鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

“カリフォルニア・ソウル” 輝く星座 フィフス・ディメンション

 

たまには幸福な気分に浸りたい。そんな時ぼくの手が伸びるのはフィフス・ディメンション。1966年に高く打ちあがった風船は、50年近くたった今でも気持ちを高揚させてくれる。流行おくれのファッションが何度もリメイクされて甦るように、五人の歌声はいつ聴いても新鮮に響く。その理由は音楽そのものが実力に裏打ちされる確かなものだったからだ。 

The Fifth Dimension

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左より時計回りにフローレンス・ラルー、ラモンテ・マクレモア、ロン・タウンソン、マリリン・マックー、ビリー・デイヴィスJr.

Ⅰ.ビートでジャンプ

ロスアンジェルスのクラブを中心に活動していた五人組を見出したのは歌手ジョニー・リヴァースだった。プロデューサーとして自ら指揮を執り、ソウルグループとしてではなく「黒いママス&パパス」として売り出した。そしてフォーキーな「青空を探せ」をシングルカット(全米16位)、さらに満を持して第三弾に「ビートでジャンプ“Up, Up and Away”」をリリース。全米7位を記録し、幸先の良いスタートを切る。

聴いてみようか。

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複雑なコーラスワークを見事に歌いこなしたグループと、転調をくり返す技巧的な曲を書いたジミー・ウェッブは、ともに注目を集めた。他のライターが書いたフォークロック調の曲よりもジムの書いた5曲の出来栄えが(私見だが)はるかに勝っている。この「若きバカラック」の称号が与えられたウェッブを中心に次のアルバムが制作される。

 Ⅱ.マジック・ガーデン

録音技師だったボーンズ・ハウ(下写真中央眼鏡)がプロデューサーに昇格、ビートルズのカヴァー「涙の乗車券」以外の、すべての楽曲をジム・ウェッブ(下写真右スーツ姿)に任せた意欲作。ジムは編曲(含むオーケストレーション)まで手がけたが、チャートでは振るわず最高105位。

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確かに突出した楽曲がない=シングルカットに向かないといううらみはあるだろう。だが、この音楽の密度はどうだろう。まさに「サマー・オヴ・ラブ」を体現した一枚と言えるのではないか。私的にはいちばん愛着がある(トータル・コンセプト)アルバムである。

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たとえばXTCなどの「手の込んだポップ」を信奉する向きに「ペイパー・カップ」はどう聞こえるんだろうか?


The 5th Dimension - Paper Cup

Ⅲ.ストーンド・ソウル・ピクニック

前作で不首尾に終わったグループは軌道修正を図る。持ち前のソウルフィーリングを加味し、アフリカン・アメリカンとしてのアイデンティティを明確にしたい。それはプロデュース側の意向であり、本人たちの希望でもあったが、路線に沿った楽曲を書けるソングライターが必要である。そこで白羽の矢が立ったのがニューヨーク生まれのティーネイジャー、ローラ・ニーロ。プロデューサーのボーンズ・ハウはローラの才能をいち早く見抜いていた。

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ローラ・ニーロはグループのソフトなイメージに強さと陰影を与えた。ソウルフルに張らなければ歌いおおせない楽曲。冒頭の「スウィート・ブラインドネス」と「ストーンド・ソウル・ピクニック」(全米第3位)の2曲は、アルバム全体の求心力を担った。

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【追記】

フランク・シナトラの番組で御大と共演している映像をご覧あれ!


