この稿は、協奏曲それぞれ三つの楽章にあてはめる試みをくわだてたが、断念し、自由連想 式に書き連ねることとする。
※ タイトルを検索して訪問された方は画面を下にスクロールして巻末の 【追記】 をご覧ください。この本文に情報としての価値はほとんどありません。
「学生運動 には興味がなかったね」
ぼくのいとこは、グラスを傾けながら、うつむきがちに語りはじめた。
「デモに参加したことはあるが……日芸 がバリケード で封鎖されていたときも、おれは講義を受けていた。堀越(十二代目のことだ)と二人っきりでね」
「卒業してから、読売新聞に入社したんですよね?」
「正社員じゃなかった。アルバイトに毛の生えたようなもんさ。でもあなた、よく覚えているねえ? まだ子どもだったろう」
「ジャイアン ツとカージナルス の、親善試合かなんかの豪華なパンフレットをもらった記憶があるんだけど」
「そうだ! おれ野球が大嫌いだったんだよ。だのにジャイアン ツの広報ばかりやってた。耐えられなかったね」
いとこは、グラスの中身を一気に飲み干し、あらたにウイスキーを注いだ。
「でも、悪いことばかりじゃなかったさ。その伝をたどってモスクワに行くチャンスももらえたからな。あちらさんのバレエを学ぶことができたし、ちょっとした舞台の演出も任された。ソヴィエトは……」
そこでいとこはアルコールと一緒に言葉を喉の奥に流しこんだ。
「ねえ、あなたはソヴィエトについて、どのくらい知ってる?」
いとこは、いつもぼくのことを「あなた」と呼んだ。
「ロシア人は、トンマなんだよ。言葉の障壁はあるにせよ、こちらの言うことをまるで理解しようとしない。おれはバカだと思ってた。口にしたことも、あった。
でさ、傑作な話があるんだけど。舞台のセットを要求したのね。上手に扉があって、階段があって、中央に暖炉があるという、西洋風の間取りを絵に描いてよこしたんだ。ところが、待てど暮らせどセットが出来あがらない。いったいどうしたことだと詰め寄ると、『いま作っている最中です』と返事するんだな。それから大道具の工房に案内された。と、驚いたことにだ、連中、でっかい丸太を角材にしている途中だったよ。舞台の上に家でもおっ建てかねない勢いだったね。ベニア板でやっつけるなんて芸当は、連中の発想にはないのさ。それはある意味、尊敬すべきロシア式リアリズムではあるけれど、それじゃいつ幕があがるというの。だからおれは言ったよ、『バカ』って。
それで帰国する段になって、空港でね、通訳がそっとおれのところにしのび寄ってきてさ、言うわけだよ。『あなたは同志を侮辱した』と。『二度もバカという言葉を使った。三度目には通報するつもりだった』といわれた日には、背筋がゾーッと凍りついたね。おれはあやうくオヤジの二の舞になるところだった」
18歳も年上のいとこは、気難しい性格の人だった。川地民夫みたいな風貌をした二枚目だったが、他人と調子を合わせようとしなかった。ために誤解されていた部分も多かったように思う。かれの志向する表現は、ともすれば難解だと評された。説明するのを潔しとしなかった。地方都市で文化人として生きてゆくには、不器用に過ぎた。
だけど、ぼくといとこには、ひとつだけ共通点があった。
ぼくたちは、エマーソン・レイク&パーマー の大ファンだった。
ビートルズ にかぶれた次に中学生だったぼくが求めたものは、さらなる刺激だった。ピンク・フロイド には狂喜したけど、炎には燃えなかった。より強烈な体験を欲していたのだ。
