鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

支線=指の隙間から零れ落ちた言の葉

 

頭の隅っこに引っかかっている言葉を時々そっと取りだしてみる。

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引っこめた記事に書き洩らした電車に関する記憶を書き連ねてみる。

隅っこに置いたまま干からびさせるにはあまりにもしのびないから。

 

初めて乗った私鉄は熊本電鉄で通称菊池電車という短い路線だった。

むかし藤崎宮前から菊池までを結んでいたが今では御代志が終点だ。

北熊本上熊本間の支線があって途中に韓々坂って名前の駅があって、

カンカンザカ・カンカンザカと連呼して大人たちを困惑させていた。

チョコレート色した路面電車の延長みたいな可愛らしい車両だった。 

国鉄ではない私鉄に二度めに乗ったのは中学二年の夏休みに上京し、

当時は三鷹に住んでいたカジワラさんのアパートにお邪魔したとき。

渋谷から京王井の頭線を使って終点の吉祥寺まで各駅停車に乗った。

超満員で座る席も見つからずにつり革に掴まってずっと立っていた。

駅と駅との間隔が短くて1キロあるかないかで頻繁に停車するので、

のろまな電車だまるでバスみたいだ皆んなよく我慢してられるなと、

首都圏のラッシュアワーの満員電車の洗礼を受けながら呆れていた。

終着駅に着いたらカジワラさんは腹へったろ? とぼくに笑いかけ、

これも満員の南口前の中華やに入るなりソース焼きそばを注文した。

午後九時に食べた何の変哲もない焼きそばの味が今も忘れられない。

こんな夜中まで営業する食堂があってしかも大勢のお客がいるとは。

地方在住の中坊にとっては東京を代表する強烈な味覚の体験だった。

そうだずっと後になって幼いわが子に絵本を読み聞かせていたとき、

「かさもって おむかえ」著者:征矢清、挿絵:長新太福音館書店

あの夜に乗ったのと同じ型の電車が1977年刊行の本に描かれていた。

100円や110円に運賃が固定された券売機もそっくりそのままだった。

 

昭和40年代の地方に住む十代は今の子たちよりも東京に憧れていた。

山田太一が脚本を手がけたテレビドラマを食いいるように観ていた。

岸辺のアルバム』や『沿線地図』に映る私鉄沿線のロケーション。

ジャニス・イアンフランソワーズ・アルディの歌声が聞こえると、

早く熊本から脱出しなければ、と居ても立っても居られなくなった。

浪人中に家出して転がりこんだ先は代沢のヨネザワさんのアパート。

憧れの世田谷、最寄駅はシモキタ、田舎ものには格別の舞台設定だ。

あの一瞬の夏の眩しさを小説に落としこもうと試みたけど没にした。

線路を跨ぐ歩道橋からクリームに青いラインの電車が通過するのを、

飽きもせず眺めていた夕刻の幸福な感情を巧く書き表せられなくて。

無力だけれど万能感に満ち溢れて孤独だけれど満ちたりていた夏を。

 

なあ凄いと思わないかケイスケとナンさんは大きな目玉を見開いて、

線路があるところ電線も架かってるよね高低差にも関わらず平行に、

あの架線を設計するのも施工するのも高度な技術のたまものだよね。

社会のあらゆる所に人の工夫を発見するのが面白いんだと力説した。

ぼくの知人は大半が文か芸の何れかで理のナンさんは異色だったが、

同じ路線で通いながらも少し違う角度から物の見方を教えてくれた。

そんなふうに電車はたくさんの知り合いをぼくに運んできてくれた。

 

春の淡い光が窓から射しこんで明るく照らしだされた午後の車内は、

その年入団したばかりの松坂大輔のポスターで埋め尽くされていた。

西武線は雪の積もる日に豊島園のホームに佇んだ暗い印象しかない。

でも家族三人で揺られてみると、まあここも悪くないと考え直した。

確かに誰かが嘲るように文化的な香りのしない路線だったけれども、

結果ぼくは新宿線池袋線の交わる所沢で十数年間を過ごしたのだ。

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だが大人になるにつれて電車は日々の習いと惰性で乗るようになる。

大抵ぼくはデッキ近くのスペースに立って本かマンガを読んでいた。

イヤホンからジャズロックプログレの好きな音楽を耳に流しこみ。

あれほど乗るたび楽しみにしていた窓外への興味もかなり薄らいで、

いらかの波の果てしなく続く郊外の景色に圧倒されたことも忘れて。

通勤のための手段と割りきった交通機関とは何と侘しいものだろう。

乗客として利用しているだけだといろいろ分からなくなってしまう。

ダイヤ通りの運行とどこまでも続く線路は永久だと錯覚してしまう。

 

しかし人々は2011年3月11日を経たのち未来永劫は幻想だと気づく。

無休が売りの西武線さえも七割の間引き運行を余儀なくされた日々、

ぼくはふとした気まぐれ心から秋津と所沢の間を歩くようになった。

それはむろん1区間140円の運賃を浮かすための姑息な算段だったが、

いつも電車の窓から望める雑木林を通り抜けてみたくなったからだ。

武蔵野の名残の残るくぬぎやならの木々がうっそうと茂る暗がりを、

枯葉に覆われた未舗装の道を急ぎ足で歩みながらも心は明るかった。

銀色の快速電車が通過するのを傍目にもっと早く気づくべきだった、

移動するのに必ずしも交通機関に頼る必要はないのだと独りごちた。

 

とどのつまりぼくたち人間は遺伝子を運ぶための貨物列車にすぎず、

次の世代にバトンタッチしたらあとは車庫に入って解体を待つだけ。

あるいは雨風にさらされて錆ついて朽ち果ててしまうさだめなのだ。

甘美と絶望がないまぜになった廃線のイメージにとり憑かれている。

ひゅうひゅうと風を切る電線の唸る音がきみにも聞こえるだろうか。

ぼくらはパッセンジャー、だけど途中下車も可能なストレンジャー

今さら本線を敷設するのは無理だろうが支線を引っ張るくらいなら、

できるかもしれないと過剰な自信を抱いたぼくはメディスンジャー。

見通しは限りなく暗いくせに何故こんなにも未来は眩しいのだろう。

 

あゝ思いだした、一等最初に歩いた記憶は廃線になった熊延鉄道だ。

トンネルの入り口で怖くなって泣きだしたのをかすかに覚えている。

女の人に連れていってもらったがあれはいったい誰だったのだろう。

ただトンネルの闇を突きぬけて光に消える二筋の鉄路を眺めていた。

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とても長いながいあいだ。

 

 

 

 

【乞併読】

 

註:当エントリーのポエムには、底本となった「本線」があり、その本についての感想ともレヴューともつかぬ記事を前に書いたのだが、あとで読み返してみると、あまりの的外れさゆえに著者に迷惑なのではないかと思ったので、駄文を引き上げることとした。岩下啓亮