鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

80年代の精粋

 

ぼくが青年期に聴いた80年代の音楽の中から、いまだに好きでたまらない曲をいくつかあげてみよう。

f:id:kp4323w3255b5t267:20180531180337j:image

①Durutti Column “Sketch for Summer” 1980

ヴィニ・ライリーのワンマンユニット、ドゥルッティ・コラム。ファーストアルバムの1曲め。イントロの鳥の囀りとリヴァーブが聞こえてきたら、いつでもぼくはあの永遠に続くような夏の午後に回帰(Return of)する。

open.spotify.com

②The Sound “I Can't Escape Myself” 1980

典型的な英国産ポストパンクだが、いま聴いてもソリッドでクールだ。ワイヤー、スウェル・マップス等々こういうタイプのバンドは星の数ほどあったけど、その中でもひと際カッコよかった。

open.spotify.com

U2 “October” 1981

大御所U2にもルーキーの時代があったのだ。大物の片鱗はうかがえるが、まだ未完成のセカンドアルバムよりタイトル曲を。後のベスト盤には隠しトラックでラストに収録されていた。

open.spotify.com

④The Gist “Love At First Sight” 1982

ヤング・マーブル・ジャイアンツ関係だったかな。自主制作の7インチシングルはこういうヘタウマな(?)絵が多かった。内容も手作りの粗い感じ。でもシロウトくささが、切実さにつながっていた。

open.spotify.com

Scritti Politti “Faithless” 1982

85年のデジタル仕様になる前のスクリティ・ポリティ。グリーンの書く変化にとんだメロディーと哲学的な歌詞は一筋縄ではいかないが、この3連のソウルバラードは比較的わかりやすい。後の「ウッドビーズ」につながる路線。

open.spotify.com

⑥Ben Watt “You're Gonna Make Me Lonesome When You Go” 1983

のちにトレイシー・ソーンとエヴリシング・バット・ザ・ガールのコンビを組むベン・ワットの、駄作が皆無の傑作『ノース・マリン・ドライヴ』より最終曲の、ボブ・ディランボサノヴァ仕立てにした秀逸なカヴァーを。

open.spotify.com

Tears for Fears “Pale Shelter” 1983

これも後にビッグネームに成長するローランド・オーザバルとカート・スミスのコンビだが、出たての頃は繊細さを売りにした素朴なエレポップだった。青空に吸いこまれるようなサビの処理が既に巧い。

open.spotify.com

⑧Thomas Dolby “Screen Kiss” 1984

シンセポップの雄として一般に認識されているが、実際は過去の音楽に詳しいS.S.W.的な側面もあった。視覚に訴える映画のような音作りを認められ、翌年トーマスは(彼の尊敬する)ジョニ・ミッチェルをプロデュースする。

open.spotify.com

⑨The Blue Nile “Heatwave1984

スクポリ⑤、プリファブ・スプラウトと並んで、私的に80年代を代表する三大グループの一つ、ブルー・ナイルのデビューアルバム。ポール・ブキャナンの渋い喉は(先日ようやく苦手意識を克服した)トム・ウェイツをほうふつとさせる。夜の街の灯を描写する手腕が、とくに。

open.spotify.com

⑩Julian Cope “Me Singing” 1984

近年はしたたかな親父ライダーと化したジュリアン・コープも若い頃はポキンと折れてしまいそうなか細い青年だった。大亀の甲羅に身を隠すの図はシド・バレットを連想させる。転調をくり返すとりとめもない曲展開も、また。

open.spotify.com

 

はて、ぼくは1985年に何を聴いていただろう。ZTT?

