鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

楽しいときも


ぼくは『「少年の心をもった音楽家」エルメート・パスコアール in やつしろハーモニーホール(5月10日)』というタイトルで、このブログに記事を書こうと試みた。

f:id:kp4323w3255b5t267:20180511055000j:image

が、書けなかった。

エルメートの音楽はまさに「翁にして童」と喩うべきものだった。ぼくはそれを「少年の心をもった」という視点で語りたくなった。というのも、こんな記事を発見して、ぼくは激しく動揺し、かつ憤ったからである。

koinomikata.com

この記事は、いわゆるSNS上のフェミニストたちによって槍玉にあがった。そうやって甘やかすから日本の男性は成熟しないのだという批判である。もっともだ、とぼくは思う。昨今の社会問題で、政治家や官僚やスポーツ指導者に顕著な「小児性」の発露を、この記事が指摘する「少年の心」に置き換えるのも、当然の帰結だと思う。

けれども、それはそれとして「少年の心」は、それほど否定されるものだろうか? と、ぼくは疑問に感じるのだった。

言葉を控えろ、もっと優しくしろと言っているんじゃない。その逆だ、もっと正面から「大人げない、子どもじみた中高年男性」をストレートに批判していいんだよ。そのほうが腑に落ちる。揚げ足取りのようだけど、「少年の心」を軸にするのは、違うんじゃないかと思うんだ。

エルメートのコンサートは、子ども連れで観るのも自由だった。会場内には6人のメンバーが繰り出す(ヴィラ・ロボスではないけども)ブラジル風バッハと呼びたくなる強烈なパルスに、喚声をあげる子どもたちが何人もいた。少年の心を持った大人が子どもの心を揺さぶっている。そのさまを〈すてきな光景だ〉と感じながらも、ぼくは頭の片隅に貼りついた、朝がた読んだ記事の内容を、ついぞ剥がすことができなかった。

どうして楽しめないのだろう。目の前に繰り広げられるすばらしいアンサンブルに没頭できないんだろう。なぜ、エルメートが未だにヤマハDX-7を使っていることに意識を奪われてしまうのだ。理由は使い勝手がよくて音色が気に入っているからに他ならない。どうでもいいじゃんか使用機材が何だって。そんな些事にこだわるから思考が肥大化して、本質を見失ってしまうのだよケイスケ。

いつも、ぼくは、そんな感じだ。

心の底から楽しめない。

エルメート・パスコアールの音楽は精神を解放する類いのものだった。けれどもぼくは(このブログのため)どんなレヴューをものにしようかと、思考をいちいち文字に置き換えていた。その邪まな、身についた習性が恨めしくてならない。

 

5月23日に、

福岡ヤフオクドームで、埼玉西武ライオンズ福岡ソフトバンクホークスの試合をみた。結果は2対1でライオンズの勝利という、元所沢市民の夫婦にとっては喜ばしい結果だったが、そんな楽しい時においても、野球観戦とはまったく別の思念が、再び頭をもたげてくるのだ。

《あゝここにいる四万人余の、はたしてどれくらいの人数が、政治に関心を持っているのだろう? やっぱり現政権を支持する層が多いのだろうか。このうち、選挙に必ず行くという有権者はどのくらいの割合だ? そして安倍内閣を批判している人は何人ぐらいいるのか.....》

と、圧倒的な大多数を前に、途方にくれている。

ぼくは野党支持で・体制に批判的で・やや左寄りな自分の属性を、特権的に位置づけていた。そして野球観戦に夢中な庶民は政治に関心がないものだと勝手に決めつけていた。さらに彼らにどう〈働き方改革〉の危うさを伝えればいいのか、なーんてエリートでもインテリでもないくせに教え導きたい気持ちを膨らませていた。なんて思い上がったやつだケイスケ!

f:id:kp4323w3255b5t267:20180524201645j:image

ネトウヨになってしまったお父さんの話を知っているだろうか? 実の子に向かって「オマエは○○人か!? 」とヘイトスピーチしたという、愚かな父親の話を。指さされ、罵られた子どもの心中察するにあまりある。たまらない気持ちになっただろうなぁ。

ぼくはネトウヨの正反対で、かなり反体制の立ち位置だけど、ひょっとしたら極端な思考に傾いてはいないかと、しょっちゅう自問している。この日本で暮らすのに、思想信条をさらすことはあまりにも危険で、変わり者の烙印を捺され、いつ社会からはじかれるか分からないから。穏便に、悟られないように、喋らずに、騒がずに、本音を隠して暮らさなきゃならない......

