鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

ソロ

 

かつてギターソロが苦痛だった。のけぞって弾かれるとうんざりしていた。いつまで演ってんだ、適当に切り上げろと内心ぶつくさ言っていた。ジャズのアドリブも嫌いだった。そもそもインプロヴィゼーションという構造自体が予定調和的に感じたからだ。だったら最初からコンポーズすりゃあいい、きちっと嵌めこめば冗漫さに焦れることもない。ポップスだと尚更そうだった。16小節でコンパクトに収まったソロが合理的で賢いアレンジだと思っていた。いや、思いこんでいた。

が、最近はそのへんがすっかり緩くなり、長々としたギターソロもアリだというか、むしろ面白いと感じるようになった。それはたぶん00年あたりに「ジャム」という概念がもたらされたころからかと思うが、各パートがどのように機能するかに注意を払うようになってからは、ガッチガチにコンポーズされた楽曲よりも、適当に余白のあるほうがスポンテニアスなテキストだと思えるようになっていった。

さて、ギター(に限らず楽器全般でもいいのだが、ここはエレクトリックギターに限定したほうが話が早い)ソロを聴いていると、ぼくは文章みたいだなと感じる。会話そのものではなく楽音に翻訳されたお喋りという意味で、ソロの音色にフレーズに、文章と共通した要素を見出すのだ。

音数の多さ(詰まっていればいいってもんじゃない)、音色の透明度(透きとおっていればいいってもんじゃない)、運指の速さ(速けりゃいいってもんじゃない)、リズムの正確さ(クリックぴったりならいいってもんじゃない)、抽斗の多彩さ(単調なのがダメだとは一概にいえない)、丁寧な仕上がり(几帳面なだけなのはいただけない)。

ね、文章と似ているでしょ。

弾きだされた音を語句に、フレーズを文体に置き換えてみればいい。

「やたらとテクニック偏重で、速いスケールの上がり下りやタッピングやアーミングなどを駆使する」ギターソロを聴くと、ぼくは「やたらとデータを重視し、小難しい専門用語やレトリックで煙に巻く」文章を連想する。

指だけはやたらとマメるけれども、そのじつ何も語っていない、ただただ人を圧倒したいだけの、意味のない技巧のひけらかし。そういうソロはつまらない。

アウト・オヴ・スケールを熟知し、音階の抜け道を幾通りも示すソロに、ボキャブラリーが豊富だなと感心する一方で、もう少し素直な道を辿ったほうが良かないか?と思うこともしばしばで。

好みの問題でしょと言われればそれまでなんだけど、お利口さんなギタリストが増えすぎた昨今、オレはオレの道を行くのみの武骨なソロに肩入れしたくなるのは、コレやはり老化現象なんだろか?

テクニックがあるに越したことはないけど、技巧に溺れすぎたソロはやっぱり薄っぺらく感じるんだよね。

もっとじっくり語りかけておくれ。たくさん喋らなくてもいい。訥弁でいいんだ。それさっき言ってた、みたいに同じフレーズを頻発してもかまわないんだよ。きみが何を言いたいのかが真っ直ぐに伝わるソロが聞きたいのさ。

誰かのこしらえた文法から脱却するには、自分自身の文法を確立するしかないんだ。世の中には他人の真似ごとが溢れている。ぼくの聴きたいのは「第ニのジミ・ヘンドリックス」や「ウェス・モンゴメリーの再来」じゃない。唯一無二の存在であるきみ自身の文脈なんだ。

必要以上に難しく考えなくていい。自己認識は大切だけど、自縄自縛に陥らず、自然なわたしを奏でてほしい。そういうソロを、ぼくは聴きたい。 

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朝に開いた柱サボテンの花はすぐさま夕に萎んでしまう。

きみだけの奏でられるフレーズがきっとあるはずだ。人の数だけ文体があるように。

 

 

