鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2016年8月のMedium

 

 

8月のエントリーをふり返ると、より自分を理解してもらいたいとの思いが強くなっているように思える。Mediumでも仕事上の出来事や趣味性などを隠さなくなってきた。

 

 Don’t You Worry ‘bout A Thingf:id:kp4323w3255b5t267:20170908135339j:plain

お客様のクレームをまともにくらう時がある。

たいていは「お怒りはごもっとも」だと反省するのだが、たまに「理不尽な」と感じる時もある。

たとえば、お客様がトマトを買おうと思って来たのに当方がトマトを販売していなかった場合、品揃えが悪いとお叱りを受ける。

が、露地栽培の完熟トマトを扱っている以上、収穫時期を過ぎれば、代わりのトマトを仕入れることはない。

ところが、その旨を説明すると、お客様は十中八九、「ちゃんと書いておけ」とおっしゃる。どこに?インターネットのホームページに。入口の看板や通路の掲示板に。店先や陳列棚に。

じつはちゃんと書いてあるのだが。「今季トマトの販売は終了しました」と。

見落とし、というより読んではいないのだ。周知徹底を図り、注意を喚起しようとも、気づかれなければまったく意味をなさない。かれかの女らの目に入らないかぎり、文字による呼びかけは無効であり、説明不足でしかないのである。

だから当方としては、余計な説明をせずに深々と頭を垂れるほかない。丁寧に事情を伝えれば伝えるほど、お客さまの気分を害すケースがままあるからだ。

〈……しかしなあ、それ二ヶ月前の新聞の「地域生活情報コーナー」に掲載された記事だぞ。「現在は販売しておりません」と訂正をうてと言うのか?どうして「商品はいつでもあるもの」だと思うんだろうか……〉

と内心で思いつつも口にはできない、まことに接客業はツライよ、である。

そういう出来事は決まって繁忙期に重なる。これしきの些細なことでへこたれるなんてオレは打たれ弱いなとも思う。けれどもダメージは刻一刻と蓄積される。厄介ごとが次から次へと襲ってくるので、疲れがとれない毎日である。

そんなときによく口にする歌が、スティーヴィー・ワンダーの「くよくよするなよ」である。♪ Don’t You Worry ‘bout A Thingと口ずさみながら、私はどうにかこうにか日々をやり過ごしている。歌うことで少しだけ元気を取り戻せる。(8月1日) 

 

著作権は誰にでもある 

JASRAC日本音楽著作権協会)に就任した浅石新理事長の発言が波紋を呼んでいる。詳細は記事をご覧になっていただくとして、私は、これ以上JASRACに出しゃ張ってもらいたくない。著作者の権利保護という本来の設立趣旨から離れて、今のJASRACは音楽の普及を阻害する憲兵のような機関に堕している感が否めない。ちまたから流行歌が激減したのはパトロールによる店舗からの徴収が大きな要因であろう。先日私は以下に示す内容をTwitterに投稿した(要約)。

JASRACの監視によって著作者の「広く伝えたい」権利が侵害されているように思う。しかし著作物を「勝手に使われたくない」権利は擁護されるべきで、その兼ね合いというか匙加減が難しいところである。著作者の利益は確保されるべきであるが、本来なら作品を世に知らしめ、庇護する役割の者が中間で搾取する構造に変質している。著作権は資本主義社会における「錬金術」の一種だったが、インターネットの発達などによって既存のシステムは瓦解しつつある。

その上で、今後は著作を発信する側と、著作物を受けとる側とが、作品をダイレクトにやり取りする仕組みの構築が求められると結んだ。ローカルな試みはインターネットのみならず社会の随所に見受けられるが(例えばファーマーズマーケットにおける農作物の地産地消なんかもそうだ)、必ずしも成功しているとは言いがたい。けれども流通の過程における中間業者の過剰な介在をバイパスすることは、これから表現の領域に進出を果たしたい考えのクリエイターであるならなおさら、面倒くさがらずに克服すべき課題である。


話変わるが、Mediumのユーザー諸氏は、自身の発信したテキストを、どの程度把握し、管理できているだろうか。今のところMediumは、真面目で読み応えのある記事が多く、第三者によるテキストの無断使用も殆ど見受けられないが、いずれサービスが普及すれば、文言の一部を切り取り、恣意的に解釈されるといった愉快ではない状況も訪れるであろう。もし万が一そのような事態に見舞われたときの対処法を、発信者それぞれが心に留めておく必要はあるかと思う。
私は以前、ある民事裁判を結審まで欠かさず傍聴し、メモをしたため、それをブログ記事にした。数回に及ぶ連載は多くの人々に読まれたが、記事の信ぴょう性を疑う意見も多かった。それは構わないが、些末な事柄のみを拡大解釈されたり事実を伏せていると詮索されたりするに及んで、これ以上自分の記事がネット内に浮遊することは私個人にも裁判の当事者にも無益であると判断し、関連する記事をすべて削除した。当然その措置は批判もされたが、私は自分の書いた傍聴記を保護する必要があった。つまり私は著作権を行使したのである。幻滅の声が届く中、私は一つのメンションに救われた。
イワシさんの書いたものはイワシさんのものなので、私にはお礼の気持ちしかありません。ありがとうございました。
記事の削除は苦い経験となったが、この時の励ましがあったから、今でも投稿を続けていられる。こちらこそありがとうございましたと、私は画面に向かって頭を垂れた。
私は以後、自分の発信する内容をわりと厳しくチェックしている。軽率な発言は命取りになりかねない。私は文筆業ではないけれども、自身を出版社に擬えるなら、著者であると同時に編集者でもあり広報担当でもある。それはゲームのようなものだが、真剣に遊んだものだけが面白さの真髄を知る。自分の著作物がどのように流通しているか?それを把握するためには定期的な追跡(俗にいうエゴサーチ)も辞さない。そしてそれらの面倒は、すべて「書きたいものを書く」情熱によって支えられている。

