鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

紫のヴェールに包まれ

 

たぶんぼくはむちゃくちゃ怒っていたのだと思う。自分が感じている以上に。

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そこでぼくは帳を下ろした。夜の侵入してくるのを待って。後ろ暗さに目が慣れるまで、しばらくそのままでいた。そんなとこに突っ立ってないで、ここへ来て座ったら?くすくす笑みを浮かべながら、女は手招きした。コートを壁に掛け、ネクタイを緩め、額にかかる髪をかきあげる仕草をした。甘く強い匂いがした。香水の名前を知らない。何種類にも及ぶので、うっかり忘れてしまった。そんな気を遣わなくてもいいの、手ぶらでいらっしゃいと言うけど、貢ぐ物を渡したときの反応は、「嬉しいに決まってるでしょ?」とご満悦だ。女はややこしい姿勢から、脚の高い椅子にもたれかかったぼくを仰ぎみている。いばった感じはしない。高慢ちきでもない。でも気位は高いし、容易くは許さない。捉えどころがないようで、お堅い一面もある。二律背反の向こう側の姿見の鏡の中に、一重に折り重なって、輪郭を失う影。それはたぶんあなたが好かれる性格だからよと見え透いたことを、あなたの話しっぷりがとても楽しいからみんなに好かれるんだわとお上手を口にする。そうやって幾人の男たちを喜ばせてきた?連中はいともたやすく相好を崩したのだろう。簡単なことだ、褒めあげればいい。おだてに乗らない男などたぶんまずいない。あなたは立派な人だと持ちあげれば、単純な男どもはそれだけで満足してしまう。認めてもらえる機会が今日びあまりにも少ないから。そこでぼくは膝をつき、こうべを垂れ、祈りをこめ、口を窄め、突き出した先を挿し入れ、何度も息を吹きこんだ。女は頭をつかみ、指ではさみ、たまに見つめ、たまに焦らし、趣向を凝らし、向きを変え、ぼくの鼻先に花弁を押しつけた。白磁の陶器のように滑らかな丸みを帯びた、秘めやかな場所に供えられた花芯にたどり着くと、源から湧き出る、強い香りが鼻腔の奥をつく。ぼくは無我夢中で、紫色した、複雑な襞をかき分けながら、鼻と喉を鳴らした。今日は飽きるまで、やめてと言われるまで、極みに達するまで、やり遂せるつもりでいた。女に悦びを与えることができるか、ぼくの歓びを還元することはできるか。試してみたかった、挑んでみたかった。とうてい勝ち目のない勝負で、結果が見えていようと。

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上手だと女は言った。お世辞だろとぼくは白けた。こんなこと日常茶飯事で、慣れっこになっている筈だ。軽口を叩くのが倣いで、軽くあしらうのが趣味だ。それでいい、それは百も承知だ。けど屈した自尊心は、すっからかんになった。また貯まるまで待ってくれ。そんなに早く戻れないから。そんなときにどんな笑みが効果的かを女は心得ている。莫迦にした態度はとらない。かといって怪訝な表情や、不機嫌さを露わにはしない。気にしてないわ、敏感なんでしょ?と、見事にはぐらかしながら、朗らかな笑顔を見せる。その人懐っこさに、男はみな油断する。整った目鼻だち、意志の強いまなざし、弓形の顎の線、尖らせた口の先、だけど下まぶただけが少しだけ弛んでいて、そこにありったけの愛嬌が含まれているようだね?そう指摘すると、頬っぺたを膨らます。あたし洗練にはほど遠い田舎っぺだから、どことなくあか抜けないの。それを皮切りに身の上話がはじまる。虚実ない交ぜの、どこからが真実で、どこからが作り話かを、謎かけつつ探し当てる、退屈なゲーム。だけど次のステップへ進む、これは重要なプロセス。ぼくもまた嘘をつく。ありもしない架空の仕事やら、みせかけの境遇やらを、交わし合いながら、笑いに笑った。何がそんなに可笑しいのか、自分でもわからないが、ただその逸話の、潤滑油としての笑いは、さほど空虚ではない。導火線の在処を手繰り寄せようと、毛足の長い絨毯の上辺を弄りながら、チャンスを窺っている。きっかけを探り当てようと笑いながら、笑いながら。f:id:kp4323w3255b5t267:20171228120134j:image

