鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

田中康夫 『33年後』に聞こえる音楽

 田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』でいちばん笑ったのは、ビリー・ジョエルを「ニューヨークの松山千春」と一刀両断していたことである。

 あの本を読んだのはいつごろだったか記憶はあやふやけど、ぼくは筋書きをちっとも覚えてなくて、あの膨大な数の脚注ばかりを、もっぱら諳んじていた。AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)なんて軟弱、と、威勢のいいパンク野郎を気どっていたけれども、おかげさまで、上京し、パイドパイパーハウス詣でをし、青山界隈をおっかなびっくり探索していたころには、ぼくの耳の奥にラフトレードの発信する剥きだしの音響と、洗練のきわみともいえそうなニューヨーク発ソングライター達の穏やかな語りかけが、同時に鳴っていた。

『たまらなく、アーベイン』と題された音楽エッセイには、ずいぶんお世話になった。なにが優れていて、なにがつまらないかが、きちんと峻別されていた。ぼくは「エスケイプ」というシングル・ヒットが好きでなかったが、田中康夫がルパート・ホルムズを高く評価していたので、中古盤の『Persuit of Happiness』(邦題『浪漫』)を手に入れてみた。ぼくの偏見は、あっけなく覆された。田中康夫の薦めるレコードに間違いはなかった。そしてそれは「僕だけのドライブ」を楽しむための、道案内になった。

 

 先日、『文藝』冬号を紀伊国屋書店・光の森店で購入し(クマモトでも『文藝』は買えますよ、ただし二日遅れの入荷だけど)、『33年後のなんとなく、クリスタル』の【連載完結】を読んだ。

 前の章までは、音楽が注意ぶかく省かれていたけれど、この最終章では音楽が前面に出てきている。主人公の「僕」は、表参道で「髪を整えている」。「今日はずいぶんと懐かしい音楽ばかり」がかかっている。そして「僕」は記憶をたぐりはじめる。記憶をよみがえらせる音楽。それは、『なんとなく、クリスタル』や『たまらなく、アーベイン』で既知の、AORだった。

 とりわけ二つの音楽に「僕」は反応する。マーク-アーモンドと、ルパート・ホルムズ。

 

 なぜ、この二つを、田中康夫はチョイスしたのだろう。ノスタルジー? それだけだろうか。マーク-アーモンドの『Other Peoples Roomsと、ルパート・ホルムズの「Speechless」でなければならなかった理由とは?

 単純に、優れた音楽であるから、かもしれない。2014年の今日においても、輝きの失せない、陳腐化を免れた音楽として。『Other Peoples Rooms』の磨きぬかれたアンサンブルは、いま聴いても洗練のきわみだし、ルパート・ホルムズ「Speechless」の旋律のヴァリエーションは、息を呑むほどぜいたくである。エバーグリーン? いやそんな温い形容では済ませられない。長年の風雪に耐えうる、堅牢な構造を持つ音楽であるからとの説明もできる。

 

 ジョン・マークとジョニー・アーモンドの来歴をたどると、英国ブルース界の大物ジョン・メイオールにつきあたる。メイオールのバンドに参加したふたりが意気投合し、コンビとして活動しはじめる。以後、6枚のアルバムを発表。1978年に発表された『Other Peoples Rooms』は実質上のラストアルバム。80年代に入ると、かれらは活動を休止してしまう。

 マーク-アーモンドの音楽をカテゴライズするのはひじょうに難しい。ジャズ、ポップス、ロック、フォーク、それらの要素が混在している。ブラジルの音楽に影響を受けた部分もある。一筋縄ではいかない。そしてその音楽の根底には、英国流に燻された、ブルースの感覚が横たわっている。

 マーク-アーモンドの音楽は、たんなるイージーリスニングとしては消化できない、呑みこみにくい頑なさがある。もっと分かりやすくいえば、重く、暗く、渋い。個人的には、聴いていてやるせなくなることもある。恋人たちが睦みあうには、あまりにもふさわしくない、沈思黙考型の音楽だと言いきってしまおうか。

 しかし、だからこそ、いったん耳に馴染んでしまえば、何度もつき合える種類の音楽である。というよりも、何度もくり返して聴くことによって、真意が伝わる音楽だと思う。

 聴いてみようか。

spotify.link

 田中康夫は『Other Peoples Rooms』のジャケット写真について、こう書いている。

粒子の粗い、媚茶色のジャケット写真。都会の夜の、集合住宅の一室を映し出す。ガラス窓の中には、ベッドの横に立つ、黒いキャミソール姿の女性。シーツが乱れている。ブラインドが途中まで降りていて、顔貌は窺えない。裏返すと、今度はベッドの上に座って、枕を抱えて外を見やる彼女。艶っぽい。だが、物憂げな表情だ。(ルビ省略