《あゝ、そうやって萎縮して、自粛することこそ、まさに体制側の思うつぼだのに!》

ぼくは楽しいときも陰険なことばかり考えているから、心の底から楽しめない厄介な性分なのだ。

と、ぶざまな終わり方だけども、このへんでタッチペンを置くことにする。

 

 

1997年発表のベスト盤、入門編に最適だ、聴くべし。

Grandes Mestres da MPB by Hermeto Pascoal on Spotify

 

『かぐや姫の物語』2013年11〜12月のツイートから

 

2013年11月23日、ぼくは足の指を骨折した。仕事を休んでいたが、家に居てもつまらないので、映画でも観ようと思い、近くのシネコンに行ってみた。

【11月25日】

①今から『かぐや姫の物語』を観ますね。では、しばし失礼。

posted at 12:58:34

②『かぐや姫の物語』、いま見終わった。
観客は30人くらいか。つまりガラガラだった。

感想は、書かないでおこう。

観たほうがいいと思うよ絶対。

posted at 15:44:26

③昨日ある方のツイートに貼られたリンク先の文章を読んで、俄然『かぐや姫の物語』を観たくなったわけで。前言撤回、やはり観たあとの感想を書いておこうと思う。

posted at 17:05:30

④『かぐや姫の物語』。謳い文句にあるジブリ史上最高の絶世の美女だとは思わんが、むちゃくちゃかわいい。

posted at 17:11:50

f:id:kp4323w3255b5t267:20180519005018j:image

高畑勲監督の作品は、説話的→説明しすぎ→説教くさい傾向があったが、今回の『かぐや姫の物語』は、雲をつかむようなお話になりかねないので、理詰めの演出が功を奏した、というかちょうどよかった。観客は物語を読み誤らずにしっかりと把握できる。

posted at 17:26:15

⑥従来ならばクサいと感じてしまう場面も、画の説得力で押し通してしまう。アハハと笑いながら山野を駆けめぐるふたり。放たれた矢が花束に変質してしまうくだり。さんざん使い古され、もはやパロディもされなくなった話法を、『かぐや姫の物語』は、これでもかと見せつける。

posted at 17:35:52

⑦観ているうちに誰しもが気づくメッセージ性の強さ。お約束ですからの言いわけなんか一切しない潔さ。ぼくは『かぐや姫の物語』を観ていて、絶対的権力(例えばそれは天皇制だ)に対する抵抗の意志と、GPSに代表される汎地球規模の監視システムへの絶望の、二つを感じとった。

posted at 17:54:05

⑧このくらいでとどめておこう。感想は人それぞれだから、ぼくとは違った見方でお楽しみください。
あ、音楽がよかった。久石譲の劇伴でもなく、エンディングの歌でもない、高畑勲監督が自ら作った「わらべ唄」と「天女の唄」が。旋法を識ってなければ書けない、優れた仕事だ。

posted at 18:01:37

【11月28日】

映画『かぐや姫の物語』の冒頭では「制作・氏家齊一郎」とクレジットされるが、なぜ、日テレの故・氏家氏が、「赤字でも構わない、金はすべて俺が出す」からと、高畑勲の映画にこだわり、支援し続けていたのかも、思想的背景を抜きにしては語れないだろう。

posted at 21:21:08

【12月5日】

午後3時か。
さて、宿題にとりかかろう。

posted at 15:04:11

①今年(2013年)の夏に『はだしのゲン』問題がありました。あの時少なからず散見したのが、「表現の弾圧はけしからんと思う。でも、それ以前に、あの絵柄がどうも受けつけない」という意見です。たしかに中沢啓治氏の太い描線と悪漢の形相は、発表当時の少年ジャンプの中でも、かなり古くさく感じました。a

posted at 15:11:22

②同様のことを、ぼくは高畑氏のアニメーション作品にも感じておりました。絵柄が苦手。表情のつけ方やキャラクターの動作が、現在進行形の「かっこいい」や「かわいい」とかなり異なってい、古くさく見える。アニメのモード=コードを逸脱した「感じ」に、なんとも居心地の悪い思いを抱いていました。

posted at 15:17:54

③古くささなら、盟友・宮崎氏のアニメにも見出せます。やーいやーいと囃したてる子どもら、いただきまーすと唱和する男たち。そういったステロタイプを、しかし宮崎氏は画力で場面を展開、つまり突破してしまう。ところが、高畑作品はそうはいかない。そこで立ち止まる。じっくり見せつける。

