鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2016年12月のMedium

 

12月も11月と同様、それほど頻繁に更新していない。にもかかわらず、Mediumに耽溺していたという印象の理由は、おそらくユーザー間の交流が頻繁だったからだと思う。

 

目を鍛える

健康診断に赴くたびに、いろんな数値が低下あるいは上昇しており、身体機能の衰えを思い知らされる例年である。

とくに愕然とするのが視力の低下だ。左右とも0,4。乱視も入って対象が小さいと二重に見えるから、もちろん運転中はメガネをかけているけど、それ以外の時は仕事中も裸眼で通している。

だが、読み書きが次第に困難になってきた。表計算の数値を読むのも辛いが、より困るのが読書である。文字がはっきり見えないと、本を読むのが億劫になってしまう。内容が速やかに頭に入ってこないのだ。そのせいで、読む量も回数もめっきり減ってしまった。今まで読書家を自認していたが、その旗印も下ろさねばなるまい。

しかし、諦めるにはまだ早い。視力をなんとかして回復させたい。そのためにはPCの画面から離れ、スマフォに興ずるのを控える他ないだろう。目の休息は大切だ。けれども消極的な気がする。もっと他に、積極的に、目を鍛える方法はないものか。

よく遠くの景色をボーッと眺めるのがよいと言うが、私はむしろ凝視したい。静かに眺めるよりも、瞬間を捉えたい。動体視力は意識すれば鍛えられるのではないか?医学的な根拠は何もないけれど、普段から物体の動きをキャッチしようと心がけていれば、自ずと視力が蘇るように脳が働いてくれるのではないかしら?

アオサギが今年も飛来してきた。池のほとりで鯉を狙っているが、人の気配を感じるや否やサッと飛びたつ。そしてやや遠くの屋根から眼下を睥睨するのだ。こ憎たらしいけれども、その飛翔は敵ながら惚れぼれしてしまうほど優雅である。

警戒心の強いアオサギは、人がいる間は決して池には近づかない。が、人気のない夜になったら、池にそっと近寄り、食べごろの中堅鯉を、パクリと咥えるかもしれない。その決定的瞬間を拝んで見たい気もするが、はてアオサギ君よ、きみって鳥目じゃなかったの?(12月6日)

 

追悼 グレッグ・レイク

註:これはMediumの記事をそのままはてなへ転載した。今やっていることと一緒だ。 

 

Saturday in the Park

飼い猫(Chai:Cream tabby cat)と一緒にいぎたなく寝ていたいが……(写真省略)

土曜日の公園。今日は長丁場。遅くまで働かなくてはならない。パッチを穿いてGO!(笑)だ。

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物産館では毎週土曜日に農業大学校で採れた野菜を販売している。この緑一色のミニトマト。まだ青いと思われるだろうがこれで完熟。名前は「みどりちゃん」。齧るとどことなく懐かしい風味がする。

残念ながら「みどりちゃん」の収穫は今週までで、他のミニトマトも来週末が年内最後の販売になる。

しかし今日は不思議と緑色に縁がある。これはついさきほど公園敷地内で捕まった昆虫です。たぶんニジイロクワガタだと思われますが、ご存知の方はお教えください(とTwitterに呼びかけた)。

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すると「とげありさん」からこんな返信が即座に返ってきた。<①これは完全にニジイロクワガタです。飼育しているのが逃げた(逃がした)んじゃないでしょうか?そうでないとすると大変な事です。

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②日本には近縁種はいないので交雑の心配は無いですし、オーストラリアと環境もかなり違うので、定着の可能性は少ない気がしますが。>とのことである。

外に逃がすつもりだったが、やめにした。今後どうするかは園内で検討する(室内で飼うかもしれない)。

Saturday In The Park, a song by Chicago on Spotify

忙しいのか暇なのかよく分からないけど土曜日の勤務はだいたいこんなふうだ。予測はつかない。私はとにかく閉園までの時間、来た球を打つのみ。(12月10日)
 

流れゆく君へ

いいのさ下手で。

上手くまとめようとするから上手くいかないのだ。凸凹があってよい。思考の移ろうまま伸びやかに書けばよろしい。

巧いね、なんて言われだしたらある意味オシマイだよ。

私のような中高年はテクニックにすがるしかないのだ。が、若い人たちはどうか技巧を念頭から外して思う存分・思いの丈をぶちまけてほしい。私はもっと読みたいんだ、意識の奔流を。

泉谷しげるの歌に、「生きることばの、はやさがいいぜ」というフレーズがあって、そこだけは好きだったな。

サービスの行く末を案じるよりも、先ず書きまくることだね。居心地のいい場所にしたいのであれば。(12月13日)

註:たぶんこれは、お上品な若手Mediumユーザーたちに説教したくなったのだろう。

 

悩ましいところ

エヴァ・キャシディ(1963年〜1996年)の「オータム・リーヴス(枯葉)」がカーラジオから流れてきた。嫌いな歌手ではない。この時も、ああいいなと思いながら聞いていた。

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けれども悩ましい。私は世評に定着したようには手放しに称賛できない。世紀をまたぐ前後に登場した欧米のポピュラー歌手に共通して感じる「もどかしさ」があって、それを説明するのはとても難しい。

エヴァ・キャシディはロック・フォーク・ジャズ・ブルース・カントリーなどの様々なジャンルを統合し、スタンダードナンバーに新たな解釈を加えた。そのアイディアを支える歌の表現力には素直に脱帽する一方、エヴァを模倣したようなスタイルの歌手が(調べたわけではないが)この20年ほど増加の一途をたどっているような気がする。本人の責任では全くないのだが、そのフォロワーたちに表現領域を開拓していく気概を感じないのだ。