 ジョン・トロペイがすばらしいオクターブ奏法を奏でるこのアルバム、ぼくの知るジャズ・ギタリストも絶賛していたが、この深い色合いの音質、トミー・リピューマ最高のプロデュース作品でもあると思う(ぼくは前作の「ニューヨークの想い」が詰まった、『To the Heart』の明るさが好みだけれども)。

 

 かたやルパート・ホルムズ。バーブラ・ストライサンドの『レイジーアフタヌーン』を制作し、一躍名をはせた。ニュー・ヨークを描写させたら、この男の右に出るものはいない。名作『ワイドスクリーン』に挿入された、「ターミナル」を聴いてごらん。こんなふうに、混雑する朝の駅舎をリリカルに語ることのできるソングライターを、ぼくは他に知らない。

エスケープ」や「ヒム」といった一連のヒットで日本の洋楽ファン(という言いかたも懐かしい響きだ)には馴染みの存在であったかれだが、それらがヒットする直前のアルバム『Persuit of Happiness』を、田中康夫は「33年後の……」で、このように書いている。

日本語だと幸福の追求。あまりに身も蓋もなくて思わず笑っちゃいそうになるけど、英語で発音すると響きが綺麗。韻を踏んでいる印象を受ける。

 そして前述の「Speechless」を採りあげる。

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 しかし、歌われる内容は、けっこう「ショボい」ものである。田中康夫流だと、このように要約される歌詞。

彼女のことが大好きなのに、でも、実際に会うと何も言えなくなっちゃう青年の、切ない気持ちを歌っていた。

 しかし淡白な解説である。ちょっとそれで済ますのか? といいたくなるような。だって、この歌詞の肝は、ほらあそこだろ? インターネットの歌詞サービスにも聞き取り不能とされている箇所を、も一度紹介してほしかったなあ。

Speechless and the heart never lies / I'm so speechless so I speak with my eyes / Are ya' smilin' 'cause I seem like Harpo Marx / Or are ya' smilin' at my face within the darkness

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文藝』2014年冬号。1,390円(ぼくにとっては)too expensive。

 

 音楽について語りだすと夢中になってしまうのが、ぼくのわるいくせだ。なるべく簡潔に書いたつもりが、けっこうな分量だ。作家・田中康夫は、その気持ちをどのように制御しているんだろうか。枚数の限りを勘案して内容を削っていくのだろうか。

 マイケル・ジャクソンの自伝『ムーンウォーク』を翻訳しているかれのこと、音楽にかんする知識と情報量、そして愛着は相当なものだろう。イライラの衣良さんや村上さんちのハルキくんにも、負けないくらい語れるはずだ。だけど、『33年後のなんとなく、クリスタル』には、音楽好きのヤスオちゃんという側面は、ずいぶん抑制されている。上に示したように簡潔に説明を済ます。あれっ? と思うまもなく回想が幾重にも積み重なっていく。記憶の円盤(レコード)が絶え間なく回り続けるのだ。テディ・ペンダーグラスの「Turn off the Lights」にも、深入りしないで、過去の思い出話として、さらっと流していく。

《もう、田中康夫にとって、音楽はメインディッシュじゃないのかな?》

 そう諦めたくなる気持ちを抑えながら、先を読み進めていくと、ぼくの懸念がまったく外れていたことに気づかされる。

 田中康夫は、音楽を解説しているのではなかった。

 田中康夫は、小説を書いているのだった。

 そしてその小説の枠組に、音楽をまるごと取りこんでいたのだった。

 

 それはたとえば先ほど述べた、回想が幾重にも積み重なる、という部分に表れている。その多重構造は、まさにルパート・ホルムズの音楽そのものではないか。旋律が次々と現れ、複雑なハーモニーを奏でる。それと、田中康夫、いや「僕」の回想する数々の経験が波のように次々と押しよせてくる感覚は、同質のものではないか?

 小説は、虚構である。

『33年後のなんとなく、クリスタル』の主人公である「僕」は、田中康夫の分身であって、しかし本人そのものではない。小説内の、仮構の存在である。その「僕」が『なんとなく、クリスタル』の主人公、由利と邂逅する。前章ではついに口づけまで交わす。これは、一歩間違えれば、自家撞着のそしりを免れない大胆な試みである。しかし、田中康夫は、その難題をあっさりと飛び越えてしまう。

 だって、これは小説なんだもの。

 田中康夫は、そう言うだろう。小説なんだから、あんまりシビアに読み解こうとしちゃダメだよと。そして、それは小説のみならず、他のジャンル、たとえば音楽にかんしても同様なのだという見解を、小説内で示してみせる。

あの頃、AORというジャンルの音楽は、自分や彼女の部屋で、あるいはドライヴしている車の中で、二人の会話の雰囲気を高める触媒としての雰囲気を担ってくれた。(中略)たとえ、話の中味は他愛なくとも、“マチュアド・ソサエティ”とでも言うのかな、成熟した大人の社会に相応しい豊かな“おしゃべり”を引き出してくれる存在として輝いていたのだ。