Frank Sinatra - "Sweet Blindness" (Concert Collection)

これによりフィフス・ディメンションR&Bチャートにも名を連ね、ソウルミュージックとしても認識されるようになった。それを象徴する楽曲が、アシュフォードとシンプソンの男女コンビのペンによる「カリフォルニア・ソウル」である。


The 5th Dimension California Soul

陽気さや溌剌さはそのままに、グループ本来のソウルフィーリングをいかんなく発揮した佳曲である。グループ自らも「カリフォルニア・ソウル」を標榜したという。

ここで念のため簡単に紹介しておくと、フィフス・ディメンションのアルバムでバックを務めた演奏陣は、ハル・ブレイン(ドラム)、ジョー・オズボーン(ベース)、ラリー・ネクテル(キーボード)、トミー・テデスコ(ギター)といった、のちにレッキング・クルーと呼ばれる(白人の)スタジオミュージシャン集団である。この人たちの業績を語りだすときりがないので控えるが、個人的な意見だと、ハルのドラムとジョーのベースがもっとも生き生きと弾けているのはフィフス・ディメンションの各アルバムにおいて、である。演奏に埋もれないヴォーカルパートが上に乗っかると想定できたからこそ、リズムセクションは思う存分にドライヴできたのだと思う。

Ⅳ.輝く星座

そして4枚目のアルバム『輝く星座』でグループは最高潮を迎える。反戦と愛を謳ったミュージカル『ヘアー』からのメドレー、「輝く星座(アクエリアス/レット・ザ・サンシャイン・イン) 」と、ローラ・ニーロの「ウェディング・ベル・ブルース」の2曲が、ついにヒットチャートの1位を射止めた。

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アルバム全体を通じて感じるのは対位法的なコーラスパートがより複雑化したこと。ボブ・アルキバーのトレーニングが功を奏したか、メンバーそれぞれの表現力が深まっている。当時のフィフス・ディメンションはヴォーカルグループとして、かなり高水準に達していた。 次に掲げるフィルムは、このアルバムを発表した69年のライブの模様である。TVショーと違ってマイムではないので、グループの真の力量は推し量れよう。


The 5th Dimension on Andre Salvet 6 10 69

ビートルズの「愛こそはすべて」をカヴァーしているのはご愛嬌だが、それとバカラックナンバーを融合させているのが興味深い。アルバムではクリームの「サンシャイン・オヴ・ユア・ラヴ」をカヴァーしているが、アメリカン・ショービジネスの渦中にいながらも英国の動きをしっかりと視野に入れていたようだ。

この時期、「レット・ザ・サンシャイン・イン」のシャウトで男をあげたビリーがマリリンと結婚。「ウェディング・ベル・ブルース」は図らずもトピカルソングとなった。

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(1971年の編集盤『リフレクションズ』のアルバムジャケット)

さて、67年の「サマー・オヴ・ラヴ」を体現した五人組は、69年にアポロが月面着陸したときには宇宙への憧れを歌った。が、その楽天的なスタイルは次第に影を潜め、70年代の到来とともに、グループはイメージの変化を余儀なくされる。

 

Ⅴ.ポートレイト

ニール・セダカ作のアーシーなナンバー「パペットマン」で幕開くこのアルバムは、ぼくが親しみを寄せる一枚だ。トラフィックデイヴ・メイスンが作曲した「フィーリン・オールライト」や、ラスカルズの「自由の讃歌」などを取りあげており、さらにローラのレパートリーからは「セイヴ・ザ・カントリー」をチョイスするとなれば、相当ロック寄り、しかも反体制寄りは明白だ。が、これは時代の変化を反映したものだと思う。

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ビリー・デイヴィスの熱いシャウトが全編に炸裂している。 けれども一般が好んだのは、はじめて公に取りあげたバート・バカラックナンバー、2曲目に配された「悲しみは鐘の音とともに"One Less Bell to Answer" 」だった。

『ソウル・トレイン』出演時の映像だが、カメラはマリリン・マックーを主軸に捉えている。もともとモデルあがりのマリリンなだけにビジュアルの訴求力は抜群だけど、ここにきてマリリン&バックコーラスの様相を呈してきたのは、ちと寂しい。

ところで下のTVドラマ『スパイのライセンス』では「パペットマン」を歌っているが、スタジオの入口にローラ・ニーロのポスターが貼ってあるのをお見逃しなく(おそらくスタジオエンジニアを演じる(笑)ボーンズ・ハウの差し金だろう)。