名曲が歌い継がれていくことは大事なことだけど、素朴なアレンジで誠実に、丁寧に歌っている「だけ」のカヴァー歌手が、洋の東西を問わず多すぎるように思う。

断っておくとエヴァ本人は随所に工夫を凝らしていた。例えば有名な「オーヴァー・ザ・レインボー」では、ミドルエイトの音符を意図的にずらして歌い、歌詞に違った側面からの光を当てている。しかし、そういった創意の跡の見当たらない耳ざわりがよいばかりのカヴァー歌手の蔓延がエヴァ亡き後の「成功モデル」に起因するとなれば、なんとも皮肉な話ではないか。

今日も歌手を目指す女性たちはデモを制作する。「ローズ」や「デスペラード」を歌うように勧められる。誰に?ボイストレーナーや売りこみに余念ないエージェントたちに。だけど彼女らはベッド・ミドラーやカレン・カーペンターの域には決して及ばない。私は忌野清志郎の意訳による「500マイル」を歌う女性歌手にも同じようなにおいを感じてしまうが、見方が皮相に過ぎるだろうか?

「ポピュラー音楽の定型は概ね出尽くしてしまった」と言われて久しい。そうかもしれない。けれども時代に新鮮な息吹を吹きこむ表現には、やはり今までとは違った何か(Something New) が必要である。エヴァの遺した録音に、それを見出すのは正直言って難しい。オリジネーター至上主義を声高に唱えるつもりはないが(同じく夭折した女性歌手である)ジャニス・ジョプリンローラ・ニーロ、サンディ・デニーミニー・リパートンの軌跡を知る私の耳は、五つ星には届かないなとシビアな評価を下してしまう。

とても気持ちよい上に、身が引き締まる声なのだけど。

厳しい意見を縷々書いたが、結句好きな歌手なのである。選曲のセンスもいい。クリスティン・マクヴィの「ソングバード」も良いが、何れか一曲を、と問われれば、私は「フィールズ・オヴ・ゴールド」と答えよう。


Eva Cassidy - Fields of Gold

私見だが、これはスティングのオリジナルを凌いでいると思う。スティングの書いた客観的な構成の歌詞が、エヴァ自身の感情が率直に伝わるよう控えめに改変されている。その、僅かだけれども自分の色を添えたことが、より人口に膾炙した秘訣なのかもしれない。そこには歌うたいの明らかな意思がある。エヴァの見つけた黄金の野の原が。(12月17日)

註:これはMediumではほとんど読まれなかった。はてなに転載し、Twitterに告知したところで、急激に閲覧者が増えた。海外の忠実なエヴァのファンが、日本語で書かれた記事を読みに、はるばる訪問してくれたのだ。

 

特命試走車

自動車教習所の授業で観る古いフィルムが好きでしたね。白黒画面にスクラッチの雨が降っている、荒川土手の未舗装道路を三輪トラックが上下左右に揺れながら徐行しているような「短編映画」が。

そんな昭和の映像を観たくなってYouTubeをザッピングしていましたら下に貼ったドキュメンタリーを発見しました。

特命試走車」。どうぞご覧ください。


特命試走車 (1/4)

凄いでしょ。悪いけど私、30分弱の間に何度も笑いました。以下、見所を列挙。

  • テストコースに突如スパイ(ライバル会社)のヘリが急襲する。布カバーに覆われた試走車を撮影されてはならないと、伝声管に向かって叫ぶ警ら係の緊張した声。「大変!大変!」。
  • テストドライバーは朝食を摂らない。水分は禁物なのだ。わが子に「ちゃんとご飯を食べろ」と諭しつつ、自分はチョコレートを齧るだけ。
  • ナレーションの調子がやたらと仰々しい。「○○なのである。だから〜」と「だから」を連発するあたり、原稿の文章が粗雑い。
  • しかし、なんと言っても凄いのは、リーダーが檄を飛ばすところ。「お前らたるんでるんじゃないのか?(略)辛いなどと言わずに気合で、大和魂で乗り切れ」といい、三日三晩(映像を確認すると四日四晚でした)不眠不休ノンストップで殆ど未舗装の北海道を一周する。しかも前のタイムが不甲斐ないので連続2回目の走行なのだ。

と、まあ全編これ高度経済成長初期に於ける企業のありようがうかがい知れる貴重な資料であり、かつ愉快なフィクションである。だってノンフィクションを謳うには、あまりにも作為的だもの。

今の目で見るならば、あまりにも合理性に欠ける研究開発/実験だけど、当時はこのような手段しかなかったのかもしれない。よりよい数字=記録を叩き出す目的を達成するために、エンジンがオーバーヒートするのも厭わず試験走行をくり返す。これは「世界に追いつき、追い越せ」の一念に支配された男たちの、血と汗と涙とオイルにまみれた根性物語、でもある。

かりにその「企業精神」が、戦後日本の自動車産業の礎となった事実は否定できないにせよ、滅私奉「社」の精神と、暴走族の理不尽なヤキとのアマルガム(合金)が、昨今隆盛のブラック企業の地金になったこともまた否定できまい。

つまりは企業PR映画なんだ。企業の内に発奮を促すための。昭和の真面目さや直向きさの向かう先は大半が社内か国内。外には開かれていない宣伝材料。

だから面白がって観たあとに、なんとも言えない苦い後味が残る。それは結末の場面にそれとなく示されている。耐久と徒労。ぜひ観て確かめられたし。(12月19日)

