8月のエントリーをふり返ると、より自分を理解してもらいたいとの思いが強くなっているように思える。Mediumでも仕事上の出来事や趣味性などを隠さなくなってきた。
Don’t You Worry ‘bout A Thing
お客様のクレームをまともにくらう時がある。
たいていは「お怒りはごもっとも」だと反省するのだが、たまに「理不尽な」と感じる時もある。
たとえば、お客様がトマトを買おうと思って来たのに当方がトマトを販売していなかった場合、品揃えが悪いとお叱りを受ける。
が、露地栽培の完熟トマトを扱っている以上、収穫時期を過ぎれば、代わりのトマトを仕入れることはない。
ところが、その旨を説明すると、お客様は十中八九、「ちゃんと書いておけ」とおっしゃる。どこに?インターネットのホームページに。入口の看板や通路の掲示板に。店先や陳列棚に。
じつはちゃんと書いてあるのだが。「今季トマトの販売は終了しました」と。
見落とし、というより読んではいないのだ。周知徹底を図り、注意を喚起しようとも、気づかれなければまったく意味をなさない。かれかの女らの目に入らないかぎり、文字による呼びかけは無効であり、説明不足でしかないのである。
だから当方としては、余計な説明をせずに深々と頭を垂れるほかない。丁寧に事情を伝えれば伝えるほど、お客さまの気分を害すケースがままあるからだ。
〈……しかしなあ、それ二ヶ月前の新聞の「地域生活情報コーナー」に掲載された記事だぞ。「現在は販売しておりません」と訂正をうてと言うのか?どうして「商品はいつでもあるもの」だと思うんだろうか……〉
と内心で思いつつも口にはできない、まことに接客業はツライよ、である。
そんなときによく口にする歌が、スティーヴィー・ワンダーの「くよくよするなよ」である。♪ Don’t You Worry ‘bout A Thingと口ずさみながら、私はどうにかこうにか日々をやり過ごしている。歌うことで少しだけ元気を取り戻せる。(8月1日)
著作権は誰にでもある
JASRAC(日本音楽著作権協会)に就任した浅石新理事長の発言が波紋を呼んでいる。詳細は記事をご覧になっていただくとして、私は、これ以上JASRACに出しゃ張ってもらいたくない。著作者の権利保護という本来の設立趣旨から離れて、今のJASRACは音楽の普及を阻害する憲兵のような機関に堕している感が否めない。ちまたから流行歌が激減したのはパトロールによる店舗からの徴収が大きな要因であろう。先日私は以下に示す内容をTwitterに投稿した(要約)。
JASRACの監視によって著作者の「広く伝えたい」権利が侵害されているように思う。しかし著作物を「勝手に使われたくない」権利は擁護されるべきで、その兼ね合いというか匙加減が難しいところである。著作者の利益は確保されるべきであるが、本来なら作品を世に知らしめ、庇護する役割の者が中間で搾取する構造に変質している。著作権は資本主義社会における「錬金術」の一種だったが、インターネットの発達などによって既存のシステムは瓦解しつつある。
その上で、今後は著作を発信する側と、著作物を受けとる側とが、作品をダイレクトにやり取りする仕組みの構築が求められると結んだ。ローカルな試みはインターネットのみならず社会の随所に見受けられるが(例えばファーマーズマーケットにおける農作物の地産地消なんかもそうだ)、必ずしも成功しているとは言いがたい。けれども流通の過程における中間業者の過剰な介在をバイパスすることは、これから表現の領域に進出を果たしたい考えのクリエイターであるならなおさら、面倒くさがらずに克服すべき課題である。
イワシさんの書いたものはイワシさんのものなので、私にはお礼の気持ちしかありません。ありがとうございました。記事の削除は苦い経験となったが、この時の励ましがあったから、今でも投稿を続けていられる。こちらこそありがとうございましたと、私は画面に向かって頭を垂れた。
昨日、天皇が今のお気持ちを発表した。読みあげられた「お言葉」を文字として再読すると、そこには周到に選び尽くされた推敲の跡を発見する。自身の立場と個人を正確に見極めた上でのぎりぎりの踏みこみ。安直な切り貼りを許さない丁寧に張り巡らされた係りと結び。天皇は手練の書き手であり、クレバーな編集者である。自己プロデュース能力に長けた表現者であり、最強のコンテンツを発信したインフルエンサーである。渾身の著作物をマスメディアは容易に侵害できまい。