Fifth Dimension - Puppet Man

Ⅵ.愛のロンド

長年在籍したソウルシティ(リバティー)レコードを離れ、ベル・レコードに移籍したグループは、71年に『愛のロンド“Love's Lines, Angles And Rhymes” 』を発表。全体にしっとりした肌触りの佳作だが(フィフス・ディメンションに駄作なし)、初期と比べればコーラスのテクニックは格段に向上したものの、グループの一体感が薄れてきた印象は否めない。

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耳を惹くのは、やはりマリリンが独唱するタイトル曲だ。このスローバラードを切々と歌いあげたことにより、マリリン・マックーはアダルト・コンテンポラリーの歌手として認知されたのである。


5th Dimension - Love's Lines, Angles and Rhymes (1971)

確かによくできた楽曲で、とても好きな曲なんだけど、ここまできたらもうフィフス・ディメンションじゃないような気がする。結局ビリーとマリリン夫妻は、この後ライブ盤を含む3枚のアルバムまで参加したのち、73年に脱退してコンビとして活躍する。残された3人はフローレンスを中心にグループを継続するが、残念ながらその後の動きまでは追っていない。

72年から73年にかけての重要な曲(ベスト盤などに必ず入っている)を掲げておこう。

① 邦題:「夢の消える夜」

(Last Night) I Didn't Get to Sleep at All, a song by The 5th Dimension on Spotify

② 邦題:「とどかぬ愛」

If I Could Reach You - Digitally Remastered 1997, a song by The 5th Dimension on Spotify

③邦題:「愛の仲間たち」

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【追記】

バート・バカラックのホストする番組で、フィフス・ディメンションがコーラスワークを創りあげていく模様が映しだされる映像を見つけた。ミュージシャンシップにあふれた、よい記録だ。実際のプリプロはこれほど和気あいあいとはいかないだろうけど、それでも歌い手や演奏家たちにとって、バカラックとのセッション、創造する過程は充実した時間だったのではないだろうか。


The 5th Dimension Nobody Knows the Trouble I See (Full Version) Shangri-La Special 1 26 73

 

え? どうしてしつこく邦題を記しているのかって? それはね、最近Twitterで「#女性映画が日本に来るとこうなる」というハッシュタグが話題になっていて、日本で公開された外国映画の、とくに女性向きと判断された映画の邦題がいい加減で、本来の意味をまるで伝えていないと悪評ぷんぷんなのだ。それを念頭に置き、あえて「ビートでジャンプ」だの「愛のロンド」だののダサい邦題を記しているわけです。まあフィフス・ディメンションの場合、70年に大阪で開催された万国博覧会に招かれているくらいだから、日本での人気はかなりなものだった(リアルタイムでないから推測です)し、邦題の多さは人気のバロメーターとも言えるだろう。それにステージ101の「シングアウト」や「いずみたくシンガース」や「赤い鳥」からコカコーラのコマーシャルにいたるまで、フィフス・ディメンションのコーラスワークとアレンジメントは70年代前半の日本産ポップスにさんざん模倣されていた。影響を受けていない演奏を探すのが難しいくらいである。だから初めて聴いたときに、ひどく懐かしさを覚えたんだろうな。

なにせぼくが後追いでフィフス・ディメンションを知ったのは今から30年ほど前。アメリカから輸入されたカット盤が無造作に積んであるレコード屋で1枚100円、紹介した6枚にハーブ・アルバートやらB.J.トーマスやらを加えて計10枚を1000円で買ったのがきっかけだった。盤質は悪く、傷だらけで聴きづらいことこの上なかったけど、針の摩擦音の向こうから聞こえてくる爽やかな歌声はなんの翳りもなく、元気いっぱいで希望に満ちあふれていた。その歌の邦題が「ビートでジャンプ」だなんて当時は知るよしもなく、ただただ何度も、♪アップ、アップ、アンド、アウェイと口ずさんでいた。歌は硬質なデジタルの音像に疲れたぼくの耳を優しく慰撫してくれた。