学研の学習雑誌に記事が載っていた。「ロック界最高のキーボーディストを擁するスーパートリオ、エマーソン・レイク&パーマー 」。その惹句 に飛びついたぼくは、よくわけのわからないまま、『トリロジー』をジャケ買い した。期待以上だった。冒頭「永遠の謎」の、ピラリラリラリンという下降フレーズのハッタリに、続いて倍音 たっぷりに鳴り響くハモンドオルガン の荘厳さに、のけぞってしまった。
以来、EL&P ばかり聴いていた。中学三年生から高校一年生にかけての最も重要な時期(笑)に、ぼくはキースのキーボードプレイに大切な時間を捧げた。まわりの連中はみんなギターに夢中だったが、我流でピアノの弾き語りをし始めていたぼくは、いわゆるギターヒーロー 的なものを仮想敵とみなしていた。なにがペイジだブライアン・メイ だと、ゾーオを滾らせていたぼくに、エルトン・ジョン とキース・エマーソン はまさに希望の星だった。とくにギターソロよりも派手な音色で、ギュンギュンとモーグ ・シンセサイザー を操るキースのアプローチには溜飲が下がるというか、頼もしく映ったものだ。衝動を抱えこみつつも捌け口を見いだせないまま悶々とくすぶっていた日本の地方都市に棲息するティーンエイジャーは、夜な夜なヘッドホンを被ってボリュームをグイと上げ、いいぞキースもっとやれ、数多のロックギタリストを一掃せよと、ぶつぶつアブナイことを呟いていたのである。
EL&Pのロゴは刻印(スティグマ )みたいなものだ。したがって批判的にはなれないし、批評なんか書けっこない。
とはいえ、1977年に発表された『ELP 四部作(原題:Works, Vol.1) 』には正直なところ頭を抱えた。口にはしなかったが、がっかりしたのだ。冗長でかったるいと感じてしまった。高校生になったら同級生とバンドを始動していたし、いろんなジャンルの音楽に触れてもいた。キース・エマーソン が最高のキーボーディストであるという私的な評価は変わらなかったが、エマーソンよりも「巧い」プレーヤーが世の中にたくさんいることも、さすがに理解していた。
ああそうだ、このアルバムを買ったとき、市電のなかで同級生に声をかけられたのだった。
「なに買ったんだ? へえイーエルピーか。難しいのを聴いてるな」
「難しくはないよ」そいつもレコードを抱えていた。「きみのは?」
「ん? おれは軽いやつだよ。これさ」
その重たい二枚組を理解しようと、くり返し聴いた。むかし(とはいっても二年ほど前だが)みたくカタルシスは得られないけど、そのぶん表現が深化しているんじゃないかと無理やり納得していた。とりわけA面を占める、キース・エマーソン の宿願であった『ピアノ協奏曲第1番』。こんなに複雑な楽曲を他に誰が書ける? と信頼は揺らがなかった。
が、しかし。
ある日曜日、うちに訪問客があった。父親の務める課のかたで、クラシックを好むという。息子は音楽好きのようですから話してもらえませんかと親父はいった。その依頼にこたえるべく、かれは親しげに語りかけてきた。
「どんな音楽が好きなの?」
「ぼくはもっぱらクラシックだな。交響曲 が主だけど、協奏曲もいいね」
「協奏曲なら、ぼくも一枚だけ持ってます」
かれは「ほう」と感心した口ぶりで、アルバムをみせてくださいといった。
ぼくはレコードに針を落とした。第一楽章が終わるまでのあいだ、かれは黙って演奏を聴いていた。沈黙に耐えられなくなって、ぼくは第二楽章がはじまる前にアームをあげた。
「こんな感じなんですが……」
かれの感想はそれだけ。あまり感心はしていないようだった。立場上「よくない」とか「つまらない」とはいえなかったのかもしれない。
『四部作』アルバム内側のクレジット。
