鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

壮大な見世物社会

 

たまには静観する必要があるんだろうな。

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そう思いながらインターネットの発言を控えていた一週間。傍観している間にもいろいろとあった。そのいちいちを挙げるいとまはないが、ぼくの感想を一言にまとめると〈いよいよもって日本はスペクタクル社会に突入した〉である。PANTAの大作「マーラーズ・パーラー」を「ある日公園のベンチに座っていたら自分をとりまく世界が癲狂院であることを一瞬で理解した歌(大意)」だと評した橋本治のような感覚だった。

スペクタクル社会の定義と概念は以下を参照にしていただくとして、

この「スペクタクル社会」落書きについての記事も併せて読んでもらいたい。

まったくナンセンスで茶番のような話だが、10年余を経た「今の日本」は、このような倒錯が常態化しつつある。そんな中、正気を保つのはかなり難しい。現状を容認してしまえば一時的にラクにはなろうが、それはまやかしであり、感性をマヒさせるだけの対処法に過ぎない。係る事態がいよいよわが身に及んだとき、こんなはずじゃなかった、とほぞを噛むのがオチである。

 

先日ぼくは、ドルビーサウンドの心理的圧迫でシネコンが苦手だのにもかかわらず、『シン・ゴジラ』を観に行った。

ゴジラ原子力発電所のメタファーだと捉えることは難しくはない。体内の血流を凝固させて動きを封じるアイディアも、凍土壁の維持管理に汲々とする福島第一の処理事案を彷彿とさせる。国土もろごと破壊して事態の収束を図るか、それとも荒ぶる神を鎮めるが如く共存の道を選ぶか。

その文脈でゴジラが東京駅にとどまった理由を考えてみるのもいい。広瀬隆氏の『東京に原発を』を想起するのもアリだし、丸の内口から直線で結べば、ゴジラが向かっただろう先には(この映画でも一度も触れられなかった)“空虚な中心”である皇居が控えている。

私が先に懸念した危険な要素とは、娯楽作品に提示されるような二者択一を基準に、物事を判断しようとする短絡的な思考法である。〈エンターテイメントを素直に楽しめない理念先行タイプはかわいそう〉らしいが。

Mediumというメディアの性格上、記事へのコメントという形で批評するに留めたが、ここに触れた二者択一式の短絡的思考法が蔓延する今日、娯楽を娯楽として享受できなくなった理由は、ひとえに娯楽の側のみに問題があるわけではなく、政府とメディアの結託による、娯楽を利用した統制が着々と進んでいるからである。

左傾の一人として、ぼくもエンターテイメントを素直に楽しめない派である。娯楽を享受するに十全な社会環境であるかとの問いが、娯楽に興じている最中にどうしてもつきまとう。映画産業を支える主体とは何か?おびただしい数の協賛各社が求める見返りとは?映画に協力する政府や省庁や自治体の意図とは?を意識せざるを得ない、厄介な性分のぼく。

リオデジャネイロ五輪での閉会式をふり返るまでもなく、日本政府は臆面もなく国産エンターテインメントを世界に誇れる産業として発信している。他国があきれ果てようがおかまいなしの構えである。ゲームやマンガやアニメーションが日本を代表する文化コンテンツであるとの打ちだしを頭ごなしに否定はしないが、ぼくは宣伝の過程において国家の思惑が表現分野に侵食し、国の施策に沿った創作物が他よりも優先されている現状を、諸手を挙げて歓迎できない。その表現が、いつ(When)どこで(Where)誰が(Who)なにを(What)なぜ(Why)どのように(How)行われているのかを絶えず注視し、批判すべき内容ならば批判しなければならないと思う。たとえカワイソーだと嗤われようとも、安穏と甘受するわけにはまいりませぬ、のだ。

さて、なぜ敢えて古典的な5W1Hを引いたか?

それは、これは本来ならばジャーナリズムの「ペンの力」が為すべき問題提起であるから、です。

 

話は変わるが、柴那典さんのブログ記事に興味深い“引用”があったので、まるごと引用してみる。

 カルチュラル・スタディーズの古典である、ディック・ヘブディッジ『サブカルチャー』は、まさに記号分析的な手法でパンクやモッズなどを批評していきました。というかそもそも、ロラン・バルトが『神話作用』のなかで最初におこなったのはプロレス分析ですよね。冒頭に「レスリングのよさは、度を越えた見世物であることだ」と書かれていますが、ようするに「見世物」なわけですよ。見世物においては、そこで演じている人がなにを思っているかとか、事実としてどうであるかとかとは別に、それを見ている観客にどういう意味作用・神話作用が起こるか、ということが重要です。ヘブディッジもバルトを参照していました。ジャニーズなどのアイドルやいわゆる芸能人というのも、見世物として人前に出ていく存在です。人前に出たとき、その人が何を考えているかとは別に流通していく記号や表象というものがあって、その分析は当然されるべきだと思います。いやむしろ、記号や表象としてこそ残っていくものがあるだろうし、芸能に生きる人というのは、そういう記号的な存在であることを引き受けている人なのだ、という感覚が個人的にはあります。 

そして今は政治家みずからが「見世物」になることを積極的に引き受けはじめた時代である。とくに小池百合子東京都都知事、稲田朋美防衛相、高市早苗総務相片山さつき議員の四氏が覇を競うように見世物化に勤しんでいる。言動のいちいちに「いかにして目立つか」の意識が露骨だし、過剰な演出を隠そうともしない。ぼくは誰がどのようなファッションをしようと頓着しないが、かの女らの所作につきまとう大衆受け=煽動の要素は、やはり看過できない種類のものだと思う。

シン・ゴジラ』のエンドロールに協力として小池百合子氏の名前がクレジットされていた。L.Hさんが指摘するまでもなく、(作品内で首相に攻撃命令をしきりと促す)余貴美子が演じる防衛大臣は、現実の小池氏をなぞったような口調をする。それはパロディというよりもカリカチュアに近く、批評の態度は見当たらない。むしろ現実社会と空想世界が互いに補完しあうことにより、虚実ないまぜの印象を観る側に与える仕掛けだ。庵野秀明氏らしいと頷けばコトは簡単に済むが、それは危険な要素として(左寄りなぼくは)批判するほかない。すなわち、

映画に政治を持ちこんでもいい。が、その政治性について批判することをためらってはならない。

なぜなら、その「補完」は体制側の方針にひたすら有利となるよう機能するから、だ。

政権批判の映画が等しくあるべし、と言いたいわけではない。いや、あるべきだと思うけれども。だってあまりにも圧倒的な偏差があるじゃないか。おびただしい資本の投下が件の映画に何を期待するのか。単に興行成績だけではあるまい。かりに日本社会の意識変革を担わせているとすれば「警戒せよ」と口を酸っぱくせねばなるまい。

そしてO.Pさんの言うように、「所詮は怪獣映画」と突き放すのが正解なんじゃないかな。絵空事だよ映画は。映画と現実が互いをなぞりあうなんて気持ち悪いじゃないの。

だからぼくはノン!を唱える。政治とメディアが結託して「壮大な見世物社会」を実現しようとする、今日の危機的状況に(あ、でも「のん」は応援するかんな)。