鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

響子の合唱(Series Of Dreams Vol.2)

 

 食堂に入る前から女声による3パートの合唱曲が聞こえてきていた。おれは「ふうん」と思いながらトレーを持ち、甘酢あんかけの肉団子とかき玉スープを選んで、レジへ進んだ。その間にも合唱曲は食堂の空間を柔らかく満たしていた。歌詞のないヴォーカリーズ。きれいな歌だなと感心しながら昼食代を支払った。

 石やんをみかけたので、やつのとなりに座った。イワシさんこんにちは、ずいぶん小食ですね。かれは長崎ちゃんぽんと大盛りのご飯を掻きこんでいる。炭水化物ばっか喰ってっとブクブク太るぞと軽口を叩いたら、もう手遅れっすよと石やんはニヤニヤした。
「それよりなんだ、あの合唱は」
「3Aの有志、だそうです」興味なさげにいった。「あーゆうのだと、ここは簡単に許可を出すんですね」
「おもしろいじゃないの。3つのパートが独立していて、一箇所に留まらない。けど、全体的には調和がとれている。不思議な曲だ」
「おれにはどうも、曖昧模糊としてて、よく分からないや」石やんは首をひねった。「ケツの辺りがこそばゆくなる感じ?」
「しかしすごいじゃないの3A、そうとう練習しなくちゃ、こうはまとまんないよ」
「あー、あいつら結束してますね。よそのクラスと違って」
 指揮をしているのは、響子だ。楽想にあわせて手のひらをひらひらとそよがせている。かの女の指先から目に見えない糸が放射され、歌っている級友それぞれのおつむに結ばれている、そんな印象だった。
 やがて歌が終わった。まばらな拍手が送られた。おおかたの徒にとって、ランチどきの女声合唱団は迷惑とは言わないまでも歓迎するにはいたらない、といったおざなりな拍手だった。
 歌い終えた女子たちは、どやどやと、おれと石やんのとなりに並ぶテーブルについた。そこへ3Aの男子たちが、手際よく飲みものを運ぶ。ボーイかオノレらと石やんはつぶやいた。
「とてもよかったわー」
 座るやいなや、興奮冷めやらぬ様子の女子が嬌声をあげた。小柄なボブカットの娘。ソプラノの、パートリーダーだった。
「緊張したけど、練習のときより、うまく歌えたよね」
 のっぽのメゾソプラノの娘が頷いた。
「それもこれも、響子の指導が的確だったからよ」
 大柄なアルトの娘が指揮者の方をみた。
「わたしはなにもしてないわ」と響子はいった。「みんなの前で拍子をとってただけ。それぞれのパートを教えたわけでもないし。
 マエカワくんよ」
 響子の前に座っていた、女子の誰よりも小柄で、目立たない感じの男子が、恥ずかしそうに身をよじった。
「ぼくは、ただ、みなさんにパートの旋律を伝えただけですよ」
「ううん違う。各パートの楽譜をみんなに配って、一人ひとりにピアノを弾いて教えたのは、マエカワくん、あなたじゃないの」
「あの歌を書いた責任上、ですけどね」マエカワは頭を掻いた。「手探りで書いたので、うまく響くかどうか、自信がなかったんです。じつをいうと、教えているあいだに、元々作っていた音符を、こっそり変更してました」
「だとしても。たいした才能だわよ」
「そうそう。さすがに将来を嘱望されてるだけのことあるわ」
「前の学校にいたとき、受賞したんだものね」
 女子たちが口々にマエカワを褒め称えている。それを聞いた石やんは、身内ぼめもたいがいにせえ、と舌打ちした。
「あのマエカワってガキ、2年の終わりごろに転校してきたんです」
