鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

ストーンドオヤジの嘆き Stoned Uncle's Lament

 

レナード・コーエンが亡くなってしまった。

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ぼくには語るべき言葉がない。というのも、レナードはぼくにとって詩作の師であり、表現の指針であり、事象の度合いを測る物差しであった。 かれの歌からは多くを学んだが、創作への慎み深い態度、一つの詩曲をこしらえるのに数年を費やし、どの語句も揺るがせにできない頑丈な作品に結実する職人気質(かたぎ)は、ぼくの文章に決定的な影響を与えた。

だから別のアーティスト同様、軽々に語ることは不可能だ。あのアルバムが良いとか、あの歌詞の内容はどうだとか、論評する気持ちはまったく湧かない。よしんば語るにしても、かれの詩にこめられた哲学と宗教にかんする深い考察は、あまりにも高い塔のごとくであり、ぼくのような無学の徒が語るべきではないと感じる。ただ、ぼくに言えることは、レナードの歌は深淵な思想に基づくものではあるが、カントリーとフォークソングに根ざしたシンプルな音楽だよということだ。これだけハードルを高くしておいて、それはないだろうと自分でも思うけれども、本人のお経みたいな低音が苦手だという方は、ジェフ・バックリーの「ハレルヤ」なりジェニファ・ウォーンズの「ジャンヌダルク」なり、耳になじみの良いカヴァー曲から聴くことをお勧めする。

ひとつだけ指摘しておこうか。1990年前後にレナードが愛用していた灰色のキーボードはテクニクス製のポータブルキーボード(画像参照。機種名Technics KN1000)だった。ぼくも何回か使ったことがあるけど、操作しやすく頑丈で、音色に芯があった。レナードの傑作「歌の塔」のバックトラックは、ほとんどこれだけで制作されている。買っておけばよかったなあ。


Leonard Cohen - Dance Me To The End Of Love (Later with Jools Holland May '93)

 

語れないといいつつ、長くなってしまった。いつぞやも、

<斜に構えて「おめ〜ら政治とロックは別モノって馬鹿じゃねぇ?まぁ、俺は説明しないけどね」っていいながら長々と説明って……(後略)>

と当ブログ記事をdisられてしまったけれど(でも、ぼくは「馬鹿じゃねぇ?」なんて冷笑的な書きかたはしてないんだがな)、こと音楽について説明というか説教くさくなる傾向は、これはもう重症でして治る見こみがありません。それはとりわけロックに顕著で、自分の得意分野になると身を乗りだして力説しはじめるんですなあ。クラシックなど他のジャンルだと、もうちょい謙虚なんだけども。

例えば、レナード・コーエンが亡くなった数日前に、ハンガリーのピアニスト、コチシュ・ゾルダーンが死去した。

<コチシュは、ぼくがクラシックを聴きはじめたころ、ハンガリー出身の若手ピアニスト三羽烏としてシフ、ラーンキと並び称されていた。前のお二方(のツイート)が挙げたようにバルトークラフマニノフが印象的だった。「ヴォーカリーズ」が人口に膾炙したのは、かれの功績といっても過言ではない。カッコよかったよ。

とツイートしたんだけど、ずいぶん控えめでしょ?それはぼくがクラシック音楽を聴きはじめたのが20代半ばからで、しかも演奏家や指揮者やオケの差に無頓着だったからなのだけど、まあぶっちゃけ「クラシックロック」ほど詳しくない。なのであまり踏みこまない、いや踏みこめないんだな。

で、好きなジャンルのこととなると急に勢いづいてグイッと身を乗りだして、持論をまくしたて、異論・反論に神経質になる……ってこれはまったくオタク気質だよなあと自省していたところへ、例の「ポリコレ」談義がネット上に吹き荒れ、ぼくも一丁噛みした次第なんですが(詳細は語らない。書くなら稿をあらためる)、そこでモナーカさん(もとい)モーナカさんがリツイートしていたポンピィさんのこんなツイートに、胸をド衝かれたような思いがしたのである。

