鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

紫のヴェールに包まれ

 

たぶんぼくはむちゃくちゃ怒っていたのだと思う。自分が感じている以上に。

f:id:kp4323w3255b5t267:20171223165726j:image

そこでぼくは帳を下ろした。夜の侵入してくるのを待って。後ろ暗さに目が慣れるまで、しばらくそのままでいた。そんなとこに突っ立ってないで、ここへ来て座ったら?くすくす笑みを浮かべながら、女は手招きした。コートを壁に掛け、ネクタイを緩め、額にかかる髪をかきあげる仕草をした。甘く強い匂いがした。香水の名前を知らない。何種類にも及ぶので、うっかり忘れてしまった。そんな気を遣わなくてもいいの、手ぶらでいらっしゃいと言うけど、貢ぐ物を渡したときの反応は、「嬉しいに決まってるでしょ?」とご満悦だ。女はややこしい姿勢から、脚の高い椅子にもたれかかったぼくを仰ぎみている。いばった感じはしない。高慢ちきでもない。でも気位は高いし、容易くは許さない。捉えどころがないようで、お堅い一面もある。二律背反の向こう側の姿見の鏡の中に、一重に折り重なって、輪郭を失う影。それはたぶんあなたが好かれる性格だからよと見え透いたことを、あなたの話しっぷりがとても楽しいからみんなに好かれるんだわとお上手を口にする。そうやって幾人の男たちを喜ばせてきた?連中はいともたやすく相好を崩したのだろう。簡単なことだ、褒めあげればいい。おだてに乗らない男などたぶんまずいない。あなたは立派な人だと持ちあげれば、単純な男どもはそれだけで満足してしまう。認めてもらえる機会が今日びあまりにも少ないから。そこでぼくは膝をつき、こうべを垂れ、祈りをこめ、口を窄め、突き出した先を挿し入れ、何度も息を吹きこんだ。女は頭をつかみ、指ではさみ、たまに見つめ、たまに焦らし、趣向を凝らし、向きを変え、ぼくの鼻先に花弁を押しつけた。白磁の陶器のように滑らかな丸みを帯びた、秘めやかな場所に供えられた花芯にたどり着くと、源から湧き出る、強い香りが鼻腔の奥をつく。ぼくは無我夢中で、紫色した、複雑な襞をかき分けながら、鼻と喉を鳴らした。今日は飽きるまで、やめてと言われるまで、極みに達するまで、やり遂せるつもりでいた。女に悦びを与えることができるか、ぼくの歓びを還元することはできるか。試してみたかった、挑んでみたかった。とうてい勝ち目のない勝負で、結果が見えていようと。

f:id:kp4323w3255b5t267:20171223165733j:image

上手だと女は言った。お世辞だろとぼくは白けた。こんなこと日常茶飯事で、慣れっこになっている筈だ。軽口を叩くのが倣いで、軽くあしらうのが趣味だ。それでいい、それは百も承知だ。けど屈した自尊心は、すっからかんになった。また貯まるまで待ってくれ。そんなに早く戻れないから。そんなときにどんな笑みが効果的かを女は心得ている。莫迦にした態度はとらない。かといって怪訝な表情や、不機嫌さを露わにはしない。気にしてないわ、敏感なんでしょ?と、見事にはぐらかしながら、朗らかな笑顔を見せる。その人懐っこさに、男はみな油断する。整った目鼻だち、意志の強いまなざし、弓形の顎の線、尖らせた口の先、だけど下まぶただけが少しだけ弛んでいて、そこにありったけの愛嬌が含まれているようだね?そう指摘すると、頬っぺたを膨らます。あたし洗練にはほど遠い田舎っぺだから、どことなくあか抜けないの。それを皮切りに身の上話がはじまる。虚実ない交ぜの、どこからが真実で、どこからが作り話かを、謎かけつつ探し当てる、退屈なゲーム。だけど次のステップへ進む、これは重要なプロセス。ぼくもまた嘘をつく。ありもしない架空の仕事やら、みせかけの境遇やらを、交わし合いながら、笑いに笑った。何がそんなに可笑しいのか、自分でもわからないが、ただその逸話の、潤滑油としての笑いは、さほど空虚ではない。導火線の在処を手繰り寄せようと、毛足の長い絨毯の上辺を弄りながら、チャンスを窺っている。きっかけを探り当てようと笑いながら、笑いながら。f:id:kp4323w3255b5t267:20171228120134j:image

貪欲な花の化身は、妖しげな指や爪先を、ふたたび絡みつかせた。骨どうしがぶつかり合う、柔らかい音を鳴らして。ぼくは底なし沼に引きずり込まれた。腰から胸、胸から口へと。甘く濁った水に、鼻まで浸かりながら、ごぼごぼとあぶくが漏れ、息苦しさに悶えながら、茫然とし、淡い光に包まれた、揺らめく白い影を抱いた。柔らかい、あの冬の夜の地下室の、一瞬の悪戯が、脳裏を過るとき、後頭部に、閃光がはじけ、目の奥がじりじりと焼け、焦げくさいにおいが立ちこめ、それが自分の見た終末の光景になるとは、意識の消滅する寸前まで、とても信じられなかった。あゝぼくは今、途轍もなく腹を立てている。こんな理不尽がまかり通っていいものか。だけど、けらけら笑いながら愉快そうな女は、ケセラセラと歌うように、耳もとにささやいた。いいじゃないの一連托生、あなた好きだよ、嫌なやつじゃなくて良かった。首っ玉に巻きついた二の腕と、名のしれぬ香りにつつまれ乍ら、煙に巻かれる二人。