貪欲な花の化身は、妖しげな指や爪先を、ふたたび絡みつかせた。骨どうしがぶつかり合う、柔らかい音を鳴らして。ぼくは底なし沼に引きずり込まれた。腰から胸、胸から口へと。甘く濁った水に、鼻まで浸かりながら、ごぼごぼとあぶくが漏れ、息苦しさに悶えながら、茫然とし、淡い光に包まれた、揺らめく白い影を抱いた。柔らかい、あの冬の夜の地下室の、一瞬の悪戯が、脳裏を過るとき、後頭部に、閃光がはじけ、目の奥がじりじりと焼け、焦げくさいにおいが立ちこめ、それが自分の見た終末の光景になるとは、意識の消滅する寸前まで、とても信じられなかった。あゝぼくは今、途轍もなく腹を立てている。こんな理不尽がまかり通っていいものか。だけど、けらけら笑いながら愉快そうな女は、ケセラセラと歌うように、耳もとにささやいた。いいじゃないの一連托生、あなた好きだよ、嫌なやつじゃなくて良かった。首っ玉に巻きついた二の腕と、名のしれぬ香りにつつまれ乍ら、煙に巻かれる二人。

 

支線=指の隙間から零れ落ちた言の葉

 

頭の隅っこに引っかかっている言葉を時々そっと取りだしてみる。

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引っこめた記事に書き洩らした電車に関する記憶を書き連ねてみる。

隅っこに置いたまま干からびさせるにはあまりにもしのびないから。

 

初めて乗った私鉄は熊本電鉄で通称菊池電車という短い路線だった。

むかし藤崎宮前から菊池までを結んでいたが今では御代志が終点だ。

北熊本上熊本間の支線があって途中に韓々坂って名前の駅があって、

カンカンザカ・カンカンザカと連呼して大人たちを困惑させていた。

チョコレート色した路面電車の延長みたいな可愛らしい車両だった。 

国鉄ではない私鉄に二度めに乗ったのは中学二年の夏休みに上京し、

当時は三鷹に住んでいたカジワラさんのアパートにお邪魔したとき。

渋谷から京王井の頭線を使って終点の吉祥寺まで各駅停車に乗った。

超満員で座る席も見つからずにつり革に掴まってずっと立っていた。

駅と駅との間隔が短くて1キロあるかないかで頻繁に停車するので、

のろまな電車だまるでバスみたいだ皆んなよく我慢してられるなと、

首都圏のラッシュアワーの満員電車の洗礼を受けながら呆れていた。

終着駅に着いたらカジワラさんは腹へったろ? とぼくに笑いかけ、

これも満員の南口前の中華やに入るなりソース焼きそばを注文した。

午後九時に食べた何の変哲もない焼きそばの味が今も忘れられない。

こんな夜中まで営業する食堂があってしかも大勢のお客がいるとは。

地方在住の中坊にとっては東京を代表する強烈な味覚の体験だった。

そうだずっと後になって幼いわが子に絵本を読み聞かせていたとき、

「かさもって おむかえ」著者:征矢清、挿絵:長新太福音館書店

あの夜に乗ったのと同じ型の電車が1977年刊行の本に描かれていた。

100円や110円に運賃が固定された券売機もそっくりそのままだった。

 

昭和40年代の地方に住む十代は今の子たちよりも東京に憧れていた。

山田太一が脚本を手がけたテレビドラマを食いいるように観ていた。

岸辺のアルバム』や『沿線地図』に映る私鉄沿線のロケーション。

ジャニス・イアンフランソワーズ・アルディの歌声が聞こえると、

早く熊本から脱出しなければ、と居ても立っても居られなくなった。

浪人中に家出して転がりこんだ先は代沢のヨネザワさんのアパート。

憧れの世田谷、最寄駅はシモキタ、田舎ものには格別の舞台設定だ。

あの一瞬の夏の眩しさを小説に落としこもうと試みたけど没にした。

線路を跨ぐ歩道橋からクリームに青いラインの電車が通過するのを、

飽きもせず眺めていた夕刻の幸福な感情を巧く書き表せられなくて。

無力だけれど万能感に満ち溢れて孤独だけれど満ちたりていた夏を。

 

なあ凄いと思わないかケイスケとナンさんは大きな目玉を見開いて、

線路があるところ電線も架かってるよね高低差にも関わらず平行に、

あの架線を設計するのも施工するのも高度な技術のたまものだよね。

社会のあらゆる所に人の工夫を発見するのが面白いんだと力説した。

ぼくの知人は大半が文か芸の何れかで理のナンさんは異色だったが、

同じ路線で通いながらも少し違う角度から物の見方を教えてくれた。

そんなふうに電車はたくさんの知り合いをぼくに運んできてくれた。

 