<だから、「ポリコレ」そのものが悪いんじゃないと思う。なんていうか、ローリングストーンズは好きだけど、ストーンズオヤジは嫌いみたいな感じ。>

そっか、だよなー、おれってことロックにかんしては思いっきりオヤジに成り下がるもんなあ。まるで森高千里の歌「臭いものにはフタをしろ!!」そのものじゃんか。あれがヒットしたころ、ぼくはそろそろ三十路へ突入するかしないかだったけど、あの歌詞にはカチンときたもんなあ。「ホント理屈は得意だね、おじさん」って箇所に腹の底からムカついた。だけど自分がそんな口の利き方をし始めていることに薄々気づいてはいたんだ。それカッコ悪いって強迫観念にとらわれて、そのころ流行りの「ロック」からは遠ざかっていた。

ぼくはこのブログを始めたとき、なるべく「ストーンズオヤジ」的な態度すなわち「この程度知ってなきゃ話になんねえよ」的な言いぐさだけはするまいと固く心に誓っていた。しかしぼくの記事を厭った(たぶん)若者は、ぼくの文章に漂う加齢臭を嗅ぎとったのだと思う。ぼくは好きな音楽を語るときに「情報を並べるばかりじゃ意味がない、なぜ自分が惹かれるのか夢中になれるのかを伝えなきゃ」と考える。それでその理由を詳細に書きすぎる。そこがウザいんだろうし、その臭みを消そうと努める身振りもまた痛々しいんだろうな。こういった自虐の心境が鬱屈すると、ぼくも「棍棒で殴られた」ような気持ちになるのかもしれない。いや分からない。とにかくぼくは「ストーンズオヤジ」に認定されたくない。自分の趣味を成立させている要件を普遍的なものとして他者に押しつける愚行をおかしたくはない。

と、さっきまでそう思っていたんだが……

ふう。気を鎮めなきゃ。ちょっとコチシュのアレンジしたラフマニノフの「ヴォーカリーズ」を聴いてみようか。


Zoltán Kocsis: Rachmaninoff - Vocalise, Op. 34 No. 14 [Arranged by Zoltán Kocsis]

 

たぶんぼくは、10代のころに培われた「ロック的な感性」で他ジャンルの良しあしを判断してしまうのだ。その悪癖をこじらせたまま50代に突入してしまったわけだが、どうせ治んないよと開き直っては(勝手に授かった)コーエンの名が廃るというものだ。厄介で頑迷なのは生来の性格だから仕方ないにせよ、せめて感情の高ぶるまま稿を起こすのは慎みたいと思ふ。

ところで、昨晩ひどい夢を見た。書くのが憚られるほど嫌な展開だった。終いには崖から飛び降りる破目になるが、海面がぐんぐん眼前に迫ってくるあたりで目が覚めた。気温は低いのに汗びっしょりだった。いま何時だ?と思ってiPhoneを掴んだまま、ツイッターのタイムラインをスクロールしていると、レオン・ラッセルの訃報が目に飛びこんできた。

《あー、やりきれないぜ親父どの》

ぼくの父は九月に亡くなったが、今夜ほど堪えた夜はない。母が入院しているせいもあるだろうけど、自分のヒーローたちが次々にあの世へ旅立っていく、自分の指針であり障壁でもある険しい存在が消失してしまう事実に酷く打ちのめされた。お悔やみツイートをいくつも目にしたが、肝心要のことが書かれていないのに歯がゆさを覚えた。テメーラ「ソング・フォー・ユー」ばっかりじゃんと無いものねだりをしながら、ぼくは最近ツイッターで自粛していたユーチューブ画像を二枚貼りつけた。「エルヴィス&マリリン」と「異星の客」。ぼくはピアノを弾く。中学生のころニッキ―・ホプキンスとエルトン・ジョン、そしてレオン・ラッセルの奏法に影響を受けた。中でもレオンは左ききだから低音の動きが機能的かつ雄弁で、コピーするにも手こずった。そういった個人的な経験を書くことは間違っているだろうか。なぜ誰も「タイト・ロープ」におけるピアノの多重録音に言及しないのだ。どうして『鬼火』における革新的な音響技術について語らないのだ。オノ・ヨーコはニュー・ミュージック・マガジン誌のインタビューで「レオン・ラッセルは今度のレコーディングで48チャンネルを使うそうよ。そんなに沢山のトラックが必要なのかどうか、私には分かりませんが」と内田裕也に語っていたし、遠藤賢司は「レオン・ラッセルの来日公演、観にいったけどつまらなかった。冷たい感じがした」と語っていた。手もとにないからどちらもうろ覚えだけど、そのくらいのウンチク書いたって問題ないだろう?その記憶を記録するのがインターネットの集合知ではないのか。出し惜しみするくらいなら、あやふやでも書いちまった方がいいんじゃないか。間違いならば指摘すればいいし、事実に反しているならば訂正すればいい。ぼくの貧弱な「知ってること」が一人でもいい、見知らぬ誰かに届けば幸いだと思いながら、ぼくは今このブログをしたためている。