posted at 15:23:25

④高畑氏は丁寧に、それこそ子どもにもわかるように絵解きをする。ここは悲しい場面なんだと、キャラクターの表情と動作と背景の絵とせりふと、総動員で説明する。早い話が、お説教くさい。そこを宮崎駿は揶揄もしている「共産党みたいなことを」と(河出ムック『宮崎駿の世界』より)。

posted at 15:28:41

⑤さあ、第一のポイントです。ぼくが「感じた」ものの正体。それは作品全体を覆う隠しようのないメッセージの色。主張を正しく伝えることが第一義にあり、エンターテインメントとしてのアニメーションとして受けとるには重すぎる命題を、避けて通らせてはくれない。だからやっかいだなあと思いました。

posted at 15:35:28

⑥『ぽんぽこ』では自然・環境破壊を。『火垂るの墓』では戦争反対を、堂々と掲げている。娯楽のオブラートに包まない。それだけが高畑氏の作品ではないことは百も承知ですが、道徳の授業みたいなムードをぼくは敬遠していました。絵柄、とくに彼の指示による表情のつけ方は、まさにその象徴に思えたのです。

posted at 15:41:16

⑦いい訳めくのですが、ぼくは『山田くん』を観ていません。そこがミッシングリンクかなと思いますので機会を見繕って観ようとは思いますが……先を急ぎます。今回11/23に封切られた『かぐや姫の話』について。ぼくは足を怪我して、時間をもてあまして、たまさか観たのです。

posted at 15:45:18

⑧だから白状しますと、たいして期待もしてなかった。ジプリ・日テレ・電通等の広告代理店各社のメディアスクラムに反発もしてましたし。ただ、どうしてでしょう、なにか引っかかったのです。前日にみたツイートのせいかもしれません。画期的であると、アニメーションの概念をくつがえす作品である、と。

posted at 15:48:32

⑨最初の数分間は、やはり違和感を感じました。翁の、さも善良そうな表情やら、竹の子やーいと囃したてる童やら。子ども時代の体型やら、脚の描き方など、むかしの「サスケ」みたいじゃんと内心ケチつけながら観てましたが、そのうち、そんなことはどうでもよくなっていた。徐々にのめりこんでいった。

posted at 15:53:22

⑩その日(11月25日)に書いた感想が、いちばん正直な心に近いと思いますが、ともかく観おわった後は、絶賛する側に回っていた。では、その逆転した場面とはどこか?

posted at 15:59:25

⑪その場面こそ、あの予告編に垣間見れる1分間なのである。ぼくは、アニメーションであれほど「速度」を感じたことはない。なんだなんだこれはいったいと息を呑み、手に汗握った。こういう喩えを許してもらえるなら、あれはまさに「序・破・急」だった。そしてアニメがもっとも苦手にしていた「抽象性」を獲得していた。

posted at 16:04:26

⑫あとは、誰がなにを演じようが、物語がどう進行しようが、ぼくにとってはたいした問題ではなかった。月よりの使者の奏でる「天上の調べ」が、やや類型的かなと感じた程度である。ともあれ『かぐや姫の物語』は、ぼくが勝手に作り上げていた高畑勲像をこなごなに粉砕したのである。

posted at 16:10:00

⑬最後に。『かぐや姫』にまつわるもうひとつの大きなテーマは、「女性」。〈月〉そのものが女性の生理の暗喩である以上、避けては通れない。もちろん高畑作品は問題を回避せず、物語の中にしっかと刻みつける。ちゃんとせりふで説明するし、絵解きもする。が、嫌味にはならない。

posted at 16:19:12

⑭もしかしたらそれは「男性からみた女性」なのかもしれないから、女性から観た『かぐや姫』の感想を聞きたいところです。ただ、描写は最大限デリケートに扱われているし、典型的メタファーも巧い具合に機能している。教条的にもならないし、さりとてうやむやにもされていないと申し添えておきます(了)。

posted at 16:27:53

togetter.com

なお、この日の連続投稿は、<『かぐや姫』と特定秘密保護法強行採決>というタイトルで、togetterにまとめられている。騒然とした中の呑気な感想。

f:id:kp4323w3255b5t267:20180519012944j:image

今日(2018年5月18日)高畑勲氏の追悼番組として、『かぐや姫の物語』が地上波(日テレ系)で放映された。

ぼくは下掲の感想をツイートしようとして、

高畑勲氏の演出は、物語の全体から各場面の細部にいたるまで、どのような意図で描かれ・セリフが交わされているかが明確に示される。曖昧さは排除され、すこぶる論理的で誤解の余地は少ない。類型はともすれば説教に陥る危険はあるけども「観客が理解できること」が先ずは最優先される。すなわち解題……

