鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

ナタリア・ラフォルカデ「アルマ・ミア」

 

今日は、3月11日だ。

東日本大震災から7年間の歳月が経過した。

復興の掛け声は国内をかけめぐるが、魂の救済は一向に為されていないように感じる。

日本社会という括りの中で生活していると、時どきぼくは大切な何かを見失っているような気がする。

感情がひたすら磨り減って、小さく、細く削られていくような感覚だ。

いま、ぼくは何の気なしに感情と書いたけど、

磨耗しているのはまさに、情の部分だと思う。

ぼくの中にある情が、消滅しかかっている。

それは、ひとえに自分を取り囲む社会のせいだけではない。

現政権による縁故政治は日毎に悪辣さを増すばかりだが、アベのせいばかりではあるまい。

情熱、情動、情報……情のすべてが弱っている。

情をとりもどす手だてを見出せぬまま、時間をいたずらに費やしているイワシである。

 

今宵は、あなたに次の動画を見てもらいたい。

今年に入って、ぼくが一番心を揺さぶられた歌だ。

ナタリア・ラフォルカデの「アルマ・ミア」です。


Natalia Lafourcade - Alma Mía (En Manos de Los Macorinos) ft. Los Macorinos

観て、聴いていただけましたか。

ぼくはこの動画を初めて観たとき、不覚にも涙を流した。

泣いてしまった理由は、分析するまでもない。

映像に映し出された老人たちの塞いだ気持ちが、ナタリアの素朴な歌唱によって、解きほぐされていくさまに感動するからだ。

こうして、ネタをばらしても、べつに構わないと思う。実際に、歌が、どのように、心理に影響を及ぼすかは、言葉では説明不可能だ。

ただ、どのような事柄が、観る側に作用するのかを文字に記しておくことは、決して無意味ではない。

すでに上の動画を観た方には、このことを分かってもらえると信じている。

 

ナタリア・ラフォルカデは、メキシコの女性歌手である。

デビューの頃に都内のCDショップで試聴したことがある。

おもしろいなと思ったものの、いかんせん、邦題のセンスを、ぼくは受けつけられなかった。

これは若ものがターゲットだ、中年はお呼びじゃないよ、と言われている気がしたから。

早い話が、ぼくは拗ねた。それからしばらくは、ナタリアのことを忘れてしまっていた。

2010年前後か、インターネットで誰かが、『HU HU HU』というアルバムのおもしろさを書いていた。

60年代のサイケデリックロックに通じる、ねじれたポップセンスがあると。

ふたたび聞いてみた、YouTubeで。悪くなかった。手が込んでいるなと感じた。例えばレバノンのミーカのように、英米のポップやロックの良質な部分を自然と身につけているのだなと、親近感がわいた。

だから、ナタリア・ラフォルカデという覚えにくい名前を、記憶に刻むことができた。

でも、それほど大した存在だとは思わなかった。まあ、これだけ才気ある歌手なら、中南米では人気もあるだろうな、と想像した程度で。

 

ぼくはそうやって、ナタリアを二度も見くびった。

けれども先月、Spotifyの新着情報でたまたま最新作の『MUSAS』を聞いてみて、ひょっとしてこれはとんでもないんじゃないか、と息を飲んだのだ。

それはカエターノ・ヴェローゾが『粋な男』で見せた、原点回帰と再構築のアプローチをほうふつとさせるものだった。ナタリアは、題材をラテンアメリカ圏のスタンダードに求めていた。つまり、自分のルーツを確認しつつ、それに新たな解釈を施したのだ。

しかもその試みは、前の年には既に行われていた。2018年の『MUSAS』は、2017年の『MUSAS』の続編だったのである。

ぼくは“‪Tú sí sabes quererme‬”をYouTubeでも探してみた。再生回数は8000万をゆうに越しており、他のPVも、負けず劣らずの数字が並んでいる。(その後、再生回数は1億回を超えている。)

再生回数は一つの目安に過ぎず、内容の優劣を決するものではないが、人気を測るバロメータではある。少なくともナタリアは、スペイン語圏では超弩級の人気歌手であることは間違いないだろう。