それがきっかけだったとは思わないけれども、ぼくは次第に、EL&P と疎遠になっていった。次作の『Works, Vol.2』は買わなかったし、その次の『ラブ・ビーチ』に至っては「こんなくだらねえモンを作るなよ」と愛想を尽かした。パンクやニューウエーブの波をまともに食らったぼくは、EL&P を過去の遺物だと断定してしまった。
カッコ悪いものだとして、好きだった過去をも否定してしまったのだ。
10代の最後に、かけだしの漫画評論家だったYさんのアパートに居候としてご厄介になったことは前に書いたが、
Yさんがある日、発売されたばかりのカシオトーン を買ってきた。それにはシーケンス機能がついており、テンキーを打ち込むことによって簡単な自動演奏ができた。ぼくはYさん宅から去る前に、置き土産のつもりで、そこにある曲をこっそり入力しておいた。
数年後、下北沢の駅前でYさんとばったり会う。懐かしがったYさんは、ぼくを「王将」に誘った。ギョーザを頬張りながら、かれはこんなことを思いだした。
「イワシくんがカシオトーン に入れた音楽ね、こないだ鳴らしてみたら、あのまま残っていたよ」
「へえ。なにを入れたんだっけ。覚えてないなあ」
まさか! とぼくは口にした。
「そんなはず、ないと思うんだけどな。たぶんドアーズ の『ハートに火をつけて』だったはずだけど。あるいは……」
するとYさんは、あのーと口をはさんだ。
「そういうの、やめたほうがいいと思うよ」
「え?」
「きみはたぶん、認めたくないんでしょう? そんなのカッコ悪いと。だけどね、実際きみが打ち込んでいたのは『展覧会の絵 』さ。好きだった過去を否定しちゃダメだよ。
ぼくは、きみが出て行ったあと、あれを聴いて『あーいいな』と思ったんだ。ねえ、『展覧会の絵 』のどこが恥ずかしいの。かまわないじゃないか、イーエルピーが好きだって。そんなの隠すことじゃない。きみはいったい誰に向かってカッコつけてんの? もっと素直になりなよ」
24歳になって、バンド活動に挫折したぼくは故郷の熊本に戻った。地元の音楽短期大学に入学し、音楽を一から学びなおすつもりでいた。といえばカッコいいけど、実際は逃げ帰ったも同然だった。ぼくは練習をサボってばかりの、いい加減な学生だった。時間があれば視聴覚室にもぐりこんで、レコードばかり聴いていた。
いとこと再会したのも、そのころだった。かれは非常勤講師で二コマを持っていた。いとこの講義を受けるのはなんとなく気が進まなかったが、避けるわけにはいかなかった。
いとこはぼくを、課外授業だと称して、いろいろな催しに駆りだした。演出の助手みたいなこともやったし、照明やスライドの機械を操ったこともある。はてはチョイ役として、かれの主宰するバレエ学校の発表会に出演したこともある。あれは『回転木馬 』だったかな、刑事役で、バーバリー のコートを羽織って舞台に登場した。顔にはドーランを、目にはマスカラを。ちびっ子たちに混じって、ステージから手を振った。
舞台が跳ねたあとは、決まって飲みにいった。下戸のぼくにはかまわず、いとこはいつも、ウイスキーをストレートでぐいぐい呷った。そのときに話したことどもを、ぼくは不思議と覚えている。
「こないだの講義で、課題を出しただろう? あれ、どう思った」
「もの思いに耽るようすを表現する、ですか」
「あなたのは、月並みだったけど、みんなには受けてたね」
「はは。タバコをふかすしぐさしか、思いつかなかったんですよ。
だけど、ぼくのあとに立った女のこがいたでしょう? あれ、巧かったな」
「巧かった? あれが?」
「うん。真に迫ってた。手探りで砂を掬いあげて、それを投げ捨てるしぐさが」