 けれども、(中略)人と人とのコミュニケーションの触媒としての音楽は、逆にコミュニケーションを遮断するような装置へと、いつの間にか変容してしまったのかもしれない。

 その、雰囲気を高める触媒としての役割を、音楽に担わせるのが、かつてのバンド小僧だったぼくは、我慢ならなかった。だけど、いまになって思うのは、音楽そのものを目的化してしまうと、音楽そのものの間口が、驚くほど狭くなってしまうという事実だ。音楽性に血道をあげ、ひたすら邁進していくうちに、音楽本来を愉しむ力が衰えていったような気がする。そしてそれは、小説にも同じことがいえる。小説の出来ばえに腐心すること、小説の結構に辻褄を合わせるに躍起になることが、いかに読み手が解釈する領域を狭めていることか。

 田中康夫は『33年後のなんとなく、クリスタル』を使って、提案しているのだ。もっと楽しもうよ、生活を、生命を。小説も、音楽も、ファッションも、建築も、ショッピングも、食事も、セックスも、人生にさまざまな彩りを与えてくれる大切なものなのだから、もっとていねいに、優しくとりあげてみようよと。それを説教くさくないかたちで、ひとを威圧することなく、「僕」は、「私」は、こう思うんだよねと、柔らかに語りかけてくれる。それこそまさに、AORの心意気である。

 田中康夫は、小説を、神聖化はしていないと思う。特別なものとして、「文学」を崇め奉るつもりは、毛頭ないんだと思う。だけど、小説というスタイルを、こよなく愛している。でなければ、掌編を書くときの心構えを、こんなふうには開陳しないだろう。

(「サースティ」の)連載を始めるに当たって自分に課した一つの“制約”を僕は思い出した。「私」という主語を用いずに書いてみよう(中略)そう考えたのだった。

当時は手書きだった。傍らに置いた類語辞典をめくり、彼女たちの心情を言い表すのに相応しい表現を探し求め、呻吟するうちに僕は想い至る。主語なしで語ろうとも、そこに「主体」が存在しないわけではなく、むしろ“控えめな主体性”とでも呼ぶべき「私」が隠喩されているのが日本語の文型なのだと。

 そうして、丁寧に読んでいくと、この小説が「重厚な教養小説」であることにも気づくだろう。読み手に気を遣わせない文章ではあるけれども、もし、この内容を書こうとしたら、とんでもない労力がかかる。一つひとつのエピソードにまつわる情報の埋蔵量は、ぼくたち凡人には計り知れないほどだ。日本列島を襲った二つの大震災。そのときのボランティア活動。長野県知事時代。国会議員の時代。それらの時代を駆けぬけた者のみが知りえる、第一級のトピックス。それらが惜しげもなく披露されていて、読者はそれを読み拾うだけでも、たくさんの収穫を得るだろう。

 だけど、それを声高に自慢しない。そんなの当の田中康夫は大の苦手なのである。ただ、知ってしまった者の務めとして、「幸福の追求=Persuit of Happiness」について書き残しておきたいという、強い思いあればこそ、書かれた小説なのだと思う。

それぞれの地域に暮らす一人ひとりに富国裕民の国民益をもたらす、公益資本主義と呼ばれる理念こそ、豊かで成熟した(マチュアド・ソサエティ)大人の社会を創り出す可能性を秘めているのにね。

 

 テーマからずいぶん逸れてしまった。音楽の話でしたね。

 なにゆえ田中康夫はルパート・ホルムズとマーク-アーモンドをふたたび取り上げたのだろう? という問題だった。その答え、おぼろげながらわかってきた気がする。

 この最終章が、まるごと音楽であるから。

 だと思うんだけど、違うかな? だって「僕」が由利を「想う」とき、その色調は、マーク-アーモンドのサウンドの色彩と、まったく同質じゃないですか。

目を瞑ったまま、そっと息をする。“記憶の円盤”はいったん停止したけれど、僕の頭の中では引き続き、知り合ってから今日に至る由利の辿った軌跡が、媚茶色したスチル写真のように流れていく。

 媚茶色に、何とルビを振っているのかは、11月25日に河出書房新社より発売された単行本で確かめてください。膨大な「註」も加筆されていますから。

 (引用をお許しください・鰯)

 

 

 【関連エントリ】

公益資本主義に見る「しなやかな」国土強靭化 - 鰯の独白

 

【お断り】

引用部分に一部誤りがありましたので、訂正しました。(10月17日)

誤:コミュニケーションとしての触媒としての音楽は

正:コミュニケーションの触媒としての音楽は

 最初の「としての」を削除しました。

 

田中康夫さんがパーソナリティをつとめるFM放送、「たまらなく、AOR」の総合案内。

tanakayasuo.me

末尾に当記事がリンクされています。