「だけど、びっくりしたな。あれがオリジナルだとはね。既成の合唱曲とばかり思っていたよ」
「イワシさんだって、オリジナル曲たくさん持ってるじゃないですか」
「だけどおれ、楽譜書けないもん。自分の歌が何拍子でどんな調だか、分かってないんだ」
「関係ないすよ、そんなもん」
 だが、おれは考えていた。さっき歌われていた合唱曲を頭の中で再現しながら。
 気持ちのよい曲だった。おれの知らない和声というか、音の連なりみたいなものがあった。それぞれのパートは、まったく関係のない動きかたをしているが、たまに重なりあうと微妙な色あいをかもし出す。ああいう旋律を紡ぐには、ただイメージを持つだけではダメで、たとえば対位法などの、系統だった楽理を学ばなければ不可能だ。おそらくマエカワは高い次元の作曲法を修めているのだろう。
 けれども……。
「けれども、自分では納得いかないんです。まだまだだって」
 と、当のマエカワが、取り巻いた女子に告げていた。
「ぼくは最近、つまらなく感じているんです。これでいいのかなあ、と。うわべはきれいに繕っているけれど、どことなくひ弱で、頼りないなと思ってしまうのです」
 マエカワは、合唱を耳にした先のおれの印象を的確に換言していた。そうだ分かってンじゃん。さっきの歌は心地よいけど引っかかる箇所がない。胸にドンと突き刺さるような迫力に欠ける。周辺ばかりをなぞっていて、芯がないんだ。
 するとソプラノが直ちに反論した。
「私たちに難しいことは分からないけれど、マエカワくんのメロディー、とてもきれいだよ」
「それに、歌っていてとても気持ちがいいし」とメゾソプラノが話を継いだ。
「作曲しているマエカワくんには不本意な点もたくさんあるのだろうけど、私たちは満足しているの、みんな」
 アルトのまとめに、そうそう、だよねと一同は頷いた。が、当のマエカワは、困惑した表情を浮かべたままでいた。
 だから、つい、
「おれにもよく、分からないけど」
 うっかり口を挟んでしまった。
「それ、リズムなんじゃないの?」
 まわりがシーンと静まり返って、おれに注目している。こうなったら引き下がれない。考えなしの持論を展開するはめになった。
「ふわふわしていて心地いいんだけど掴みどころがない。凝縮してないっていうのかな、拡散しっ放しって感じ」
「それは、私たちのレベルが低いから」
「そうよ、技術的な問題だと思う」
「違うね」とおれは女子たちの擁護を一蹴した。
「マエカワさん、あんたには分かってんだろう。自分の音楽に何が欠けているのか。次に何をどうすればいいのか、漠然とみえているはず、だろ?」
「ぼくには、分かりません」
 マエカワは俯いた。その萎れた態度をみて、おれはさらに勢いづいた。
「リズムだよ。おれに言わせりゃ曲に一本貫いた脈動がないんだよね。音符と音符が接着しているだけだから、剥がれちまいそうになるんだ。その不安定さをなんで繋ぎとめるか。
 リフレインだよ。強力なリフ。それを噛ませりゃ、楽曲は自ずとタフになる」おれの口吻はとどまるところを知らなかった。「あんたらの世界でいうところの、オスティナート。足りないのはそれじゃないのか?」
「そこまでよ!」
 遮る声が鋭く届いた。響子だった。
「イワシくん言い過ぎ。そこまで言われる筋合いはないし、言う権利もない。マエカワくんに謝りなさい」
「謝る?どうして」おれは席を立った。「そんなつもりは毛頭ないね。なに仲間うちで睦みあってんのさ。聞いた感想を伝えてどこが悪い?そんなんじゃ本人のためにもならんよ」
 おれの不機嫌な大声は食堂じゅうに残響した。
 