もう一度、聴いてみようか。

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アクエリアス」以降のテクニカルなコーラスも魅力的だけど、ぼくは初期の、チームワークが身上のユニゾンがより好きだ。とくにフローレンスとマリリンが児童合唱のようなファルセットで歌い、その下をロンとラモンテとビリーが持ちあげるミドルエイトがいちばん好きだ。これ一曲を作ったってだけでもジミー・ウェッブは尊敬に値する。そしてなによりも、ジムやローラ・ニーロといった優秀なソングライターの存在を教えてくれたフィフス・ディメンションには足を向けて寝られない。かれらは飲みこみ辛い楽曲に、ひと匙の砂糖をまぶした。まさしく人口に膾炙したのだ。それは裏方の録音技師やダンヒル直系の腕っこきバンドマンが、しゃかりきになってグループをサポートしたおかげでもある。

つまり、ぼくにとってフィフス・ディメンションはポピュラー音楽の学校だった。とても楽しいプライマリースクール。だから卒業したあとも時どき思いだしては校庭に遊びにいく。そして思いきり遊んだあとは、ちょっぴり切なくなる。

カリフォルニア・ソウル、輝く星座、5次元に届け11の歌。

ドラムス/ステッカー 森脇真末味

 

森脇真末味の「ドラムス」は1980年、小学館プチコミック3月号に掲載された。手元にある単行本、『緑茶夢(グリーンティードリーム)』第1巻(昭和55年8月20日初版)によると、シリーズ第2作と記されている。前作「緑茶夢」に漂っていた「少女マンガらしさ」はほとんど影を潜め、ロックバンドに情熱を燃やす関西圏の若者たちを力強いタッチで描いた傑作として同世代の読者を惹きつけた。

情熱を燃やすとの安っぽい表現をしたが、作品に描かれる錯綜した人間模様は単純ではなかったし、登場人物それぞれが不安や悩みを抱え、異なる個性が衝突するさまには、ヒリヒリするような剥きだしの感覚が横溢していた。「バンドをする」ということは、たんに音楽を演奏するという意味ではなく、おおげさに聞こえるだろうが、当時の若者にとっては生き方の選択に他ならなかった。そこをリアルに描ききったからこそ、女性のみならず男性読者からも圧倒的な支持を受けたのだ。

つまらない前置きはこれくらいにしよう。今日はぼくの所有する『緑茶夢』全3巻と『おんなのこ物語』全5巻の中から、この連作の実質的な主人公である八角(やすみ)京介がドラムを叩くシーンを、ここに訪問してくれた方々にご覧いただきたい。

 

ドラムス

人気インディーズバンド「スラン」に臨時ドラマーとして参加した八角京介。観客からのヤジにキレたヴォーカルの安部弘たちがステージを去るなか、スランが戻ってくるのを待ちながら「こんなけっこうな客の前で、なぜ演奏ができない?」と憤った八角は一人でドラムを叩きはじめる。f:id:kp4323w3255b5t267:20160910001520j:image

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見開きで2ページで繰り広げられるドラムソロのシーン。その迫力にぼくは圧倒された。

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『緑茶夢』の2~3巻で八角は端役となり、弘を中心とするスランの内情が丹念に描かれるが、「ドラムス」の衝撃には及ばないもどかしさがあった。

この八角を中心人物として仕切り直した新連載が、『おんなのこ物語』だった。

 

⑵『おんなのこ物語』第1部・「ステッカー

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ステッカー。左からベーシストの水野(『緑茶夢』ではスランのマネージャー役)、グループ最年少の八角、才能あるマルチプレーヤー仲尾仁、音楽ライター志向のギタリスト桑田。

仲尾の方針におとなしく従っていた八角だが、徐々に隠れた才能を発揮しはじめる。次の画は仲尾が「リードはおれなのに、背後から誰かに引っ張られている」ことに気づいた瞬間。

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仲尾はステッカーを休止。行くあてのない八角は「桃色軍団」を手伝う。が、八角の先鋭的なビートはコミックバンドの音楽をも新たな境地へ引っ張る。

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ステッカーは活動を再開するが、八角が自宅録音した「未完成のくせに、やたらと力を持っ」た曲を手際よく編曲できない仲尾は徐々に追いつめられる。

