読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

ノンポリ野郎の配達

 

f:id:kp4323w3255b5t267:20140227073348j:plain 


 正確に記しておこうと思う。20年ほど前だと書いたが、そこまで昔ではない。1998年の6月から2001年の9月まで。だから、16年ほど前のことだ。

 ぼくは、Y運輸エキスプレスの契約社員だった。


 午前5時に起き、午前6時半に司町の事務所に到着し、仕分けされた荷を台車に積みこみ、午前8時きっかりに配達に繰りだした。

 大手町・丸の内エリアになった理由は、当時の所長の判断による。

「あなたの目指している音楽や文学が、どんなものかはわからない。だけど、日本経済の中枢を垣間見ることは、将来の糧になると思うよ」

 ぼくはすでに30代の後半だった。体力には自信があったが、社会経験に乏しかった。そのことを見抜いてのことだったのだろうと、いまでも感謝している。

 司町から大手町まで10分、台車を転がしてゆく。いまではすっかりお馴染みの、カバー付き台車の配達だが、当時は最近のものとは違って、上蓋のカバーもなく、側面を囲っただけの、お粗末なものだった。書類が雨で濡れないように、透明のビニールカバーで覆いながら、ぼくは大手町のビル群を、アレグロで駆け抜けた。9時までに必着の書類が20件ほどあった。1時間弱で20件は、なかなかタフな数字だったが、それでもコースを工夫し、移動のロスを最小限にとどめ、窓口から窓口へ、デスクからデスクへ、『さらば青春の光』のジミーのようだなと独りごちつつ、一軒一軒、配達先をつぶしていった。

 デフレの影響と、IT産業の勃興で、大手町は大きく様変わりしていた。破たんした旧山一証券が、メリルリンチの日本総代理店に替わり、高層ビルのいたるところに、○○通信といった名称の、きらびやかなオフィスが開設されていた。その激しい変遷を、ぼくは肌で感じ取っていた。

 その頃ぼくは、携帯電話を持たなかった。連絡がし辛いとドライバーに不評だった。お客さまに文句を言われたこともある。だけど、頑なに拒んだ。携帯電話に代表される新興IT産業の華々しさや、起業家たちの佇まいに、反感を抱いていたのも、理由の一つだった。

 そんな偏屈ゆえにか、アーバンネットやファーストスクエアなどの新しいビルよりも、旧いビルの方に愛着があった。旧・丸ビルはすでに解体され、いまの丸ビルが着工を始めていたが、もう一つの旧い「新丸ビル」は、まだ健在だった。小津の映画にでてくるような、むき出しの空調パイプや、大理石や御影石の階段やエントランス、意匠を凝らした手すりや門柱、硝子戸の扉などが好もしかった。かつて日本一長いと称された大手町ビルや、チッソの本社が入っていた東京ビルも、ぼくのお気に入りだった。明治生命ビル旧館になると、さすがに歴史的建造物の趣きが勝っていたけれど。

 ビルの話題は尽きないが、閑話休題

 9時を過ぎるあたりで、ぼくは大手町から丸の内に移動した。丸の内2丁目を占める、Mの頭文字のあるビル群へは、わけなく中にまで入ることができた。当時はいまほどセキュリティーが徹底しておらず、宛先のデスクまで直接届けることができたのだ。顧客もまた、それを望んだ。何人もの商社マンから、「ぼくのところへ9時までに直接届けてくれる?」と訊かれた。そんなお得意先のひとつに、M商事の○階フロアがあった。

<M商事には、正式な名称は忘れたが、武器を輸出する課が、確かに存在した。それぞれの部署の天井には、プラスチックの掲示板がぶら下がっており、北米A、北米B、中東・アフリカ、アジア・オセアニア、欧州・ロシアと、担当地域のチーム名が記されていた。タスクフォースという名前の「島」もあった。

 ぼくが配達した先のデスクに置かれていた黒い四角錐には、白文字で「戦車担当」と書かれていた。>

 当時はあまり気に留めていなかったけれども、今となってみれば、ずいぶんあけすけだなあと思う。そのころのぼくといったら、政治経済にはまるで疎いノンポリ野郎で、Mグループのビル群に漂う質実剛健な佇まいを、むしろ好んでいたくらいだった。

 10時半すぎになると、大手町に戻る。線路を潜った八重洲口方面へ向かい、日本ビルの地下にあるマクドナルドで、60円のハンバーガーを買い求め、立ち食いするのが習慣だった。ワゴン車のドライバーと合流し、さらに数十件の書類をもらう。これが午前中に捌く、残りの分だった。