途中でやめた。これとほぼ同じ感想なら5年前の初公開時に書いていたぞと思いだして。それでここに再掲し、再構成を試みた次第である。

ただ今回は後半の展開が5年前よりも心に残った。#MeToo 運動の興隆が、今年に入って世界中を揺さぶり続けている。性的被害を受けた人々が勇気を奮って沈黙を破る一方で、それに慄き、認識をアップトゥデイトできない(主に中高年男性)人々もいる。そうした今の社会情勢と『かぐや姫の物語』はリアルに連動し、共振していた。とくに御門(帝・ミカド)に後ろから抱きすくめられたときのかぐや姫の恐怖の表情 b たるや、凡百のアニメ映画の追随を許さぬ迫真の描写だった。この高畑勲の非妥協的な社会批評の姿勢は、たとえ氏が(2018年4月5日)彼岸へ旅立とうとも、今後ますます地上の現在を反映する鏡になるだろう、とぼくは痛感したのである。

 

 

 

 

追記

a: 記事中、「はだしのゲン」の絵柄について「古くさく感じて苦手だ」と触れているけれど、スマフォが主流になった今、あの太い描線と白黒のコントラストは、あべこべに訴求力のあるビジュアルとして、世代を超えて好まれているように思える。何がタイムリーで何がタイムレスかは次の時代が答えてくれる。

b: 引用ツイートの画像を参照のこと。

c参照記事2点。対照的だが、優れた論考。

d: ぼくは、自分の中にわだかまるモヤモヤとした感覚を、わかる形で明確に示してくれる作品だという、雪原 @ykhre さんが2015年に投稿した意見を見て共感する反面、新規の稿を起こせずにいるスランプ状態に苛立ち、拗ねていた。

自分の以前に書いた記事を読んで、ぼくは5年前より確実に文の切れが鈍くなり、思い切った意見を発せなくなっていることに気づいて、意気消沈している。人間は進化するばかりではなく、退化するものなのだ。

と、このネガティヴな投稿に呼応したようなツイートが目にとびこんだ。以下、@Ogi_Hong0504 さんの投稿。

かぐや姫の物語」録画しておいて今夜観ました。5年前の作品だけど初見。
衝撃的。愛おしい美しい温かい力強い荒々しい憎らしいばかばかしい愚かしい切ない狂おしい。こんなに素晴らしい映画だったとは。そして公開時の5年前より今、社会により大きな問題を提起しているのでは。

5年間に社会が後退したのか、それとも5年前には気づけなかった問題に気付けるようになったという意味で前進したのか。前進と後退はそう考えたらとても連続的な概念だな。後退したがゆえに「気付き」と言う前進がもたらされ、その前進が大きなうねりとなってやがて後退した考えをひっくり返すだろう。

高畑勲監督のご冥福をお祈り申し上げます。

それで、救われた、気持ち。

 

 

 

【追加】

スタジオジプリのプロデューサー、鈴木敏夫氏へのロングインタビュー。赤裸々に語られた当事者の証言(文春オンライン #1~#3まで)。これは必読!

bunshun.jp

 

アウトテイク(没ツイート)

 

ぼくのIPhone8+に収めていたTwitterの「下書き」を見せようか?(言い訳つき)

f:id:kp4323w3255b5t267:20180502193653j:image

たぶんぼくは「プレ“おたく”世代」に属するんじゃなかろうか。おたくということばを、中森明夫氏が定義づけた以前の風景を目のあたりにしているという意味で。語る相手の守備範囲をはかるときに「おたくアレ観た? 知ってる?」的な探りを入れる場面を、少なからず見聞きした。

そういったやりとりから自然とテリトリーが生成されていった。80年前後のこと。ぼくはマンガの「ニューウェーブ」にはかなり奥地まで足を踏み入れたけど、アニメーションに明るくなく、ガンダムは絵柄も台詞も好みではなかったから、そっち方面とは疎遠だった。でも、敵味方やセクト化ではなかったな。