春の淡い光が窓から射しこんで明るく照らしだされた午後の車内は、

その年入団したばかりの松坂大輔のポスターで埋め尽くされていた。

西武線は雪の積もる日に豊島園のホームに佇んだ暗い印象しかない。

でも家族三人で揺られてみると、まあここも悪くないと考え直した。

確かに誰かが嘲るように文化的な香りのしない路線だったけれども、

結果ぼくは新宿線池袋線の交わる所沢で十数年間を過ごしたのだ。

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だが大人になるにつれて電車は日々の習いと惰性で乗るようになる。

大抵ぼくはデッキ近くのスペースに立って本かマンガを読んでいた。

イヤホンからジャズロックプログレの好きな音楽を耳に流しこみ。

あれほど乗るたび楽しみにしていた窓外への興味もかなり薄らいで、

いらかの波の果てしなく続く郊外の景色に圧倒されたことも忘れて。

通勤のための手段と割りきった交通機関とは何と侘しいものだろう。

乗客として利用しているだけだといろいろ分からなくなってしまう。

ダイヤ通りの運行とどこまでも続く線路は永久だと錯覚してしまう。

 

しかし人々は2011年3月11日を経たのち未来永劫は幻想だと気づく。

無休が売りの西武線さえも七割の間引き運行を余儀なくされた日々、

ぼくはふとした気まぐれ心から秋津と所沢の間を歩くようになった。

それはむろん1区間140円の運賃を浮かすための姑息な算段だったが、

いつも電車の窓から望める雑木林を通り抜けてみたくなったからだ。

武蔵野の名残の残るくぬぎやならの木々がうっそうと茂る暗がりを、

枯葉に覆われた未舗装の道を急ぎ足で歩みながらも心は明るかった。

銀色の快速電車が通過するのを傍目にもっと早く気づくべきだった、

移動するのに必ずしも交通機関に頼る必要はないのだと独りごちた。

 

とどのつまりぼくたち人間は遺伝子を運ぶための貨物列車にすぎず、

次の世代にバトンタッチしたらあとは車庫に入って解体を待つだけ。

あるいは雨風にさらされて錆ついて朽ち果ててしまうさだめなのだ。

甘美と絶望がないまぜになった廃線のイメージにとり憑かれている。

ひゅうひゅうと風を切る電線の唸る音がきみにも聞こえるだろうか。

ぼくらはパッセンジャー、だけど途中下車も可能なストレンジャー

今さら本線を敷設するのは無理だろうが支線を引っ張るくらいなら、

できるかもしれないと過剰な自信を抱いたぼくはメディスンジャー。

見通しは限りなく暗いくせに何故こんなにも未来は眩しいのだろう。

 

あゝ思いだした、一等最初に歩いた記憶は廃線になった熊延鉄道だ。

トンネルの入り口で怖くなって泣きだしたのをかすかに覚えている。

女の人に連れていってもらったがあれはいったい誰だったのだろう。

ただトンネルの闇を突きぬけて光に消える二筋の鉄路を眺めていた。

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とても長いながいあいだ。

 

 

 

 

【乞併読】

 

註:当エントリーのポエムには、底本となった「本線」があり、その本についての感想ともレヴューともつかぬ記事を前に書いたのだが、あとで読み返してみると、あまりの的外れさゆえに著者に迷惑なのではないかと思ったので、駄文を引き上げることとした。岩下啓亮

 

青春というにはあまりにもおこがましいが(プレハブの新芽7)

 

  いまにして思えば、あれはぼくの「第二の青春」だった?

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 府中本町駅前の、徳川家のお鷹狩場だったとされる現場を発掘していたときのこと。季節はちょうど今頃、どんより曇った寒い冬の午後。作業員たちが食事をすませ、プレハブの詰所で思いおもいに休憩時間を過ごしていたところへ、

 ヤンことフクイ君が、

「あのーイワシさん、これ聞いてみてください」

 といいながら、ぼくにMP3プレーヤーを差しだした。

「ん? いったい何」

「新曲です」

 聞かせて貰います、とぼくは頷いてイヤホンを耳にした。

 フクイ君は歌がうまい。誰かが「ムダに上手」といっていた。美声だし声量もある。オペラだって歌えるんじゃないか、声楽を習ってみたらどうかと意見したこともある。今回のデモもそうだ。いい声だと感心している間に終わってしまった。