 野村総研のビルにもよく通った。ぼくがよく配達する先には、リチャード・クーとの宛名があった。入口のインターフォンで呼び出すと、大柄な本人が必ず現れ、ご苦労さまと言葉をかけてくれた。だから経済評論家のリチャード・クーさんには、悪いイメージがない。後年、かれが過剰な規制緩和に警鐘をならしたときは嬉しかった。

 同じような経験では、亀井静香さんのことがある。パレスホテルの一階サロンで、亀井静香の絵画の個展が開催されていた。初日でごった返す人並みを掻き分けていった。誰に書類を渡せばいいか、かいもく見当がつかなかった。右往左往していると、座の中心で歓談していた、当の亀井静香氏が、おいでおいでをし、ぼくを招き入れたのだ。

「悪いね。ん、なんだ、ここにサインすりゃいいのかな」といって、誰かボールペン持ってこいと叫んだ。あわてて秘書らしきが駆け寄ってき、伝票をひったくってサインをした。

 人の心はたやすく情に流れる。親切に触れると、心が傾くようにできている。

 たったこれだけのことで、ぼくの裡にあった、自民党幹事長のコワモテイメージは、もろくも崩れさった。亀井さんはいい人だ、きっと庶民の味方だと感じ入ってしまった。そして後年の氏の活動、とりわけ死刑廃止の論を唱えたことで、その直感が間違っていなかったと、やはり嬉しい思いをしたものだ。

 そのように、配達していると、いろんなことに出くわす。その代表的なエピソードが、正月に書いたTwitterで反響を呼んだ、北島三郎氏との邂逅である。

<十数年前Yで働いていたころ、配達先の東京駅で北島三郎に声をかけられたことがある。あのよく通る声で「お疲れさん!」と肩をたたかれたのだ。

 それから北島三郎は、ぼくの抱えていた荷物をおもむろにのぞきこみ、箱に描かれたイラストを見て、「お、おじゃる丸じゃないか!」と顔をほころばせた。ぼくは「おじゃる丸グッズ」を八重洲地下街NHKショップに運んでいる途中だったのである。

「キミ知ってる? 俺はおじゃる丸の主題歌を歌ってるんだよ」と北島三郎は言った。ぼくは「知ってますよ。子どもが好きでよく一緒に観てますから」と答えた。するとサブちゃんは本当に嬉しそうに何度もうなずいて、「頑張れよ!」と背中に活をくれて新幹線の改札へと颯爽と向かうのだった。

 北島三郎は、とても小柄な人だった。フランキー・ヴァリを、ぼくは連想した。サブちゃんの周りには3、4名の護衛がいた。みんな体型ゴツくて、全身黒づくめだった。>


 もちろん嬉しいことばかりではない。へこんだことが、何度もあった。しかしそれは、自分のしでかした過ちだから、時が過ぎれば、いやな思いも風化する。ただ、最近は妙に、サンケイビルのことを事あるごとに思いだす。

 サンケイビルが、まだ旧いビルだったころには、M商事同様に、社屋の中を自由に行来できた。午前の産経新聞社のデスクは、がらんとしており、眠たげな目をした記者が、ところどころにぼんやりと座っていた。ぼくはよく最上階の「正論」編集部に配達していた。「正論」の編集員はみな年配で、白髪は一様に長く、くたびれた背広を着ていた。部屋に入るといつも、タバコの煙が充満していた。

 ぼくは産経新聞社に、とくべつ悪いイメージはなかった。ビルの入口に設えられたサックスを吹く男の像(ジョン・コルトレーンがモデルらしい)のそばで一服したり、掲示板に掲げてある紙面を斜め読みしていたくらいだから。ただ、「産経抄」を毎日読んでいるうち、さすがに「あれ、おかしいぞ」と思いはじめた。その疑念が、どこから湧いてきたのか、そのころはまだ、明確ではなかった。ただ最初は、「日の丸がへんぽんと青空にはためいていたのである」みたいな文体を、滑稽に感じていた程度だった。

 さらに、サンケイビルの壁面にぶら下がっていた「日本よ自信を取り戻せ」という、檄文みたいな垂れ幕にも、複雑な気持ちを抱くようになった。

《確かにバブルが弾けてから数年、日本は自信を喪失しているのかもしれない。だから取り戻せというのは、わかる。けれどもなんだか釈然としない。この違和感はいったいなんだろう?》

 配達しながら、幾度となく考えた。大手町ビルの本屋には、福田和也の本が平積みされていた。手にとって読んでみると、「日本の町並をこんなに醜くしてしまったのは誰だ!」と勇ましいことが書いてある。主張はわからなくもなかったが、それにも違和感を抱いた。