 食堂の裏から炊事場にまわり、餡かけでねばねばした皿を片ッ端から洗っていった。今週おれは当番だから、この洗い物をかたづけるまでは持ち場を離れられない。
《どうして、あんなことを言ったのだ?》
 イライラしながらジャブジャブやっていると、
「どうして、あんなこと言ったの?」
 と、背後から詰問を浴びせかけられた。ふりかえるまでもない、響子だ。
「あなたがあんなことを言うから、マエカワくん悄気ちゃって。ひどいよ」
「あのくらいの批評で心が折れるなんて弱いな、やつは」
「かれは繊細なの、あなたと違って」
「おれは鈍感だと、おたく言うわけ」
 おれはふりかえって、響子の顔をまともにとらえた。響子は案のじょう眉根を寄せていた。そのうえ想像どおり、腕組みまでしていた。
「あんたの目論見にケチをつけたつもりはないぜ。あのくらいじゃ、3Aの強固な結束とやらは微塵も揺らがねえさ」
「どうしてそんなにひねくれたものの言い方しかできないの」
 響子は、少し沈んだ表情になった。鼻が高すぎるのと唇が厚いのとが、かの女の悩みだった。けれどもそれこそが、響子の魅力だった。誰にも負けない、負けたくない頑固な意志。幼いころから負けん気は人一倍だった。
「マエカワの才能は、あんなものじゃないだろう。おれなりにリスペクトしてんのさ。だからあれは、一種のエールでもある」
「詭弁よ、そんなの」
 そうだ響子。あんたは沈んでいるより、怒ったときの表情がよりきれいだ。
「イワシくん、嫉妬してるのよ、マエカワくんの才能に。悔しくってたまらないから、あんな身もフタもない、言いがかりを口にするのだわ」
 ちぇ、身もフタもないのはどっちだよ。
「かれに、オルフの『カルミナ・ブラーナ』みたいな作風を求めるのは見当違いよ。あなたみたいな野蛮人、マエカワくんに意見を言える資格なんてない。もう近寄らないで、うちのクラスには」
「響子さまがどういう構想をお持ちなのかは存ぜぬが」おれは芝居っ気たっぷりに忠告した。「バーバリズムや世俗的歌曲を理解できないようなら、マエカワ氏も先行き不安だぜ」
「あなたの汚い手でかき回さないでよ」
「マエカワを?それとも3Aを?あいにくだが、クラスの絆なんてものには、とんと興味がないもんでね」
「あなたもその一員だったってこと」
「忘れちゃいないさ、そこから放逐されたってこと」おれは響子の側をすり抜けた。「いまさらどうやって戻れというんだ、あの『お花畑』に」
「……イワシ、変わってしまったね」
 響子の声はいつまでも、おれの背後でくすぶり続けた。
 
f:id:kp4323w3255b5t267:20150607074908j:image 工具の名前、ぜんぶ言えるかい?
 
 ガレージに戻ると、石やんが部品を分解していた。ベアリングを交換したりオイルを塗布したりしている。詳しいことは分からない。機械いじりは、おれの不得意分野だ。
「あんなムキにならなくても、よかったんじゃないすか」
「石やんも、そう思った?」
「うん。だけどまあ、言いたいことは理解るよ」
 しゃがんでいた石やんは立ち上がり、尻の埃をはたいた。
「気味わるいもん、あの集団。昼メシ、不味くなるって」
「そう言えば、よかったのかな」
「そう言や、よかったんですよ」
 石やんはスパナやレンチを工具箱に収めると、そろそろ出かけましょうかと言った。
「どこへ?」
「どこでも。イワシさんの行きたい場所へ。ガスは満タンです」
「行きたいとこなんて、さしあたりないな」
「それでも、出発するんです。そこにはきっと、響子よりも別嬪さんがいる」
「そりゃまた、古風な」
 別嬪さんかぁといいながら、おれは助手席にとび乗った。石やんがキーを回すとエンジンが調子よく噴きあがる。
 フロントガラスごしにまぶしげな空を見上げる。どこまでも突きぬけるような青い空の色。
 トーキョーの空の下〜と石やんが怒鳴りながらハンドルを切ると季節はもう夏。