「どうだった、ですか」

 フクイ君は不安げにぼくの顔を覗きこむ。ぼくは、いいんじゃないか前回のよりも、曲にメリハリが出てきたし演奏もこなれてきたし、と当たり障りのない返事をした。

「まあ、ちょっと長いかもな。余分な箇所をカットするか詰めるかしたら?」

 無難なアドヴァイスに、ありがとうございますとフクイ君はこうべを垂れた。すると、このやりとりを傍で聞いていたサエグサ君が、やおら身を乗りだしてきた。

「どれヤン、おれにも聞かせろよ」

 フクイ君は戸惑いながらもサエグサ君にプレーヤーを渡した。

 しばらく目を閉じて聞くことに集中していたサエグサ君だったが、三分ほど経ったのち、やにわにイヤホンをかなぐり捨て、あぁん? と顎をしゃくらせた。

「だからさヤン、もうこういうの、そろそろヤメようぜ」

「え、つまらなかったですか?」

「つまる・つまらない以前の問題だよ。だって、歌うことについての自己言及ばっかじゃんかよ。曲を書くんなら聞き手のことを少しは想像しなって」

「えー、でもボクは、今の自分の気持ちを率直に」

「率直すぎるから、聞いてて困惑すんだよ。なまじ歌えるからさ、悩んでる自慢にしか聞こえないの。あーなんだかむず痒くなってくる、なにが……」

 サエグサ君が歌詞の拙さを具体的に論おうとしていたそのとき、テーブル席の斜向かいに座っていたアイカワさんが「そっちこそ、そのへんでヤメろよ」と水を差した。

 サエグサ君は「割りこむなよ、いま批評してんだよ」と気分を害した。

 すると、普段は甲高い声のアイカワさんは、絞りだすような低い声で唸った。

「さっきから聞いてりゃケチつけてばかりじゃねえか。作り手の気持ち、ちったあ考えろよ」

「考えてるから、真剣に指摘してんじゃねえか。よくない箇所を」

「そうは聞えないな。宅録だからって莫迦にしてんだろ。そうとしか思えねえんだよオマエの口調は。ヤンは一所懸命、作ってんだろうが」

「じゃあ何か? 作るヤツだけがエライのか。作らないヤツは言う資格ないのか。一所懸命作ったんだから批判するなってか」

「んなこと、言ってんじゃねえよ。ただ、言い方ってもんがあるだろう。オマエの言い方には優しさがかけらもないんだよ」

「ハッ、正直な感想を言って、優しさがないって言われたら、言いたいことも言えねえな。おうヤン、オレの感想、迷惑かよ?」

 もちろんフクイ君はサエグサ君の剣幕に動揺してしまい、まともに答えられない。

「ホラ見ろ困ってんじゃねえかよ」

「横入りすんなって、ってんだろ」

「なんだよぉ」

「なんだよぉ」

 いよいよ険悪になってきたところへ、「いい加減によさねえか」と、ブキさんが仲裁に入った。

「他に迷惑だ。やりあうんなら外でやれ。今は休憩中だぞ」

 年かさのブキさんの仲裁で、いったん言い争いは治まったが、それでも二人は席を立たぬまま、ときおり「なんだよぉ」「なんだよぉ」と唸りあっていた。居たたまれなくなったのかフクイくん、そのうち自分から席を外してしまった。

 確かにサエグサ君は言葉がすぎた。そこまで言うことはないだろうに、と思わないでもなかった。が、おびただしい数のレコードを所有し、イヴェントではDJとして活躍する彼は、独自の感性と音楽観を持っている(とはいえ、それでは食えないので遺跡発掘やっていた)。言っていることは決して外れていない。というか、ぼくがフクイ君の歌を聞いたときの、もやもやとした気持ちを、ずばりと指摘しているように思えた。

 もちろんアイカワさんの助け舟がなかったらサエグサ君の追及は止まらなかっただろう。アイカワさんはプロのベーシストだし、アイドル等のプロデュースも務める現役のミュージシャンである(その収入だけでは生活できないから遺跡発掘するのだ)。フクイ君に自宅録音についてのいろんなアドヴァイスをしていたし、彼がベースを購入した際には渋谷の楽器店で一緒に選んであげていた。つまり面倒見がよい。だから、一所懸命やってんだろう? と思わず言い募ってしまったのだ。

 ぼくは二人の諍いを目のあたりにして、率直さをうらやましく感じた。ぼくはフクイ君にたいして、音楽の欠点を指摘することもなく、また、サエグサ君の痛烈な批判から庇おうともしなかった。ただ、フクイ君の感情を害さないよう、あいまいな感想を口にしただけである。とにかくサエグサ君もアイカワさんも、ぼくよりか真摯にフクイ君の音楽を受けとめていた。

