鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

ランドスケープ

 

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 ぼくは坂道のある風景が好きなんですよ。

 見上げるのも、見下ろすのも。

 

 視覚的な刺激は、人格の形成に、重要な役割を担っていると思う。坂道を歩いていると、様々な顔をした街並みが、次々に目の前に現れる。その視覚から得た情報は、人の深い部分にさまざまな影響をもたらす。坂を上り下りするという、日常の些細な経験が、のちの人生に、大きな意味を与えてくれるような気がする。

 坂道の多い街を、だからぼくは好む。長崎や尾道や神戸や鎌倉を歩いていると、ああオレはこんなところで暮らしたかったなあと、心底思う。坂を偏愛するゆえにである。地元の人はぼくののんきな感想を聞いて、住んでみると辟易しますよと、苦笑いをされる。毎日坂を上り下りしてごらんなさい、いい加減イヤになりますからと。そうだろうなと頷きながらも、ぼくはなおも坂道のある街に住みたいと切望している。行ったことないけれど、函館にも憧れる。きっと毎日坂道を歩いていれば、さまざまな着想が得られそうな気がする。そういえば須賀敦子さんに、タイトルは忘れたけれど、イタリアの小さな町をひとりさまよう、素敵なエッセイがあった。あんなふうに、ひとりで歩き続け、あてずっぽうで街中をウロウロするのが、ぼくはめっぽう好きだ。ここはさっき通った道だ、この曲がり角を左に折れてみよう、ああここもさっき通った道だ、この店先は確かに見覚えがある……。二時間も歩き回れば、町中を探索しつくせる。ワクワク感と、微かな不安。五感が研ぎ澄まされ、意識の扉が開き、脳の働きが活性化する。歩き回った街は、永く記憶に残る。経験が記憶のひだを複雑なものにするのだ。

 たとえばいま、僕の脳裏に浮かぶ風景は、十年前に一度行ったっきりの、真鶴の光景である。真鶴の町の、ひなびた家屋の屋根瓦やら、カーブを折れた先に見える海の、意外なほどの荒々しさやら、石垣の上に実った八朔の黄色やら、生い茂った雑木に絡みついたクズの蔓やら、干物の並んだ店先で頬張ったアジフライの旨さやら、東海道線を跨ぐ橋から覗いた、通過するツートンカラーの電車の色やら。

 そういったもろもろの情報、その日に見たものすべての印象が、解凍され、一挙に甦る。坂道にはそういった効果があるようだ。

 

 残念ながら、平地の町では、それほどの感興を得られない。町の景色に、インスパイアされることがすくない。

 

 そういえば――

 小諸の町で、藤村を気取って歩いていたとき、道端を歩いていたひとりの少女に、一目惚れしたことがある。ぼくは自意識過剰な二十歳過ぎの若造だったから、いつもは自分から女性に声を掛けるなんてことは、しなかったし、できなかった。だけどそのときは、不思議なことに、なんのてらいもなく、高校の制服を着た少女に声をかけていたのである。

《ちょっといいですか。ぼくは休暇を利用して、長野に遊びに来たんです。少しだけでいいから、ぼくと話をしてくれませんか》

 早口で捲したてるぼくの厚かましい申し出に、地元の少女は戸惑いつつも、はにかみながら、いいですよと肯いた。そして彼女は、しばらく黙っていたが、やがて思いついたような顔つきをして、僕に尋ねた。

「小諸は初めてですか?」

「初めてだけど、初めてのような気がしない。もうずいぶん前から、この町を知っているような気がする。初めてきたところだとは、とても思えないんだよ。なぜかひどく懐かしく、せつない感じがするんだ」

「みなさんそうおっしゃいますよ」と彼女は真顔で答えた。「はじめてきた気がしないところだって。…あの、大学生のかたですか。小説とか、たくさん読みます?」

「それほど、読まないな。本を読むのは好きだけど、小説や詩歌は、そんなに詳しくないね」

「本に書いてあったから、というわけじゃないんですね」

「そうだね」

 そんなふうな、他愛ないことばを交わしながら、僕と少女は小諸の町の目抜き通りの、延々と続く長い坂道を、ゆっくりとゆっくりと、歩いて行ったのである。

 いま現在では、とても信じられない展開だけど、その当時は、そんな思いきった行動に踏み切っても、たいして不審がられることはない、長閑な時代だった。

 さて、十分ぐらい一緒に歩いただろうか。彼女はなだらかな丘の上の白い建物を指さして、

「あれがわたしの通っている学校です。今日は用事があって、午前中やすんだけれど、午後の授業に出るんです」

 と別れを告げた。引きとめる理由はなかった。ぼくはつきあってくれてありがとうと、感謝の気持ちを伝えた。

 別れ際にぼくは、一枚だけ写真を撮らせて欲しいといった。彼女は少しだけ困惑しつつも、いいですよと頷いて、里程標のある角のところに、たちどまり、振りかえり、ぎこちない笑みを浮かべた。

 ぼくはシャッターを切った。ちょっぴり手元が震えた。現像してみると、案の定ぶれていた。

 そのときの写真は、いまは残っていない。引越しの時になくしたか、捨ててしまったかのどちらかだ。だけどそのときに、ファインダー越しに見た、やや上目遣いの少女の表情と、その背後に映る、いましがた登ってきた坂道の消失点は、曇天の空の鈍い色やら、火の見櫓の武骨なシルエットやら、軒先に吊られた杉玉やらの風景とともに、数十年経ったいまでも、つい昨日のことのように、色鮮やかに思い浮かべられる。

 

 坂道は、記憶を喚起する。

 もしぼくがいまどこかに旅するとすれば、それはきっと、坂道のある町だろう。

 その坂道のてっぺんには、あの日小諸で逢った少女がたたずんでいる気がする。

 今度は、坂のてっぺんから、町並みを見下ろしてみたい。

 あなたの住む町でーー