居たたまれなくなった。歌を知らなかったばかりではなく、その突飛な展開に戸惑ったのね、なんで歌うの?って。

 

たぶん平河エリって方がツイートした理由も、あのとき私が感じた戸惑いに近いものだったのでは? と推測する。

新宿西口で「アベ政治を許さない」ポスターを置いて、みんなでフォークソングを合唱しているご老人たちがいたけど、あれはキツイ。街宣右翼よりもキツイ。

私は日本におけるフォークの発祥に詳しくない。戦後うたごえ運動が興り、都会では歌声喫茶が流行り、やがて日音協が分裂し、一方では反戦フォークが社会派歌謡曲だと批判されつつも若者に支持され〜という一連の大まかな流れは何冊かの書籍で知っている。

しかし、その知識は実感を伴わない。私の知るフォークの集い的なものは、上に記した講演会の一幕と、あとはそうだな、10代のころにちょっとかかわったコーヒーコーナー的な喫茶店の自主コンサートくらいだ。主催者の方が、宮城まり子みたいな語り口で、〽︎おーい山の子〜と、民話みたいな歌を歌っていたっけ。

あれも、痛かったな。私はすでにパンクロッカーの端くれだったからね。

なんとなくクリスタルな80年代に、フォークは既に時代遅れのジャンルだった。それは音楽性や使用楽器よりも、そういった類の音楽が媒体となる「場」が喪失われていったからだと思う。

上京して、ライブハウスに出るようになると『ぴあ』でスケジュールを確かめていた。例えば新宿ロフトだと、その頃はまだ(尖ったパンクやニューウェーブの狭間に必ず)森田童子山崎ハコの名前が載っていた。イキがった私を含むバカ者もとい若者は、まだやってンのかよ暗い弾き語りをwと嗤っていたよ。

いま思えば、そっちを観とくべきだったと後悔しているけどね。

私がフォークソングを意識的に聞くようになったのは、冒頭に書いたディランを観てからだ。図書館でウディ・ガスリーやらピート・シーガーやらを聴いて、プロテストソングの源流に触れたり、あるいはブリティッシュトラッド・フォークの森に彷徨うようにもなった。英国の伝承歌には歴史の物語と庶民の暮らしが息づいている。ウォーターソンズの無伴奏を聴きながら、関連図書を読むと、英国におけるフォーク運動は、おもに共産党が後ろ盾になっていたことも知る。

また、ピート・シーガーの率いたウィーバーズは戦後アメリカの大衆に支持されたけれども、アメリカに吹き荒れた“赤狩り”の憂き目にあって活動の制限を余儀なくされたことも知れる。

まあ、そういう背景を知った上で聞くと(私の耳には)無味乾燥に聞こえていた歌どもに、具体的な陰影が伴ってくる。その歌が何故、当時の大衆の意識に浸透していったのか、想像をめぐらすことで歌詞に込められた意図が窺い知れる。

 

新宿西口で、フォークソングを歌っていたというツイートを見て、私はあの西武新宿線鷺ノ宮駅前の雨の日の情景を思い出すのだが、では彼らは、いったい何を歌っていたのだろう?

‬ 「祖国の山河に」?「原爆許すまじ」?「死んだ男の残したものは」?「自衛隊に入ろう」?「友よ」?「平和に生きる権利」?「さとうきび畑」?「一本の鉛筆」?あるいは「カリンカ」、それとも「パフ」?「イマジン」?「千の風に乗って」?え、まさか「花は咲く」?

わざと党派性をごっちゃにして書いたけれども。ねえ、いったい何を歌っていたのさ?

私はツイッターを眺めていて、ときどき、残酷だなあと思う。だって、その西口でフォークソングを歌っていたグループを、庇ったり支持したりする意見がほぼ皆無だったからね。冷たいな、世知辛いな。

なぜ、居たたまれなかったの一言で斥けるのさ?

私はリベラル左派に属する者であるが、そういうところがヒダリのダメなところだと思う(悔しいがジミンはそのへんの包摂が上手だぞ、少なくとも野党よりかは数段上)。

いいじゃないか歌わせておけば。それがかりに青春の追憶をなぞっているだけにせよ、それを迷惑そうなまなざしで眺めることに、いったい何の意味がある?