【過去記事】

註:私はこの時期、レスポンスを通じてMediumユーザーとさかんに交流していた。自分自身の投稿よりも、他の方の記事へ熱心に感想を送っていた。

 

ドレスコード

もう何十年も昔の話だけど、「私の講義にジーンズを穿いてくる学生は入室を断る」という上智大学の教授がいて、物議をかもしたものけれど、当時学生だった私は「さすがソフィアの先生だ、矜持が違うわ」と、悪い印象をさほど持たなかったのだ。

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で、

なんで唐突にこんなことを思いだしたかというと。私は職場で専らGパン穿いているんだけど、支給されているベージュのチノパンツを穿くように指導、いや促されたからなんだ。

職務にふさわしい服装を、だって?上の方がそう仰ってんの?

別にカッコつけてるわけじゃないんだ。受付もやれば接客もやる、事務処理もあれば外作業もある。昨日なんか外の枯葉を集めているという何でも屋的な職務において、汚れの目立たないGパンは、悪くない選択だと思ったからさ。チノパンだと地面に膝もつけないじゃないか。

私だって常識はあるんだから、色褪せたり破れたりしたジーンズは穿かないよ。仕事着には色落ちしてないやつを選んでるんだけど、そこ分かってくれないかなあ。

と、

さっき洗濯していて「この歳になって服装チェックを受けるとは」って、思いだし笑いをしてたとこです。(12月20日)

 

7時のニュース/きよしこの夜

註:この記事は誤って削除してしまった。確かアート・ガーファンクルエイミー・グラントのデュエットを貼って、そののちS&Gの「サイレント・ナイト」についての解説を書いたのだった。ありきたりの解釈だったので、他の解説をあたったほうがいい。

Art Garfunkel, Amy Grant, Jimmy Webb - Words From An Old Spanish Carol/Carol Of The Birds - YouTube

 

あらゆる偏見、先入観、固定観念からの自由を。

12月25日、またしてもポップスのイコンがこの世を去った。

私は彼のよきリスナーではなかった。確かに歌は巧いけれども、所詮ポップスターだろ?と、80年代の活躍を冷ややかに眺めていた。傍観の構えはソロ第1作目の“Faith”でも変わらなかった。

その偏見が完全に払拭されたのは、第2作の“Listen Without Prejudice”を聴いてから。あーいったいオレ、いったい何を見てたんだろうと自分の妙な「こだわり」を反省したものだ。

先入観ぬきで聴いてくれと彼は言った。

そこにはロックだポップだジャズだクラシックだという、既存ジャンルの垣根を飛び越えたところの、音楽の豊穣があった。

粒ぞろいの楽曲が揃った作品から一曲だけ選ぶなら、コンチネンタルな響きを有した、この憂愁のワルツを挙げたい。


George Michael - Cowboys And Angels

Cowboys and Angels, a song by George Michael on Spotify

この一枚で、すわファンに早変わりしたわけではないが、私の狭いロック史観は90年前後を境に徐々に解体され、ジャンルの柵(しがらみ)から解放され「自由」になった。ひとつの端緒となった“Listen Without Prejudice(vol-1)”を世に送り出した彼に感謝の思いを伝えたい。

Live Without Prejudice

音楽をありがとう、ジョージ・マイケル。(12月27日)

 

真夜中のラヴレターみたいな

生煮えで、未整理の文章を書かないか。

とかくこの世はお利口さんが多すぎる。理解されたいという意識が勝りすぎて、だいたいのとこで手を打っている感じ。

うわ言めいたたわ言を書いてみないか。

意識の奔流に身を委ね、無意識の領域に突入してごらん。自分でも理解不能な内容の文章が書けるって素敵じゃないか。

ティーネイジャーが無我夢中で書きなぐったようなとっ散らかった文章の魅力。

私は編集能力という言葉が嫌いなんだ。とりすました感じがいけ好かないんだ。もっとなんかこう、抑制の効いてない、初期衝動のまんまの文章が好きなんだ。

ここにrareがないのはmediumだからか?

熱く、野暮天な、不恰好で、ゴツゴツした、意味不明の、アタマ悪そーな、横紙破りの、無礼だけど、スケールのでかい文章には、ついぞお目にかかれなんだ。

_そったれ、

誰も書かないようだったら代わりに私が書こうか。読んだ皆さまが困ってしまうような、愚直で照れくさいテキストを。

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真夜中に書かれたラヴレターみたいな。(12月29日)

 

2016年11月のMedium

 

 

たくさん投稿していると思いこんでいた11月だが、どうやら錯覚だったみたいだ。

たちまち

会話していて、おやっ?と思うときがある。相手が、日ごろ自分の使わない言いまわしで話したときに、とりわけそう思う。

今しがた使った〈とりわけ〉がそうだし〈今しがた〉もそうだ。私はそれら耳慣れないことばの響きに魅了され、同時に文字面を想像する。そして後々自分の書く文章に用いようと〈サンプル&ホールド〉する。ボキャブラリーを増やすのが目的というよりも、自分にとっての新語を使ってみたら文体がどう変化するかに興味があるのだ。

昨日は〈たちまち〉ということばに反応した。「ちょっと待て、そのタチマチって最近あんまり使われないね?」と、話題を明後日の方向へ逸らしてしまう私。会話の流れを遮るのはいささか気がひけるが、性分である、なかなか直らない。

