他人に人となりを書かれるくらいなら、手前で書きます。
ぼくは他人に自分の人となりを語られたくないもん(たとえそれが沢木耕太郎氏であろうとも・笑)。
なんのためにブログで自分語りを連綿と書き連ねているかというと、自分がこの世からオサラバしたときに、これを読んでほしいからだよ。
ロングスバンな、遺書といいますか。
あーイワシってこんなヤツだったなあと思ってくれりゃいい。多分に美化しているよなあ自分のことを、と笑ってくれりゃいい。うん、美化はしてるよ盛ってはないけど、と、位牌の奥でニンマリ微笑んでやろう。
死人に口なし、耳もなし。どう言われようが、仏にゃ知る由もないもんね。
だけど、文章がヘヴィにならないようには心がけている。深刻になられるのは、ちょいと不本意だから。
さて、ぼくは性懲りもなく、これからも書くつもり。さまざまな思い出話を、信ぴょう性に欠けるエピソード満載で。他人に書かれるくらいなら、自分で書いたほうがましだ。ま、かりに他人が書くにせよ、このブログは底本にせざるを得ないだろうな。
……って言うか、だれがぼくの人となりなんて読みたがるんだろうね?
まったくの、ひとりよがりさ。
しかし不謹慎なエントリだ。今日はこれくらいにしておこう。
え? 死ぬ予定はとうぶんないぜ。
【追伸】訃報で、故人の「人となり」を伝えたい、という思いは、新聞記者の性(さが)ではないか。ことの善し悪しをぼくはジャッジできないが、あまり感傷的なのは受けつけないし、「生きざま」みたいな記事も読みたくない。