 

David sylvian “Silver moon” 1986

言わずと知れた元ジャパンのリーダー、デヴィッド・シルヴィアンの二枚組『ゴーン・トゥ・アース』から、とりわけカラフルな楽想の「シルヴァー・ムーン」を。R.フリップ、H.シューカイなど大勢の大御所らが彼との共演を望んだ。

open.spotify.com

⑫It's Immaterial “Driving Away From Home” 1986

リバプール産のしぶとい(昨年も新譜をリリースしている現役)ユニット、イッツ・イマテリアル。彼らの描くシュールな世界はシャガール的だと評されるが、ぼくはむしろケルアック的なビートニク志向ではないかと思っている。

open.spotify.com

⑬The Lilac Time “Trumpets From Montparnasse” 1987

ティーブン・ダフィ率いるライラック・タイムはオーガニックなアンサンブルが魅力。ぼくはこのインスト「モンパルナスのトランペット」が好きで。Twitterに投稿したら、弟のニック・ダフィが「いいね」をくれた。

open.spotify.com

The Style Council “Changing Of The Guard” 1988

ポール・ウェラー、じつは好みではない。聴いていて面白く思えないのだ。が、この『コンフェッション・オヴ・ア・ポップ・グループ』は別。世評はどうだか知らないが、青春期に惜別を告げる、大人のための音楽である。

open.spotify.com

⑮The Christians “Words” 1989

クリスチャンズはR&Bマナーを備えた英国のコーラスグループ。マヌ・カッシェとピノ・パラディーノのリズム隊が、トラディショナルな楽曲に複雑な印影を与えている。80年代を締めくくるにふさわしい曲だった。

open.spotify.com

 

お気づきだろうか? 今回ぼくは英国勢に絞った。米国産を加えたら、トーキング・ヘッズからR.E.M.まで、この倍の数を紹介しなければならない。XTCエルヴィス・コステロみたいな大物も割愛した。また、最近デュラン・デュランカルチャー・クラブワム!などは、やはり凄かったのだなぁと再認識したこともお伝えしておきたい。

なお、「マッドチェスター・ムーヴメント」も視野に入っていたが、ザ・ストーン・ローゼズ等をぼくが聴いたのは、ずいぶん遅れて90年代に入ってからだった(当時はロックに飽いていた)。

 

最後に。4月27日に日本公開された映画『Call Me by Your Name(邦題:君の名前で僕を呼んで)』の音楽は、80年代の時代設定を強く意識させるものだ。あの頃に特有の空気や色彩が真空パックされているようで、観ていて眩しく、やたらと息苦しくなるのだ。


Call Me By Your Name | Official Trailer HD (2017)

蛇足。ピーター・キャメロン 著『ウイークエンド』(訳:山際淳司、装画:山本容子筑摩書房1996年)に描かれた、清潔で空虚な週末の終末と静謐を思い起こさざるをえない。

 

【追記】この映画もそうだな。

summerfeeling.net-broadway.com

 

 

 【関連記事】

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

プリファブ・スクポリ・ブルーナイルは三題噺のようなもの。

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

スクイーズやマッドネス、パブロック周辺にも言及したかったな。

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

SAW系は大の苦手だった。ブロンスキ・ビートは例外。

 

楽しいときも


ぼくは『「少年の心をもった音楽家」エルメート・パスコアール in やつしろハーモニーホール(5月10日)』というタイトルで、このブログに記事を書こうと試みた。

f:id:kp4323w3255b5t267:20180511055000j:image

が、書けなかった。

エルメートの音楽はまさに「翁にして童」と喩うべきものだった。ぼくはそれを「少年の心をもった」という視点で語りたくなった。というのも、こんな記事を発見して、ぼくは激しく動揺し、かつ憤ったからである。

koinomikata.com

この記事は、いわゆるSNS上のフェミニストたちによって槍玉にあがった。そうやって甘やかすから日本の男性は成熟しないのだという批判である。もっともだ、とぼくは思う。昨今の社会問題で、政治家や官僚やスポーツ指導者に顕著な「小児性」の発露を、この記事が指摘する「少年の心」に置き換えるのも、当然の帰結だと思う。