たちまち【忽ち】(一説に、原義は「立ち待ち」、立って待っているうちの意)にわか。すぐ。急。早速。「ーーのうちに」「ーー売り切れる」(広辞苑

なるほど漢字をあてると「忽ち」になるのね。と、いちおう辞書をあたって使い道を間違えないよう気をつける。たまに適切でないところに覚えたてを無理やり挿入して失敗することも〈ままある〉からだ。

「あー、たちまちをたちまち使ってみたい」みたく、不自然な使い方をして恥ずかしい思いをする。それもまたインターネットへ気軽に文章を投稿できる時代ならではの悩ましさではありますが、〈ともあれ〉【名・副】の扱いには要注意。

おそらく数日以内に私は〈たちまち〉をそれとなく文中に紛れこますだろう。見つけがてら、ご笑読あれ。(11月6日)

註:あと、〈まちまち〉とか〈めいめい〉とか〈思いおもいに〉とか、ね。 

 

私、クルマを買いました。

なにしろ変わったデザインのクルマです。一番特徴的なのはフロント部分。縦長のヘッドライトが目立つ。私はクルマ事情に疎いので、最初に見たときは外国車か?と思いました。でも、国産車なんです。

註:フロント部分の写真は、google検索すると特徴がありすぎて、やたらと目立つから割愛しました。

WiLL Cyphaという車種です。年式は2004年。もちろん中古車です。今は製造されていません。トヨタ製ですがトヨタのエンブレムはどこにもありません。WiLLシリーズは今世紀初頭に3車種作られましたが現在いずれも廃番です。

ボディカラーはホワイト。蛍光ペンみたいな黄緑やオレンジは街中でもたまに見かけますが、白いウィル・サイファは逆に珍しい。50000㎞しか走っていないし、エンジンもきれいでしたから、購入するのに躊躇いはありませんでした。

隣県まで用事があったので、昨日さっそく雨の高速を走らせてみたのですが、車内は思ったよりも静かだし、馬力は過不足なく車体の安定性も良いので、走行中ストレスを感じることはありませんでした。燃費も(ハイブリッド車とは比較になりませんが)悪くなさそうです。ヘッドライトが暗いという評価をネットで見たけれど、明るさは十分だと思いました。

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しかし、見ればみるほどまん丸です。曲線が主流の今においても、これほど円さにこだわったクルマも稀ではなかろうか。だいたい私は流体力学に則った昨今の流麗なデザインに反感を抱いていましたが(過去記事『SAにて』を参照のこと)、ここまで徹底して丸いとなると、その遊び心満載の意匠があべこべに面白いと感じるのです。

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私にとっては高い買い物です。買ったばかりが最高潮だとの意見もあります。まあいずれいろんな不満が出てくるでしょうが、今の時点では大満足です。何せ自分名義のクルマを所有したのだから手入れしながら大事に乗るつもりです。(11月9日)

https://open.spotify.com/track/6rftHSjgpr0FfoQ6wS0aQD?si=_uuCgsQXQF2TVOmOhInOPQ

註:じっさい走らせていると、いろんな箇所の不調に気づきます。が、不満はとくにありません。来月(10月)には車検も通します。身の丈に合ったクルマですから。

 

レナード・コーエン死去。

レナード・コーエンは旅立ったのだ。カナダ国籍であることから、ユダヤ人であることから、あらゆる約束から解放されて、アメリカの行く末を見届けつつ、いま、静かに旅立ったのだ。

【関連過去記事】

註:レナード・コーエンについては、私の他の記事にも名前が散見するが、古井由吉の小説とならんで、未だに解けない難問のようなものである。

 

きざ・キザ・気障

私は自分の書いた文章を一歩ひいて眺める癖がある。ついさっきもツイッターで「忍耐力に欠ける」よりも「堪え性のない」の方が良かったかな、と言い訳めいた訂正を投稿したばかりである。

自分でもキザだなと感じるときがある。先日、私のブログ記事を「カッコいい」とほめてくださった方がいた。皮肉ではないと思いたい。私は現実の冴えないイワシさんよりも数等カッコよさげに繕って書いている(ように思えてしまう)。

文章に過度な修辞は禁物だが、それでも私の文には余計な修飾が目立つ。きざは「気に障る」という漢字を当てるが、修飾過多に自分でも気に触ることがある。

Mediumを始めたころ私は「私」を主語に統一すると決めた。目的は「よりソリッドにするため」だった。喋り口調で書くと、どうしても内容がバラけてしまい、焦点の絞りきれない感じがするのだ。が、最近ではずいぶんくだけた文体になった。肩の力が抜けたのかもしれない。幾つか決めた縛(いましめ)は、とうに解いてしまったが、一つだけ、今なお遵守していることがある。それは政治性を詳らかにしないことだ。リベラルな傾向は隠しようがないにせよ、党派性は伏せている。それは自分と違う考えに触れたいがゆえにである。似た考えのアカウントの意見で埋めつくされツイッターで、それはもはや不可能に近いので。

さて、ここまで書いた文を再読してみると、やはり気障としかいいようがない。スタイリッシュを目指しているのではなく、むしろ内心を忠実に掬いあげて表現しようと努めた結果なのだが。喋るような書き方では思考を十全に反映できないような気がする。私の書く文章はキザだけど、断じてカッコつけではないことをご承知おき願いたい。

私の癖のある文体は、おそらく昭和の小説(戦前と戦後まもなく)と、平成に乱読したノンフィクションに影響を受けた故だと自己分析している。(11月15日)