しかし、あまりにも情報が少ない。

日本盤のCDはリリースされていないし、地方都市のCDショップには輸入盤を置いていない。

だから当記事も適切なガイダンスにはならないし、情報としての(資料的)価値は微塵もない。

ただ、アホーみたいに、ナタリアいいですよと繰り返すのみである。

2018年の『MUSAS』は、この歌から始まる。


Natalia Lafourcade - Danza de Gardenias (En Manos de Los Macorinos) ft. Los Macorinos

誰もがイメージする、典型的なラテン音楽である。けれども何かが違う。うまく言えないのだけれど身近な感じがする。大仰ではない、彼女なりの情熱が伝わる。

そのことは17年の『MUSAS』に収録の、複合リズムにわくわくする、この歌にも言える。


Natalia Lafourcade - Mi Tierra Veracruzana (En Manos de Los Macorinos)

それはたぶん、ナタリアのミュージシャンシップのなせる技だろう。彼女はじつに演奏者の音をよく聞き、芯を捉えている。ちょっとしたニュアンスにも敏感に反応する。歌う表情には、ポール・サイモンとの共通性があるように思う。ナタリアのバックボーンが多彩だということは、音楽自体が雄弁に物語っているが、きっと彼女はどんなジャンルも分け隔てなく聞いてきたのだろうなと思う。土着的な題材を選んでも地域性から逸脱してしまう、本来の意味における「グローバリズム」を見る思いがする。
Miguel - Remember Me (Dúo) (From "Coco"/Official Video) ft. Natalia Lafourcade

これはディズニー/ピクサーの映画『COCO』(3月16日公開)のテーマソング「リメンバー・ミー」。米R&B歌手のミゲルとのデュエット、というよりも客演。つまり、メキシコを舞台にした作品にメキシコ代表として華を添える形での参加である。けれども、ナタリアの歌う部分がなかったらどうだろう?言葉は悪いけど、ありきたりな映画の主題歌になったんじゃないか、と贔屓目抜きに思うンだけど。

 

例のごとくぼくは多くを喋りすぎたようだ。できればもう一度、冒頭に貼った「アルマ・ミア」をご覧ください。ナタリアがいかに、場の空気を察知し、慎重に探り、少しずつ距離をつめ、相手の胸襟を開く過程がうかがえるから。それは音楽そのものの力もさることながら、ナタリア・ラフォルカデ自身に備わった人間味のなせるわざである。同様の活動を行なっているアーティストは、洋の東西を問わず少なくないが、ナタリアのアプローチほど自然で、予定調和がなく、心温まる光景を現出したものは、稀なのではないか。

少なくともぼくは、彼女の歌声と表情を見聞きし、穏やかな気持ちになった。この「なぐさめ」の感覚が、今のニホン社会には最も欠けている要素なのではないか。そんなことを漠然と考えながら、ぼくは今日もナタリアと“Alma Mia”を歌っています。

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【追記】

この記事を読んでいただいた(音楽や芸術に造詣の深い、ベルギー在住の)Sofia D. ‪‬さんが、「アルマ・ミア」の歌詞を日本語に翻訳してくださった。ご本人にお願いして、Twitterから転載しました。

『私の魂』

私の魂は孤独
いつも孤独
誰もあなたの(魂の)苦しみをわからない
あなたの(魂の)ひどい苦難を
いつも喜びと楽しさで満ち足りている存在のふりをしている
もし私のような魂に出会ったら、たくさんの秘密を語るでしょう
何も言わずにただ見つめるだけで、すべてを語る
優しい吐息で酔った魂は
口づけをしながら私の気持ちを感じてくれる
私は時々自問するの
私のような魂に出会ったのなら、どうなってしまうのかしらと

Sofia D.さん、ありがとう。心より感謝いたします。

鰯(Sardine) 2018/03/15

 

ロバート・パーマーの余韻/ウィンウッド・フェリー&パーマー③

「ウィンウッド・フェリー&パーマー②」の続きです。

ロバート・パーマー

サクサクッと紹介しよう。世辞や追従は彼の好まぬところだろうから。ロバート・パーマーは前述の二人に比べれば知名度がやや劣る。が、私見では並び称されるべき英国人ソウル・シンガーであると思う。よく知らないかたは、ぜひこの機会に名前を覚えよう。

 

それにしても②のブライアン・フェリーが「ジョニー・アンド・マリー」をカヴァーしたのは嬉しい驚きだった。でも、ぼくはこの単調な歌がなぜ人口に膾炙したのかが未だに理解できないでいる。