いま思えば牧歌的な時代だよ。おもしろそうな活動をしていると思ったら異種ジャンルとも交流する、ごった煮的な状況だった。そんな中で交わされる「おたく」というジャーゴン符牒)は、せいぜい自虐的なニュアンスでしかなかったし、差別の要素はなかった。……いや、少しはあったかもしれないが。

これ「オタク差別」の定義でタイムラインが騒がしかったときに一丁噛みしたくなったんだ。たんなる昔話になりそうだったから自重したけど、やめといて正解だった。

枝の字と、大塚・玉木の二つを選ぶなら「政局を見る目のない」ぼくは断然後者。ただし、野党第一党代表を立てるのが当然、とする小沢氏の意見を尊重する。いわゆる「オザシン」だから。

国民民主党を率いる大塚耕平議員の発言に、共産シンパが怒るのはしごく当然だと思う。ぼくもあの発言にはがっかりした。しかし、彼や玉木雄一郎議員のようなタイプの、政策立案の得意な政治家は、今後の野党にとって、やはり必要になるんじゃないか。

ご存知ないかたも多いだろうけど、ぼくはアンチ立憲民主党なの(きっぱり)。そりゃ連合主催のメーデーにのこのこ出かける玉木雄一郎や、たちの悪いフリー記者に言質を取られる大塚耕平に頭を抱える場面もあるけど、国民民進党を悪くいうことでいったい何の利得があるのさ。ぼくはたまに、立憲サポーターズたちの偏狭さに我慢ならなくなるんだ。

ニートラップということばが、まさに社会の抑圧を象徴している。冒険できずに保守化が著しい、現代人の意識の裏には、自己責任、自己防衛、自己抑制といった教条が内面化されている。自分は規則に従っている(つもり)。だから相手を疑う。自分を陥れ、貶める。これは罠だと解釈し、不信の塊となる。

いいセンいってる、でも、肝心なとこまで届いていない。表現が上っ面だから、

追記:武田砂鉄氏が鋭い論考を示していた、さすがプロの著述家は違うわ。

wezz-y.com

ちんぴらの意気がりはカッコわるいね。ぶら下がってるコメントもすり寄りばかり。いったいなんでしょうね、<私も「良い人キャンペーン」終了しました>って。今後は腕っぷしで思い知らせてやりましょうぜとアピールしてンのかな?

♪日本人って暗いね、性格が暗いね。

これは例の小坪行橋市市儀(の乱心)について、ワイド師匠に宛てた返信なんだけど、なんかおもねってる感じがして投函をためらった。ラストに「暗黒大陸じゃがたら」の歌の一節を引用したのも、あざといかなと思っちゃったのね。

IR? 古い呼び方すれば「公営ギャンブル」でしょ? 胴元どこ? 地方自治体? 何にせよ国が賭場を開くってのは感心しねえなあ。他がやってるからって何も真似するこたないんだし、それで身上潰したって国は責任とらねえよ。けど税収を賄うにはカジノが一番手っ取り早いんだよな。オレかい? 麻生太郎だよ。

特区だよ特区。何のために国家戦略特区を定めたかって、公営カジノを建設するために決まってるじゃん。あー、まるでマンガ『サラリーマン金太郎』みたいな途方もない計画だ。

これ、深夜に勢いで投稿したものの、翌朝読み返したら恥ずかしくなって外したのね。吟味するスタンス氏を意識したみたいで、カッコ悪いなと。彼みたいに軽妙な味は一寸真似できないね。

では、リベラル・サヨク金正恩の非人道的な人民支配を許容するのかと怒りをあらわにした意見を見かけたけど、誰も北朝鮮のあり方が正しいとは思ってないよ。間違った国家体制だと殆どの人が認めている。が、その誤りを是正するためにも、今回の南北会談が解決への第一歩になることを期待しているんだ。

これは、北朝鮮の独裁体制を激しく糾弾している意見を見てしまったので、それに対する反論を書きはじめた。けど、説得は無理だろうなと早々にあきらめた。ただ、リベサヨが押しなべて冷笑的だという指摘には首を傾げるけど。ネトウヨざまあwみたいな気持ちはさらさらないから。南北首脳会談は二国の成果なのだし、一部のリベラルが、まるでわが手柄のように誇る態度は、ぼくも違うと思う。