註:※いま思いかえすと、ポンピィさんの寄こした感想は、やや皮肉まじりだったな。 

 

この世界の片隅に』を観ました。

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熊本の新市街サンロードにある電氣館は老舗なんですが、シネコンではかからない映画が多く上映される結構な映画館です(例えば昨年は三上智恵監督の『戦場ぬ止み』を観た)。今日は話題のアニメーション映画、『この世界の片隅に』を観てきました。

シン・ゴジラ』『君の名は。』と話題の作品を続けざまに観るなんて、けっこうミーハーだなと自分でも思いますが、「のん」こと能年玲奈が主役の声を演じているとあらば、駆けつけないわけにはまいりません。

昨日クルマの中で岡田惠和のラジオ番組を聞いていたら、連ドラの話題でゲストの薬師丸ひろ子が「主役の女のこを中心に役者とスタッフが一丸となって〜」と語っていた。なぜ能年玲奈(のん)の名前を出さないんだろう。とっさの判断かもしれないが、賢い薬師丸さんの配慮はどこに向けたものなんだろう。(Twitter

些細なことかもしれませんが、能年さんをシカトする芸能界の問題の根は深いなあと思ったばかりなので、早い話が応援したくなったんですよ。マスコミが無視したくてもできないくらいに映画が大ヒットすればいいなとの思いがあったのです。

【追記】のんさん、大輪の花が開いた

さて、肝心の映画の内容ですが、これはもう、ぜひご覧くださいと言う以外は思いあたらない。前に挙げた2作品もそれぞれに見どころがあり、面白かったし考えさせられたけど、この世界の片隅に』を観終わったあとの満足感は比べものになりません。冷静になって批評する気にならないし、欠点を挙げる気にもならない。私がどれほど物語の中にのめり込んでいたかと言うと、始まってからしばらくすると、主人公「すず」を「のん」が演じていることすら、すっかり忘れてしまった。つまり、客観視できないくらい集中していたのです。

いや、一度だけ我に返った瞬間があって。それはある重要な場面にさしかかったときに地震が起きた。後で聞くと震度2、震源地は熊本駅あたり(つまり電氣館にほど近い)だったそうですが、一瞬「音響効果か?」と勘違いしました。シネコンみたいなドルビーシステムを持たない小さなハコだと言うのに。しかし震動は見事に映像とシンクロしていたのです。

私は原作者である、こうの史代氏の淡い画風があまり得意ではありませんでしたし、コトリンゴさんの音楽も好みではありませんでした。けれどもその先入観は刷新されてしまった。こと音楽には喧しい私ですが、とくに万華鏡みたいに音の散らばるエンディングの歌には脱帽でした。

客席を見渡すとご高齢の観客が半分くらい。若者はちらほら。できれば武器や船舶に詳しいマニアックな方々にこそ観てもらいたいと思いました。そして熊本でも満席になることを切望します。なぜなら焼跡の果てしなく広がる光景は、私たちが四月に目のあたりにした崩壊の現場と同一のものだから。登場人物の感情を、痛みを慈しみを、今の熊本人は誰よりも理解できるはずだから。(11月17日)

註:※この映画の受容のされかたにかんしては、のちにずいぶん批判している。簡単に説明すると「戦時であっても幸福はあったのだ」という論に回収されるおそれがあり、後日その懸念を「はてなブログ」の記事に書いた。 

<だが、その素朴な筆致が「美しく」解釈されてしまう危険性をはらんでいるという点は、指摘しておいたほうがよいかもしれない。>と私なりに警鐘を鳴らしたが、残念ながら、その懸念はあたってしまった。

*ところで、上掲の記事に、冒頭の「たちまち」が紛れこんでいるよ。

 

忘れものです。

雨の日の公園はお客さまが激減するので昨日は忘れものの整理をしていました。数年前の遺失物ですが、もったいないなと思いつつも、傘やタオル等がほとんどなので、迷わず分別&処分しました。

が、

どうしても捨てきれなかったのが、このぬいぐるみです。持ち主の可愛がりようが想像できるくたびれかたですが、見ればみるほどせつなくなってしまう。おまけに背中のスイッチに触るとワンワンと鳴く。もう胸キュンですよ。

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よほどこの仔を持って帰ろうかと思いましたが、それはルール違反ですので、私はこのワンちゃんを、受付のマスコットにしようと決めました。今はカウンターに鎮座まします。なお、心あたりある方は遠慮なくご連絡ください。持ち主の元に帰るのが一番ですから。(11月19日)

註:情が移ったぬいぐるみは今もカウンター内側の「ワンワンのおうち」にいる。

 

ドライフラワー

公園のバラの花は来年に向けて剪定してしまいました。いま観に来られてもバラ園は殺風景です。申しわけありません。

受付の花瓶に飾った花はドライフラワーにします。ずぼらな私は適当に束ねて壁に吊り下げるだけ。ホラこんなふうに。

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乾燥した部屋だと、一週間もすればいい感じのドライフラワーが仕上がります。バラ以外の花もいろいろ試してみましたが、あまり上手くいかない。枯れる前に花びらが散らばってしまうのですね。あと、バラでも黄色や白だとあまり冴えません。色褪せたらくすんだベージュになる。それはそれで趣あるけれど、やはり深紅の花びらが一等きれいです。

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♪ きみの希望は吊り下げられて、触れては散らばるドライフラワー

月末は何かと忙しい。軽いエントリーでご勘弁ください。(11月30日)

