映像の訴求力
9月に自民党総裁選と沖縄県知事選が行われることを、皆さんはご存知か?
ひょっとして、後者のことは知らない方が多いかもしれないね。なにせ日本のテレビは沖縄県知事選を殆ど報道しないから。したとしてもチェリー・ピッキング、現政権に都合のいいようにしか報じないから。
石破茂が公開討論会を要求しているのに安倍晋三が外遊を理由に応じようとしないこととか、
玉城デニーが自由党の幹事長で、立憲民主、国民民主、社民、共産の各党からの支持を取りつけたにもかかわらず、渋谷区神南の日本放送協会は、社民・共産などの推薦を〜、としか報じないこととか、
体操協会のゴタゴタばかりを延々と流す、テレビしか観ないサイレントマジョリティの皆様がたはご存知あるまい。
おそろしいことに、日本のテレビ放送から、政治関連のニュースがほぼ駆逐されてしまっているのですよ。
安倍晋三が(マンガ「加治隆介の儀」を真似て)、桜島を背景に決意を表明したプロモーション画像以外は。
臨時ニュースよろしく緊急速報されたけど、まぁ甚だしき陳腐なプロモだった。
さて、唯一の対抗馬である石破茂。
私的には、彼のウルトラタカ派とも言える防衛論・改憲論にはとてもじゃないがついていけないが、それでも話の内容が空疎な安倍晋三よりか余程ましである。
ちゃんと日本語として成立しているし。
とりわけ私が唸ったのは、昨日8/31にリリースされた、以下の映像である。石破茂はなんと、<すべての都道府県を語る47本のメッセージ動画を配信>したのである。私も石破氏のサイト(下写真)で地元・熊本県の映像を観てみたのだが、
や、びっくりした。熊本のデータと県民性を詳細に把握していることに驚いた。「献血 22年連続1位」なんて自分も知らなかったよ。
また、熊本のみならず、秋田出身の方が、
秋田の自慢すべきものが全て網羅され尽くされ驚嘆。ババヘラの果てまでも!これを見たら秋田の皆さんは喜ぶでしょう。とにかく研究し尽くされている。全都道府県のを見てみると、社会科の勉強にも役立つかもしれません。
兵庫出身の方も、
これらは流石に丁寧で大した仕事。幾つか馴染みの県を見てみた。是非、兵庫県の6分あたりから見てほしい。あの「反軍演説」と言われた斎藤隆夫代議士の話に及んでいる。
と言及している。あなたもぜひ自分の住む都道府県をクリックしてみるがいい。
(もっとも、ひと昔前の政治家は、地方の現状について、この程度の認識は当たり前だったと思う。今の政治家の教養が足りなさすぎるのだ。)
ご近所の爺さまや婆さまにも、「石破茂の地方創生」を見せてあげよう。きっとコロリと参ること請け合いである。
追記。
①「イシバサンのプロモ動画なんてまっぴら」と思いながら見たら、唸った。それで、東京、埼玉、沖縄、山口…と、興味のあるところを次々に見てしまった…
② 「石破茂のプロモーション動画」ではなく、「47都道府県のプロモーション動画」であるところが注目すべきポイントだと思います。
③ ああそうか。アベは全てを利用して自分をアピール。石破さんは47都道府県のアピールなんだ。あれ見て自分の県や他県のいい所を知ることができる。
以上、この記事への反響。②は私。 2018/09/02
石破茂の話が長くなった。玉城デニーの話がしたい(なにせホラ、私は「オザシン」ですから、自由党幹事長を応援しないわけにはいかないのです)。彼は29日、正式に沖縄選挙選への出馬を表明した。
また、玉城デニーは衆院議員であると同時に、FMコザでパーソナリティを務めるDJである。ビーチボーイズやスリップノットについても訥々と語れる、筋金入りのロック好きでもある。
沖縄の若い人たちの間から、デニーさんが沖縄県知事選に出てほしい、との声が自然と湧き上がったそうだけど、なるほどそのことがよく分かる。親しみ持てるパーソンだ。
そしてこちらも8/31、自らのTwitterで、決意表明の模様を画像で示した。