ああいう連中と一緒にされてはかなわないとか、おまえナニサマのつもり?って言いたくなるね。

かりにそれが社会運動の足手まといに感じるとしても、だ、彼らをアップデートする“リソース”とやらが時間の無駄と思うにせよ、だ。それこそ、オルタナティヴを提示すりゃいいんじゃないか? SEALDsは一つの回答だったと思うが、ヒップホップが好みでないなら、それこそ自分たちの世代にぴったりの表現ジャンルを“持ちこめば”いいじゃないか。フォークったって、今様があるでしょうよ。あなたたちの好きな、オーガニックでハートフルな、2018年の連帯ソングを探すなり作るなりすればいいだけの話、だよ。

 

沖縄で玉城デニーさんがロックバンドを率いて、「見張り塔からずっと」「迷信」「スウィート・スウィート・サレンダー」の3曲をカヴァーしている映像を観た(余談だけど、この3曲のチョイスには、明確なメッセージ性があるよね?)

同世代の私は、超有名ナンバーの選曲もあって、微笑ましく観たけれど、感想は各人あるだろう。こういう活動を軽いと感じ、県知事候補に相応しくないという堅物もいるだろうし、古くさいロックばっかじゃん、カッコ悪wと冷笑する若者もいるだろう。でもね、私はいいと思うんだ。効果があるとかないとか、団結の輪の中に入れるとか入れないとか、お互いの欠点ばかりをあげつらい、“あり方”に心血を注ぐばかりでは早晩行き詰まるよ。お互いに自分らの正しさを主張し合ってるばかりではね。

やりたいことをやりたいようにやろうじゃないか。

あなたが今、時代遅れだな、カッコ悪いな、見ていて辛いな、一緒くたにされたくないな、と思っているような老いぼれに、いずれあなたもなってしまうのだから。

私はいま、ボブ・ディランのコンサートで、問題意識を持たなさそうな若者だった私に、「風に吹かれて」が公民権運動にはたした役割を力説していた、あの迷惑なおっちゃんのようでありたいと思ってる。

彼はこう言った、

「残念ながら日本にプロテストソングは根づかなかった。ぼくらの構想した連帯は、儚くも砕けてしまった。だけどもきみ、一瞬だけだが行けるかな、ひょっとしてと思ったことがある。中津川で岡林(信康)が、『私たちの望むものは』を歌ったときだ。あれはまさに、奇跡のように、ぼくには思えたんだ……」。

結論:反戦フォーク迷惑論なんて‪くだらない。

一つの時代と結婚したものは、次の時代では未亡人となる」だ。私なんか、回りまわって歌声喫茶なんかが復権すればおもしろいと思っている(経営が大変そうだけど)。好きなように集えばいいのさ、弦高高いガットギターを爪弾いて反戦歌やらロシア民謡やらピート・シーガーなんかを思う存分に。カッコよさの基準なんて、人それぞれだよ。

ぼくはわりとまじで、フォークソングによる連帯は今こそ求められるスタイルだと思ってる。アップデート試みるかい?  鰯 (Sardine)2018/09/18

 

中津川フォークジャンボリーでの岡林信康は、ヤジも多く飛び、途中ステージの乱入もあるなど、必ずしも好意を持って迎えられたわけではないのでは?>

との指摘をいただいた。

知っている。

一瞬、書くのを躊躇したけれども「」内の、おっちゃんが私に語った言葉は、私が記憶した通りの内容で、うそ偽りではない。

だから承知の上で書いた。語りかけられたそのままを。《おっちゃん、ちょっぴり過去を美化してないかい?》と思ったけど、私の感想は省略した。

これだけ多く読まれると異論も現れる。Mediumではテキストを“Story”と称するが、記事はフィクションではないことをお断りしておきます。9/21追記

 

憎しみの根源

私はあるツイートに対して以下の返信を用意した。内容が重複しているし、うまくまとまらないので、まずはリツイートしたのち、<ほんとうに、怒りに震えました>とだけ書いてよこした。
 

差別とヘイトは無知と無恥と無礼によるものです。心ない言葉を吐けるのは自分以外の他者の立場になって考えられないからです。つまり“心がない”んですね。‬

だから私は、なるべく心を空っぽにしないでおこうとつとめています。自分の心の奥底に、差別にも似たよこしまな思考の湧きあがることもありますが、そんな時は、何故そのような考えに到ったか?を考えるようにしています。やがて答えは導かれます。他を嫌悪したり憎んだりする思いの多くは無理解によるものだ、と。