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昨日、天皇が今のお気持ちを発表した。読みあげられた「お言葉」を文字として再読すると、そこには周到に選び尽くされた推敲の跡を発見する。自身の立場と個人を正確に見極めた上でのぎりぎりの踏みこみ。安直な切り貼りを許さない丁寧に張り巡らされた係りと結び。天皇は手練の書き手であり、クレバーな編集者である。自己プロデュース能力に長けた表現者であり、最強のコンテンツを発信したインフルエンサーである。渾身の著作物をマスメディアは容易に侵害できまい。

著作権は誰にでもある。あなたにも、私にも、もちろん天皇にも。(8月9日)

 

ワンオペはつらいよ

ワンオペ(ワン・オペレーション)とは人手が不足する時間帯(特に深夜)を中心に、外食チェーン店などで従業員を1人しか置かず、全ての労働をこなす行為をさす。〈Wikipediaより〉

いつもなら朝食は自炊で済ますが、今朝は用意できなかったので、通勤途中のファミレス〈G〉に寄った。

日頃は利用しないから、勝手がわからない。席についてもなかなか注文を取りに来ないので、自分から注文しに行った。フロアにウェイターは一人、厨房も一人である。客席を見渡すと、既に10組程度が座っている。自分も含めて全員が中高年だった。

モーニングセットをいただき、さて支払いを済まそうとレジに向かうと、フロア担当の若者がキツい口調でお客に叱責されている。客は60半ばから70くらいの男性でポロシャツにスエット地の短パンというカジュアルないでたちだった。

「どうしてすぐに注文を取りに来ないのだ。水ひとつ持ってこない。待たされる客の身にもなってみろ。品出しも遅い。おれは何回もここを利用しているのだぞ。もっと気を利かせろ」

といった内容を何回も、くどくどと言い募るのである。私は内心、〈後ろで待っているこっちの身にもなってみろ〉と思った。

「サービスがなってない。改善するようミーティングするんだな」

と男性は吐き捨てると、五千円札をカルトンに放りやった。私はお門違いだと思った。ワンオペでフロアを駆けずり回っているバイトの彼に言うことではない。問題は、ワンオペを強いる企業側の経営方針にあり、さらには人件費を抑制することで利潤を追求するばかりの昨今の日本経済にある。サービスが行き届かない理由は過酷なシステムが原因であるのに、時給千円にも満たない若者に苛立ちをぶつけてどうする。私の見る限り、彼はよく働いていた。ただ、いかんせん人手が足りなさすぎる。この店内、一人でカヴァーするには広すぎる。そんなことも理解できないのかと、私は男性の態度に憤りを覚えた。

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ようやく私の支払う順番になった。頭ごなしに怒鳴られてすっかり意気消沈した様子の彼に、私は柄にもなく声をかけていた。

「ひとりだと何かとたいへんだよね。お疲れさま」

一瞬、彼は泣きそうな表情を浮かべたが「ありがとうございます」と笑顔で応えた。こんなことに挫けず、ガンバレ若者!(8月14日)

 

ジャイアント・ステップス

『ブルー・ジャイアント』ってマンガがおもしろいんだよ、と勧められたので、

ジョン・コルトレーンか……」と呟いたら、

「誰それ?」と反応したので、

お節介かもしれないが、

「聴いてみたら?」とCDあげた。

私はそのマンガを読んだことないけど、

知らないで読んでいるなんて、かわいそうだと思ったんだ。

もちろん、読んでみるよと答えました。

明るい月の浮かんだ十五夜の昨晩に。(8月18日)

【追記】

読んでみました。

予想よりも面白かった。ただ、ジャズってこういう一直線なものかな?という疑問符はつきますが。直向きなだけでは会得できないのがジャズのみならず音楽表現の深く難しいところで、そこを意志の力で押し切ってしまうのが、爽快な部分でもあり惜しいところでもある。が、しかしそれは雑誌に連載されるマンガの宿命なのかもしれない。逡巡や懊悩ばかりでは読者が離れてしまうから。目に見える形での葛藤が求められる表現ジャンルだから。

 註:会話&報告の相手は娘。

 

あの話題作を

観てまいりました。

熊本は地震の影響によりシネコンがまだ閉館しているので、少し遠出して宇城のTOHOシネマズへ。客の入りは6割程度。『ゴーストバスターズ』の方が家族連れで賑わっていたようだ。

感想は、んーもうあらかた出尽くしているようだし、私があらたに書き加えることもないかな。でも、備忘録として。

展開はよどみなく、途中だれることもなく、最後まで一気に突っ走る、そんな印象でした。それは日本の映画にしては珍しいことなんじゃないだろうか(と断言できるほど映画を観てないが)。余計な要素、すなわちロマンスやら人間関係の葛藤やらを最小限に削ったのもテンポの良さにつながっていると思う。

誰もが思うように尾頭さんを演じる市川実日子が抜群によいし、カヨコ役の石原さとみは評判どおりに突拍子もないし、それに比べて豪華な男優陣が個性を抑制し、それぞれの役職に埋没した匿名性を帯びているのも興味深かった。

国威発揚の国策映画とも感じるし、捻りを加えた反核映画とも取れるし、見る角度によっていろんな解釈が可能である面白い映画でした。ただ、娯楽を思考実験の材料とするのは構わないが、これが現実の政治状況に反映するようであれば、やはり危険な要素もある、と釘を刺さなければならない。

そして「終」の文字とともに場内が明るくなったとき、私の抱いた素朴な感想、いや感情は月並みなものでした。

ゴジラ、かわいそう……〉

どうやら私は制作者の目論見にまんまとはまったようです。(8月23日)

【追記】 

例えば。

ゴジラ原子力発電所のメタファーだと捉えることは難しくはない。体内の血流を凝固させて動きを封じるアイディアも、凍土壁の維持管理に汲々とする福島第一の処理事案を彷彿とさせる。国土もろごと破壊して事態の収束を図るか、それとも荒ぶる神を鎮めるが如く共存の道を選ぶか。

