鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

『火山のふもとで』に描かれた「ユートピア」

 

 

 今年4月に彩の国から送られてきたこの本を、しばらく読まずにほったらかしにしておいた。冒頭の2ページほどで、くじけてしまったのである。テンポがあわないというか、こういった文芸作品を読むためのチューニングができていないというか、とにかく、読まずにいた。

 こないだ、スマフォがなぞの故障をしたために、インターネットを見られなくなってしまった。原因はまあ、USBケーブルの断線だったのだが、要するに充電切れだった。そこで長い夜を過ごすはめになったぼくは、『火山のふもとで』のページを開いた。最初からもう一度、文字の羅列が文章として意識に浸透してくるまで、慎重に読みすすめた。

 

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『火山のふもとで』松家仁之 著 新潮社 2012年
 
 いつの間にか、夢中になっていた。淡々と進む展開に、すこし焦れつつも、達者な筆の運びに乗せられていた。ああこれはいい、ひさしぶりだなあ、こんなに小説を面白いと思えたのは。読みながらぼくは、意識の変化を確認しながら、ページをゆっくりとめくっていった。丹念に磨かれた文章に導かれながら。
 
 読了したとき、窓の外の空はうっすらと赤みを帯びていた。こんなふうに、読みふけったあげくの徹夜の朝を迎えるのも、またずいぶんひさしぶりだった。読んだあとに訪れる、高揚と満足のいれ混じった感覚。ぼくは階下に降り、紅茶を淹れて飲んだ。小説のなかで交わされた会話や自然描写などを思いかえしながら、こういう朝も悪くないもんだなと独りごちた。
 
 
 しかし感想はシビアに書かなきゃならないだろう。ぼくは確かに『火山のふもとで』に満足したけれど、これを手放しで賞賛するほど人間ができちゃいない。アマゾンのレビューをのぞくと、それはもう大絶賛の嵐で、高い評価もべつに異存はないが、ぼくの胸にはなんとなく引っかかる感じがあって、それを払拭できなかった。
 均衡のとれた小説である。破綻はどこにもない。80年代という時代背景と、浅間山のふもとの山荘という舞台設定。新米の「ぼく」は設計事務所を主宰する「先生」のもとで建築の本質に触れようと切磋琢磨する。主人公の成長過程を著者は透徹したまなざしで描く。しかし、つめたくはない。その視線はあたたかい。
 だが、その完璧ともいえる調和こそが、ぼくには息苦しかった。読んでいるあいだは心地よいのだけれど、読み終えたあとしばらく経つと自己嫌悪におちいった。
《なぜおれは、こんなふうに、自分の引いた線を、ひたむきに追わなかったのだろう》
《なぜおれは、こんなふうに、師と呼べる人にめぐりあえなかったのだろう。いや、自分から師を求めようとしなかったのだろう》
《なぜおれは、こんなふうに、小説の結構を、とことんまで追求してみなかったのだろう》
 なぜ、なぜ、なぜ。
 そしてその疑いは、いつの間にか小説そのものへの疑問へとつきあたる。
《できすぎた話じゃないか。美しすぎやしないか? なぜひとりも悪人がでてこないんだ? 登場人物はみな魅力的で、教養を備え、生活にかんしての豊かな知識と経験を有している。一人残らず、だ。イヤなやつはひとりもいない。もう少し、主人公を脅かすような存在がいたっていいじゃないか。貴族的とでもいうのかな。つまり条件が、整いすぎているんだよ》
 ああ、書いていて、自分がいやになる。言いがかりをつけるために、これを書きはじめたわけじゃないのに。とうぜん著者は、そのような指摘を待つまでもなく、用意周到に複線を張っている。たとえば、主人公が採用される際には興信所に身元調査を依頼していたといったエピソードを、さらりと挿しこむ。その担保あってこそのユートピアであるということを、書きもらさない。
 そう、これは一種のユートピア小説である。かれが職能に全うできるだけの環境が、整然と準備されている。ただし、恵まれた環境に身をおくことのできるものはおのずと限られる。資格がなければならない。その資格とは、なにも学問を修めたにとどまらない。もって生まれた資質というか、そこにいることを許される人格が備わってなくてはならない。主人公は無自覚である。しかし、受け入れた側である「先生」およびスタッフたちは、かれのよい資質を見抜き、だいじに育てようとしている。
 読み手のぼくは、主人公の先輩である「内田さん」に魅かれる。ユートピア性に疑問を抱き、ささやかな反抗を試みる。だが、事務所内に籍を置くかぎり、とっぴな跳ねかえりは許されない。ディレンマを抱えながらも、「先生」の引いた線を丁寧になぞる。さもなくば門は閉じられ、理想郷から放逐されてしまうだろう。しかし、ある意味「先生」よりもノーブルな気質の「内田さん」は、鋭利な感覚を持つがゆえに、最終的にはみずから事務所を去ることを決意する……。
 ここで小説の内容を詳らかにすることはできない。だけど、ぼくにはこの小説の張った伏線が手にとるように分かった。それはなにもぼくだけではない、誰にでもわかるよう「設計」されている。主人公の「ぼく」が、最後にだれと結ばれるかなんて、ちょっとした本読みならば最初の章で察せるだろう。
 ただ、おそらく松家仁之氏は、そんなことは百も承知で書いている。この小説でぼくが疑問を抱いた点など、構想の段階で考えつくはずだ。にもかかわらず、筆者は排除した。夾雑物となり得るであろう要素を、意図的に。
 