仕事に疲れてるのは分かる。労組の幹部の高齢化が気にくわないのも。

若者は自己中心的でかまわないと思う。「他人のことに構ってられっか、自分にしか興味ないね」という態度が、本来なら許されるべきなんだ。

どうせ権力に歯向かっても太刀打ちできないのに、の無力感と、オマエら高齢者層が日本の貯えを食い散らかしてきたくせに、の怒りが、労組や野党や市民運動への反発につながり、世界平和? へっ、いい気なもんだ!という苛立ちが、皮肉・揶揄・冷笑・嘲りといった歪んだ形で表出されているのだと思います。

 これは桃園凜さんへの返信用に書いて、途中でやめた部分。ちょっと対象を決めうちしすぎちゃったかな? と思って、削除しながら返事した。

なお、タイムラインでは以下のようにやりとりしている。

凜)面倒くさいは病であるって、桜沢如ーが言ったのを思い出します。楽をして稼げる、楽していい社会になればいいと。思考も行動も惜しんで結果だけ得ようはないんだよね。不服従を示したり抗議するのは面倒、批評はしても何もしないではね。自戒を込めてそう思います。

鰯)最近の「シラネ」「しょーもな」の捨てゼリフに表れる、反権力アレルギーすなわち抗議の対象ではなく抗議する主体を叩く風潮の背景には、「オレは精一杯やってる、社会全体のことに感けてる余裕なんてないんだよ」という、怨嗟の念があるんだろうなと思います。

凜)反権力アレルギーっていうのを、70年以来、政権が陰に陽に人々にすりこんできたからね。抗議の対象は巨大だし怖いんだよ。だから叩きやすい反権力をサヨクと叩く。政治や社会を考えるヒマがない余裕が無い。に追い込んできたからね。

鰯)ただ一つ確実に言えることは、仮にメーデーから政治的な色を排除したとしても、労働者の権利を守るという目的を追求する過程において、国会に代表者を送りこまなければラチがあかない、という結論になると思います。鶏が先か卵が先か、何れにせよ政治と労働運動は切っても切り離せない関係性がありますね。

凜)親鳥も卵もニワトリという存在です。ある社会で働くという事は、その社会や政策と切り離せないんだと思います。それは音楽に政治を持ち込むなの詭弁も同じようなもんです。政党政治や国会民主主義を否定できないかぎり、仰るように労働者の代議士を国会に送るしかないですよね。細論に陥らぬためにもね。

鰯)はい。 だからメーデーの在り方に疑義を唱えるのは大いに結構。労働条件の改善が主旨ではないのか?と真正面から問えばいい。ただし現政権下における大企業への優遇が社会保障や福祉予算を削って成り立っているという認識を持ち合わせた方がいい。

結論:「労働運動に政治を持ちこむな」はナンセンス。

凜)その通りだと思うの。働く人って大手企業の組合員だけではないしね。

と、まあきれいに括ってはみたものの、このやりとりの引き金になった<私の望まないメーデー/望むメーデー>という一万越えツイートや、

イラネ」「しょーもな」みたいに語尾の「い」を抜くと「あたま悪」く見える。 

のみならず「クソー、やべーやらかした(略)人生終了〜」にしてもそうだが、自虐と加虐のない交ぜになった捨てばちな気分が使う言葉に表れている。投稿主の不満や憎悪の反映したツイートが万単位で「いいね」されるのは何故だろう?

我が意を得たりと感じるのか。

 例に挙げた(Buzzった)ツイートに世代間の断絶をひしひしと感じる。それゆえ、ぼくは火を噴かないよう慎重に投稿している。

ま、それだけの影響力はないに等しいのだけど、一応。

f:id:kp4323w3255b5t267:20180502193702j:image

ぼくのネット上での発言をみている旧友が、「いったいイワシタくんは誰とたたかっているのかな?」と質した。ぼくは即座に返せなかったけれど、今なら答えられる。

それは野党が嫌いで、労働組合も嫌いで、きれいごとや正義感が疎ましく、団塊世代の説教に我慢ならなかった、かつての自分と、たたかっているんだと思う

そして。

糸井重里氏や佐々木俊尚氏が「批判すること」自体を批判するキャンペーンを張っている現状においては、やっぱり口を閉ざしてはいけないと思うんだ。

パリ5月革命のスローガンを、きみは知っているだろうか?

禁止することを禁止する “Defense de defendre”。

さて、批判することを批判する、に対しては何といえばいいだろう?

批判する口を封じこめるな、か?

うーん上手くない、誰かいいアイディアを寄こしてくれ。

連中がぎゃふんとのけ反るような。