鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

SNSの囚われ人達に読ませたい一冊、『悪童日記』

 思うところあって『悪童日記』を新たに買い求めた。

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悪童日記』はハンガリー出身の女性作家アゴタ・クリストフが1986年に発表した中編小説である。以来、世界の20ヶ国で翻訳・出版されており、日本では1991年、堀茂樹の翻訳により早川書房より発行された。2001年には文庫化され、昨年に21刷を数えている。

 海外の小説だからといって、かまえる必要はない。東欧らしき国境付近の小さな町が舞台であるが、覚えにくい人名や地名は出てこない。最初のページこそマンガレリ『おわりの雪』みたいな少年の微妙な内面を描いた心象小説か? と思わせるけれども、ページをめくるとその予想は大きく裏切られる。

 読者はたちまち、文章の「速さ」に身を委ねることになる。双子の少年が戦時下の窮乏を凌ぎ、生き抜くために知恵を絞りだすさまに魅了される。みずからに課した一つひとつの試練を遂行していくことで、彼らは強く、逞しく成長する(ただし、かなりいびつに)。そして読者は、次はどんな出来事が起きるのだろう? 彼らはどう対処するだろう? とワクワクし、ページを繰る手も速くなる(本好きならば小学生高学年でも読みおおせると思う)。

 贅肉のない簡素な文体は、この小説が悪童二人が互いに記した日記という体裁をとっているからだが、作品中に、その簡潔明瞭な理由を、悪童みずからが説明している箇所がある。解説で訳者の堀氏が引用しているので、少し長くはなるが、私も倣って書き写してみよう。

 

〔作文が〕「良」か「不可」かを判断する基準として、ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。

 たとえば、「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことは禁じられている。しかし、「おばあちゃんは『魔女』と呼ばれている」と書くことは許されている。

「〈小さな町〉は美しい」と書くことは禁じられている。なぜなら、〈小さな町〉は、ぼくらの眼に美しく映り、それでいて他の誰かの眼には醜く映るかも知れないから。

 同じように、もしぼくらが「従卒は親切だ」と書けば、それは一個の真実ではない。というのは、もしかすると従卒に、ぼくらの知らない意地悪な面があるのかも知れないからだ。だから、ぼくらは単に、「従卒はぼくらに毛布をくれる」と書く。

 ぼくらは、「ぼくらはクルミの実をたくさん食べる」とは書くだろうが、「ぼくらはクルミの実が好きだ」とは書くまい。「好き」という語は精確さと客観性に欠けていて、確かな語ではないからだ。「クルミの実が好きだ」という場合と、「お母さんが好きだ」という場合では、「好き」の意味が異なる。前者の句では、口の中にひろがる美味しさを「好き」と言っているのに対し、後者の句では、「好き」は、ひとつの感情を指している。

 感情を定義する言葉は、非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。(文庫294~295p 解説より)

 

 主人公の双子「ぼくら」は戦時下であるがゆえ、まっとうな公教育を受けられない。しかし、自堕落にならないように、あえてみずからを律し、お互いを教育し合い、採点し合うのである。そんなディシプリンの果てに、文体は鍛えられ、余情や曖昧さは排除される。

 皮相な見方をすれば、これもまたジョージ・オーウェル1984年』に描かれた「ニュースピーク」の変種かも知れない。悪童たちが用いる言葉の隙のなさは、情操の欠落であるとも言えそうだ、が。

 私は今回『悪童日記』のソリッドな書法にひどく惹かれる。見習いたいとも思う。それは、このところSNSを利用していて感じることだが、情報を正確に記さず、自らの印象を混ぜこむような「意見」が、目に余るからである。

 ある者は「誰が」の主語を省略し、ある者は在りもせぬ仮想の敵を設定し、またある者は「思うのですが〜」と明言を避けつつも、結尾は必ず「〜なのです」と断定するという、仄めかしや焚きつけが横行している。影響力のあるアカウントやら政治/社会学者やらジャーナリストやら、果ては政治家にいたるまでが、いい加減な言説を振り撒いたあげく、誤謬を指摘されても訂正も詫びもせず、反省の色はまったくなく、毎日いけしゃあしゃあと嘘をつきまくる。そういう意味で、SNSとくにツイッターは戦場と大差ない。死骸のかわりに屍体のような言説が其処彼処に転がっている。反吐が出そうな風景だ。私は、連中と同類に堕したくない。

 ならば私も、SNSの戦火を潜り抜けるために、自分自身が操る言葉を鍛えなくてはならない。もちろん、間違いを指摘されまいと守りを固めた文章に魅力はないけれども、こと政治や社会など公に広く問う種類の題材を扱う場合に曖昧さは禁物である。己の中に一人の批評者を設定して、表明すべきかどうかの可否を診断してみようと思う。

 そのための具体的なメソッドが『悪童日記』には山ほど記されている。中には猥褻や殺害といった目を背けたくなる場面もあるけれども、〈感情を定義する漠然とした言葉〉を回避することにより、事実を事実として描写することができるし、さらに、率直に徹した言葉だからこそ、欺まんや言い逃れにトドメを刺すこともできる。

 最後に「“牽かれていく”人間たちの群れ」の章から一部を抜粋してみよう。

 

ぼくらは司祭の部屋に行く。司祭が振り向く。

「おまえたち、私といっしょに祈りたいのかね?」

「ぼくたちがけっしてお祈りをしないことは、ご存じのはずです。そうじゃなくて、ぼくたちは理解したいんです」

「こういうことは、おまえたちには理解できないよ。もう少し大人にならないと……」

「でも司祭さん、ぼくたちはともかく、あなたは立派な大人でしょう。だからこそ、お伺いするんです。あの人たちは誰なんですか? どこへ連れて行かれるんですか? なぜ、連行されるんですか?」(文庫 162p)

 

 司祭は悪童たちに「彼らはユダヤ人でナチスドイツ軍が収容所に連行しているのだ」と、本当のことが言えない。ただ「神の御心は計り知れぬ」と嘆きながら、両手を少年たちの頭上に載せるのみだ。

 一切を曖昧にせず何もかもを伝えることは不可能だ。知らないこともあれば、知らせられないこともある。けれども私たちは「いい大人」なんだから、せめて自分が口にした言葉には責任を持ちたいものだ。

悪童日記』を読みながら、私はそういう卑近なことを考えていた。 鰯 (Sardine) 2019/02/22

 

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