けれども、それはそれとして「少年の心」は、それほど否定されるものだろうか? と、ぼくは疑問に感じるのだった。

言葉を控えろ、もっと優しくしろと言っているんじゃない。その逆だ、もっと正面から「大人げない、子どもじみた中高年男性」をストレートに批判していいんだよ。そのほうが腑に落ちる。揚げ足取りのようだけど、「少年の心」を軸にするのは、違うんじゃないかと思うんだ。

エルメートのコンサートは、子ども連れで観るのも自由だった。会場内には6人のメンバーが繰り出す(ヴィラ・ロボスではないけども)ブラジル風バッハと呼びたくなる強烈なパルスに、喚声をあげる子どもたちが何人もいた。少年の心を持った大人が子どもの心を揺さぶっている。そのさまを〈すてきな光景だ〉と感じながらも、ぼくは頭の片隅に貼りついた、朝がた読んだ記事の内容を、ついぞ剥がすことができなかった。

どうして楽しめないのだろう。目の前に繰り広げられるすばらしいアンサンブルに没頭できないんだろう。なぜ、エルメートが未だにヤマハDX-7を使っていることに意識を奪われてしまうのだ。理由は使い勝手がよくて音色が気に入っているからに他ならない。どうでもいいじゃんか使用機材が何だって。そんな些事にこだわるから思考が肥大化して、本質を見失ってしまうのだよケイスケ。

いつも、ぼくは、そんな感じだ。

心の底から楽しめない。

エルメート・パスコアールの音楽は精神を解放する類いのものだった。けれどもぼくは(このブログのため)どんなレヴューをものにしようかと、思考をいちいち文字に置き換えていた。その邪まな、身についた習性が恨めしくてならない。

 

5月23日に、

福岡ヤフオクドームで、埼玉西武ライオンズ福岡ソフトバンクホークスの試合をみた。結果は2対1でライオンズの勝利という、元所沢市民の夫婦にとっては喜ばしい結果だったが、そんな楽しい時においても、野球観戦とはまったく別の思念が、再び頭をもたげてくるのだ。

《あゝここにいる四万人余の、はたしてどれくらいの人数が、政治に関心を持っているのだろう? やっぱり現政権を支持する層が多いのだろうか。このうち、選挙に必ず行くという有権者はどのくらいの割合だ? そして安倍内閣を批判している人は何人ぐらいいるのか.....》

と、圧倒的な大多数を前に、途方にくれている。

ぼくは野党支持で・体制に批判的で・やや左寄りな自分の属性を、特権的に位置づけていた。そして野球観戦に夢中な庶民は政治に関心がないものだと勝手に決めつけていた。さらに彼らにどう〈働き方改革〉の危うさを伝えればいいのか、なーんてエリートでもインテリでもないくせに教え導きたい気持ちを膨らませていた。なんて思い上がったやつだケイスケ!

f:id:kp4323w3255b5t267:20180524201645j:image

ネトウヨになってしまったお父さんの話を知っているだろうか? 実の子に向かって「オマエは○○人か!? 」とヘイトスピーチしたという、愚かな父親の話を。指さされ、罵られた子どもの心中察するにあまりある。たまらない気持ちになっただろうなぁ。

ぼくはネトウヨの正反対で、かなり反体制の立ち位置だけど、ひょっとしたら極端な思考に傾いてはいないかと、しょっちゅう自問している。この日本で暮らすのに、思想信条をさらすことはあまりにも危険で、変わり者の烙印を捺され、いつ社会からはじかれるか分からないから。穏便に、悟られないように、喋らずに、騒がずに、本音を隠して暮らさなきゃならない......