その文脈でゴジラが東京駅にとどまった理由を考えてみるのもいい。広瀬隆氏の『東京に原発を』を想起するのもアリだし、丸の内口から直線で結べば、ゴジラが向かっただろう先には(この映画で一度も触れられなかった)“空虚な中心”が控えている。

私が先に懸念した危険な要素とは、娯楽作品に提示されるような二者択一を基準に、物事を判断しようとする短絡的な思考法である。〈エンターテイメントを素直に楽しめない理念先行タイプはかわいそう〉らしいが。(8月24日)

 註:絶賛の声が大半のMedium対策か、批評がやけに控えめだ(笑)。その反動だろう、翌年3月のMediumでは「機内で邦画を観た話」という記事で辛らつに批判した。

 

ブライアン・イーノ

バルセロナで開催された“SONAR2016”での特別講演を邦訳した記事を見つけましたので、Mediumの皆さんに紹介します。

20世紀のロックシーンが生んだ最高の叡智であるイーノの観測と警句を、ユーモアあふれる語り口を、ぜひ読んでほしいと思いました。

内容についての感想や解説は述べませんが、私は概ね賛成、です。(8月26日)

 註:イーノのよく示す「汎欧州型楽天主義」は読んでいて気が楽になる効用がある。

 

幻想の決め打ちとは何か

 岩下 啓亮 @cohen_kanrinin

この記事は必読です。幻想に酔いしれ、「答え合わせ」に勤しむ者(男性)たちへの痛烈なカウンターパンチであるとともに、痛みと憤りの原因を突きとめ、今この時代に詩人であることの意味と、私が詩を書く理由を、ラスト数行でみごとに言い表している。https://cakes.mu/posts/13716  

10年ほど前、遺跡発掘の現場で一緒に働いた女性がいた。かの女は図面を引くのがとても達者で、フリーハンドで平面図をすいすい描いていく。感心した私が巧いねと口にすると、本業はイラストレーターなんですと簡潔に答えた。

ある日、発掘した石片に数本の線が認められた。調査員の説明によれば、これはやはり人の描いた線だろうとのこと。「何か動物の絵に見えるね、鹿とか猪とか。落書きかもしれないし、祈祷に用いたのかもしれないね」

するとイラストレーターの女性が小さな声でつぶやいた。

「私もよく河原の石に絵を描いたなあ」

「それはいつ頃のこと」と私は訊いた。

「小学生の頃です。父はよく、私を釣りにつき合わせたの。河原にいたって何もすることないから、お父さんが魚を釣っている間、私は平たい石を選んでクレヨンでお絵描きしてました。何時間も、ずっと」

「退屈じゃなかった」

「ううん、ちっとも」

かの女は微笑んだ。そこで私は、

「なるほど。それがあなたのルーツか。その経験が絵描きを志すきっかけとなったんだね?」

と軽口を叩いた。するとかの女は急に表情を強張らせ、

「違います」

と答えたのち、口を噤んだ。私は自分の早合点を悔いたが、もはや取りつく島はなく、その後かの女は私との会話を避けるようになった。


これが幻想の決め打ち、その典型例である。私のこしらえた安直なストーリー、〈父との思い出がきっかけで志したイラストレーターの道〉というエピソード化こそが幻想そのものだった。かの女のかたくなな態度は、そんな答え合わせにつきあってはいられない、との意思表示だった。そのことを私は今の今まで気づけなかった。

手前勝手なストーリーを他者に当てはめてはならない。これと同じような過ちをしでかしていないか、今一度、私は自分の言動を再点検しようと思う。(8月27日)

註:8月によく読まれた記事は「ワンオペはつらいよ」と、この「幻想の決め打ちとは何か」。

 

2016年7月のMedium

 

Mediumの読者(フォロワー)も増えてきたためか、7月は呼びかけ調の記事が増えた。

 

投票という行為

私の仕事は日曜日に休めないので、選挙のときはいつも期日前投票に赴く。近くに区の出張所がある。午前中の投票所は空いていた。投票する者は私以外に誰もいなかった。

今回の参院選、TVのニュースでは殆ど報じられない。国政を左右する大事な選挙だというのに。日々の暮らしの中で話題にものぼらない。政治の話題は何となくはばかられる日本社会だけれど、この状況はかなり異常なのではないか。この無風状態は果たして何ものかの意図によるものか。それとも単に国民の無関心に起因するものなのか。

住所と名前を用紙に記載し、郵送された受付用のハガキを選挙管理委員に手渡すと、投票用紙を渡される。一枚目は地方区、二枚目は全国区比例代表である。受付時に赤鉛筆でチェックされるが、表をのぞくと、ざっと二、三十ほどしかレ点が並んでいなかった。火曜日の午前ならそんなものなのだろうか。

私は仕切り板に囲まれた机に向かい、備えつけの鉛筆で、ゆっくりと・筆圧をこめ・大きな文字を、茶色い囲みの中に書いた。地方も比例も候補者の名前を書いた。たっぷりと時間をかけたつもりだったが、わずか二、三分で済んだ。

けれども、この二、三分の行動で、大げさに思われるかもしれないが、今後の日本のゆくえが決まる。今回に限らず選挙はみな重要だが、今回の参院選はとりわけ大事な選挙だと思う。意中の候補や政党が見当たらなくても、棄権することだけは避けていただきたい。あなたの票はたかだか一票だが、かけがえのない大切な一票である。私ごときが言うのも失礼な話だが、有権者の権利をみすみす手放なさぬよう、くれぐれもお願い申しあげたい。

私はTwitterのアカウントに、こんな固定ツイートを掲げている。

選挙に投票する瞬間、私たちは完全に「ひとり」だよ。家族・所属・職場・思想。関係ない。それらからの束縛はいっさいないんだ。命令に従うわけでも背くわけでもない。絶対的な個人となる稀有な時間。自分の意思で選ぶ、ただそれだけのことさ。2014/12/13

一昨年の衆院選のときに書いた文章である。このときと思いはまったく変わらない。いや、むしろより切実な気持ちになっている。これに付け加えるべきことばは何もない。投票率が毎回5~60%だなんて、先進国として恥ずかしいとは思いませんか。私は一人でも多く投票所に赴き、一票を投じてほしいと願う。

今回はオチもサゲもユーモアもなし。

参議院選挙投票日は来る7月10日、今度の日曜です。(7月5日)

【過去記事参照】 

ひなわ

ポケットに放りこんだ

スマフォの画面に触れた指が

これは無意識に探りあてた文字だ

ひなわとは?