 
 小説とは畢竟そんなものなのかもしれない。設定された状況下に・人物を配置して・造形してゆく。必ずしも劇的な葛藤を用意する必要なんてないのだ。何が劇的なのかは、それこそ人それぞれである。いたずらに緊迫した展開をこしらえたところで、それが読む側にたいして何も働きかけなかったら、葛藤はまったく無意味なものとなる。この『火山のふもとで』に描かれる落ち着いた会話のやりとりや、建築と文化にかんする思考の探求は、もしかしたら、ぼくみたいな無知の徒には理解できないだけで、ある種の読者にとっては、切実で、痛烈なことがらが刻まれているのかもしれない。
 ぼくは、この小説を読んでいるあいだ、束の間だけど世俗から離れた。いや、より正確にいえば、仕事のことも家庭のことも忘れた。さらにいうなら、集団的自衛権をめぐる政府の悪辣や、イスラエルによるガザ地区への非道な空爆をも忘れた。ぼくはただ、濁りのない行間を漂いながら、静かに進んでゆく物語に身を委ねることに充足しきった。読者にとっての心地よい空間を設定できるのは、それだけでも技量の要することである。筆者は資料を駆使し、小難しくならないように気を配りながら、解説におちいることもなく、読者を納得させる境地へと誘ってくれる。小説の効用としては、それだけでもじゅうぶんではないか。
 ただ、ぼくは想像した。たぶん松家仁之氏はこの完璧に「閉じた」円環を内側から突き破るような作品をこの次に問うのだろう、それは(設定はまったく違えても)「先生」なきあとの設計事務所の面々が、その後どんなふうにそれぞれの道を切り拓いていったのかを丹念に追うような作品になるのではないか。
 次作の『沈むフランシス』(2013年)を読んでいないから、いい加減な予測や偉そうな感想をしたためる資格はないが、少なくともぼくは、そんな「まだ見ぬ次作」を期待した。
 来るべきものへの回答は、ちゃんと本文に用意されている。「先生」が「ぼく」に言ったことばのなかに。『建築は芸術ではない、現実そのものだよ』と。ぼくは、薫陶を受けたものが実際と懸命に格闘するさまを描いてほしいのだ。筆者の筆力と構成力あらば、それはきっと可能である。もしも小説のなかの遥かな理想郷が、混迷するいま現在と地続きになったらば、ぼくのようなひねくれた読者が、虚構と現実の落差に、もだえ苦しむこともないだろうから。
 
 
 最後に、ぼくのいちばん気に入った箇所を書き写しておきます。
これほど精密で堅牢な模型はあとにも先にも見たことがない。内田さんと私と雪子が、さほど時間をかけずにこの模型を完成させることができたのは、腕と手首、手のひらと指先の連携が理想的に安定し(どんな細かい作業でも指先は1ミリも震えなかった)、視力にもまったく問題がなく(0.1ミリの隙間も見逃さなかった)、けれど本人たちはそのことになんの自覚もないという、まぎれもない若さがあったからだ。私たちは先生の頭のなかだけにある理想の指先に、苦もなくなりきることができたのだ。(372~373ページより、原文では漢数字)
 
 
 
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火山のふもとで

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