《あゝ、そうやって萎縮して、自粛することこそ、まさに体制側の思うつぼだのに!》

ぼくは楽しいときも陰険なことばかり考えているから、心の底から楽しめない厄介な性分なのだ。

と、ぶざまな終わり方だけども、このへんでタッチペンを置くことにする。

 

 

1997年発表のベスト盤、入門編に最適だ、聴くべし。

Grandes Mestres da MPB by Hermeto Pascoal on Spotify

 

『かぐや姫の物語』2013年11〜12月のツイートから

 

2013年11月23日、ぼくは足の指を骨折した。仕事を休んでいたが、家に居てもつまらないので、映画でも観ようと思い、近くのシネコンに行ってみた。

【11月25日】

①今から『かぐや姫の物語』を観ますね。では、しばし失礼。

posted at 12:58:34

②『かぐや姫の物語』、いま見終わった。
観客は30人くらいか。つまりガラガラだった。

感想は、書かないでおこう。

観たほうがいいと思うよ絶対。

posted at 15:44:26

③昨日ある方のツイートに貼られたリンク先の文章を読んで、俄然『かぐや姫の物語』を観たくなったわけで。前言撤回、やはり観たあとの感想を書いておこうと思う。

posted at 17:05:30

④『かぐや姫の物語』。謳い文句にあるジブリ史上最高の絶世の美女だとは思わんが、むちゃくちゃかわいい。

posted at 17:11:50

f:id:kp4323w3255b5t267:20180519005018j:image

高畑勲監督の作品は、説話的→説明しすぎ→説教くさい傾向があったが、今回の『かぐや姫の物語』は、雲をつかむようなお話になりかねないので、理詰めの演出が功を奏した、というかちょうどよかった。観客は物語を読み誤らずにしっかりと把握できる。

posted at 17:26:15

⑥従来ならばクサいと感じてしまう場面も、画の説得力で押し通してしまう。アハハと笑いながら山野を駆けめぐるふたり。放たれた矢が花束に変質してしまうくだり。さんざん使い古され、もはやパロディもされなくなった話法を、『かぐや姫の物語』は、これでもかと見せつける。

posted at 17:35:52

⑦観ているうちに誰しもが気づくメッセージ性の強さ。お約束ですからの言いわけなんか一切しない潔さ。ぼくは『かぐや姫の物語』を観ていて、絶対的権力(例えばそれは天皇制だ)に対する抵抗の意志と、GPSに代表される汎地球規模の監視システムへの絶望の、二つを感じとった。

posted at 17:54:05

⑧このくらいでとどめておこう。感想は人それぞれだから、ぼくとは違った見方でお楽しみください。
あ、音楽がよかった。久石譲の劇伴でもなく、エンディングの歌でもない、高畑勲監督が自ら作った「わらべ唄」と「天女の唄」が。旋法を識ってなければ書けない、優れた仕事だ。

posted at 18:01:37

【11月28日】

映画『かぐや姫の物語』の冒頭では「制作・氏家齊一郎」とクレジットされるが、なぜ、日テレの故・氏家氏が、「赤字でも構わない、金はすべて俺が出す」からと、高畑勲の映画にこだわり、支援し続けていたのかも、思想的背景を抜きにしては語れないだろう。

posted at 21:21:08

【12月5日】

午後3時か。
さて、宿題にとりかかろう。

posted at 15:04:11

①今年(2013年)の夏に『はだしのゲン』問題がありました。あの時少なからず散見したのが、「表現の弾圧はけしからんと思う。でも、それ以前に、あの絵柄がどうも受けつけない」という意見です。たしかに中沢啓治氏の太い描線と悪漢の形相は、発表当時の少年ジャンプの中でも、かなり古くさく感じました。a

posted at 15:11:22

②同様のことを、ぼくは高畑氏のアニメーション作品にも感じておりました。絵柄が苦手。表情のつけ方やキャラクターの動作が、現在進行形の「かっこいい」や「かわいい」とかなり異なってい、古くさく見える。アニメのモード=コードを逸脱した「感じ」に、なんとも居心地の悪い思いを抱いていました。

posted at 15:17:54

③古くささなら、盟友・宮崎氏のアニメにも見出せます。やーいやーいと囃したてる子どもら、いただきまーすと唱和する男たち。そういったステロタイプを、しかし宮崎氏は画力で場面を展開、つまり突破してしまう。ところが、高畑作品はそうはいかない。そこで立ち止まる。じっくり見せつける。