自分がよく知らない、分からないものを必要以上に恐れてしまう。そのphobiaがヘイトにつながっている。日本人は知る努力をすっかり怠ってしまいました。そして無恥のまま、自分らの国が一番だと錯覚したまま、最新の情報にアップデートできないまま、こんにちに至っています。

その怖れの根源は何に起因している。その憎しみの発露はいつごろからか。

その言葉を使うことで悲しみ、傷つく人がいることを想像できないのだろうか。

それとも、

その言葉を使うことで誰かを悲しませ、傷つけたいと企んでいるのだろうか。

その言葉をためらいなく口にし、あたりかまわず書き散らせるのはなぜか。

内心にうごめくヘイトを制御できない、理性のタガが簡単に外れる理由は?

その言葉を使うことで、他者ばかりか、自らをも毀損するとは想像できないか。

その卑屈な心の在処はどこにあるのか。自分の裡の疑念を確かめ、一個いっこを解いていく必要がある。

ベンチにヘイトを書きなぐった不届き者は何の気なしに書いたのでしょう。多少なりとも他者に気遣う心があれば卑劣な言葉がどれだけ他者を傷つけ悲しませるのかに思い到るはずです。想像力の欠如は無知と無理解によるものだし、公徳心の欠如は無恥と無自覚によるものです。基本的に怠惰な日本人の精神はここまで堕落しました。じつに嘆かわしいことです。

だが結局、私は用意したツイートを送信しなかった。

しばらく経って私は、こんな返信を書き添えた。

Leeさんは以前、<違和感の正体は『当事者性の欠如』である>と、ある観劇の感想を記していたでしょう? あれを読んで私は、貴方をフォローしたんです。そして今日、ベンチに書かれたヘイトの落書きを見て、許されないことと憤りを共有できました。辛かったでしょうが、教えてくれてありがとうこざいました。

私は「日本人として、謝りたい」という位置に立ちたくなかった。まずはツイート主の痛みを共有したいと感じた。他人ごとにしたくない、それは思いこみであり勘違いであるかもしれない。けれども私は、コリアン・ディアスポラだと自認するひとりを、自分との対岸に置きたくなかったのだ。

想像力を駆使しよう。憎しみには根拠がないことを認識しよう。そしておのれの心深くにはびこる、憎しみの根源を引っこ抜いてやろう。 鰯(Sardine) 2018/09/21

 

自民党は身内の恥を隠したがる”

安倍の辛勝は綿密に練られたスケジュールのおかげ。能力のなさは誰の目にもあきらかで、あと1週間あれば情勢は石破に傾いていたはず。

しかし負けは負け。自民党は「身内の恥を隠したがる」人の方が多かった。そして勝ちは勝ちとばかりに、安倍はグッと改憲に舵を切ってくるだろう。

  1. ちょっとわかり辛かった?自民党員の身内意識は相当なもので、党を運命共同体や家族のように捉えている方も多い。今回の代表選で不出来な長男・晋三の不始末を次男・茂が世間様に公言しているように感じた党員も少なくないはず。家族なら身内の恥は伏せておきたいもの。
  2. 自民党と党員の「身内意識」は強固な絆のようにも思えるが、典型的な「甘えの構造」に過ぎない。党員以外の声に耳を塞ぐべく二重の鉄柵を張り巡らし、地方からの異議ありの声を反乱だと狼狽える。これはまさに「わがまま放題の長男坊」を諌めもせず、贅沢三昧を許す家父長制の閉鎖性と酷似している。
  3. 家族の喩えが分かりにくければ、党員自らがよく使う「担ぐ神輿は軽い方がいい」のレトリックを援用してもいい。つまり、政(まつりごと)神輿の担い手は、点検もせず、建てつけにも頓着せず、柱の腐蝕すら気にかけず、ただ軽いからという理由で担ぎ続け、周りから危ないぞと指さされれば、あべこべに、
  4. 神輿に問題はない、神輿は立派なものだ、神輿が腐っているとか見すぼらしいとか難ずる輩は沿道の見物人だと、膨れっ面して神輿へのあらゆる批判を斥ける。そうして担いだ偶像の神格化や言祝ぎに勤しむ。新たな神輿を建てるなどの自己否定はしないし、できない。何故なら(彼ら自民党員は)自分たちの誤ちを認めたくないから。
  5. それが今回の安倍三選の理由だよ。

連続スレッドだと読みにくいだろうからMediumに一まとめにしました。 鰯 (Sardine) 2018/09/21