いちいち挙げはしないが、ブライアン以外のカヴァーも多い。ただ「ロバート・パーマーは知らないけどこの歌なら知ってるよ」って英語圏の人はとても多い(らしい)。確かに忘れられなくなるメロディーだけど何処が魅力なのだろう。歌詞のドラマ性か? ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」みたいなものか? そういやロッド、ロバートの「サム・ガイズ~」をカヴァーしてたなあ。

……と、このペースで書いていたら終わらないから、どんどん先に進もう。

元いたヴィネガー・ジョー(売れるみこみのないバンド名だ)を解散し、身軽になったロバートは、ローウェル・ジョージミーターズを起用し、サザン・ロック的アプローチで再出発する。初期のサウンドはいわゆる「クラシック」ロックファンにも耳なじみがいいだろう。リトル・フィートの秀逸なカヴァーを聴いてみようか?

 スティーヴ・ウィンウッドと同じ、アイランドレーベルに所属していたロバートだが、4枚目の『ダブルファン』で当たりをとる。レコードジャケットは初期3枚と同じく、スケベな写真だが。

ディスコで名を馳せたトム・モールトンのミックスである。なんともソフトでメロウ。そしてこのアルバムから全米ヒットが生まれる。元フリーのベーシスト、アンディ・フレイザーが書いた、人類の平等と調和を願う歌、「エヴリ・カインダ・ピープル」。

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この誰もが好むA.O.R.路線をロバートは踏襲しなかった。代わりに出したカードが、過渡期の作品と呼ばれる『シークレット』。

ぼくはこれがむちゃくちゃ好きで、できれば全曲紹介したいくらいなんだけど。とにかくこの盤とダニー・コーチマー80年のソロを代わりばんこに聴いていたっけ。

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『シークレット』はB面の流れが断然いいんだよね。タメを排した超タテノリで。

Jo Allenってライターと組んだ曲がとくに良いんだ。もう一丁いってみよう。

この揺らぎのなさは次作の『クルーズ』にも受け継がれる。ニューウェーブとの親和性は隠しようがなかった。タイトル曲ではトーキング・ヘッズのドラマーである、

クリス・フランツを呼んで、バスドラムの演奏を依頼している。ロバートは、クリスのキックを「ソリッドだ」と評価している。そう、彼が奏者に要求したのはソリッドさ、だ。


Robert Palmer - Looking For Clues (Live @ Bälinge Byfest '80)

パーマーはツアーバンドのメンバーを固定し、一体感を強化した。映像を観てもらえば分かるけどレコードよりも演奏がパキパキ、シャキシャキしている。ロバートの歌唱はあまりにも歯切れよく、白玉音符やビブラートとは一切無縁だ。

その切れ味勝負の路線は『プライド』まで続く。ザ・システムのナンバーを本人たちよりも黒っぽく歌う。デジタルによる音処理の取り組みは誰よりも早く、しかもアプローチは過激だった。ワールド・ミュージックの隆盛にも敏感に反応し、ハイライフやソカのリズムをアレンジに溶けこませた。リズムの探究は同時代の誰よりも熱心だった。

追記:「ウォント・ユー・モア」という妖しげなムードの佳曲がある。後に『ライディン・ハイ』でリメイクされるが、Spotifyのアルバムリストには残念ながら『プライド』が載っていない。ぜひオリジナルを聴いてほしい。下のベスト盤(B○○k○ffで購入¥500)には3曲めに収録されているさらに追記:2023年には『プライド』もアップされていた

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さらに追記:ありました。

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ところが85年、デュラン・デュランの連中に誘われてパワー・ステーションに参加、同名のアルバムは大ヒット、ロバートの知名度も大きくアップする。その翌年に彼は学習の成果とばかり、ビッグサウンドでヒットチャートに殴りこみをかけた。『リップタイド』と『ヘヴィ・ノヴァ』の2枚で遂に首位の座を射止め、グラミー賞を獲得するにいたる。

が、

正直なところ心が離れてしまった。

そりゃあ売れて良かったネとは思うけど、アルマーニのスーツを着て、きれいなお姉さん達を侍らせ、肩で風切って歩くような強面のパブリックイメージは、仮令それが彼の一面だったとしても、やはり好きにはなれなかった。

享楽的な雰囲気の演出は「サム・ガイズ~」のころから顕著だったけど、セルフイメージを戯画化しすぎじゃないの? と感じてしまった。

だからロバート・パーマーを、ぼくは長らく聴かなかった。

 