posted at 15:23:25

④高畑氏は丁寧に、それこそ子どもにもわかるように絵解きをする。ここは悲しい場面なんだと、キャラクターの表情と動作と背景の絵とせりふと、総動員で説明する。早い話が、お説教くさい。そこを宮崎駿は揶揄もしている「共産党みたいなことを」と(河出ムック『宮崎駿の世界』より)。

posted at 15:28:41

⑤さあ、第一のポイントです。ぼくが「感じた」ものの正体。それは作品全体を覆う隠しようのないメッセージの色。主張を正しく伝えることが第一義にあり、エンターテインメントとしてのアニメーションとして受けとるには重すぎる命題を、避けて通らせてはくれない。だからやっかいだなあと思いました。

posted at 15:35:28

⑥『ぽんぽこ』では自然・環境破壊を。『火垂るの墓』では戦争反対を、堂々と掲げている。娯楽のオブラートに包まない。それだけが高畑氏の作品ではないことは百も承知ですが、道徳の授業みたいなムードをぼくは敬遠していました。絵柄、とくに彼の指示による表情のつけ方は、まさにその象徴に思えたのです。

posted at 15:41:16

⑦いい訳めくのですが、ぼくは『山田くん』を観ていません。そこがミッシングリンクかなと思いますので機会を見繕って観ようとは思いますが……先を急ぎます。今回11/23に封切られた『かぐや姫の話』について。ぼくは足を怪我して、時間をもてあまして、たまさか観たのです。

posted at 15:45:18

⑧だから白状しますと、たいして期待もしてなかった。ジプリ・日テレ・電通等の広告代理店各社のメディアスクラムに反発もしてましたし。ただ、どうしてでしょう、なにか引っかかったのです。前日にみたツイートのせいかもしれません。画期的であると、アニメーションの概念をくつがえす作品である、と。

posted at 15:48:32

⑨最初の数分間は、やはり違和感を感じました。翁の、さも善良そうな表情やら、竹の子やーいと囃したてる童やら。子ども時代の体型やら、脚の描き方など、むかしの「サスケ」みたいじゃんと内心ケチつけながら観てましたが、そのうち、そんなことはどうでもよくなっていた。徐々にのめりこんでいった。

posted at 15:53:22

⑩その日(11月25日)に書いた感想が、いちばん正直な心に近いと思いますが、ともかく観おわった後は、絶賛する側に回っていた。では、その逆転した場面とはどこか?

posted at 15:59:25

⑪その場面こそ、あの予告編に垣間見れる1分間なのである。ぼくは、アニメーションであれほど「速度」を感じたことはない。なんだなんだこれはいったいと息を呑み、手に汗握った。こういう喩えを許してもらえるなら、あれはまさに「序・破・急」だった。そしてアニメがもっとも苦手にしていた「抽象性」を獲得していた。

posted at 16:04:26

⑫あとは、誰がなにを演じようが、物語がどう進行しようが、ぼくにとってはたいした問題ではなかった。月よりの使者の奏でる「天上の調べ」が、やや類型的かなと感じた程度である。ともあれ『かぐや姫の物語』は、ぼくが勝手に作り上げていた高畑勲像をこなごなに粉砕したのである。

posted at 16:10:00

⑬最後に。『かぐや姫』にまつわるもうひとつの大きなテーマは、「女性」。〈月〉そのものが女性の生理の暗喩である以上、避けては通れない。もちろん高畑作品は問題を回避せず、物語の中にしっかと刻みつける。ちゃんとせりふで説明するし、絵解きもする。が、嫌味にはならない。

posted at 16:19:12

⑭もしかしたらそれは「男性からみた女性」なのかもしれないから、女性から観た『かぐや姫』の感想を聞きたいところです。ただ、描写は最大限デリケートに扱われているし、典型的メタファーも巧い具合に機能している。教条的にもならないし、さりとてうやむやにもされていないと申し添えておきます(了)。

