ヘミングウェイ自身が『午後の死』の中で表明していることは、「新聞記者時代に事件を報道しようとした際に、時事的な出来事の内在する情緒を伝えることに努めたが、作家になってさらに、情緒を生み出す現実の事物とは何であるかをとらえ、表現することに努めた。書くことを学ぼうとして、一番単純で、しかも一番根本的なことは激烈な死であり、それは書くに値する主題である」と考えたことです。そこで「戦争が終わったいま、激烈な死が見られる場所は闘牛場しかない」と考え、スペインでの闘牛観戦に赴きました。(今村楯夫)
“Ars longa vita brevis”、このラテン語を「少年易老学難成」として丸暗記したのはいつだったか。出何処は分かっているだろ?「学芸は長し、生涯は短し、時機は速し、経験は危うし、判断は難し」、まったく其の通り。あったり前のことを尤もらしく仰るのだな、ヒポクラテス殿は。
産婦人科の医師だった叔父が亡くなって、初七日が過ぎた。それと前後してジョージ・マーティンが亡くなった。そして先週末にキース・エマーソンの訃報が飛びこんだ。
三連打は、さすがに堪えた。やりきれなくて途方にくれた。このブログを見るのも億劫になった。画面右側のサイドバーをごらんよ。キースやジョージの他にも、デヴィッド・ボウイ、伊丹十三、アンディ・フレイザー、マイヤ・プリセツカヤと、TOP10は亡き者たちのオンパレードだ。人の生き死にをタネにアクセス数を稼いでいるような気がして、ぼくはホトホト嫌気がさした。
そんな精神状態だから、まともな記事なんて書けっこない。あたまの中を駆けめぐるのは、過去に溜めこんだ警句の断片だ。ふだんはすっかり忘れているくせに、こんなときに限って思いだす。しかも細部があやふやだから、思考は止め処なく流れていく。先にあげた「アルスロンガ、ウィータブレウィス」は、呪文めいた響きもあってか、違わず覚えてはいたが、他はほとんど全滅だった。
冒頭に掲げたヘミングウェイは、「激烈な死」という一部だけがあたまに引っかかっており、その前後をすっかり忘れていた。しかしその激烈な死ということばの持つ訴求力に、ぼくはずっととらわれ続けていた。闘牛を観たことはないけれど、スペインでみる強烈な陽ざし、どこまでも伸びる黒い影、明暗のコントラスト、そういったイメージが凝縮されているように感じる。
激烈な死を凝視したい?
そんな欲求は、露ほどもないんだが。
「太陽と死は直視できない。」(ラ・ロシュフーコー)
あゝまさに。ぼくは死に直面するのをひたすら怖れている。死に際のことを考えまいと意識的にイシキから排除しようと努めている。ぼくはたまに独りになると「しにたい」とつぶやくが、本心ではない。しにたくなるほどツラい、が正確なところである。けれども、
「ここでは太陽と死が隣りあわせです。」
このモノローグは何だろう。映画のセリフかな?洋画のテロップに映し出されていた。そうだ手紙だ、戦地から送られた手紙の一行。アルジェから男が手紙を書いてよこす。それを読んだカトリーヌ・ドヌーヴが悲嘆にくれる。ならば『シェルブールの雨傘』だ。はは、またもや大莫迦者め。そうやって思考の焦点をずらす・ぼかす・逸らす・はぐらかす。自己欺瞞ぢゃないのかね、そうゆうの。
そこでまた違う想念が浮かびあがる。
「生は、死と死の間の……」
なんだっけ?
死と死の間の、激烈な……いやそれは違うだろ、ヘミングウェイから離れろ。もっと怠惰で、諦めムードの横溢した、詩の断片だったか、あー思いだせない。
「緩慢な……」
そう、緩慢な印象の。ドビュッシーの『牧神の午後』のように気だるい雰囲気の。しかし前奏曲ではない。「序曲」がそれにはふさわしい。
「生は、死と死の間の、緩慢な序曲である。」
きっとこうだ。ぼくはGoogleで検索をかけてみた。〈死と死の間の緩慢な序曲〉と。けれどもそれに相当するページはヒットしなかった。序章、それとも助走かしら、「ジョ」という響きが含まれていたような気がするけれど。
ジョの響きには惹起されるものが大だなあ。濁音や半母音には耳を引っ張られる。たとえばゲッセマネとか。はてゲッセマネとは何だったか。たしか地名だったと思うが。
その瞬間ぼくの脳内で大伽藍、違った大聖堂を揺るがすような荘厳なパイプオルガンの調べが鳴り響いた。懸命に「そのこと」から意識を逸らし、はぐらかし、ぼかし、ずらしていたというのに。
ああ、またしても!
Emerson Lake And Palmer - Jerusalem
光の季節が到来を告げる。4月になればかの女を思いだす。サッサフラスに密造酒。あの深い声が聞こえてきそうだ。
わたしが死んで埋葬されたとき、ひとつの小さな命が生まれるでしょう
そうして地球は回っていく、回っていく
kp4323w3255b5t267.hatenablog.com
そしてまたぼくは、誕生に一生を捧げた人生について思いを馳せている。
戯れに記事を書くつもりはない。『鰯の独白』はいつでも“Serious Playground”。