火縄だろうか

私の潜在意識は

なにをまさぐっていたのか

ひまなときには

ひねろうか詩でも

ひなたに寝ころんで

ひなわに火をつけて

いずれ

炸裂するかもしれない

意識の底にねむる火種が

(7月11日)

註:参院選における野党惨敗の痛手が尾を引いているように読める。

 

SAにて

私用で高速道路をやむなく使っている。ただいまサービスエリアにクルマを停めてこれを書いている。

私は高速に入るたびに緊張する。ハンドルを握る掌に手汗がにじむ。ガムを噛んでいないと落ち着かない。原因は見当がつく。免許取りたての頃、高速から降りた途端に後輪がパンクし、二転三転クルマがスピンし緑地帯に乗り上げた経験があるからだ。幸い深夜で他に被害を与えなくて済んだが、あのときは心底から肝を冷やした。

それからというもの、高速道路で飛ばせない。たまに100㎞をオーバーすると心臓がバクバクする。なるべく80㎞程度で走るようにしている。周りのクルマは焦れったげに私のクルマを追い抜いてゆく。交通標語のたいていを私はくだらないと思うが、たまにつぶやきたくなる、「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く?」と。

それだのに、高速道路の制限速度を一部区間で120㎞に引き上げることが検討されているという。

よろしい。実態とかい離しているとの理由なら、制限は撤廃しようじゃないか。かまわん。♪Wir fahr’n fahr’n fahr’n auf der Autobahn.

だけど、のんびり走りたい者の気持ちを考えてもみてほしい。みんながみんな、急いで目的地に着きたいわけではないのだ。これは警察庁にというより、ドライヴァー諸氏に言っているのだ。

どだい私の乗っている旧いコンパクトカーは、かっ飛ばしたくともできないのだ。車高は高いし横風を受けやすい。最近販売中の新型車は例外なく流線形で、どれもこれも区別がつかないが、空気抵抗と燃費の関係で似通ってしまうのなら、いっそ各社共通のパッケージデザインにすれば合理的ではないかとも思う……おっとこいつは僻み根性だ。自制、自制と。

そういや昔ご自慢のマセラッティで、私を空港まで送ってくれた方はお元気だろうか。ここには書けない程とんでもないスピードで次々と他を追い抜いていった。「ぼくは運転しているときだけが生きていると実感するんだ」と余裕で語っていたけど、私はあのときほどおっかないと感じたことはないよ。しぬかと思った。♪Life in the fast lane.

ともあれ私は80㎞で走る。速くなってもせいぜい90㎞までだ。安全運転を心がけているというよりも単に臆病なだけ。だから後ろからくるビー・エム・ダブリュ、どうか煽らないでおくれよ、頼むから。

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さて、気がすすまないけど、車道に戻るとするか。時間はまだ、たっぷり余裕がある。ゆっくり走ろう、焦らずに。(7月15日)

註:このころはまだ、なき父親お譲りのトヨタ・キャミに乗っていた。 

 

草むしり

このところ連日、早朝に草むしりをしています。我が家に面した国有地が、草ぼうぼうで、誰も手をつけようとしないから仕方なく私が草刈りをしている。

この暑さです。30分も作業すれば汗だくになります。しかし刈った面積は微々たるもの。捗らなさに徒労を覚えます。

<いったい何時になったら刈り果せるのだろう?>

労苦を自慢したいわけではありませんが少しだけ愚痴らせてください。

<やって当然あたりまえの地域で、一定の存在感を示すには、このような無償の行為が大切なんだよ。汗を流してみせ、通りゆく近隣の住民とさりげなく挨拶を交わすことで、「あーイワシさんがガマだしよらす(頑張ってらっしゃる)」と認めてくれる。べつに地域社会に溶けこむ必要はないさ。けど何かの折に、発言する機会があった場合、少なくとも耳を傾けてはくれるだろう?これくらい「貢献」していたら……>

いいえ、下心があって草刈りしているわけではないんです。ただ単に、国有地の一角にゴミ集積所があって、草むらが腰の高さまで伸びていると見苦しいからです。法面(のりめん)を覆いつくす蔓草が鬱陶しいからです。

だので私は今朝も草むしりをしてきた。無心に鎌を引いて汗だくになった後、シャワーを浴びる気分は悪くないものです。汗と一緒に雑念も流れていくようで……

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なにせ国有地は3年前に雄猫チャイを拾った場所だから。大きな杉の木の下でビャービャーないていた。いわば彼の故郷。なので少しはきれいにしておきたいんですよ。(7月20日)

 

追記:夕方もうちょい頑張ってみた。

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おもしろいね。ゴミ集積所に捨てられた落花生が芽吹いて立派に成長していました。迷わず引っこ抜いたけど。(同日)

【関連】

①除草の件だけど。近年道路脇が草ぼうぼうになっているのは予算不足および人手不足によるものでしょう。道路そのものの整備を含めて。地方の道路、舗装がひどい状態になっているものね。

②熊本はとくに地震の影響もあってか、道路の整備がおざなりになっている。そこは行政の判断で、今は後まわしだけど、いずれ直すだろうと、淡い期待をしている。

③2ヶ月くらい前に、わが家の前を通る県道の、櫨(はぜ)の木が伸び放題なので、枝を切ってほしい旨を土木センターにお願いした。道路標識が隠れて見えなくなっていると指摘したら早急に対応したよ。優先順位の根拠が行政には必要なんだよな。

④国・地方自治体にかかわらず、予算はどうしても華やかしい方向に配分されがちだ。公共施設の利便や整備点検保守についての費用は、新しい開発やら建設やらに回され、削減の憂き目にあう。その方が潤うし、やってる感が演出できるから。そして新しい道路が敷かれる一方で、昔からある道路の荒廃が進む。