既に何人もの方が言及しているが、玉城デニーさんのメッセージ映像は、とても感じよく仕上がっている。清新で、センスがよく、しかもハートが熱い。訴求力がある画面。できれば選挙戦の最中にも逐次アップしてほしい。沖縄の様子が全国にもビビッドに伝わるように。
と、私はTwitterに感想を書いた。それほど嬉しく思ったのである。なぜなら、
私は以前、こんな記事をブログにしたためたことがある(2016年2月3日付)。
kp4323w3255b5t267.hatenablog.com
アメリカ合衆国の大統領予備選、民主党候補者バーニー・サンダースのキャンペーンコマーシャル。バツグンのセンス。なぜ日本の野党は、これに匹敵するクオリティのキャンペーンを打てないのだろう。
と書いてから2年あまりが経って、ようやく日本にもセンスある政治のプロモ映像が登場してきたな、と感慨深かった。
むろん画質はよくないし、編集も粗い。けれどもその粗さが、むしろプラスに感じる。臨場感あふれており、嘘っぼくないのだ。もちろんそれは、玉城デニーのキャラクターがかもしだすGood vibration に依るところが大だけど。
とにかく、広告代理店の作った、金のニオイが臭うような、嘘くさいプロモーションはもうまっぴらだ。
テレビや新聞の政治面は、官邸の意向に逆らえない。政権に批判的な番組を作ったら最後、ディレクターもキャスターもすぐさま排除される(例:テレビ朝日『報道ステーション』)。お茶の間の薄型液晶テレビの画面に、誠実さが反映しない時代となった。
けれども、私たちにはインターネットがある。インターネットにアップされた動画を観ることもできるし、また動画を作ってアップすることもできる。超管理社会に絶望するにはまだ早い。私たちはこんなメッセージがあるんだよ、と人づてに伝えることができる。情を報せる、すなわち情報だ。昨日、2018/08/31に配信された二人の政治家の動画は、そのことをあらためて知らしめてくれる。映像の訴求力は送る側の意思の反映であるという、当たり前の事実をーー
9/20自民党総裁選、9/30沖縄県知事選。それぞれの選択が決まるまで、目を離せそうにない。
鰯 (Sardine) 2018/09/01
反体制フォークはカッコ悪いか?
ずいぶん前に、東京国際フォーラムへボブ・ディランを観に行ったのね。となりの席に座ったおっちゃんが、まだ若僧だった私に、「公民権運動におけるディランの意義」を語りはじめて、ひじょうに困惑したことがある。本人が登場するとボビィ!って怒鳴るわ、アンコールで「風に吹かれて」が始まるとすすり泣くわ。
でも、今になってみると、あのおっちゃんの心境が分かるね。自分の生きた時代についてを誰かに伝えたかったんだろうな、と。ボブの社会的な影響よりも音楽の構造に興味が向いていた私だけど、あの日となりに座ったおっちゃんの、暑苦しい反戦フォーク運動の講釈が、けっきょくいちばん意識の隅に残っていたりする。
あれは、もう15年くらい前になるかしら。N区の勤労会館で、あるジャーナリストの講演会を聞きにいったとき、質疑応答が終わったあとで、主催者が歌詞をコピーした半紙を配って、白髪の長いお爺さんが古いガットギターをポロンポロンと搔き鳴らし始めた。すると会場に集った人がみんな歌いはじめた。そのとき私はちょっと居たたまれなくなった。歌を知らなかったばかりではなく、その突飛な展開に戸惑ったのね、なんで歌うの?って。
たぶん平河エリって方がツイートした理由も、あのとき私が感じた戸惑いに近いものだったのでは? と推測する。
私は日本におけるフォークの発祥に詳しくない。戦後うたごえ運動が興り、都会では歌声喫茶が流行り、やがて日音協が分裂し、一方では反戦フォークが社会派歌謡曲だと批判されつつも若者に支持され〜という一連の大まかな流れは何冊かの書籍で知っている。
しかし、その知識は実感を伴わない。私の知るフォークの集い的なものは、上に記した講演会の一幕と、あとはそうだな、10代のころにちょっとかかわったコーヒーコーナー的な喫茶店の自主コンサートくらいだ。主催者の方が、宮城まり子みたいな語り口で、〽︎おーい山の子〜と、民話みたいな歌を歌っていたっけ。