 当のサンケイビル前の交差点では、共産党員がビラを配っていた。ぼくは暇なときにビラを読むのが趣味だったから、もらおうと思って、何度も往復した。しかしかれらは、決してぼくにビラを渡さなかった。立派ななりをしたサラリーマンだけに配っていた。勇気をふるって直接いいに行った。ぼくにもビラをくださいと。

 すると共産党員は胡散げな眼差しをむけて、ぼくにこう言い放った。

「読むのかね?」

 ぼくは労働者だった。労働者のつもりだった。しかしかれらは、Y運輸の制服を着た労働者を見くびった。だからそれ以来、どんなに主張が正しくて清廉潔白でも、根底の部分で、ぼくは共産党を信じきれない。

 期待は、たやすく失望に変わる。

 
 ぼくが今日、長々と書いたことは、3年足らず働いた配達業務の、ほんの一局面に過ぎない。もっと楽しいエピソードもあるし、ドジな体験談もある。

 (たとえば、東京海上火災前の道路で、強風に伝票が吹き飛ばされて、1時間がかりで拾い集めたこと。そのときに何人か伝票拾いを手伝ってくれて、それはみな女性の方々だったこと。)

(たとえば、とある郵便窓口にいるアフロヘアーのお兄ちゃんが、いつもソウルミュージックばっかりかけていて、その日かかっていた音楽に、思わず、

ZAPPですね」と口ばしったら、

「お、あんたZAPP知ってんの? 嬉しいねー兄弟」

と握手を求められたりしたこと。)

 そういった些細なことどもを、じっくりと書き綴ってみたかったのだが、どうしても、「今」とリンクした内容に偏ってしまう。

 配達で得たものとは、ぼくの糧になったものとはいったいなんだろう。それを対象化し、分析することはとても難しい。

 ただ言えることは、得難い、かけがえのない経験をしたということである。ぼくは大手町と丸の内を配達して回って、社会を見る目を養った。巨大なオフィスビルの内側で、どんな顔の人たちが、どんなふうに働いているのか、くまなく観察できた。ビルの地下三階には、例外なく空調施設があり、ヘルメットを被った作業員たちの詰所があることも知った。

 そうやってぼくの目は、徐々に見開いていった。そして社会の構造を知れば知るほど、世の中に流れる歌の数々が、世間で賞賛される諸々の小説が、いかに現実と乖離しているかを、身を持って思い知ったのだ。

 ノンポリ野郎だったぼくは、社会の不均衡に、ようやく気づいたのである。

 21世紀を、目前に控えて。

 

 

 配達の仕事をやめる直前に、むかし一緒にバンドを組んでいた旧友と遭遇した。かれは独資本の、コンピュータシステム管理の会社に勤めており、最近建ったばかりの、真新しいサンケイビルに通っていた。

 昼メシでも食わないか。旧友はぼくを誘った。ファーストスクエアビルの地下にあるレストランで、席に向かいあった。

「おまえいつまでこんなことをやってんの?」

  むかし馴染みの率直さで、かれはぼくにズバリと指摘した。

「年齢を考えろよ、年齢を」

 ぼくは、そうだねと頷いた。いい齢して、なにをやってるんだろうな。

 「だけどね、おれは、少しずつわかってきてるんだ、世の中の仕組みというか、どんなふうになっているのかが、いろいろと見えてきたんだよ。いまの社会は、変だよ。少しずつ格差が、広まりつつある……」

 ぼくがせいいっぱいの気持ちを打ち明けると、旧友は「くだらねえな」とつぶやいて、ランチの伝票をひったくった。

「おれには、お前が、遊んでいるようにしか見えないぜ。不平不満があるのはいいさ、おれにも不満がある、会社にも社会にも。しかし、お前みたいに傍から見ているだけじゃ、結局なにもわからないんじゃないか。中に入ってこいよ。こっちに、内側に。働きづめに働いて、それから文句を言えよな。

 格差なんて、自力で埋めるもんだぜ」

 旧友のことばがきっかけで、配達の仕事を辞めたわけではない。さまざまなファクターが絡んでいるし、理由をここで詳らかにするのは難しい。が、配達の仕事が辛くなったり、倦んだりしたわけではない。

 ただ、これだけは言える。3年間の経験は決して無駄ではなかった。ぼくはぼくなりに、さまざまなものを培ってきた。それだけの自負は、ある。

 
  スーツ姿の旧友と、Y運輸の制服を着たぼくは、肩を並べて、大手町の交差点を横切った。

 21世紀は、すでに幕開いていた。