【追記】

具体例をとのリクエストがあったので、これを掲げておきます。


Rory Gallagher Walk On Hot Coals LIVE

ロリー・ギャラガー。74年の(かれの出身地である)アイリッシュ・ツアーの模様を収録したフィルムである。映像としても素晴らしい。当時のアイルランドの切迫した状況がリアルに伝わってくる。観客の熱も凄いが、メンバー4人が一丸となった演奏と、ロリーの塩辛いヴォーカルと、文字通り語るようなギターソロに目が釘づけになる。きっとかれは演奏そのままの人柄なのだろう。意思と指先に裏切りがない。そう感じさせるほど(普通なら生じるはずの)本人とギタープレイとの間にギャップが見つからない。

ロリー・ギャラガーについては愛情たっぷりで詳細なページが存在するので、上書きの愚は避けたい。興味を持たれた方は以下をご覧ください。

? ロリー・ギャラガー ファンの個人サイト [Checker & Blues] for Rory Gallagher

昨今のギタリストで、ロリー・ギャラガーに匹敵するほどエモーショナルな奏者がいるなら、ぜひご一報ください。必ず聴きます。

 

 

「神に誓って」フランキー・ヴァリ、記憶を頼りに歌った「瞳の面影」

 

フランキー・ヴァリ、1975年発売のアルバム“Closeup"は、前年にヒットした“My eyes adore you”(邦題:瞳の面影/全米1位)を含む、起死回生の一打であった。

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フォー・シーズンズのリード・シンガーとして、ソロ活動も含めて長く全米ヒットチャートを賑わせていたフランキー・ヴァリだったが、70年代に入るとレコードの売り上げが伸び悩む。が、イタリア系アメリカンはへこたれない。モータウンで録音したマスターテープを自腹で買い取ると、持ち前のガッツでレコード会社に売りこみかける。そして新興のレコード会社、プライベート・ストックの<ラリー・ウッタルは、テープを5回巻き戻して聴き続け、「この曲が欲しい」と言った(フランキー・ヴァリ『瞳の面影』/矢口清治氏のライナーノーツより)>のである。そう言わせたのはもちろんフランキー自身の情熱もあろうが、ボブ・クルーとケニー・ノーランによる楽曲の完成度に尽きるだろう。それほど「瞳の面影」はよくできたポップスであり、そののちスタンダードになろだろう「格」を備えていた。

聴いてみようか。

何といっても歌詞がすばらしい。1番で歌われる学校時代の甘酸っぱい回想。

Carried your books from school
Playing make-believe you're married to me
You were fifth grade, I was sixth
When we came to be

Walking home every day over
Barnegat Bridge and Bay
Till we grew into the me and you
Who went our separate ways

そして2番では大人に成長し、成功の階を上った男の苦い述懐が歌われる。

Headed for city lights
Climbed the ladder up
to fortune and fame
I worked my fingers to the bone
Made myself a name

Funny, I seem to find that
no matter how the years unwind
Still I reminisce about the girl I miss
And the love I left behind

聴きながら読んでみてほしい。あえて訳さなかった。この短い曲の中に、一編の物語が含まれている。一言一句も揺るがせにできない歌詞だ。そして、ことばの中に潜んだ微妙なニュアンスを抽出するフランキーの並外れた表現力に気づいてほしい。かれが発する、「本」「学校」「毎日通った」「バーガネット橋」「別の道」「街の灯」「名声」「おかしいな」「過ぎ去った」「少女」という種々のことばに喚起される映像を。

 

ぼくがフランキー・ヴァリの名前を初めて知ったのは、リッキー・リー・ジョーンズのアルバム『パイレーツ』に含まれた「リヴィング・イット・アップ」を聴いてからだ。

Rickie Lee Jones Living It Up - YouTube

歌詞の内容からジェームス・ディーンやみたいな風貌をイメージしたが、どちらかといえば顔立ちはルー・リードに近かった。さらに言うならサブちゃんを連想した。いや、実際に北島三郎をみたときに、フランキー・ヴァリみたいだなと感じたんだけど。 

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

 