註:こうしてふり返ってみると11月は亡父の四十九日もあったせいか、Twitterはてなブログとも低調だった。なお「♪ きみの希望は~」は私が二十歳のころに作った歌詞。

 

2016年10月のMedium

 

10月から年末にかけては、たいした記事は書いていないが、私が最もMediumに耽溺した時期だった。

 

Trailer 壮大な予告編

観た印象をパラフレーズに記録する。
  • 時間軸が錯綜するが、混乱するほどではない。筋書きは追える。
  • たとえば、スマフォの機種でいつ頃の話かが分かる。若年層の観客にも理解しやすいよう丁寧に設定されている。

  • パラレルワールドのうちで、いちばん幸福な結末が最後に選択される。

  • もちろん、物語の原型にそれほど多彩なヴァリエーションがあるわけではない。
  • みずうみ。彼岸と此岸を隔つ結界。
  • 夢の反復。
  • 似たような夢を私もよく見る。険しい山を登り、湯釜を一周する、夢を。
  • 典型的だな。
  • 最大公約数?
  • 批判的に観たいわけではない。むしろ積極的に加担したくなる、装置。
  • 神話づくりに参加する感覚の観客の支持と協力によって成立する構造。
  • それを予定調和と呼ぶのであれば人口に膾炙する物語の殆どがそうだ。
  • が、しいて欠点を挙げるなら、
  • アニメーションは汚さを描きづらい。壁のしみさえ鮮やかに彩られる。
  • 田舎の遣る瀬なさがあらかじめ排除された、美しき郷のイメージ。
  • 聖域。都を維持する犠牲としての。
  • クライマックスでタイトルが映しだされたのち、暗転のエンドロール。
  • 誰かが「壮大なミュージックプロモーション」と評していたけど、私には壮大な予告編(trailer)のように思えた。

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屋外に出た瞬間に見た光景。空の青、雲の影、午後の陽ざしの眩しさに、現実への帰還を意識した。

タイトルに収斂する記事=物語の回収。

(10月1日)

註:大ヒットしたアニメーション映画『君の名は。』の感想(例によって娘あて)。

 

秋空の下の釈迦の仰臥f:id:kp4323w3255b5t267:20170909154415j:plain

各種申請のために本籍のある阿蘇市に行ってきた。熊本の震災後、2回目である。

大津町からミルクロードの蛇行する坂道を登り、二重峠を越え、外輪山をなぞりつつ、大観峰から阿蘇谷に降りる。

震災前は立野を通る国道57号線を利用していたが、震災以後、不通のままだ(JR豊肥線肥後大津駅で止まっている)。わが家から阿蘇市まで約45分で到着していたが、今はその倍の、片道1時間半はゆうにかかってしまう。

外輪山線を走るのは、この季節まさにサイコーなんだが、今日のように所用があって時間に余裕のない時には、風光明媚を楽しむ気持ちになれないものだ。それにミルクロードの坂道は急な上、見通し悪いヘアピンカーブの連続するワインディングロードである。道幅も狭いので10tクラスのトラックが登坂するには厳しく、すぐに先が詰まってしまう。エンストでもしたらさらなる渋滞は必至、積載量オーバーで横転したトラックもあるというし、これで冬ともなれば路面は凍結するので、いずれ阿蘇地方が再び陸の孤島と化すのは目に見えている。

もちろん立野(阿蘇大橋が崩落した辺りだ)の地質調査および無人の重機による地滑りした法面の整地も急ピッチで進められているので、来年初めには国道57号線の本格的な復旧作業に入れる見通しではあるとのこと。しかし阿蘇に住まう人たちの不便は当分、いや数年は続く。動脈の細まった阿蘇ライフラインを、国と自治体は、今以上の予算と情熱をかけて取り組んでもらいたいと切に願う。

外輪山線の草原は今、群生したススキの真っ盛りだ。銀色の穂がそよぐ風に波のように揺れる壮麗な風景を写真に収めたかったが、生憎そんな余裕がなかった。途中に休憩した北山展望所から望む、阿蘇五岳の一葉のみでご容赦願いたい。(10月6日)

註:大観峰まで行かず、二重峠からは赤水へ下るのが一番近く、一般的なルートである。※

 

六脚テントの話

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私の職場は多種多様のイベントが開催される。気候のよい秋ともなれば尚更、マルシェ(雑貨市)から幼保の運動会まで六脚テントはフル稼動の状態である。

昨日はA地点からB地点まで、200mあまりの距離を移動する運びとなった。作業に携わる人員は8名。33脚を午前9時から12時までの間に移し終える計画である。

船頭多くの喩えの如く、如何にすればより効果的かの意見がそれぞれから出されたが、既に組まれているテントをそのまま運ぶのが得策との結論に至った、が。

8名いるのだから4名ずつの2班に分かれて四隅を持って運ぶのが良い、との意見が多数を占めたので、作業当初は4名で6脚テントを移動したのである。

ところがメンバーの体力差・体格差(身長や腕の長さで脚を持つ位置も変わる)を考慮に入れてなかったため、次第に移動する速度が鈍くなってきた。六脚テントは重い。1人にかかる過重は相当なものだ。日ごろ事務職などで作業に慣れない者、つまり私のように軟弱なヤツは、握力がなくなり、腕が上がらなくなった。

「そりゃ気合いが足りん」とか「根性ば出さんや」と囃したてていた腕自慢たちも、他が力を出せなくなるにしたがって自分側にも過重が寄りかかることに気づいた。結果、4人体制はかえって非効率ではないかとの意見が多勢を占めるようになった。