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そして問題は未解決のまま、本番のステージを迎える。

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このシーン、どのコマをとってもすばらしい。『おんなのこ物語』第2巻(昭和57年5月20日初版)のハイライトだ。

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読みながらぼくは、八角の作った曲はどんな音だったのだろうかと想像をめぐらした。それはまさに「理想が曲になっているようなもの」だった。それゆえ、この曲は最後まで演奏されずに寸断されてしまう。そして…… 

 

このライブでのトラブルによってステッカーは空中分解、八角は長い苦悩の日々を過ごすことになる。

コミックス第3巻から第5巻までのエピソードは『おんなのこ』である尚子の物語としてはじゅうぶんだけど、やはり後日談といった印象がある。桃色軍団の大城が、暗黒大陸じゃがたらの「でも、デモ、DEMO」を歌い、怪我を負った仲尾がバックステージから隠れてギターを弾くことによって、八角は疎外感からようやく解放される。が、その結末は前半の息詰まる展開から比較すると、ややボルテージの落ちた感は否めない。

だが、物語の構成上それは仕方ないことだ。アマチュアバンドの輝きが一瞬であるのと同様、マンガの山場は第2巻で既に到達していた。あれほど窮まった演奏描写を何度も期待する方が酷な話だ。人生のピークはあの時点だったと、過ぎてしまってから初めて気づくものである。

しかし『緑茶夢』から『おんなのこ物語』の単行本8冊に収められた青春群像は、いま読み返してみると正午の太陽にも似た眩しさを放っている。かれらはみな現状に抗いつつも、斜にかまえ、皮肉まじりの日々を過ごしていたが、21世紀の醒めた感覚から比べれば、よほど汗くさく、ひた向きで、クールに構えつつも、熱い。テクノロジーが世界を支配する以前の音楽活動において、人と人との協力は不可避であった。そこには口論があり、暴力があり、裏切りがあり、共感があった。人間同士のぶつかり合いがバンドという小さな組織=社会で炸裂していた。そういった80年代前半の時代の情況をこのマンガは如実に反映している。陰陽のコントラストが鮮明な絵柄で、激情がハレーションする様相を見事に描ききっている。

当時、森脇真末味ロックマンガを甘いとする論評を見た。現実のバンド周辺はこんなキレイなもんじゃない、もっとどろどろとした醜いものだという。けれどもどうだろう、少女マンガ雑誌の連載という制約の中で、これだけ切迫した内容を備えたマンガが果たしてどれくらいあっただろう。少なくともぼくは、少年/少女/青年マンガを問わず、森脇よりもロックの核心に迫った作品を読んだことがない。水野のセリフを借りるならば、「どいつもこいつも八角に比べたら、まったるいの一言」だ。

そう、ぼくは水野という脇役にも多大な影響を受けた。かれの冷淡な態度を真似して、「気にするな、気にしたら同次元までオチルぞ」だの「評論を書いてるプレーヤーは、おれにいわせりゃ三流ばっかりさ」だの、辛らつなセリフを吐いては周りからひんしゅくを買っていた。要するにあまりにも切実で、他人事だと思えなかったのだ。挙句の果てには当時の仲間と組んだバンドの曲に「ステッカー」というタイトルまでつけた。きっとあの曲は最終的にはこんな歌になったはずだとイメージして、テツローの作った基本トラックに、ぼくが歌詞をつけたのだった。そういやテツローのやつ、「おれは言葉を信用してないから」って、八角みたいなセリフをよく口にしてたっけ……

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勢いに任せて、恥ずかしい思い出を懲りもせず書き連ねてしまった。森脇真末味の描いた、八角京介の物語(本来の主人公・尚子ゴメン)を読んでいるうちに、過去の記憶が走馬灯のように迸って来るのだ。できれば記事の後半は飛ばし読みしてほしい。そして願わくは古本市場で単行本を見つけたら迷わず入手してほしい。内容は保証する。確か町山智浩氏も言っていたけど、ロックマンガの最高峰は、誰がなんと言おうと「ドラムス」と「ステッカー」にとどめを刺す。 

 

 