「おれは、怖かったね」いとこは片方の口の端をゆがめた。「あれは演技じゃないね。かの女そのものでしょう。問題を抱えている。おっかないな、ああいう娘は」
ぼくは、よく観察しているなと感心した。実際、その通りだったからだ。
「身振りは正直だよ。ことばよりも心の状態を表してしまうからね。あなたは本音を巧妙に隠す。巧いのは、あなたのほうだよ」
そういう調子が続くものだから、ぼくはちっとも酔えなかった。
「ところでさ、こないだ学食で映画の話をしてたでしょう? 最近あなたは、どんな映画を観たね」
「どう思った?」
「おもしろかった。出だしのオーディションが」
するといとこは、ぬるいな、と呟いた。あれで満足しちゃダメだよと言った。
かれが、自分の好みを披瀝するのは珍しかった。だからぼくは、勢いにまかせて、前々から気になっていたことを、思いきって訊ねてみた。
「こないだの8人のダンサーが競演した舞台で、イーエルピーの『運命の三人の女神』を使いましたね? ピアノソロの部分を。あと、『トリロジー』のフーガも」
「頭脳改革の『第二印象』も使ったぜ」
「いまだに好きだね」めったに笑わないいとこが、相好を崩した。「発表会では何度も使ってる。誰からも指摘されないがね。気づいたのは、あなたがはじめてだよ」
「そうか。おれは後楽園にも観にいったよ。そのころから、ずっとだ」
そこで、いとことぼくは、もう一度グラスを掲げあったのである。
いとこの理解者は、周囲にあまりいなかった。孤立しているとまではいかないが、話相手は少なかったと思う。ぼくはいとこというよりも、おじさんに接しているような感覚でいた。なにしろかれは昭和19年生まれ、最後の戦中派である。
「満州 から日本に引き揚げるとき、あなたのお母さんが負ぶってくれたんだ。だからおばさんには頭があがらない」と言っていた。
「オヤジはシベリアの収容所から生還して、水前寺にバレエ学校を開いた。当時はバレエそのものがもの珍しくてね。生徒も少なかった。そのことで子どものころよくいじめられた。女の腐ったようなやつだと、近所の悪ガキどもから、石を投げつけられていた。口惜しくってね、剣道を習って、精神を鍛えた。あんなくだらない連中に負けるもんかって」
だから、人とつるむのは基本的に好きじゃないんだと言っていた。
「学生運動 が嫌いだったのは、イデオロギー の問題というより、人と安直に共闘したくなかったからだ。個人と個人のぶつかり合いにしか、おれは真実味を感じないのね」
その培われたかたくなな姿勢と、親から継承した教室の経営という現実の狭間を、かれは波間を漂うがごとく揺れ動いていた。
いとこは間断なく飲んでいた。まるで自分を懲らしめるかのように。
音楽短期大学には、専攻科を含めて三年間通った。しかしぼくは、三年目の後期試験で暗礁に乗りあげた。
試験のありかたに疑問を抱いたといえば聞こえはいいが、あまりにも難しい課題を持て余して、伴奏者を探す労を怠って、ぼくは卒業試験のうちの実技を受けなかった。
報せを聞いたいとこは、深夜うちに駆けつけた。そして、
「あなたが再試験を受けると約束するまで、おれは帰らないからな」
と、数時間い座り続けた。
「あなたのディレンマを、おれは理解しているつもりだ。試験というシステム自体に、ばかばかしさを覚えていることくらい。だけどさ、試験をネグったって問題は解決しないだろ? 逃げるなよ。そんな調子じゃこの先、逃げ続けるばかりの人生になるぞ。
あなたの評価は、学内でも二分している。メインの学科の教授たちの評価が低い反面、傍系の先生方からの評判がすこぶる良いんだよ。演奏はへたくそだし、練習は怠けるが、あなたのクリエイティヴィティーを認めてる人はおおぜいいるんだ。