⑤こないだ九大生から聞いた話。<九大は(福岡市の西端)伊都に広大なキャンパスを作った。自分が通う工学部が先に移転しましたが、交通は不便で、周りには何もないんですよ>と。老朽化・手狭になった・移転しよう・新しい学園都市だ。その一連のプロセスはダイナミックだけど、壮大なムダにも思える。

⑥逸れた話を戻すと。夏草の生い茂る道路がみっともない、危険だと思うなら、まずは住む町の行政に連絡することだ。ボランティアの誰かを期待してはならない。草ボーボーでみっともないと思うンなら自分が刈ればいい。そして、国土強靭化計画とは本来そういう主旨ではなかったか?と政治家に問うがいい。

農業と農家が元気だったころは公役などで除草されていた道路も多かったと思います。合志市議・上田欣也氏の返信)

⑧おはようございます。 今朝、私の通勤途中にある小学校では、何処も保護者と子ども(先生もいると思われ)による除草が行なわれていました。清掃活動はとても有意義だと感ずる一方で、素人の出来る範囲は自ずと限られるのだから、財政難の行政が市民の善意に頼りきりになっても困るなあと思いました。

財政難ではないとは言いませんが、正確には市の事業予算の配分の問題です。市では年間数百万の予算で、緊急の危険箇所修繕や草刈り等を実施する直営の事業はあります。合志市議・上田欣也氏の返信)

 註:引用は今年(2017年)8月25~26日のTwitterにおけるツイートおよび返信である。上記「草むしり」の記事と関連深いのでまとめて載せてみた。

 

Mediumってなんですか?

これ、先月スマフォを買い換えたとき、ショップの店員さんに訊かれた言葉。緑色のMのアプリに見覚えがなかったらしい。

ツイッターとブログの中間的なサービスですね」と私は簡単に答えた。

「それでね、入力がとてもラクなんです。サクサク書ける。だからぼくはブログを書くときの下書きにも使ってる」

「へえ、そうなんですか。知らなかったなあ。私もアプリを購入しようかな」

「使い勝手、いいですよ」

すると彼女は、ちょっとだけ口を尖らせた。

「だけど私、忙しくて。文章を考える時間の余裕がないんですよね……」

「そんなあなたにこそピッタリだと思うよ」の、あと一押しが足りなかったかなと、私はちょっぴり後悔している。

昨日目にした記事の〈有名ブロガーさん達に、この領域を荒らされたくないと思うのは私だけでしょうか〉という部分に共感し、ハイライトをつけたあとで、ふと思い出したやりとり。

Medium、もっと大勢に知られたほうがいいのか、それともこのままでいいのか?

以前、Mediumそのものを言及することに疑問を挟んだけれど、はたしてユーザーが増えているのか、私は少し心配している。気に入っているだけに。

あっ、写真は記事とは全く関係ありません。夏になると聞きたくなるジョイスの名作カップリングの2枚組。(7月26日)

 

2016年6月のMedium

 

6月に入って肩肘張らなくなった。自分を素直に表出しようと心がけたゆえにである。

I think(私は 思う)

文藝春秋六月号の「ベルリンは熱狂をもって小澤征爾を迎えた」を読んでいて、おやっと思った。村上春樹による今春の小澤とベルリン響のコンサートレポート。世界のムラカミが世界のオザワを称える記事である。内容に不満はない。

私がおやっ?と思ったのは、以下の箇所である。

ベルリン・フィルのメンバーのアンサンブルはあまりにも緻密すぎて(中略)音楽としてはたしかに立派だけれど、その響きはモーツァルトの魂のあり方からは少し外れているのではあるまいか(と僕には思える)。 [289p]

この括弧で括られた(と僕には思える)に既視感がある。村上春樹は以前にも同じような使い道をしていたはずだ。私は過去に書いたブログ記事から、以下の文章を引っ張り出した。

ある種の輝きを有しながらもそれを普遍化する能力が幾分不足した(不足していると僕には思える)ジョー・ジャクソン。/村上春樹ダンス・ダンス・ダンス(下)』より引用 (1988年)

こうした()を使うことで、読む側に(これは僕の主観ですから一般論ではありません)といった印象を与えられる。婉曲かつ慎重だけれども、強制力を伴う促しである。読者は(あえて括弧で括るくらいだから、きっと作者が強く訴えたい部分なのだろう)と感じる仕組み。だって(僕はこう思うのだけど、貴方はどうですか?)と問われているも同然だもの。

このように村上春樹は、平易な文章のあちこちに、さまざまな仕掛けを施している。一般に村上調を真似る場合、「やれやれ」に代表される達観したモノローグが採用されがちだが、このように控えめな、しかし有無を言わさぬ意味の強調もまた、彼の得意とする特色の(ほんの)一部である。ただしうっかりシロウトが真似ると「鼻持ちならない」に陥るので要注意だ。

文章は、研ぎ澄ますことによって本質が見えてくる。先日私が訪問したブログにも、そう書いてあった。同感である。余計な部分はどんどん削った方が、文章は鋭くなる。よりソリッドに、よきクリアカットに。同時に、誤読される余地も少なくなるだろう。実のところ私は、Mediumを始めた当初は、無駄のない、骨格だけの文章を書こうと心がけていた。

けど、迂遠な言い回しの中にも、取るに足らないような間投詞の隅っこにも、ね。細部に宿るナニモノかが、あるんだよなー。その余分を遊ぶのも、アリなんじゃないか?って私は思うのだよ。

なので私は、まだ若いブログ主にお節介なコメントを書いて寄越したのである。

ぼくは、あんまり削らないなあ。ブログはのびのびと書ける場所だから、あまり文を圧縮したくないんです。誤字脱字・てにをはを整える程度かな。精米と一緒で、研ぎ澄ませすぎると、雑味のなかにある栄養分まで失くなってしまう気がして。大吟醸よりも適度に濁った純米酒のほうが旨味がある。だから最近は殆ど推敲しませんね。あ、思いだしたようにちょこちょこ直しを入れます。間違いを訂正し、内容の足りない部分を補う、追記のほうが多いかな。

それとあと、私が、文章はのびのびと書いたほうがいいよ、と口酸っぱく唱える理由は、Twitterで誰がが誰かに噛みついているのを見て、居た堪れない気持ちになったからです。

あなた、「思う」と2度も書いてるけど、それって事実とは異なる、単なるあなたの感想ですよね?

