鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

ニック・ドレイク 純粋培養された孤独

 

 社会派(笑)のぼくだけど、今は音楽のことしか書けない。

 それはまだ痛みを対象化できてないからに他ならない。痛みの正体を認識できるまでには、もう少し時間がかかりそうだ。

 だけど、こういうのんきな意見を目にすると、違う! と言いたくなる。

人や世の中を恨むのと自分の性格を反省するのと、どちらが簡単かと言えば前者だろう。他人に対して攻撃的になったり、社会のせいにするほうが楽だから。ある種の音楽や読書は僕の中にあったそういう部分を徐々に吹き飛ばしてくれた。自分の気の持ちようで世界はいつもと異なる風景を見せてくれるのです。

 なにを言っているんだ、おめでたいにもほどがあると激しく反発してしまった。

 ぼく自身どちらかといえば内向的な性格だし、自省はしょっちゅうで、こんな境遇に陥ってしまうのも自己責任、自業自得だとの思考に逃れがちだ。それは何が問題であるかの追求を怠った、思考停止の状態であるともいえる。何もかもすべてが自分のせいさと言ってしまえばいっそ気が楽で、社会を覆うさまざまな不正、悪徳、腐敗を見過ごして、自分の好きな事柄のみに耽溺してしまえば、確かに他人のせいにしなくても済む。

 だが、そんな心の持ちようで音楽や読書に没頭するのは、音楽や書籍にたいしても不誠実な態度なのではないか。芸術は確かに人の精神状態を慰撫する効用を有するが、気の持ちようで世界が好もしくみえたとしても、それはただの現実逃避であり、錯覚であるに過ぎない。

 ぼくは最近、60年代アメリカ西海岸の、サイケデリック・エラと呼ばれる潮流から生まれた一連の傑作アルバムを好んで聴いていた。アーサー・リー率いるラヴの『フォーエヴァー・チェンジズ』、モビー・グレイプの『ワウ』、イッツ・ア・ビューティフル・デイの同名アルバムなどを。それらは確かに美しく、柔らかく、優しく、静かな音楽で、聴いている間ぼくは天国にいるような夢見心地になるのだけれど、だからといって今この世界を覆う悲しみや怒りを和らげてはくれない。ドラッグの垣間見せてくれる万華鏡のような光景は人工的で、儚い。耽溺している間はいいが、現実に生還した途端、夢の世界は雲散霧消してしまう。音楽は束の間の解放をもたらしてはくれるが、痛みの原因を解消はしてくれないのだ。

 ぼくに言わせれば、自省や自虐は痛みを緩和するためのもっとも楽な方法だ。 けれどもほんとうにみずからを鋭く疑い、穿ち、削る表現に出くわしたら、そんな欺瞞は通用しない。前置きが長くなりすぎた。ニック・ドレイクを紹介しよう。かれの遺した三枚のアルバムに、耳を澄ませてほしい。 

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 かれは声高に訴えない。苛烈なことばで社会を糾弾しない。それどころか苦悩を苦悩と表すこともない。歌詞の格調はまるでヴェルレーヌのようだ。けれども音楽全体を覆う濃厚な「翳り」は、この青年が苦痛のただなかにいることを示している。世界への違和感は名状しがたいものであるがゆえ、かれは今ある状態をできるだけ客観視し、事象を正確にトレースしようと試みる。その素朴な筆致と端正な詩の形式が、聴く者に痛みをもたらすのだ。

 

①『ファイヴ・リーヴス・レフト』

 たとえば2曲目の「リヴァーマン」。この4分の5拍子が交錯し、ディーリアス的なオーケストレーションが増4度の響きを強調する稀な楽曲だけでも、さまざまな解釈が可能である。ぼくの見渡したところ、この記事〈 sundayflute | blahs 〉での考察が、もっともニックの表したかった世界を日本語に翻訳しているように思える。ニックについての詳細な記事は、ざっとインターネットをめぐっただけでもたくさん発見できるから、ぼくがあらためて余計な講釈を垂れる必要もあるまい。

 B面冒頭の「チェロ・ソング」が、最初に触れた歌だった。そのときの感想は「とても牧歌的な曲だな」といった軽いものだった。そう、ニック・ドレイクの歌はとりたてて小難しいものではない。ニックの穏やかな声と正確なフィンガーピッキング。ペンタングルのダニー・トンプソン(ダブルベース)以下の控えめなサポート。まずはあまり深刻にならず、このファーストアルバムに接してみてほしい。何回かくり返し聴いていれば、いずれ「ウェイ・トゥ・ブルー」や「フルーツ・ツリー」といった、級友ロバート・カービーによる室内楽的な弦の響きにコーティングされた、より重厚で深遠な楽曲のとりこになるだろう。

 

②『ブライター・レイター』

 このアルバムでチェレスタやオルガンを奏でた(元ヴェルベット・アンダーグラウンドの)ジョン・ケイルによると、ニックがギルド製の12弦ギターを弾くと、まるでオーケストラのような響きを醸しだしたのだそうだ。フェアポート・コンベンションの安定したリズムセクションや、サキソフォンやピアノのソロといった、ジャズマナーを取り入れたサウンドは、三作品中もっともカラフルで、親しみやすいアルバムだといえる。