あれも、痛かったな。私はすでにパンクロッカーの端くれだったからね。
なんとなくクリスタルな80年代に、フォークは既に時代遅れのジャンルだった。それは音楽性や使用楽器よりも、そういった類の音楽が媒体となる「場」が喪失われていったからだと思う。
上京して、ライブハウスに出るようになると『ぴあ』でスケジュールを確かめていた。例えば新宿ロフトだと、その頃はまだ(尖ったパンクやニューウェーブの狭間に必ず)森田童子や山崎ハコの名前が載っていた。イキがった私を含むバカ者もとい若者は、まだやってンのかよ暗い弾き語りをwと嗤っていたよ。
いま思えば、そっちを観とくべきだったと後悔しているけどね。
私がフォークソングを意識的に聞くようになったのは、冒頭に書いたディランを観てからだ。図書館でウディ・ガスリーやらピート・シーガーやらを聴いて、プロテストソングの源流に触れたり、あるいはブリティッシュトラッド・フォークの森に彷徨うようにもなった。英国の伝承歌には歴史の物語と庶民の暮らしが息づいている。ウォーターソンズの無伴奏を聴きながら、関連図書を読むと、英国におけるフォーク運動は、おもに共産党が後ろ盾になっていたことも知る。
また、ピート・シーガーの率いたウィーバーズは戦後アメリカの大衆に支持されたけれども、アメリカに吹き荒れた“赤狩り”の憂き目にあって活動の制限を余儀なくされたことも知れる。
まあ、そういう背景を知った上で聞くと(私の耳には)無味乾燥に聞こえていた歌どもに、具体的な陰影が伴ってくる。その歌が何故、当時の大衆の意識に浸透していったのか、想像をめぐらすことで歌詞に込められた意図が窺い知れる。
新宿西口で、フォークソングを歌っていたというツイートを見て、私はあの西武新宿線鷺ノ宮駅前の雨の日の情景を思い出すのだが、では彼らは、いったい何を歌っていたのだろう?
「祖国の山河に」?「原爆許すまじ」?「死んだ男の残したものは」?「自衛隊に入ろう」?「友よ」?「平和に生きる権利」?「さとうきび畑」?「一本の鉛筆」?あるいは「カリンカ」、それとも「パフ」?「イマジン」?「千の風に乗って」?え、まさか「花は咲く」?
わざと党派性をごっちゃにして書いたけれども。ねえ、いったい何を歌っていたのさ?
私はツイッターを眺めていて、ときどき、残酷だなあと思う。だって、その西口でフォークソングを歌っていたグループを、庇ったり支持したりする意見がほぼ皆無だったからね。冷たいな、世知辛いな。
なぜ、居たたまれなかったの一言で斥けるのさ?
私はリベラル左派に属する者であるが、そういうところがヒダリのダメなところだと思う(悔しいがジミンはそのへんの包摂が上手だぞ、少なくとも野党よりかは数段上)。
いいじゃないか歌わせておけば。それがかりに青春の追憶をなぞっているだけにせよ、それを迷惑そうなまなざしで眺めることに、いったい何の意味がある?
ああいう連中と一緒にされてはかなわないとか、おまえナニサマのつもり?って言いたくなるね。
かりにそれが社会運動の足手まといに感じるとしても、だ、彼らをアップデートする“リソース”とやらが時間の無駄と思うにせよ、だ。それこそ、オルタナティヴを提示すりゃいいんじゃないか? SEALDsは一つの回答だったと思うが、ヒップホップが好みでないなら、それこそ自分たちの世代にぴったりの表現ジャンルを“持ちこめば”いいじゃないか。フォークったって、今様があるでしょうよ。あなたたちの好きな、オーガニックでハートフルな、2018年の連帯ソングを探すなり作るなりすればいいだけの話、だよ。
沖縄で玉城デニーさんがロックバンドを率いて、「見張り塔からずっと」「迷信」「スウィート・スウィート・サレンダー」の3曲をカヴァーしている映像を観た(余談だけど、この3曲のチョイスには、明確なメッセージ性があるよね?)