ここ熊本という地方都市で、あなたの優れた部分はなかなか発揮できないだろう。それは分かる。だがな、卒業はしろ。ちゃんと追試を受けて、最低の成績をもらって、胸を張って卒業するんだよ。そうしなければ、あなたは永遠に負け犬になる」
いとこの懸命な説得に、ぼくはついに折れた。
か細い声で、追試を受けます、と答えた。
そして、その二ヵ月後、浜松の楽器メーカーに就職したのだ。
90年代も半ばに入っていたと思う。レンタルビデオ店のワゴンセールに、EL&P の『展覧会の絵 』のVHSが、500円で売られていたのは。
よほど買おうかと思った。しかし、買わなかった。500円を惜しんだわけではない。だけど、仕事に明け暮れていたぼくには、必要のないものだった。
仕事の関係で、台湾や中国に出張することもあった。そのころ帰郷して、久しぶりにいとこのスタジオへ挨拶しに行った。あの説得の夜から、会うのをためらっていた。きまりが悪かったし、少しばかりわだかまりもあった。
いとこは、あっちの様子はどうなの? とぼくに尋ねた。
「おれは気になるんだよ。これから先、アジアがどのように動くのかが」
「すごい勢いで、経済が発展してますよ。日本は早晩、追い抜かれるでしょうね」
だろうね、といとこはうなずいた。それから、
「日本と中国の、あるいは韓国との関係は、難しくなるだろうね。これまでの微妙なバランスが崩れたとき、日本はどう変わっていくだろう。そいつを見届けたいんだけれどね……」
いとこは呟いた、あいにくおれに時間は残されていないなあ、と。
軽く聞き流してしまったが、それがぼくといとこの、最後の会話になった。
世紀を跨いで二年ほど経って、いとこは亡くなる。60歳になったばかりだった。ぼくは葬儀に間に合わなかったが、なんとか初七日には参列できた。
がんを宣告されたが、いとこは延命治療をかたくなに拒んだという。やせ衰えていきながらも、バレエ学校の発表会に向けて、病院を抜けだしては、指導と演出に明け暮れていたそうだ。
――それって「バイ・バイ・ライフ」そのものじゃないか!
あのひと、最後まで、カッコつけすぎだよ。
光の射しこむ明るいスタジオ。たくさんのバレリーナたちの汗がしみこんだ床、手垢に黒ずんだバー、アップライトピアノ 。オープンリールのテープレコーダー。壁一面に張られた鏡に映った、中年男の姿。
それはぼくだ。いや、ぼくではない、あなただ。
花束に囲まれた遺影のまわりに、生前の写真が幾葉か飾られている。十二代目團十郎 とのツーショットとともに目を奪われるのは、地元で活躍する大衆演劇 の座長、玄海 竜二との親交をうかがわせる写真の数々だった。
「あまりうちとけないタイプの主人が、めずらしくうまが合うんだといって。同じ大衆の芸能なんだって、力説していたわ」
練習室に面する、かれの書棚を見あげた。おびただしい数の、舞台関係の資料の中にあって、ひときわ目立つ、いつも手の届く場所にあったのは、『幽・観世栄夫 の世界』だった。これは、そのころ能楽 に興味を抱いたぼくが、偶さか読んだ本だった。思えば観世栄夫 も、伝統芸能のなかに新風を吹きこもうと試みた、異能の人ではなかったか。
いとこが生前に志向していたものが、おぼろげにだが、かたちを成してきた。
それと同時に、ああ、もっとたくさん、話しておくべきだったなあと、悔やんだ。
いったいぼくは、なにを語っていたのだろう。いったいかれは、なにを語りかけていただろう。いとこについてぼくは、なにを知っていたのだろう?