ところで、ぼくが“My eyes adore you”のシングルを買ったのはいつだったかしら。ずいぶん昔のことだから覚えていないんだけど、白状すると「君の瞳に恋してる」と勘違いして買ったんだよね。

ボーイズ・タウン・ギャングのヴァージョンのほうが日本では有名だろうけど、やっぱりオリジナル版があってこその“Can't Take My Eyes Off You”だと思うな。

 

さて、「瞳の面影」の成功と並行して、本家もふたたび快進撃をはじめる。この時期のフォー・シーズンズは音が溌剌としていて、聴いていて心地よい。代表的なナンバーを2曲ほど紹介しよう。

Who Loves You”のPVは、ザ・フーの“Who Are You”によく似ている。

The Who - Who Are You? - YouTube

どちらが先かはわからないが、この時期、2組のバンドは同じツアーでステージを共にしている。影響し合ったと考えてもよいだろう。つけ加えれば、フォー・シーズンズザ・フーと比べても遜色ないポテンシャルを持つ強力なライブバンドだった。

Frankie Valli And The Four Seasons– Reunited Live 1980 (Full Album) - YouTube 

 

ゲリー・ボルチdrとドン・チコーネbのリズムセクションは強力。コーラスワークは鉄壁。この「1963年12月(あのすばらしき夜)」ではボルチがリードヴォーカルを務め、ヴァリは要所を抑えるにとどまっている。親分は若い衆を温かい目で見守っているが、じつはフランキー、<1970年代、ヴァリは耳硬化症に悩まされ、1970年代後期は耳ではなく記憶を頼りに歌っていた>のである。(80年代には治癒。< >内はWikipediaより)。

On Stage Frankie Valli and the Four Seasons 1978 - YouTube

 

そのハイトーンを駆使して、60年代に数多のヒットを放ったフランキー・ヴァリ。その後もかれは、映画『グリース』のテーマソングを大ヒットさせるが、冒頭に掲げた『瞳の面影』は、駄曲がなく撓みのない構成と、東西腕っこきのミュージシャンを惜しげもなく使った豪華なレコーディングと、チャーリー・カレロの華麗なるアレンジメントとによって、誰にでも自信をもって勧められる傑作である。

そしてこのアルバムには、レコードB面オーラスに“Swearin' to God"(邦題:神に誓って/全米6位)が収められており、そのことがさらに作品の評価を高めている。

ディスコ時代の幕開けを告げる、ポピュラー音楽史的にも重要なナンバーだけど、ただ踊らせるのを目的とした他とは違って、40年の時を経ても鑑賞に耐えうるクオリティが保たれている。Youtubeには数多くの “Swearin' to God” がアップされているけれども、いちばん音質がクリアーだったのは上掲のコレだった。あーもう説明ァぬきだ。10分間の法悦境に浸ってくれ兄弟!

 

……なあ、信じられるか?これが記憶を頼りにした歌唱だと、にわかには信じられない。まさに神がかり的じゃないか。

 

ケニー・ノーランは佳曲を書けるSSWだが、ぼくはリズミカルなコレが好き。

Kenny Nolan - You're So Beautiful Tonight (1979) - YouTube

 

 

【必読】 

 

フランキー・ヴァリフォー・シーズンズは、この書を抜きにして語れまい。綿密に編まれた確かな情報に驚嘆する。すべてのポップスファン、いや音楽ファン必読の書である。

 

なあ、なあ? ですます

 

30分で手短に話すよ。

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いろんな価値観がある。思想信条は人それぞれ違う。同一はまずあり得ない。ぼくはそれを前提に相互理解を求めている。

説得したいわけじゃない。考えを改めろと迫っているわけでもない。だのにきみたちはどうしてそう頑ななの。もう少し余裕を持って答えてくれないか。

簡単に結論づけて、勝手に見切りをつけて、それで勝っただの論破しただの思ってンならそりゃ大間違いだ。

寸止めしたのが分からないか。誤謬の指摘を避けたのに気づかなかったかね。ぼくはとどめを刺さなかった。それは優しさゆえじゃない。考える余地を残しておくためさ。決裂すれば忘れてしまうだろ?忘れてしまえないよう、あえて留保したんだよ。