 

 【補足】

ステッカーのリーダー仲尾仁は「口の端で笑うようなうたいかた」をする。けれども「ボブ・ウェルチ(2012年死没)みたいな声」だとの指摘に、仲尾が「おれはハゲてないぞ」と否定するシーンもある。では、ボブ・ウェルチの率いたパリスのセカンド、『ビッグタウン2061』のB面2曲め「ハート・オヴ・ストーン」を聴いてみよう(「ハート・オヴ・ストーン」がみあたらなかったのでB面1曲めの「マネー・ラヴ」でクールな雰囲気を確かめてほしい)。冒頭の“yeah”(ヤー)からして仲尾の声にそっくりじゃないか。ステッカーのモデルは十中八九、パリスだ。

  

 

 

 

夢を記録する機械が欲しい(Series Of Dreams Vol.4)

 

夢野久作ンごたる(みたいな)人生を送ってきたイワシです。

今日のエントリーは気軽に読めると思うのでご安心を。

さて、夢みがちな少年は、そのまま初老のおっさんになったけど、夢の内容ときたら、未だに現実離れした子どもっぽいものだ。こないだもこんな夢を見た。

① ミュージカル機械

ミュージカルの機械を発明した。頭の中に思い浮かべたメロディーが実際に鳴るのである。ただし、脳波を検出した機械が読みとれるのは音の長短やら音程やらなので、初音ミクみたいに言語には変換できない。思い浮かべた音色に妥当だと判断された音色が自動的に選択される。

これを使えば、オーケストラやバンドがなくても、自分の思うがままの伴奏が奏でられる。いわば究極のカラオケである。しかしそれでは夢がない(笑)ので、ぼくは機械に「ミュージカル ©」と名づけた。そして楽器・玩具・ソフト制作の各メーカーに共同で開発させた。ぼくは大儲けする予定だったが、予想以上に、想像した音楽を具体化させることは難しかった。それは機械の問題というよりも、使う人間の側に問題があった。

「つまり……」と開発担当者は言葉を濁した。「『ミュージカル ©』は使う人間のイマジネーションが問われるんだ。そいつの思い浮かべた音楽が貧相だと、出る音も貧相になるという理屈だ」

「そのへん、ある程度の補正ができないか?」

「やれないことはないが……それだと、きみの思い描いた理想とはかけ離れるよ。たんなるカラオケのヴァリエーションになっちまう。それでもいいのなら改良するけど」

「うーん」

ぼくは考えこんでしまった。この機械の開発を発表したと同時に、演奏家ユニオン(組合)から「発売を中止せよ」と圧力がかかっていた。しかしこの結果だと、商品化もままならないだろう。

「でも、ぼくが試作品を試したときはちゃんと作動したじゃないか」

「それはきみのイメージが明確だったからさ。これはドラム、これはベース、これはオーボエ、これはストリングスと、センサーが簡単に感知できたからね。しかも、これはバーンスタイン、これはルグラン、これはモーリス・ジャールと分かるくらい、細かくヘッドアレンジが施されていたから、あえて補正する必要もなかったってわけ」

「すると、音楽的な素養がある程度備わってないと、使いものにならないってこと?」

「そうだね。楽譜を読み書きできる程度の能力は必要だな。でないと各パートの区別がつかないでしょ。あまりにも漠然としたイメージだと、脳波シグナルをセンサーが感知できないかもしれない」

ふうむ、どうやらぼくは「ミュージカル ©」で儲けそこなったようだ……

と、ほぞを噛んだときに目が覚めた。たぶんこれは、その数日前に『ロシュフォールの恋人たち』をユーチューブで観たせいだ。あんなふうに、歌いはじめた途端どこからともなく華麗な伴奏が流れてきて、それに合わせて歌ったらさぞや愉快だろうなと、観ているあいだに妄想していたからかもしれない。その願望が潜在意識となって、こんな夢みたいな夢を見させたのだと思う。

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だけど、考えてみれば同じタイプの夢をしばしば見ていた。その代表的なものとして、次に10年ほど前に見た夢をご紹介しよう。