同世代の私は、超有名ナンバーの選曲もあって、微笑ましく観たけれど、感想は各人あるだろう。こういう活動を軽いと感じ、県知事候補に相応しくないという堅物もいるだろうし、古くさいロックばっかじゃん、カッコ悪wと冷笑する若者もいるだろう。でもね、私はいいと思うんだ。効果があるとかないとか、団結の輪の中に入れるとか入れないとか、お互いの欠点ばかりをあげつらい、“あり方”に心血を注ぐばかりでは早晩行き詰まるよ。お互いに自分らの正しさを主張し合ってるばかりではね。
やりたいことをやりたいようにやろうじゃないか。
あなたが今、時代遅れだな、カッコ悪いな、見ていて辛いな、一緒くたにされたくないな、と思っているような老いぼれに、いずれあなたもなってしまうのだから。
私はいま、ボブ・ディランのコンサートで、問題意識を持たなさそうな若者だった私に、「風に吹かれて」が公民権運動にはたした役割を力説していた、あの迷惑なおっちゃんのようでありたいと思ってる。
彼はこう言った、
「残念ながら日本にプロテストソングは根づかなかった。ぼくらの構想した連帯は、儚くも砕けてしまった。だけどもきみ、一瞬だけだが行けるかな、ひょっとしてと思ったことがある。中津川で岡林(信康)が、『私たちの望むものは』を歌ったときだ。あれはまさに、奇跡のように、ぼくには思えたんだ……」。
結論:反戦フォーク迷惑論なんてくだらない。
「一つの時代と結婚したものは、次の時代では未亡人となる」だ。私なんか、回りまわって歌声喫茶なんかが復権すればおもしろいと思っている(経営が大変そうだけど)。好きなように集えばいいのさ、弦高高いガットギターを爪弾いて反戦歌やらロシア民謡やらピート・シーガーなんかを思う存分に。カッコよさの基準なんて、人それぞれだよ。
ぼくはわりとまじで、フォークソングによる連帯は今こそ求められるスタイルだと思ってる。アップデート試みるかい? 鰯 (Sardine)2018/09/18
<中津川フォークジャンボリーでの岡林信康は、ヤジも多く飛び、途中ステージの乱入もあるなど、必ずしも好意を持って迎えられたわけではないのでは?>
との指摘をいただいた。
知っている。
一瞬、書くのを躊躇したけれども「」内の、おっちゃんが私に語った言葉は、私が記憶した通りの内容で、うそ偽りではない。
だから承知の上で書いた。語りかけられたそのままを。《おっちゃん、ちょっぴり過去を美化してないかい?》と思ったけど、私の感想は省略した。
これだけ多く読まれると異論も現れる。Mediumではテキストを“Story”と称するが、記事はフィクションではないことをお断りしておきます。9/21追記
憎しみの根源
①
差別とヘイトは無知と無恥と無礼によるものです。心ない言葉を吐けるのは自分以外の他者の立場になって考えられないからです。つまり“心がない”んですね。
②
だから私は、なるべく心を空っぽにしないでおこうとつとめています。自分の心の奥底に、差別にも似たよこしまな思考の湧きあがることもありますが、そんな時は、何故そのような考えに到ったか?を考えるようにしています。やがて答えは導かれます。他を嫌悪したり憎んだりする思いの多くは無理解によるものだ、と。
③
自分がよく知らない、分からないものを必要以上に恐れてしまう。そのphobiaがヘイトにつながっている。日本人は知る努力をすっかり怠ってしまいました。そして無恥のまま、自分らの国が一番だと錯覚したまま、最新の情報にアップデートできないまま、こんにちに至っています。
④
その怖れの根源は何に起因している。その憎しみの発露はいつごろからか。
その言葉を使うことで悲しみ、傷つく人がいることを想像できないのだろうか。
それとも、
その言葉を使うことで誰かを悲しませ、傷つけたいと企んでいるのだろうか。
その言葉をためらいなく口にし、あたりかまわず書き散らせるのはなぜか。
内心にうごめくヘイトを制御できない、理性のタガが簡単に外れる理由は?