打ち明けてしまうと、ぼくは2003年にロバートが54歳、パリで亡くなるまで、どんな新譜を出しているのかさえ知らなかった。1990年の『ドント・エクスプレイン』や、1992年の『ライディン・ハイ』は、彼の没後に聴いた。

ぼくは不明を恥じた。なぜ、見過ごしてしまっていたのだろう。これを聴かずして何を聴くというのか。ロバートは、音楽の追求をやめていなかった。どんなジャンルも自分の側に引き寄せる強引さと、頑丈な顎で咀嚼する旺盛な好奇心をもって、過去に培った知識と経験を深化させつつ、ロバート・パーマー独自の音楽として統合しようと挑戦していた。

たとえばこれはロバートなりのボサノヴァだ。けれどもサウダージの感覚はかけらもない。ブラジルでもポルトガルでもどこでもない、ロバート・パーマーの主観によってデフォルメされた架空の世界だ。しかし閉ざされてはいない。むしろ開放的である。

ジャズだってほら、ロバートが歌えばスウィングしないしクールでもない。だが、形骸化した音楽かと問えば、違う、「ジャズを土台とした別の何か」を創生している感じがする。『ドント~』から『HONEY』までの三作で(マイルス・デイヴィスのプロデュースで著名な)テオ・マセロを相棒に据えても、我がスタイルは頑なに変えなかった。

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1994年『HONEY』の内ジャケット。絵はロバート自身の手による。彼の脳内イメージを描いている?

ぼくは彼のディケイドを大急ぎで復習した。ジャズを、ソウルを、オールディーズを、カリプソを、レゲエを、コンパスポイントのサウンドメイキングを、ジュジュを、そしてヘヴィメタル(ヌーノ・ベッテンコートをギタリストに起用したこともある)までを一緒くたに呑みこんだ怪物を、聴くことで理解しようとした。

遺作となってしまった『ドライヴ』の主調をなすのは「ブルース」である。もちろんロバートのことだから単なる原点回帰ではない。今までに自分が学び得てきたものを加味して、世界のどこにもない「ロバート流ブルース」をこしらえている。

まるで錬金術師のように。

ロバートはロックの典型を嫌っていた。先輩格のロックミュージシャンたちの尊大なふるまいをみて、ああはなるまいと決心したそうだ。ブルース・スプリングスティーンの歌(の酷さ)を公の席で批判したこともある。彼がロック以外の、世界中の音楽ジャンルを回遊した理由は、もしかしたら凡庸なロックに堕しないための方策だったのかもしれない。

けれども、この「ミルク・カウ・ブルース」で聞かれる2種混合のリズムは、まるでローウェル・ジョージ率いるリトル・フィートみたいじゃないか。

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センチな言い方を許してもらえるなら、ドブロを抱えたロバートは、ローウェルと天国でセッションしているんじゃないかしら?
ROBERT PALMER【TV DINNERS】2003

ところでこのイルカくん、ロバートに形相がそっくりだね。

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ロバート・パーマーにとって、イルカは重要なアイコンだ。

彼は海が好きで、バハマ諸島のナッソーに居を構えていたこともある。レーベルの先輩スティーブ・ウィンウッドや、『アヴァロン』でリゾートの幻視を描いたブライアン・フェリーと並んで、ロバート・パーマーにも海洋音楽家の称号を与えたい。これは東洋の片田舎に住むぼくからの勝手でささやかな畏敬の念である。

ウィンウッドやフェリーやパーマーのレコードがきっかけとなって、さまざまな音楽に巡り会った。そのことをぼくはずっと忘れないでいたいし、また、若いリスナーに彼らの良さを伝えることは、年かさの音楽好きの努めだと思っている。

「ウィンウッド・フェリー&パーマー①」に戻る。

 

老いの入舞、ブライアン・フェリー/ウィンウッド・フェリー&パーマー②

「ウィンウッド・フェリー&パーマー①」の続きです。

 

ブライアン・フェリー 

ロキシー・ミュージックのことを2年ほど前に書いて、

そこで「いずれフェリーについても書くつもり」だと宣言してしまったため、書かずに済ますわけにはいけない。小生さほど書く材料を持ちあわせておらぬが、あまり深刻にならないような内容にしようと思う。