posted at 16:27:53

togetter.com

なお、この日の連続投稿は、<『かぐや姫』と特定秘密保護法強行採決>というタイトルで、togetterにまとめられている。騒然とした中の呑気な感想。

f:id:kp4323w3255b5t267:20180519012944j:image

今日(2018年5月18日)高畑勲氏の追悼番組として、『かぐや姫の物語』が地上波(日テレ系)で放映された。

ぼくは下掲の感想をツイートしようとして、

高畑勲氏の演出は、物語の全体から各場面の細部にいたるまで、どのような意図で描かれ・セリフが交わされているかが明確に示される。曖昧さは排除され、すこぶる論理的で誤解の余地は少ない。類型はともすれば説教に陥る危険はあるけども「観客が理解できること」が先ずは最優先される。すなわち解題……

途中でやめた。これとほぼ同じ感想なら5年前の初公開時に書いていたぞと思いだして。それでここに再掲し、再構成を試みた次第である。

ただ今回は後半の展開が5年前よりも心に残った。#MeToo 運動の興隆が、今年に入って世界中を揺さぶり続けている。性的被害を受けた人々が勇気を奮って沈黙を破る一方で、それに慄き、認識をアップトゥデイトできない(主に中高年男性)人々もいる。そうした今の社会情勢と『かぐや姫の物語』はリアルに連動し、共振していた。とくに御門(帝・ミカド)に後ろから抱きすくめられたときのかぐや姫の恐怖の表情 b たるや、凡百のアニメ映画の追随を許さぬ迫真の描写だった。この高畑勲の非妥協的な社会批評の姿勢は、たとえ氏が(2018年4月5日)彼岸へ旅立とうとも、今後ますます地上の現在を反映する鏡になるだろう、とぼくは痛感したのである。

 

 

 

 

追記

a: 記事中、「はだしのゲン」の絵柄について「古くさく感じて苦手だ」と触れているけれど、スマフォが主流になった今、あの太い描線と白黒のコントラストは、あべこべに訴求力のあるビジュアルとして、世代を超えて好まれているように思える。何がタイムリーで何がタイムレスかは次の時代が答えてくれる。

b: 引用ツイートの画像を参照のこと。

c参照記事2点。対照的だが、優れた論考。

d: ぼくは、自分の中にわだかまるモヤモヤとした感覚を、わかる形で明確に示してくれる作品だという、雪原 @ykhre さんが2015年に投稿した意見を見て共感する反面、新規の稿を起こせずにいるスランプ状態に苛立ち、拗ねていた。

自分の以前に書いた記事を読んで、ぼくは5年前より確実に文の切れが鈍くなり、思い切った意見を発せなくなっていることに気づいて、意気消沈している。人間は進化するばかりではなく、退化するものなのだ。

と、このネガティヴな投稿に呼応したようなツイートが目にとびこんだ。以下、@Ogi_Hong0504 さんの投稿。

かぐや姫の物語」録画しておいて今夜観ました。5年前の作品だけど初見。
衝撃的。愛おしい美しい温かい力強い荒々しい憎らしいばかばかしい愚かしい切ない狂おしい。こんなに素晴らしい映画だったとは。そして公開時の5年前より今、社会により大きな問題を提起しているのでは。

5年間に社会が後退したのか、それとも5年前には気づけなかった問題に気付けるようになったという意味で前進したのか。前進と後退はそう考えたらとても連続的な概念だな。後退したがゆえに「気付き」と言う前進がもたらされ、その前進が大きなうねりとなってやがて後退した考えをひっくり返すだろう。

高畑勲監督のご冥福をお祈り申し上げます。

それで、救われた、気持ち。

 

 

 

【追加】

スタジオジプリのプロデューサー、鈴木敏夫氏へのロングインタビュー。赤裸々に語られた当事者の証言(文春オンライン #1~#3まで)。これは必読!

bunshun.jp