 そのことはフクイ君に伝えておかなくちゃいけない。ぼくはちらほらと雪の舞いだした冬空の下に飛びだした。

 ところがなんとフクイ君は女子作業員たちとバドミントンに興じているではないか。

「あれ、どうしたんですか、もう終わりましたか?」

 と呑気に訊くものだから、ぼくもつい、

「どうしたんですか、じゃねーよ!」

 と声を荒げてしまった。

 誰のせいで口論になったと思っているんだ、とあきれているぼくのそばを、ズーシミことシミズさんが足早に通りすぎて、

浅田真央キム・ヨナに届かなかったね、残念」

 と、訊ねてもいないのに、今しがた聞いたばかりのフィギュアの結果を教えてくれた。

 

 そうか、あれからもう8年も経つのか……

 ぼくは埋蔵物文化財発掘の作業員を6年間も勤めた。そこで忘れがたい人たちとの出会いがあった。けれどもそれを「第二の青春」と呼ぶには、あまりにも傍観者然としていた。他の作業員たちのように深くつき合わなかった。一緒に飲んだり夜通し語らったり、バンドを組んだりイヴェントを企画したり、交際したり争ったり、一切しなかった。ただ一緒に働き、昼飯を食い、連れだって駅まで歩き、電車に乗った程度だ。

 それを青春というにはあまりにもおこがましいが、ただ目の前に展開するさまざまな人間模様は、ぼくの生き方や考え方に大きな影響を与えている。ぼくは当事者とならずに、観察していただけだけれども、そこで垣間見た(主に氷河期世代といわれる者たちの)生態は、自分と同世代の勤め人たちのそれよりも、はるかに共感を覚えた。こういう言い方を許してもらえるのなら、親しみを感じていた。そのことは今一度、かれかの女らに伝えておきたい。

 のちにフクイ君は、ぼくの作った「Z橋で待つ」という歌をカヴァーしてくれた。朗々とした歌声で、40歳を過ぎた今でも、青春の苦悩を叫んでいるのだろうか。

 サエグサ君は子どもができたのを契機に遺跡発掘を辞め、障がい者の装着する器具をつくる会社に勤めた。ぼくが入院したときには見舞の手紙を寄こしてくれた。

 お見舞といえば、いろんな曲の入ったMP3プレーヤーを送ってくれたホソダさんは、ぼくの中退した大学を卒業した先輩で、いつだったか米軍機の編隊に「この人ごろしめ」と上空を睨んでいた。

 熊本が震災に見舞われたとき、真っ先にぼくの安否を気遣って連絡してきたのは、福島県いわき市出身のミュージシャン、アイカワさんである。

 ミュージシャンといえばプロのギタリストもいた。眼光鋭いノムラさんは、ぼくにインターネットでの発信を勧めてくれた。阿佐ヶ谷の名曲喫茶で何度か即興演奏を聞かせてもらった。

 ブキさんはぼくと同じ路線の住人で、子どもが大学に合格したとき、お祝を包んでくれた。ぼくが遠慮すると「まあ受け取ってくれや、こんな嬉しいことは滅多にないんだからさ」と胸もとに封筒を押しつけた。

 沖縄に移住したコヤマ夫妻もいたし、埼玉に土地を借りて農業を始めたハヤサカ師匠もいた。週末になると古本の蒐集に余念のないヤノちゃんさんもいたし、シミズさんのように美術館めぐりをする趣味人も多かった。

 みんな、みんな元気だろうか。

 ぼくのことを覚えているかい。

 記憶はもうあやふやだけども、

 ぼくは君たちを生涯忘れない。

 

 今回の記事の内容とはまったく関係ないけども、フクイつながりで、これを。


Ryo Fukui - Scenery 1976 (FULL ALBUM) 

 ぼくも福居良をユーチューブで知ったクチである。クロスオーバー全盛の時分、こういうストレートアヘッドなピアノトリオはさほど話題にならなかったに違いない。が、この音源は今や再生回数400万を超えている。ジョン・コルトレーンの『マイ・フェバリット・シングス』とほぼ互角の数字は、日本のジャズの中で一番多いのではないか。けれんみがなく、何度聞いても飽きない。とくに3曲め「アーリー・サマー」のみずみずしさ、爽快感は格別だ。エヴァーグリーンと呼ぶにふさわしい。

 

 ふと思いだした一場面を記録しただけの、とりとめのない記事になったが、たまにはこういうのもいいだろう? その頃を描いた他の記事も読んでみてください。

 シリーズ『プレハブの新芽』はこれにておしまい。なお、これらは実際をもとにしたフィクションです。