やれやれ、とうとう「私は〜だと思う」とも言えなくなったのか。なんだか全体に余裕がないなあ。私は深いため息をついてツイッターランドから離脱したのである。

ところで、〈ジョー・ジャクソンの普遍性〉について私が書いたブログ記事はコチラになります。 ⇩

どうも私は分散型メディアの使い道を今ひとつ心得ていないような気がする。誘導、宣伝、アピールするのにまだ衒いがあるし、気後れするのである。(6月3日)

註:Medium読者を「はてな」に呼びこもうという思惑(下心)が見え見えな記事。 

 

◯◯に相当する二文字を探しなさい。

さっき運転中にラジオを聞いていたら、パーソナリティの坂本美雨さんが、「初めてプロとしてレコーディングしたときに大貫妙子さんから大切なアドヴァイスを頂いた」と語っていた。大貫さんは歌入れの際にこんなことを坂本さんに助言したという。

あなた、歌うときは、歌詞をきちんと覚えて、その歌詞の情景とか感情を◯◯しながら歌いなさい。

はて、◯◯に当てはまる言葉は何だっただろう。坂本さんは二度目には、「あなた、歌うときは歌詞の内容を思い浮かべなさいと言われました」と簡略化していたが、私は◯◯の部分が思いだしたいのである。その、◯◯という漢字二文字(だったと思う)こそが肝心要の点だと思うのだ。

そこは「再現」でも「想像」でも構わないけれども、もっと、なんか、こう、さすがは大貫妙子と唸ってしまうような、それ以外には考えられないほどの適当な二文字だったのである。(以下 敬称略)

あなた、◯◯は何だと思う?

それはプロの歌い手となるにあたっての基本的な心構え・アティチュードである。坂本美雨自身「授かった」と語っていた。しかもそれは歌手が歌をうたう際の極意でもある。歌詞に描かれた世界を自家薬籠中のものとするためのアプローチ。心のありよう。そこを觀照することが……

觀照?いいセンいってる。

觀照に近しい言葉だった。だけど違う、もっと当たり前の、誰でも用いるような言葉だった。あゝもどかしい。何だったのだろう。

突き詰められない。私の弱点だ。

テキストをいったん丸ごと引き受けて、自分の裡に収めたのち、吟味し、取り出して、外へ放つ。表現のプロセスを怠けてしまう、面倒くさいと諦めてしまう「駄目な僕」。

そう言えば、奇しくも山下達郎はこんなことを語っている。

他人の作った歌を歌えないようなら歌手とは呼べない。

(山下・大貫の)シュガーベイブ出身の二人が言っていることは、ほぼ同じ意味である。歌唱するにあたって、詞を覚え、旋律を覚えるだけの表層的な仕草は模倣の段階に過ぎない。ただ覚え、なぞるだけでは不足なのだ、いやしくもプロであるなら。

たぶんこれは、歌うことのみならず、表現活動全般について、いや、勉強や仕事においても援用できる考え方なのである。が、私が歯がゆいのは、そのことを端的に表した二文字がどうしても思いだせないことだ。信号待ちだったというのに、聞き逃したのが残念でならない。

こうして書いているうちに思いだすかもと期待していたが、限界のようだ。ただ想念ばかりが(今年も庭先に咲いた満開のアナベルよろしく)拡大していく。もし◯◯に当てはまる言葉を思いだせたら追って記したい。これは歌手ではない私にとっても大切なことなので。(6月8日)

註:答えは「トレース」だと、のちに思いだした。

 

7年前のポスター

バックヤードを整理していたら棚の奥から無傷のポスターが出てきた。

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平成21年と記されているから、約7年前の観光キャンペーンである。まだ「くまモン」は登場していないけど、当時バラエティ番組で人気者だったスザンヌが宣伝部長の襷をかけている。そう言えば丁度そのころ、帰郷して空港からリムジンバスに乗りこむと、彼女が舌足らずな声で熊本の観光案内をする音声ガイドが流れていたものだけど、アレは今もアナウンスされているのかしら。

十年一昔というけれど、7年も経つと懐かしいというか、けっこう遠い昔の事のように思える。私は控え室の壁にポスターを貼って、今ボーッと眺めているところだが、スザンヌのメイクやチェックのシャツのせいか、「くまもと最高♡ザンス 観光キャンペーン」なるピンク色のロゴマークのせいかどうかは判らぬが、どうも野暮ったくも古くさく感じてならない。それが良い塩梅の味に変わるまでにはあとしばらく時間の経過が必要だろう。

けれども、この能天気なリゾートポスターに、私の心が癒されているのも確かだ。バックの風景は主に県南の観光スポットで、不知火海の太刀魚釣りの帆船、(先ごろ世界遺産に登録された)三角西港や大江と崎津の天主堂、夕暮れの天草五橋天草四郎像、日奈久温泉の金波楼などの写真がレイアウトされている。かなりゴチャゴチャしたデザインだけど、なんというかな、この垢抜けない感じにホッとするのだ。突っ込みどころ満載だし、見方によってはセクシュアルな暗喩も含まれているけど、まあいいじゃん、みたいな。

だって、このポスターみると、みんな楽しそうに笑うんだ。いいですねコレ、って確実に場が和むのだな。だとしたら、暖色系で統一したセンスは案外当たりなのかも知れないよ。