② 念写らくがき

ぼくは頭のなかで思い描いた文字を、手を使わずに、つまり書かずに、任意の物体に念写できるようになった。つまり、「鰯の独白・好評につきアクセス数倍増!」と思ったら、目の前の壁やらガラス窓やらに「鰯の独白・好評につきアクセス数倍増!」と写しだされるのである。

ぼくは調子に乗って、公共の建物の外壁にいろんな文字をらくがきしてみた。最初は書道に使う半紙程のサイズでしか書けなかったけど、次第にコツをつかみ、さまざまな書体で、好きなように拡大することもできるようになった。しかも、らくがきの主が誰だかバレないのであるからまことに都合がいい。

そこでぼくは持ち前の正義感(笑)を発揮し、「巨悪を討つ」らくがきを、手当たり次第に書きなぐっていった。都庁に銀行に、新聞社にテレビ局に。らくがきの内容は、おのおの推察してほしい。当ブログの読者なら、おおよそ見当はつくだろう。

(さて、あなたなら、なんて書く?)

反社会的ならくがきによって国会は大混乱に陥った。ぼくはさらにテレビ画面に念写を映しだすことも訓練の成果で可能にした。したり顔したニュースキャスターの顔の真横に、嘘つけ~と吹きだしつきで朱文字を入れると、それだけで報道の権威は失墜するのだった。

溜飲が下がるらくがきだと世間では話題沸騰。得意満面のぼく。だが捜査の手は少しずつ自分の近辺に迫ってきているようだ。警察庁は犯人の思想や背景を徹底的に分析し、関東在住の40代男性と、的を絞ってきている……

 と、不安に駆られたところで目が覚めた。これはおそらく、二週間前にしたためた記事の中に貼りつけた「“スペクタクル社会”らくがき」の影響があるに違いない。 

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しめた、こりゃ小説のタネになるわいとぼくは小躍りしたが、よくよく考えてみるとこれって伏線のない『デス・ノート』(当時大評判だった)みたいな筋書じゃないかとガッカリしたものだ。それに当時ぼくは自宅のパソコンにインターネットを繋いでいなかった。そのころ(2004~5年頃)2ちゃんねるは既に猖獗をきわめていたし、ぼくの想像よりもはるかに過激な言説がネット上に溢れていた(ことを知らなかったが)。さらに動画の画面に文字が躍るのはその少しあと、07年にニコニコ動画が実現させてしまった。

が、

夢と現実の違いは、そうしたネット上に発信された言説のほとんどが、らくがき同然のものとして無効化されてしまっているという点だ。さらにネット内においても、思想信条や立場の違いから、同じ情報を共有し、理解しあうこともなく、細胞分裂よろしく分断されてしまった。つまりぼくが10年前に見た陳腐な夢よりも、10年後の現実のほうが、より奇妙な状況を呈している。

 

夢はシリーズ化される。とボブ・ディランも言っている。最後はつい先日に見た夢だ。最近なだけに細部まで覚えてはいるが、そのぶんスケールも縮小している。やれやれ、夢にも加齢は表れるものなのか。

③ 北欧の自販機 

ぼくは近代的な雰囲気のある広場に設置された自動販売機の前に居る。どうやら自販機は多機能であり、外貨両替もできれば、その国で必要な各種申請書をプリントアウトもできるし、クレジットカードも発行できる。いわば銀行と行政の窓口を兼ね備えた万能の自動販売機のようだ。

しかし北欧語を読めないぼくは操作方法が分からずに自販機の前でおろおろしている。見るに見かねた男性(30歳代、巻き毛と口髭、ブラウンのスーツ)が、あれこれ英語で教えてくれるが、何と言っているのかさっぱり理解できない。すると業を煮やした男性は自販機に備えつきの受話器を手に取り、ぼくの目前にグイと突きだした。

「これで区役所の役人を呼びだせ。すぐに来てくれる。ニホン語でもだいじょうぶだ」

電話で、使い方が分からないと伝えると、「お待ちください、すぐ参ります」と流ちょうな日本語が聞えた。二、三分待っていると、さらりとした金髪を風になびかせた女性が、ぼくの方へつかつかと歩み寄ってきた。どうやら区役所の役人らしい。