 けれどもニック・ドレイクの個性はアレンジに埋没しない。かれの歌とギターは薄い膜一枚で周囲の音響と隔たっているように思える。音楽的にはかい離していないのに。

 かれが街の情景を活写した「アット・ザ・チャイム・オヴ・ア・シティ・クロック」に耳を傾けたまえ。アコースティックギターで、これほど弾力性のあるリズムを叩きだせるギタリストは滅多にいない。これほどの腕前があるならば、通常は他のミュージシャンとのセッションを思う存分に楽しめるはずだのに、かれはそうしなかった。

 周囲は期待する。ケンブリッジ大学を中退したとはいえ、育ちがよく、礼儀正しく、長身でハンサムで、穏やかな性格の青年が、文学的な修辞を備えた歌詞の自作曲を次々に生み出していく様子に。だけどニックはプロモーションに消極的だったし、ライブ演奏もほとんど行わなかった。かれは専ら自らの創作にのみ情熱を傾けたのである。

 

③『ピンク・ムーン』

 そしてニックはついにアレンジメントという夾雑物を一切排し、自身の歌声とギター(部分にピアノ)だけのアルバムを制作した。冒頭の「ピンク・ムーン」は、かれの死後99年にフォルクスワーゲンのコマーシャルに使用されるほどポピュラリティのある楽曲だったが〈 Volkswagen 4 Cabrio TV Ad Pink Moon (Nick Drake) Commercial (1999) - YouTube 〉、その他は歌い手と聴き手が対峙することを要求する、切実で重い内容のアルバムとなっている。

 たとえば「シングス・ビハインド・ザ・サン」などは、それなりに編曲を施せばシングルヒットが可能だったかもしれない。しかしニックは、そういった虚飾を潔しとしなかった。ぼくはありのままの自分を曝けだす、だからあなたも真剣に耳を凝らしてほしいと、リスナーに相対を直裁に迫ったのだ。

 だから、このアルバムを聴くときは多少なりとも心の準備が必要である。けれどもいったんニックのつぶやきに身を委ねたら、奇妙な安息を覚えることも約束しよう。ほとんど無音の状態に近いギター独奏曲「ホーン」を聴いてごらん。中世のリュートのような響きに、この寡黙な青年の提示した虚無の中に無限の豊穣を見出すのは不可能ではあるまい。

 

 ニック・ドレイクは1974年11月に26歳の短い生涯を閉じる。生前かれは一般的な成功を得ることはできなかった。が、その音楽の普遍性は年月を重ねるごとに熱烈な支持者を獲得していく。死後いくつかの編集盤が編まれ、未発表曲も幾つか発掘されたが、多くを述べることは控えたい。

 ただ一曲だけ、これだけはどうしても紹介しておきたい。かれのレパートリー中もっとも悲痛に聞こえる、ニック・ドレイク流のブルーズナンバー、「ブラック・アイド・ドッグ」を。

 自己認識の塊であるという一点において、この歌をブルースと称すのにためらいはない。が、本場アメリカのブルースマンたちが語るブルースの強靭さに比べれば、あまりにも自己完結に過ぎ、ひ弱であることも認めなければならない。かれの精神の繊細さは生き馬の目を抜くショービジネスの世界においては、あまりにも脆かった。

 ブリティッシュ・フォーク/ブルースの世界で、ニック・ドレイクと共通する要素を持った歌い手を思い起こしてみよう。たとえばロイ・ハーパー。あるいはジョン・マーティン。いずれも変則チューニングを操り、吟遊詩人のような態で世の不条理を嘆く。しかしかれらは「しぶとい」。ハーパーの諧謔味やマーティンの自虐的なふるまい〈 John Martyn - Solid Air (Germany 1978) - YouTube かれが如何にニック・ドレイクを意識しているかは言うまでもない〉は、一般には呑みこみ辛い厄介なものだけど、じつはそのしぶとさが、かれら自身のコンスタントな活動を護っているとも言えよう。比してニック・ドレイクはあまりにも無防備だった。酒にも女性にもドラッグにも溺れることなく、ひたすら自己に向きあい、己を欺く護身術を弁えず、剥きだしでありのままの精神を抽出しすぎた。

 それは誰にも真似できないし、また真似てはいけない表現のありようである。

 けれども、だからこそニック・ドレイクの表した孤独は、人種や地域や言語の違いを飛び越えて全世界的に波及したのだと思う。なぜならそれは純粋培養された孤独であるから。英語を生半可にしか解せない日本人のぼくたちにだって、かれの孤独や絶望は容易く理解できる。歌詞に苦悩や痛みがまったく書き表されていなくたって、ニック・ドレイクが孤独の極みにあったことは、音楽を聴いた誰もが了解できることだ。

 

 そしてぼくは今日もニック・ドレイクのアルバムに手を伸ばす。それは心地よさばかりを約束する音楽ではない。むしろ痛みを倍化させる作用がある。だけど、かれの痛みを共有することで、少なくともぼくは、もうしばらく世の中の不正や悪徳、あるいは腐敗を見とどけてやろうという気持ちが湧きおこる。それは決して不幸な間柄ではない。ニック・ドレイクに出会えたことは、ぼくの生涯の宝物だ。

ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞した日に)