休憩を挟んで作業の後半は六脚をそれぞれ1人が担い、6人体制で移動したが、その方がよほど捗った。そしてどうにか午前中の間に無事33脚を移し終えたのである。

能率よく仕事を進めたい、手っ取り早く済ませたいとの思いが高じるあまり、一人に多くを担わそうとする。それが却って作業効率を低下させる事態を招く。頭数は必要である。人件費を削減し、人一人に過重な負荷を与えることで乗り切ろうとする企業経営および労務管理のあり方は再考されなければならない、と身にしみて思い知った一日でした。

あー今朝は筋肉痛たい。(10月12日)

 

ローズマリー・ハークネス

秋のバラ祭の季節がやってきた。

けれども今年の秋季は生育の状態がよくない。8月以降の雨天続きや台風のせいもあるだろうが日照時間が足りなかった。地震のせい?まさか。いずれにせよ只今二分咲きといったところだ。

お客さまは満開に咲き誇るバラ園を期待して観に来る。だが、その期待に応えられるほどの咲き具合ではない。花の見ごろはいつごろですかとの問いはいつものことだけど、こればかりは、来週には満開になりますと胸を張っていえない。

しかし言い訳めくが、ポツポツと咲くバラの花にはなんとも言えない奥ゆかしき風情がある。絢爛と咲き乱れるバラの香りにむせぶのも一興だが、今年はささやかな花のメルヒェンでご勘弁願えないだろうか。

虫のいい話だとは思うけれども、真夏のさなか除草剤などを使わず雑草を除き、剪定していた管理スタッフの労を思うと、とてもじゃないが「今秋のバラは出来が悪い」の一言で切って捨てられない。

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ほら、ローズマリー・ハークネスは蕾でもきれいでしょう?(10月14日)

註:職場にかんする記事が二つ続いた。父を喪ってからは仕事で気を紛らわしていた。

 

【NEW!】

註:このアーカイヴ作業をしている最中、スピンオフ気味に書いた記事です。

 

文学の側からの評価を求む

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

註:Mediumから「はてな」に複写し、大幅に加筆したので、過去記事を参照のこと。

 

 Jeux de eau 

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「あの、失礼ですが……」

男の唐突な問いに女は首を傾げた。

「ひょっとして、ピアノを弾いていらっしゃる?」

「ええ」

女は目を丸くした。

「むかし弾いてましたわ。でも、なぜ、それを?」

ご存知なのかしらとの女の口調に、咎める気配はなかったけれど、男は少し焦ったような口調になった。

「あ、いえ、その、水の戯れ……」

「は?」

困惑気味の表情を浮かべる女に、男は不器用な口ぶりで理由を説明しはじめた。

「モーリス・ラヴェルの『水の戯れ』、ですよね?だから、ピアノを弾かれるのかなと思ったんです」

「確かにラヴェルは好きだけど……」

女は怪訝な顔をしたまま、上目遣いに男を見た。

「どうして分かったのかな?」

「だって、jeux de eauってアドレスに書いてあるから」

「ああ、メアドを見て分かったの?」

女はころころと笑った。

「よくご存知なんですね」

「いえ、たまたまです」

本当は、分からなかった。フランス語だろうと見当つけただけだった。その文字列を検索にかけてみて、それがラヴェルピアノ曲のタイトルだと知ったのだ。

「今朝もラジオでかかっているのを耳にしました。だから、分かったのかもしれない」

「音楽に、お詳しいのね」

「そんなことは……」

「学生の頃にね、弾いたことがあるの」

女はくすりとほほ笑んだ。

「でも、今はもうムリだな。練習してないもの」

伏し目がちになって、ため息をつくと、胸もとに抱いた赤子をそっと撫でた。

「すみません。ぼくが勝手に……」

メールアドレスの詮索を詫びようとする男に、女は「ううん、いいの」とかぶりを振って、

「思いださせてくれて、ありがとう」

と軽く会釈した。

女の腕の中で、子どもが欠伸していた。

(10月19日)

 

註:まるで野村修也氏がまだ駆け出しのころ法律雑誌に連載していたコンプライアンス小説のようだ(こっ恥ずかし)。

 

簡単で散漫な解説

記事を、いやMedium流に言えばストーリーを書く際、余計な説明はなるべく省きたい。目次も索引も不要だと思う。矢吹丈流に言うなら「挨拶ぁぬきだ」です。

文章そのものに触れてもらえれば、それでじゅうぶんだ。私の人となりなんか伝える必要はない。知りたくなれば自然と過去に書いたものをたどるだろう。私は分かりやすく読みやすい記事づくりを積極的に怠りたい。遭遇は一期一会、内容が気に入らなければハイそれまでよ、だ。

記事に親切な構成を施すのは誘導のようで気が引けるのだ。読み手が増えるのは嬉しいが、呼びこみに精力をかたむけるつもりはない。成功報酬型広告等には全く興味がない。これからも私は、簡単で散漫な解説すらない、不親切なスタイルで書き続けるだろう。風邪で不機嫌な気分を反映している、この記事のような。(10月21日)

 

ゲームは殆どしたことがない私。

なぜだろう子どもの頃から、ルールを覚えることが苦手でした。近所の子ども同士でトランプをしようという話になると「あー面倒くさいな」と内心思うような子でした。将棋、麻雀の類いもまったくダメ。私に囲碁を教えこんだ亡き父は、将棋くらい指せないと大人のつきあいができんぞ、と本気で心配しておりましたね。