帰りしなぼくは、いとこの息子に空港まで送ってもらった。
あまり交流もなかったので、話は滞りがちだった。それでか息子は、カーコンボにCDを挿しこんだ。
流れてきた音楽は、『タルカス』だった。
「なんだ、きみもイーエルピーを聴くのか?」とぼくは訊いた。
「ぼくのじゃないですよ。オヤジのCDです」と息子は答えた。
「でもね、最近いいかなーと思っているんです。あなたには難しいだろうって、オヤジは言ってましたけど」
「えっ、オヤジさんはきみのことも『あなた』って呼んでたの?」
「じつの息子、なのにね」とかれは朗らかそうに笑った。「なんだかオヤジは、親って感覚が薄いんですよ。どちらかというと、おじさんみたいだったな。
ああ、そういえば、まだ子どものころに訊ねたことがあったんです。『どうしてそんなに、自分のからだを痛めつけるように飲むの?』って。そしたらオヤジ、どう答えたと思います?」
「さあ、かいもく見当つかないな」
「『自分の中に棲んでいる猛獣を、なだめているんだよ坊や』、って」
ぼくといとこの息子は、思わずぷっと吹きだした。あの人らしいや、と。
沿道には緑の畑が広がる。遠くには阿蘇 の山並がみえる。
クルマのなかでは“Stones of years”がかかっている。
空の彼方に、苦虫をかみつぶしたみたいな、いとこの横顔が浮かんでみえた。
機内で、いとこが最後に催した発表会のパンフレットを開いてみた。
見開いたページに、かれが自分で訳した“Brack Moon”の歌詞が記してある。
汚染された大気と水、毒を垂れ流し続ける企業。
そういえば、最後に会ったとき、いとこはこんなことを言っていた。
「『ブラック・ムーン』を聴いたかい」と。
ぼくは肯いた。そして「聴いたけどあまりピンとこなかった。むかしみたいなひらめきに欠けるというか、おもしろくありませんでした」と答えた。
「あなたは楽曲の構造にばかり目が向かうね」とかれは苦笑した。「もっと、訴える内容に耳を澄ませてごらんなさい。きっと、違う発見があるから」
ああ、そういうことか。
この世から居なくなって、ようやくかれの言い分に気づこうとは――
『四部作』内ジャケットのキース・エマーソン 。
もう一つ、書きながら思いだしたことがある。
EL&P のなかでいちばん好きな曲はなにかと、子どもみたいに話しあったときに。
ぼくが、しばらく考えて『奈落のボレロ 』かな、と言ったら、いとこは、
「おれは、『協奏曲第1番』が、ベストだと思う」と言った。
「あの音楽には、キース・エマーソン の抒情があふれている。あれに振りをつけるのが、おれの宿望だな」
酔っぱらったいとこは、少年のような目をして、熱っぽく語っていた。
Emerson, Lake & Palmer - Abadon's Bolero - YouTube
【追記】
表題で検索をかけて訪問してくださった方のために個人的な感想をつけ加えておく。
キース・エマーソン の『ピアノ協奏曲第1番』の評価は、さほど高くないように思う。たとえば吉松隆 が組曲 仕立てでオーケストレーション したように、あるいは黒田亜樹 がピアノで「噴火」したように、クラシック界からのアプローチは『タルカス』に集中している。比して『ピアノ協奏曲第1番』への関心は、主として原始主義的なオスティナートが全体を支配する第3楽章に偏っていた感がある。しかし、ピアノ協奏曲をまるごと取りあげる試みも最近では目にするようになった。代表的なものを二つ挙げる。
①Keith Emerson Piano Concerto No.1 (piano: Regina Strokosz - Michalak) - YouTube
②Jeffrey Biegel performing Keith Emerson's “Piano Concerto No.1” with The South Shore Symphony - YouTube
いずれも、ロンドン・フィル に比べるとオケの技量がイマイチ(とくに②は拙い)だという難点はあるが、ピアニストはそれぞれ頑張って弾いている。おそらく、作曲者であるキース・エマーソン よりも数倍達者な腕前であろう。しかし、とくに第1楽章のカデンツ ァを聴いてみると分かるが、キースが楽々と・簡単そうに弾いているラグタイム 風のピアノを弾きこなせていない。ぎくしゃくしていて不自然なのである。これらを聴くとあらためて、「キース・エマーソン はピアノが上手いんだなあ」と感じる。それは、もう一人のキースが、「キース・ムーン ・スタイルのドラムを叩かせたら、オレさまが世界一だ!」というココロと同一である(Do You Know What I Mean?)。キース・エマーソン ・スタイルを継承するピアニストは(世界のどこかにいるのかも知れないが)、未だ現れていない。
それでは、ヴァーチュオーゾの演奏をご堪能ください。
VIDEO www.youtube .com
🔗 エマーソン、レイク&パーマーのキース・エマーソンが死去 - amass
キース・エマーソン 氏は2016年3月10日、71歳で逝去なされた。心から哀悼の意を表する。(3月12日)
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