きみの、そうだなA君にかんしていうなら、きみの根本的な誤りは三権分立を理解していないところ。きみが言わんとしているのは即ち立法の解体だ。課題を解決するのに人の介在が邪魔だと言っている。合理性を極めれば、行政の目標が達成するとでも思っている。甘いよ。社会はきみのようなお利口さんばかりじゃない。ぼくみたいな莫迦のほうが多数を占めるんだ。その莫迦どもを効率よく働かせればよいという、きみのビジョンとやらは独裁制ときわめて近しい。きみの思考からは衆愚への幻滅が透けてみえる。でも、そこを指摘したらきっと決裂するでしょう。だからぼくは明言を避けた。きみが決定的に拗らせないよう、あやふやに疑問を呈しておいた。

さてB君、きみの国防論もまた一方的だ。きみが守りたい対象、協調したい国、敵対してもかまわない国や地域、それら全部がことごとく為政者の都合のよいようにカスタマイズされている。しかもきみは国家と「私」を内面化・同一化しているから、そこから離れた客観的なものの見方を備えられないでいる。ぼくは訊ねたね、戦う口実を探しているのかと。上から目線だと感じただろうが、やんわりとたしなめたつもりだ。ねえ、どうしてきみは指揮官みたいな思考をするの。歩兵の立場に立ってものごとを考えられないの。ことば使いこそ丁寧だけれども、きみの考えかたは短兵急だ。危なっかしいよ。だからぼくは最後の問いに答えなかったのさ。きみがもやもやとするように。むしゃくしゃした気持ちでいられるように。「知らないんなら自分で調べな」と。

ああ、ぼくだってむしゃくしゃしたさ。当然だろ。あなたの考えは◯◯みたいだねと斬って捨てれば溜飲も下がる。でも、かかる問題を簡単に腑に落としてはダメなんだ。自分の考えに間違いはないか、行き過ぎや思い上がりはないかを検証するには、ぼく自身も違った角度からの考えを進めなきゃならない。それはシンドい作業だけれど、サボれば後々ツケがまわる。自分と反対側の意見に耳を傾け、妥協点や打開策を考えるのは大事なことだ。アウフヘーベン止揚)とまでは行かずとも、相互理解の端っこを掴むところまでは何とかたどり着きたいじゃないの。

だってA君、エリートである)きみが日々抱える鬱憤は(かつてのぼくのようだし、今もなお自分の中に澱む昏い感情だ。そこは素直に認めたい。だからでき得る限り弱みをさらした。きみの不躾なボディブローを受けるために「自己欺瞞」というガードを緩めて。

そしてB君、きみの威勢のよい口ぶりは、ぼくの周りにいる何人かにとてもよく似ている。だけど現実の世界では、お互いにうまく調節しあわなければならない。ぼくのやや左な政治的スタンスをかれらは危険とみなすだろうか。それともただの、平和ボケのお気楽なオッサンだと笑うだろうか。

どちらでもないように思う。中・韓を蔑み、日本こそが最高と思いこむ(それが排除の論理だとは気づかない)人たちにも、家庭や恋人があり、夢や希望もある。そんな簡単に、紙くずをゴミ箱に捨てるように人間関係を断ち切ることはできない。なぜなら同じ庶民であり市民であり大衆であり……仲間であるからな。

愚かしさなら五十歩百歩さ。ぼくの中にもヒーロー待望やポピュリズムへの傾倒が無きにしも非ずだから。そこは自覚しておきたい。自虐的になり過ぎず、だけど己に厳しく。きみたち若者は旧いOSをどんどん新しいのに交換すればいい。ぼくの根っこの部分は変わらない。OSはもう交換不可能だけど、ガラクタなりに何か気がついたら、随時ヴァージョンアップしていこう。それでも目障りならば、どうか無視して先を進んでくれ。

その間ぼくは、お花畑を守っている。