樫本大進(ヴァイオリン)とアレッシオ・バックス(ピアノ)の二重奏を聴いた。
翌朝になっても、ぼくの耳の奥には、まだ余韻が残っている。
熊本県立劇場の長い残響にも濁ることなく、樫本の伸びやかで透きとおった音色とアレッシオの繊細なタッチは、コンサートホールの高い空間をあまねくみたした。
軽快かつ明朗なモーツァルトのソナタでさりげなく始まったステージは、続くブラームスのヴァイオリンソナタ『雨の歌』で一気に緊張の度合いを高めた。二人の放熱に聴衆は惹きこまれ、第一楽章の終わりではフライング気味の拍手がわき起こるほどだった。が、集中の糸が途切れることはなく、二人はさらなるテンションで残りの楽章を高みへと引っ張りあげた。
ぼくは樫本大進を2014年に観ている。スイス・ロマンド管弦楽団で指揮は山田和樹、場所は同じく県劇コンサートホール。有名なチャイコフスキーのコンチェルトだった。好きな曲だっただけに期待していたが、さほど感銘を受けなかった。もっとハッタリ効かせてくれてもいいんじゃないか、どうもお上品すぎる、圧倒してくれという不遜な感想を抱いた。
が、今回は不満がない。
樫本の音色は確かにノーブルだけど、今回のブラームスでは彼の野心のようなものが垣間見えた。それは聴き手をねじ伏せてやろうというよこしまな我欲ではなく、もっとこう、音楽そのものをより高次へ導いてやろうという意志のようなものだ。それは腕前達者な相棒が的確なピアノフォルテを奏でることで初めて可能となる。樫本はアレッシオに全幅の信頼を寄せていた。それは疑いようがない。彼らは不可視の糸でつながっている。見えないけれども確かに存在する音の糸が。だから樫本は思う存分ぶつけられる、これはどうだい、ではこれは?と。
けれども樫本の示す音楽のかたちはとても明確だ。譜面が目前に見えるようだ。それはやはり、ベルリンフィルの第一コンマスとして長年培った能力*、音を俯瞰してみる力に依るものだろう。ときに彼の動きはヴァイオリン奏者というよりも、ぼくには指揮者のように見えた。
休憩をはさんで後半のプログラム。シマノフスキの『神話』で、樫本はいよいよ本領を発揮した。フラジオレット(ハーモニックス)や重音の頻発する難曲を、彼はミスすることなく、いともたやすく弾きこなす(実際の心境はどうだかわからないが、そのくらい余裕綽々に映る)。弦と弓の当たる角度やボウイングの速度によって、場面場面での色がさまざまに変化する。とても一つの楽器とは思えないほどだ。フォルテッシモの駆けあがりは空気を引き裂くほどに激しく、ピアニシモやディミヌエンドは消え入りそうなほど微かに震え、異様なテンションでシマノフスキのデザインしたギリシア神話の耽美な世界を紡ぎだす。
『神曲』はカヤ・ダンチョフスカvnとクリスチャン・ツィメルマンpfによるレコードが有名*だが、樫本とアレッシオのデュオは過去の名演をはるかに凌駕する。その高みは樫本の正確無比なテクニックと探究心によるものだ。もしかしたら彼は、軽々と難所をこなしてしまうがゆえに、いまいち凄味が伝わりにくいのではないか?ぼくはクラシックに通暁しているわけではないが、それでも関東にいたころはかなりの奏者を観た。比しても樫本大進は間違いなく超一流だと思う。彼のグァルネリの音色はくせがなく、クリアーで上品な響きだが、今回のステージではさらに複雑な陰影と深みが加わった。ぼくが数年前に感じた物足りなさは払しょくされ、樫本はヴィルトゥオーソと呼ぶにためらいのない、未知の領域に足を踏み入れたように思う。
最後はデビューアルバムにも収録されていたグリーグの第三番コンチェルト。これはもう全開モード、息もつかせぬ迫力で、あっという間にクライマックスに達した。しかしこれほど激しいパッションをどこに秘めていたのだろうか。ぼくは貴公子然としたパブリックメージが覆されていくのを痛快に感じた。そして、日本人という狭い枠を超えた国際的な演奏家の、脂の乗りきった演奏を堪能できたことに、無上の喜びを覚えた。
アンコールではお道化気味にクライスラーのロスマリンを弾いたが、どんなに走ろうがデフォルメしようが、諧調になってしまうのがこの人生来の持ち味である。
ぼくは年甲斐もなくロビーでベートーヴェンのソナタ大全集※を買い求め、行列に並んでCDの小冊子にサインしてもらった。
ハンサムなピアニストにはヘタなイタリア語で“E 'stato grande”と伝え、大進さんには、
「シマノフスキ、サイコーでした、しびれました」
と伝えた。彼は「ありがとう」と穏やかに微笑んでくれた。
コンパクトディスクという音楽のパッケージは、たぶん廃れるさだめだろうけど、その時代に記録された事実は永遠に残る。だからこのデュオには、ぜひ正式に録音してもらいたい。そして、「シマノフスキの『神話』は大進とアレッシオが決定盤だ、おれは彼らの演奏を間近で観たんだぜ!」って自慢してみたい。
【インタビュー記事】
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Daishin Kashimoto - Beethoven: The Complete Violin Sonatas (EPK)
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【*参照】
①Vivaldi: Concerto "The Summer" Kashimoto · Berlin Baroque Soloists(ベルリンフィルのオフィシャル映像)
Vivaldi: Concerto "The Summer" / Kashimoto · Berlin Baroque Soloists
②『神話』についての、もう一つの記事