終いになってどうしようもなくグダグダとストーンドしてしまったけれども、イワシだもんなしゃあねえやと笑ってくだされ皆の衆。“Roll Away The Stone!”


Leon Russell - Will O' The Wisp / Little Hideaway (1975)

 

 

【関連記事】 

秋刀魚の味

 

秋日和の空の下、小津安二郎最後の監督作品、『秋刀魚の味』のことを想う。

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平山周平(笠智衆)は、ひとり娘の路子(岩下志麻)を嫁に出さなければならないと決心する。なぜ嫁に出さないとならないかというと、同窓会で会った恩師(東野英治郎)が、娘(杉村春子)を「便利に使ってしまった」と悔恨している様子をみたからである。周囲は適齢期なのだからそろそろ結婚をと促していたが、周平は「まだ急がなくてもいいだろう」と思っていたし、路子自身も「このままでいいの」と言っていたので、結論を先延ばしにしていた。が、密かに想っていた兄(佐田啓二)の同僚の三浦(吉田輝雄)が他の女性と婚約したのを知るに及んで、路子は勧められていた縁談相手との結婚を決心する。

結婚するにいたる事情は様々だけど、このような「運命のひとひねり」が要因であることを『秋刀魚の味』は見事に捉えているのだが、葛藤は最小限に抑えられ、台詞としての抗いもなく、周平と路子は事実を淡々と受けいれる。それが予め定められていた既定路線であるかのように。だけど娘が嫁いだあとの自宅の玄関には今まで同居していた者の気配がなく、周平はその空間に、虚無を痛切に感じる。

秋刀魚の味』のあらすじをざっと記してみたが、これを書いたからといって、観る際の妨げにはなるまい。小津映画を観るということは、観ている時間そのまま映画の世界で過ごすことであり、映画の裡に暮らすことだ。私たちは身内となって路子の行く末を案ずる。あるときは(今の観点からするとハラスメントを連発する路子の上司である)中村伸郎となり、またあるときはウィルソンのドライバーを欲しがって妻(岡田茉莉子)に咎められる佐田啓二となり、路子の幸福に関与しようとする。しかし笠智衆の周平だけは、その「幸」のありかたに疑いを抱く。声明こそしないけれども〈それが本当に娘の幸福であろうか〉と。かの女の自由意志を蔑ろにしているのではないかと煩悶する。けれども当時の大人は身をよじって訴えはしない。それでいいのかと思い悩むが、結局それが娘のためには幸せなのだ、自分の許にいつまでも置いていては婚期を逃してしまうからと無理やり自分に納得させてしまう。戦後17年を経て、巡洋艦の艦長だった周平は、比較的に開明な思想を持つに至ったが、それでも世間の風潮、時代の標準に逆らいはしなかった。いや、異議を申し立てる気持ちすらなかっただろう。それでも〈これで本当によかったのか?〉という密かな思いが、寄せては返す波のように周平の胸を去来するだろう。映画のラストシーンは感情の喪失と空漠を暗示させる。