著作権は誰にでもある。あなたにも、私にも、もちろん天皇にも。(8月9日)
ワンオペはつらいよ
ワンオペ(ワン・オペレーション)とは人手が不足する時間帯(特に深夜)を中心に、外食チェーン店などで従業員を1人しか置かず、全ての労働をこなす行為をさす。〈Wikipediaより〉
いつもなら朝食は自炊で済ますが、今朝は用意できなかったので、通勤途中のファミレス〈G〉に寄った。
日頃は利用しないから、勝手がわからない。席についてもなかなか注文を取りに来ないので、自分から注文しに行った。フロアにウェイターは一人、厨房も一人である。客席を見渡すと、既に10組程度が座っている。自分も含めて全員が中高年だった。
「どうしてすぐに注文を取りに来ないのだ。水ひとつ持ってこない。待たされる客の身にもなってみろ。品出しも遅い。おれは何回もここを利用しているのだぞ。もっと気を利かせろ」
といった内容を何回も、くどくどと言い募るのである。私は内心、〈後ろで待っているこっちの身にもなってみろ〉と思った。
「サービスがなってない。改善するようミーティングするんだな」
と男性は吐き捨てると、五千円札をカルトンに放りやった。私はお門違いだと思った。ワンオペでフロアを駆けずり回っているバイトの彼に言うことではない。問題は、ワンオペを強いる企業側の経営方針にあり、さらには人件費を抑制することで利潤を追求するばかりの昨今の日本経済にある。サービスが行き届かない理由は過酷なシステムが原因であるのに、時給千円にも満たない若者に苛立ちをぶつけてどうする。私の見る限り、彼はよく働いていた。ただ、いかんせん人手が足りなさすぎる。この店内、一人でカヴァーするには広すぎる。そんなことも理解できないのかと、私は男性の態度に憤りを覚えた。
ようやく私の支払う順番になった。頭ごなしに怒鳴られてすっかり意気消沈した様子の彼に、私は柄にもなく声をかけていた。
「ひとりだと何かとたいへんだよね。お疲れさま」
一瞬、彼は泣きそうな表情を浮かべたが「ありがとうございます」と笑顔で応えた。こんなことに挫けず、ガンバレ若者!(8月14日)
ジャイアント・ステップス
『ブルー・ジャイアント』ってマンガがおもしろいんだよ、と勧められたので、
「ジョン・コルトレーンか……」と呟いたら、
「誰それ?」と反応したので、
お節介かもしれないが、
「聴いてみたら?」とCDあげた。
私はそのマンガを読んだことないけど、
知らないで読んでいるなんて、かわいそうだと思ったんだ。
もちろん、読んでみるよと答えました。
明るい月の浮かんだ十五夜の昨晩に。(8月18日)
【追記】
読んでみました。
予想よりも面白かった。ただ、ジャズってこういう一直線なものかな?という疑問符はつきますが。直向きなだけでは会得できないのがジャズのみならず音楽表現の深く難しいところで、そこを意志の力で押し切ってしまうのが、爽快な部分でもあり惜しいところでもある。が、しかしそれは雑誌に連載されるマンガの宿命なのかもしれない。逡巡や懊悩ばかりでは読者が離れてしまうから。目に見える形での葛藤が求められる表現ジャンルだから。
註:会話&報告の相手は娘。
あの話題作を
観てまいりました。
熊本は地震の影響によりシネコンがまだ閉館しているので、少し遠出して宇城のTOHOシネマズへ。客の入りは6割程度。『ゴーストバスターズ』の方が家族連れで賑わっていたようだ。
感想は、んーもうあらかた出尽くしているようだし、私があらたに書き加えることもないかな。でも、備忘録として。
誰もが思うように尾頭さんを演じる市川実日子が抜群によいし、カヨコ役の石原さとみは評判どおりに突拍子もないし、それに比べて豪華な男優陣が個性を抑制し、それぞれの役職に埋没した匿名性を帯びているのも興味深かった。
国威発揚の国策映画とも感じるし、捻りを加えた反核映画とも取れるし、見る角度によっていろんな解釈が可能である面白い映画でした。ただ、娯楽を思考実験の材料とするのは構わないが、これが現実の政治状況に反映するようであれば、やはり危険な要素もある、と釘を刺さなければならない。