その言葉を使うことで、他者ばかりか、自らをも毀損するとは想像できないか。
その卑屈な心の在処はどこにあるのか。自分の裡の疑念を確かめ、一個いっこを解いていく必要がある。
⑤
ベンチにヘイトを書きなぐった不届き者は何の気なしに書いたのでしょう。多少なりとも他者に気遣う心があれば卑劣な言葉がどれだけ他者を傷つけ悲しませるのかに思い到るはずです。想像力の欠如は無知と無理解によるものだし、公徳心の欠如は無恥と無自覚によるものです。基本的に怠惰な日本人の精神はここまで堕落しました。じつに嘆かわしいことです。
だが結局、私は用意したツイートを送信しなかった。
しばらく経って私は、こんな返信を書き添えた。
Leeさんは以前、<違和感の正体は『当事者性の欠如』である>と、ある観劇の感想を記していたでしょう? あれを読んで私は、貴方をフォローしたんです。そして今日、ベンチに書かれたヘイトの落書きを見て、許されないことと憤りを共有できました。辛かったでしょうが、教えてくれてありがとうこざいました。
私は「日本人として、謝りたい」という位置に立ちたくなかった。まずはツイート主の痛みを共有したいと感じた。他人ごとにしたくない、それは思いこみであり勘違いであるかもしれない。けれども私は、コリアン・ディアスポラだと自認するひとりを、自分との対岸に置きたくなかったのだ。
想像力を駆使しよう。憎しみには根拠がないことを認識しよう。そしておのれの心深くにはびこる、憎しみの根源を引っこ抜いてやろう。 鰯(Sardine) 2018/09/21
“自民党は身内の恥を隠したがる”
安倍の辛勝は綿密に練られたスケジュールのおかげ。能力のなさは誰の目にもあきらかで、あと1週間あれば情勢は石破に傾いていたはず。
しかし負けは負け。自民党は「身内の恥を隠したがる」人の方が多かった。そして勝ちは勝ちとばかりに、安倍はグッと改憲に舵を切ってくるだろう。
- ちょっとわかり辛かった?自民党員の身内意識は相当なもので、党を運命共同体や家族のように捉えている方も多い。今回の代表選で不出来な長男・晋三の不始末を次男・茂が世間様に公言しているように感じた党員も少なくないはず。家族なら身内の恥は伏せておきたいもの。
- 自民党と党員の「身内意識」は強固な絆のようにも思えるが、典型的な「甘えの構造」に過ぎない。党員以外の声に耳を塞ぐべく二重の鉄柵を張り巡らし、地方からの異議ありの声を反乱だと狼狽える。これはまさに「わがまま放題の長男坊」を諌めもせず、贅沢三昧を許す家父長制の閉鎖性と酷似している。
- 家族の喩えが分かりにくければ、党員自らがよく使う「担ぐ神輿は軽い方がいい」のレトリックを援用してもいい。つまり、政(まつりごと)神輿の担い手は、点検もせず、建てつけにも頓着せず、柱の腐蝕すら気にかけず、ただ軽いからという理由で担ぎ続け、周りから危ないぞと指さされれば、あべこべに、
- 神輿に問題はない、神輿は立派なものだ、神輿が腐っているとか見すぼらしいとか難ずる輩は沿道の見物人だと、膨れっ面して神輿へのあらゆる批判を斥ける。そうして担いだ偶像の神格化や言祝ぎに勤しむ。新たな神輿を建てるなどの自己否定はしないし、できない。何故なら(彼ら自民党員は)自分たちの誤ちを認めたくないから。
- それが今回の安倍三選の理由だよ。
連続スレッドだと読みにくいだろうからMediumに一まとめにしました。 鰯 (Sardine) 2018/09/21