「何かお困りですか?」と女性は落ち着いた声で訊ねた。

「使い方が分からないのです」とぼくは答えた。

「この自動販売機はエリクソン社およびノキア社の端末がないと使えません。あなたはどちらかを持っていますか?」

「いいえ。どちらも所有していません」

「何か身分を証明できるものは?」

「パスポートならありますが」

「拝見します」と女性は断り、ぼくのパスポート写真と署名欄を開くと、自販機のスクリーン部分に押し当てて、読みとらせたようである。シャッという歯切れよい音とともに、一瞬だが強い光が走った。女性はにこやかに微笑むと、パスポートを返した。

「これでオッケーです。あなたの照合は完了しました。何にでも利用できますよ。この機械で何をなさいますか?遠慮なくおっしゃってください」

「何をしたいか、じつは分からないのです」

「は?」

「ぼくはただ、この自販機の仕組みを知りたかっただけなのかもしれない……」

すると区役所の女性はあからさまに困惑の表情を浮かべた。後からなりゆきを見守っていた男性が彼女のもとにそっと近づき、北欧語で何ごとかを早口で捲くしたてた。

『日本人には閉口するよ。目的も意志もありやしない。いったいヤツはどういうつもりなんだ?』

『まあ、旅慣れない土地で困惑しているのでしょう。好奇心からかも?』

『にしてもさ。ヤツはぼくらを値踏み、いやグラムで図ってたんだぜ?こころの中でボクのことを585g、キミのことを837gだと想像していた』

『まあひどい!それってなんて失敬』

『だろ? ったく日本人は薄気味悪いよ』

二人のひそひそ話を聞きながら、〈どうしてぼくは彼らの喋る北欧語が理解できるのだろう?声を聞いているというよりも、読心術に近い感覚で言語を捉えられるのは何故だ?ひょっとしてこれは自販機の翻訳機能なんじゃないか?〉などと、ぼんやり考えていた……

【参考】ほら、現実は夢よりも奇異じゃないか。

 

夢は潜在意識を映しだしたものだと思う。いつも考えていること、常日ごろ悩んでいること、あるいは体験したことなどが如実に反映するものだ。③の夢にぼくの無自覚な劣等感やそれとは裏腹の差別意識を発見できるかもしれない。が、ともあれ夢の記述を発端に物語を紡ぐことは可能である。夢は着想の源、それを利用しない手はない。

こうしたSF的/ディストピア的な夢を見たあとで、ぼくはいつも、これを小説にできないものかと考えをめぐらす。が、企みはしばらくすると、すぐに萎んでしまう。夢想をもっともらしいお話に仕立てあげるには、それ相当の努力が要る。努力とはつまり多くの資料にあたり、空想の裏づけをとることだ。

資料をそろえる労が煩わしいなら、②の夢などは①の夢と混合させ、たとえばそうだな「想像した通りの絵を描ける」話をこしらえることはできるかもしれない。それは幻想小説いや童話になってしまうかもしれないが、中途半端に興味のある社会問題や、人並み以上に詳しい音楽を題材に求めぬほうが、小説としての体裁は整うように思うのだ。

けれども、それでもフィクションを書くのはしんどいよ。根気のいる作業だ。

プロの作家はホントにすごいと思う。着想を着実に表現の形にするんだから。

情けないことだけど、根性と情熱と気力に欠ける、今のぼくには到底ムリだ。

◆結論:夢想を具現化するのは難しい。

 

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真夜中に目が覚めたから、鏡に映った自分の顔をしげしげと眺めて、らくがきしていたんです。わりかし似た顔に描けたかなと思う。え、ネクタイ締めて寝てるのかって?(笑)まさか。

「夢が見れる機械が欲しい」と歌ったのはムーンライダーズだけど、〈あー見たままの夢を自動的に記録する機械があればなあ〉と、未明の刻にあてどない空想する五十男のイワシであった。