別にそんなことはなかったけど。

10代の終わりにインベーダーゲームが流行しました。私は友人たちが興じているさまを見ながら退屈していました。何回か自分もやってみたけど、なんでみんなが夢中になるのかさっぱり分からない。一面もクリアーできませんでした(一面もクリアーできないと言えば、ルービックキューブもそうです。誰かから貰ったけれど、厄介そうなんで、殆ど触らなかった)。

そんな調子でしたから、ゲームセンターに足を運んだこともありませんでした。パチンコも学生時代のつきあいでしばらく通いましたが、やはりつまらないと感じてしまうのですね。何回か幸運を授かったものの、夢中にはならなかった。私は何か欠落しているのかなと不安になるほどでした。その疎外感が決定的になったのは、そう、ファミコンの登場からです。

いいからやってみなよ、面白いからさと友人たちから勧められて、スーパーマリオに挑戦したものの、やはり一面もクリアーできない。好きな方には誠に申し訳ないけど、莫迦ばかしく思ってしまうんです。

ボタンを何回も押すことが。

後々話題になったロールプレイングゲームの数々も、私はどんな内容だか知りません。小説を読むのは好きだからファンタジー系のゲームなら大丈夫かなと思ったのですが、やはりダメでした。強いられる感覚がどうも。場面をクリアーしなければ先に進むことができない、端折れないことで挫折してしまう。早々に諦めてしまうのですね。

なので私は、名作と呼ばれるゲームの共通体験を持ちません。話題にしたくともできない。かといって非社交的ではありません。ゲームの話題に触れなくとも、幸い人間関係に差しさわりはないから。

私はYouTubeを観るのが好きです。だけど好きな音楽の前に戦争シーンが写し出されるのは興ざめです。すぐさまスキップしますが、威圧するような音響が耳に残って不快です。バトルゲームやシューティングゲームはこの世から……以下省略。

私はシネコンのドルビーサラウンドや、コンピュータグラフィックスで制作された3D的な映像も苦手ですが、これもゲームぎらいと関連があるのかもしれません。威圧感・切迫感がダメなんです。

そう、急かされる感じがたまらないのです。明日までに宿題を済ませなければ、の切羽詰まった感じと、何分以内に何体をやっつけなければ次に進めないゲームは似ていると思うのです。っていうか、私にとっては等しく労苦です。現実にクリアーしなければならない事項が山ほどあるのに、なんでわざわざ、それと同じようなストレスを味あわなきゃならないの?と思ってしまうのです。

要するに、私にとってゲームとは「忍耐」なんだ。

ああそういえば、唯一やり遂げたゲームがあった。「ポケモンクリスタル」。流行したときに、子どもからどうしても買ってとせがまれ、やむなくゲームボーイとソフトをガイドブックを購入したんだった。使い方を教えているうちに子ども以上にはまっていた(笑)。たぶん私がゲームを受け入れるためには理由とプロセスが必要なのかもしれません。だからか私は今夏の「ポケモンGO」の流行を、わりと好意的に眺めていられた。

ご心配なく。私は多趣味な人間で、退屈とは無縁です。音楽、読書、絵画、写真。Mediumだってそのひとつ。ゲームに興じている余裕はないんだ。

♪人生はゲーム〜

(10月25日) 

 註:意外なほど読まれた(閲覧者数10月中第1位)記事に、余計な付け足しを加筆したエントリーがコチラ。


はてなブログのサイドバーを削除した

昨夜あれこれ考えてみた。私はなぜ最近はてなブログをつまらなく感じてしまうのだろうか、書く情熱が潰えてしまった理由は何だろうか、と。

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私は記事の右側に「サイドバー」を設け、そこにプロフィール、索引、Twitterの投稿を示した窓、Mediumを含む他メディアの案内などを載せていた。が、それを全廃してみてはどうだろうと考えた。

とりわけ外すべきだと思ったのが、トップテンと銘打ったランキングである。どの記事にアクセスが集まったのかが一目瞭然だったが、その順位に引きずられているように感じていた。

アクセスの多い記事は殆どが音楽関係で、人気あるミュージシャンについて書いたものがよく検索されていた。私は知らず識らずのうちに迎合し、次にどんなアーティストを取り上げればアクセス数を稼げるかと、狙いを定めるようになっていた。

しかし、そういった企みこそが疲弊する原因だった。私はアクセス数にこだわりすぎた。その雑念が文章に濁りのようなものをもたらしていた。

《よし、やめよう。》

はてなブログ毎やめてしまおうかとまで思いつめたが、書くこと自体に倦んでしまったわけではない。ならば意欲減退の原因を取り除いてみよう。決心した私はデザイン設定からサイドバーを選び、項目一つひとつを削除していった。f:id:kp4323w3255b5t267:20170909181414j:plain

これでスッキリした。訪問した読者も余計な情報に惑わされず眼前の記事に集中できるだろう。私はこのレイアウトにしたことでブログを立ち上げた当初の清新な意気込みを取り戻せそうな気がする。

書くことに特化する。これはMediumから学んだことである。
(10月30日)
註:もっともらしいことを書いているけど、たぶん音楽以外の(例に挙げた『時間どろぼうに御用心』のような)記事をもっと多くの人に読んでもらいたかったのだろう。でも、書きたい気持ちをふるい立たせるのって、なかなか難儀だよ。そんなときは今みたいにアーカイヴ作業に勤しむのさ。