昨晩も熊本地方は揺れた。八代は震度5弱だった。不知火ホテルの女将さんに聞いた話だと、先の震災で、日奈久温泉にある旅館の浴場の3分の2はボイラーや湯釜が破損したのだそう。客足は激減し、復旧には程遠い現状である。だけどまた、このポスターのように、楽天的な県南の甦るときがくるはずだ。私は昼休みになると、そんな思いを馳せながら、この7年前に作られたポスターを眺めている。

昨年、村上春樹(またかよ)も逗留したという金波楼。時間が押していた関係で立ち寄り湯は果たせなかった。が、次に日奈久に訪問した際はぜったいに登ってやるぞと、私は決意しているのである。(6月13日)

 【過去記事参照】 

 

無礼

昨日、インターネットでこのニュースを目にして、私は恥ずかしい過去の経験を思いだしていた。

伊豆半島の蜜柑畑の連なる丘の上にある特養施設のマンション。私のパートナーが、仕事でお世話になった方が、そこに暮らしていた。

突然に訪問の上、先客があったにもかかわらず、主人は私たち一家をあたたかく迎え入れてくださった。中に入ると居間の広い窓の外には相模灘が広がり、島の連なりが一望できる。私は子を窓際に連れて、これは大島、あれが利島、あれは新島かなと指さしながら教えていた。すると先客の一人が、

おや、教育熱心なパパさんだこと

とからかうような調子で言った。

そのときに察知すればよかったのだが、私はあまりにも無作法だった。直接に関係のない間柄だというのに、礼儀もそこそこに、遠慮なく振舞っていた。先客はそれを軽くたしなめてくれたのだが、私はまだ気づいていなかった。

主人はお茶を淹れた。それから盆の上に煎餅を何枚か載せ、私のパートナーに、私の子に、そして私に煎餅を勧めてくれた。私は目の前に盆が差しだされたので縁を掴んで、自分の側に寄せようとした。その方が取りやすいだろうとの考えからの、何の気なしの行いだった。ところが盆を奪おうとすると、主人は頑なに拒んだ。枯れた風情の老人とは思えぬほどの力で盆を掴んで離さない。私は思わず、主人の目をのぞきこんだ。柔和な顔立ちにそぐわない鋭い眼光が宿っていた。鈍い私も、そこでようやく主人の怒りに気づいたのである。

先客が、粉状になった煎餅の欠片をペロリと舐めながら、この一部始終を簡潔に総括した。

初見が欲張っちゃいけないね

あれから十数年が経つが、主人が見せた怒りの眼光と、盆を掴んだ指先の力とを未だに忘れられない。思いだすたびに私は、あのとき同様どこかに消えいりたくなる。f:id:kp4323w3255b5t267:20170908104328j:plain

古市憲寿氏のデリカシーのない質問については、既にインターネット上でさんざん論じられているので、ここでの感想は差し控えたい。

ただ古市氏は、無礼であった。不躾な質問をし、無作法に振舞った。それを小沢氏は厳しくたしなめた。それがすべてである。

彼はこの一件で何かを学ぶだろうか。それともこれからも無自覚を売りにするのだろうか。いずれにせよ彼が自分の無礼さに気づかない限り、似たような過ちを再びしでかすことだろう。(5月20日)

註:Mediumにはresponceと呼ばれるコメント機能がある。私は他ユーザーからのコメントにはできるだけ応えることにしている。

以下の返信は上掲の本文以上に反響が大きかった。

数年前に、古市憲寿氏の著書『絶望の国の幸福な若者たち』を読んでみるといいと知人に勧められました。哲学者のかれが、めずらしく「うろたえた」と。「これを読むと自分みたいな人間は、『あーもう国家には用なしなのだなー』と思えてしまいますね」と洩らしていました。

どうして?と私が問うと、知人は「こうもあっけらかんと現状を肯定されたら、言説・批判の大半は無効化されますよ。それゆえかれは重宝がられる、いずれ政府の、ガス抜きとして登用されるでしょう」と答えました。そのときはなんと大げさなと思いましたが、あのときの知人の予感は的中したなと感じる今日この頃です。

 

私はこのMediumでは主語を「私」と定めているがTwitterはてなブログでは「ぼく」や「おれ」を使うことが多い。「私」と書くと客観的になれるけど、どうも他人事みたいで、私ではないような気がする。

中学生の時分に、日記だか詩だか随筆風だか区別のつかない雑文をちょくちょく書くようになって、そのころはもっぱら主語を「俺」にしていた。「ぼく」だとなんだか軟弱な気がしてね。男らしい文体にしようと躍起になっていた。しばらくすると、下手くそな歌を自作するようになったが、それもしばらくは「俺」で通していました。だってサ、普段の会話で使うことばが「オレ」だもの。言文一致というのかな、自分の感情と歌詞が直結するには(カタカナの)「オレ」が一番近道だから。オレオレ言っておりましたね、必要以上に力をこめて。

でも、たとえば内省的なバラードなんかが書けてしまったら、楽想と「俺」とが合致しないから、次第に「ぼく」を採用するようになったけれども。

にしても、「俺」って男性性に寄っかかった、独善的な表記だよね。女性でもたまに「ぼく」を使う方がいるけど「俺」って自称する人は稀だものね。「俺様」ってことばもあるくらいだから「俺」にはどうしようもなく尊大な側面がある。そしてその尊大さは男性の意識に深く根を下ろし、自己愛と直結している。「俺の空」とか「俺の塩」とか、どこまでも自己中心的で莫迦面さげた感じが「俺」にはべったりまとわりついている。

そう感じてしまうと、さあ「俺は〜」と気軽に書けなくなる。さらに日常会話でも「俺」をあまり使わなくなる。主語をボカして話すようになる。気にしすぎなのかもしれないが、主語を回避するくせがついた。社会人になって、公の席で話す機会があれば、「私」と称するように努めていた。

数年前、Twitterをはじめたときに、その辺りも少しケジメをつけようと思った。だって主語を回避するのはあまりにも主体性がないじゃないの。で、「ぼくは〜である」「ぼくは〜だと思う」と、律儀に「ぼく」を推し通したのね。すると文章全体に統一感が出てきた。いきおい文の内容にも責任を持つようになった。「ぼく」は硬くも柔らかくもなれる、可塑性のある主語だった。「俺」よりずっと使い勝手が良かった。

しかしこれまた私の悪いくせで、しばらくすると「ぼく」ルールに飽きてきた。もっとのびのびと自己主張したくなる時もある。試しに「おれ」と書いてポストしたら、妙な開放感があった。ごく自然に振る舞えた気がした。よし、ならばたまに「おれ」と記そう(ひらがなだと、臭みも少ないし)。

ところで「俺」「おれ」「オレ」と3通りの表記法があるね?君は、きみは、キミはどれを選ぶ?