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なんと麗しい路子

2016年の現在に、この映画に示された時代背景をそのまま当てはめるわけにはいかない。が、『秋刀魚の味』に漂う、名状しがたい哀しみのようなものは、今の時代にも通底する問題をはらんでいる気がしてならない。私たちはいかに多くの約束事をお互いに交わしあい、制度を課しているだろうか。世間の枠組から逸れることをおそれ、自由意志をみずから抑制してしまうことがないと言い切れるか。周りはみな善人なのである。善人が善意を持って習慣の維持に努める。習俗、その不可視の柵が私たちを囲っているのだと示したこの映画は、腑を噛みしめるとほろ苦い『秋刀魚の味』がする。 

 

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【参照記事】

2018年に名監督・小津安二郎の“狂気”がバズった理由

bunshun.jp

 

平和から遠く

 
トランプ勝利の報を聞いて、それほど動揺していない自分が不思議である。

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ただ、予感はあった。それは欧米の著名アーティストたちが挙ってトランプを否定していたときに感じたことだ。かれかの女らはトランプの下品さ、偏狭さ、思慮のなさを槍玉にあげていたけれど、そのドナルドに対する嫌悪の情がむき出しになった声明を読むにおよんで、これは相当ヤバいぞと思わざるを得なかった。とくにロバート・デ・ニーロの動画メッセージには快哉をさけぶ向きも多かったけれど、ぼくは首を傾げた。

《これは負けるのではないか……》

たとえばブルース・スプリングスティーン。かれが“River”で描写したアメリカの貧しき人々。生活の困苦に喘ぎつつも、日々を強く生きていこうと歯を食いしばる人々は、ヒラリー・クリントンではなく、ドナルド・トランプに一票を投じたのではないか。そしてボス(スプリングスティーンのことだ)の真摯なメッセージは、かれらの意識に届かなかったのではないか。選挙結果だけで判断するのは早計だけれども、ぼくには数多のロックスターたちが、エスタブリッシュメントとして遇される現在において、庶民の気持ちを代弁する役目を失ってしまったように思えてならなかった。

ぼくはドナルド・トランプをこれっぽっちも支持できないし、かといってヒラリー・クリントンに期待もしなかった。バーニー・サンダースのことは大好きだったけど、それはかれの示したような道筋が日本に援用できないものか、との視点からだったように思う。いずれにせよ選挙権はアメリカ合衆国の国民が有するものであり、ぼくは関与できない。対岸の出来事を眺めながら、ああだこうだと論評する気にはとてもなれない。むろん他人事ではない。米国大統領が変わるということは、否応なく国際社会に影響を与える。とりわけ日本に及ぶそれは、前代未聞ともいえる困難なものだろう。トランプの就任によってTPPが無効化され、在日米軍が縮小されるなどといった楽観論を唱えられるほど、ぼくはおめでたくない。事態はより険しくなるだろう。しかし既に賽は投じられてしまった。いまさらこの結果を覆せやしない。

そもそもぼくには、他国の政治に口出しするほどの権利も・余裕も・資格も・手段もない。あるとすれば自国のみである。自分の住まう国の状況がかくも酷いなか、アメリカよどうした、頼むからまともになれと念じたところで、何も変わりやしない。ぼく(たち)にできることといえばただ一つ、今の・日本の・政治を、選挙によって変えることである。そのためには夢みがちな目を覚まさなくてはいけない。理念のみをいたずらに弄ぶばかりでは、現実的な利得と権益に敗北してしまう。学ばなければならない。トランプを選んだアメリカから、EU脱退を選んだイギリスから。間違うな、真似るのではない。現状認識をしっかり持ちつつも、平和で過ごしやすく、争いのない世界を手に入れるために、足腰を踏ん張り、持ちこたえ、跳ねかえすだけの胆力を備えることだ。絵空事ではない、地に足の着いた話をしよう。まずは自分のやれること、自分のできる範囲でのことをしっかりと務めておこう。今ぼくが言えることは、その程度である。気の利いた提言なんかできない。ただ、平和から遠くなる世界を、なんとかして食い止めたい。そのためにはどうすればいいかを、考える契機となった今回の大統領選であった。

 

 

【参照】

 

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

 

【追記】

デ・ニーロのときと同じことをメリル・ストリープのスピーチにも感じた。その主張と勇気には1ミリの疑いも抱いてないけれども。(1月10日)

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