そして「終」の文字とともに場内が明るくなったとき、私の抱いた素朴な感想、いや感情は月並みなものでした。
〈ゴジラ、かわいそう……〉
どうやら私は制作者の目論見にまんまとはまったようです。(8月23日)
【追記】
例えば。
ゴジラを原子力発電所のメタファーだと捉えることは難しくはない。体内の血流を凝固させて動きを封じるアイディアも、凍土壁の維持管理に汲々とする福島第一の処理事案を彷彿とさせる。国土もろごと破壊して事態の収束を図るか、それとも荒ぶる神を鎮めるが如く共存の道を選ぶか。
その文脈でゴジラが東京駅にとどまった理由を考えてみるのもいい。広瀬隆氏の『東京に原発を』を想起するのもアリだし、丸の内口から直線で結べば、ゴジラが向かっただろう先には(この映画で一度も触れられなかった)“空虚な中心”が控えている。
私が先に懸念した危険な要素とは、娯楽作品に提示されるような二者択一を基準に、物事を判断しようとする短絡的な思考法である。〈エンターテイメントを素直に楽しめない理念先行タイプはかわいそう〉らしいが。(8月24日)
註:絶賛の声が大半のMedium対策か、批評がやけに控えめだ(笑)。その反動だろう、翌年3月のMediumでは「機内で邦画を観た話」という記事で辛らつに批判した。
ブライアン・イーノの
バルセロナで開催された“SONAR2016”での特別講演を邦訳した記事を見つけましたので、Mediumの皆さんに紹介します。
20世紀のロックシーンが生んだ最高の叡智であるイーノの観測と警句を、ユーモアあふれる語り口を、ぜひ読んでほしいと思いました。
内容についての感想や解説は述べませんが、私は概ね賛成、です。(8月26日)
註:イーノのよく示す「汎欧州型楽天主義」は読んでいて気が楽になる効用がある。
幻想の決め打ちとは何か
岩下 啓亮 @cohen_kanrinin
この記事は必読です。幻想に酔いしれ、「答え合わせ」に勤しむ者(男性)たちへの痛烈なカウンターパンチであるとともに、痛みと憤りの原因を突きとめ、今この時代に詩人であることの意味と、私が詩を書く理由を、ラスト数行でみごとに言い表している。https://cakes.mu/posts/13716
10年ほど前、遺跡発掘の現場で一緒に働いた女性がいた。かの女は図面を引くのがとても達者で、フリーハンドで平面図をすいすい描いていく。感心した私が巧いねと口にすると、本業はイラストレーターなんですと簡潔に答えた。
ある日、発掘した石片に数本の線が認められた。調査員の説明によれば、これはやはり人の描いた線だろうとのこと。「何か動物の絵に見えるね、鹿とか猪とか。落書きかもしれないし、祈祷に用いたのかもしれないね」
するとイラストレーターの女性が小さな声でつぶやいた。
「私もよく河原の石に絵を描いたなあ」
「それはいつ頃のこと」と私は訊いた。
「小学生の頃です。父はよく、私を釣りにつき合わせたの。河原にいたって何もすることないから、お父さんが魚を釣っている間、私は平たい石を選んでクレヨンでお絵描きしてました。何時間も、ずっと」
「退屈じゃなかった」
「ううん、ちっとも」
かの女は微笑んだ。そこで私は、
「なるほど。それがあなたのルーツか。その経験が絵描きを志すきっかけとなったんだね?」
と軽口を叩いた。するとかの女は急に表情を強張らせ、
「違います」
と答えたのち、口を噤んだ。私は自分の早合点を悔いたが、もはや取りつく島はなく、その後かの女は私との会話を避けるようになった。
これが幻想の決め打ち、その典型例である。私のこしらえた安直なストーリー、〈父との思い出がきっかけで志したイラストレーターの道〉というエピソード化こそが幻想そのものだった。かの女のかたくなな態度は、そんな答え合わせにつきあってはいられない、との意思表示だった。そのことを私は今の今まで気づけなかった。
手前勝手なストーリーを他者に当てはめてはならない。これと同じような過ちをしでかしていないか、今一度、私は自分の言動を再点検しようと思う。(8月27日)
註:8月によく読まれた記事は「ワンオペはつらいよ」と、この「幻想の決め打ちとは何か」。