じつは小説を何作か書いたことがあって。そのとき悩んだことが、漢字かひらがなかの問題だった。これも若いころ、女のこのつもりになって、新井素子みたいな文体で「あたし」を主語としたお話を書いてみたことがある。そのときは自分が男性性から解放されたような、自由さを味わいながら書いたけど、いざ本格的に女性を主人公にすえてみると、地の文に「あたし」は相応しくない。なので「私」にしようと決めた。だけど後から「あー『わたし』って書いた方が良かったかな?」と後悔もした。漢字の「私」は高踏だし、「わたし」は庶民派だ。どちらか一方を選ぶのは難しい。「」内のセリフだったら、生真面目なほうに「わたし」と称させ、おきゃんなほうに「あたし」と称させると使い分けするのだが、全体を統一するとなると、はて、どちらが正解なんだろう。

じつはそういうことで悩むのが、私は嫌いではない。いや、むしろ好きなのである。このMediumでは「私」であるけれども、漢字の「私」を採用することで、わりとクールな文章を紡げるし、男の「オレ」が「私」と書くことで、性差をあまり意識せず、ニュートラルな視点を新たに獲得できた(気がする)。つまり私が「私」と表記するのは、より自由になるためなんだ。

今回は肩のこらないエントリーを目指して、意識的にくだけた口調で書いた。この文体は、自由自在にことばをあやつる作家/思想家である、橋本治サンの影響だと思う。(6月26日)

註:わりかし好きなエントリー。のびのびと書いているから。

 

素朴な感情を示すテキスト

若いころはアメリカン・ショービジネスを胡散くさく感じていた。きらびやかな舞台セット、タキシードの紳士、シルクドレスをまとった淑女、自信満々のスピーチ、臆面もない称賛、すべてが苦手だった。やっかみは未だに心のどこかにわだかまっており、最近の過剰な「日本はこんなにも素晴らしい」という国を挙げてのキャンペーンには辟易するけれども、《アメリカに比べたら手前味噌も控えめなものじゃないか》という思いが頭のかたすみを過ることもある。

とはいえ、アメリカが増長するのも無理はないなと思う。だってクオリティが断然違うもの。それは映画や演劇にも共通することだろうが、音楽一つとってみても投下する資本が莫大で、関わる人数も桁違いだし、出来栄えには細心の注意を払っており、一分の隙も見当たらない。その徹底ぶりはもとより、結果を見せつけられたら、参りましたという他ない。それがたとえハリボテであったにせよ、ハリボテそのものが有無を言わさぬ出来ならば、賞賛するしかないではないか。

米エンターテイメント産業の考察は程々にしよう。問題は中身だ。音楽を例にとってみれば(音響技術や編曲の巧みといった)きらびやかな装飾や入念に施されたメイクを剥ぎとると、その表情は意外と素朴だ。歌詞を注意深く聞きとってみれば、庶民の正直な感情をスケッチしたような、大言壮語とは無縁の内容が大半なのである。それはロックとカントリーの間に生まれた、シンガー・ソング・ライター達の紡いだ音楽と驚くほど表情が似通っている。それに気づいたとき、私はメインストリームの音楽の内側に潜む、善意や良心や誠実さに心を寄せることができた。素直に、ああいい曲だなと思える自分が、まんざらでもないと思えた。

これは2015年の「ケネディー・センター名誉賞」※の式典におけるアレサ・フランクリンの圧倒的な歌唱である。

 
Aretha Franklin (You Make Me Feel Like) A Natural Woman - Kennedy Center Honors 2015

受賞者のキャロル・キングは感極まって「あたしどうしよう、えーこれ現実?」と取り乱しているし、ミシェルの隣りに座ったバラク・オバマは思わず目頭を押さえる始末。おいそれちょっとやりすぎだろ?とつっこみたくもなるけれど、キャロル・キングが作曲家として半世紀を生きぬいた軌跡と、ソウルの女王として君臨し続けたアリサ・フランクリンの生きざまと、このナチュラル・ウーマン」が、女性の人権を語るうえで欠かせない歌であることに思いを馳せたであろうバラクの心情を思えば、あながち大げさな反応だと一蹴はできない。私とて、その場にいたら身震いして、我先にスタンディング・オベーションしているだろう。

ケネディ・センター名誉賞(The Kennedy Center Honors)は1978年から毎年アメリカで優れた芸術家に贈られる賞。受賞者の発表は9月のレイバー・デー期間、祝賀公演は例年12月にジョン・F・ケネディ・センター歌劇場で開催され、その模様はCBSで中継録画される。授賞式は12月第1日曜日にホワイトハウスにて大統領夫妻から贈呈される。(Wikipedia

アメリカ合衆国大統領オバマが、執務中に何を考え、どう思っているかなんて、私の想像の及ばぬ所だけど、自分と同世代のバラクが、「ナチュラル・ウーマン」冒頭の“Looking out on the morning rain. I used to feel uninspired ”に、思わずうるっとした気持ちなら、ささやかにではあるが理解できる。それは同じテキストに触れた者同士の連帯意識みたいなもので、その流れは(東洋の小さな島国)日本の地方都市に住まう中年男にも感じ捉えられる種類のものだ。

何故なら私の内側からも、ぐっとこみ上げてくる熱いものがあったから。(6月30日)

註:私の感想なぞざっと斜め読みしていただきたいが貼った映像はぜひご覧ください。