さて、ブライアン・フェリーといえば、マンガ「マカロニほうれん荘」のトシちゃん的な風貌を思いだす。典型的なのが、有名なこのヴィデオクリップ。

YouTubeは削除されていました)

ウィルバート・ハリスンのカヴァーだとか、クリス・スペディングがフライングVを弾いているだとか、そういう諸事がどうでもよくなるほど、ジェリー・ホール(1分55秒から)の印象が強烈だ。ヴァンプの登場にフェリー先生たじろいておられるが、いずれ性豪ミックに寝取られる未来を暗示させる(現ルパート・マードック夫人の)妖艶さである。愛に翻弄される男を演じさせると、ブライアンに敵う者はいない。

ただし、ダンディな意匠は音楽のイメージを補完するための「コスプレ」にすぎない。

それはロキシーの傑作アルバム『フレッシュ・アンド・ブラッド』に収録の「セイム・オールド・シーン」を聴いてもらえば分かると思う。あくまでも音で勝負、だ。

何というか、出だしのリズムボックスの音色を聞いただけで、すでに切なくなってくる。これはぼくだけの感傷か? いや違う、そういう人は大勢いると思う。

下に掲げた「セイム・オールド・シーン」のシングル盤(各国共通)ジャケット、この少女マンガタッチのイラスト、いったい誰が描いたのだろう?

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80年代を幕明けるにふさわしい傑作『アヴァロン』をリリースし、ロキシー・ミュージックを緩やかに収束させながら、ブライアンはさらに綿密な計画のもと『ボーイズ・アンド・ガールズ』を完成させる。

これは以前に書いたかもしれないが、今までに読んだポピュラー音楽に関する随筆の中でぼくがいちばん好きなのは、文化人類学者・長島信弘氏による、「アンチ・ダンディズム~ブライアン・フェリー私論(レコード・コレクターズ 増刊号「ブリティッシュ・ロックVol.2」に収録)」である。文章と、対象となる音楽の、幸福な一致。

世評の安直なイメージである「ブライアン=ダンディ」に釘を刺しつつ、長島氏はこの「ザ・チョーズン・ワン」を「複雑で、意外性に富み、聞いていて飽きない」と記している。ぼくはこれを読んで、そういう聴きかたもあるのだと目から鱗の落ちる思いがした。

それからぼくは、ブライアンを愛の放浪者であるというよりも、探求者ではないかと考えるようになった。愛の夢中に彷徨うのではなく、愛の状況を的確な音像(音によるスクリーン)に映しだすことが意図ではないかと。そう考えると、トム・ウルフの小説に着想を得たのだろう「ライト・スタッフ」なるタイトルも、歌詞に引用される「山は高く・河は深い」の一節にしても、「愛の資格について」を歌っているように思える。

なお「ライト・スタッフ」は元ザ・スミスジョニー・マーが作曲している。

90年代、『タクシー(93)』や『マムーナ(94)』でロビン・トロワ―(元プロコル・ハルム)を共同作業者に迎えいれたあたりから、次第にブライアン・フェリーは(ブリティッシュ)ロックの王道を歩みはじめる。

その姿勢をもっとも示したのが、2007年発表のボブ・ディランのカヴァー集『ディラネスク』である。なんて堂々とした外連味のないロックスタイルだろう。おなじみの「見張り塔でずっと」を聴いてみてほしい。ジミ・ヘンドリックスデイヴ・メイスンU2など数多のロックアーティストが取りあげているが、それらに遜色ないどころか、サラウンド感では凌駕していると言ってしまおう。もちろんブライアンは、老境を枯淡の境地で過ごすつもりは毛頭なく、愛の在り処を違った角度から捉えようと、さらなる工夫を怠らなかった。2010年の『オリンピア』ではヴェテランを多く起用、デリケートな音響づくりに腐心し、
Bryan Ferry - The Making of 'Olympia'

イメージを具体化する作業に情熱を傾けた。エレクトロニカへの飽くなき追求は、次の『アヴォンモア(14)』に受け継がれ、さらに複数のDJによるリミックス盤(16)も制作された。なんと旺盛な制作意欲だろう!


Bryan Ferry & Todd Terje - Johnny & Mary [Official Video]

近年のブライアンは、さすがに歌声に衰えが目立つ。が、その押しだすような発声にはアトモスフィアな音響がよく似合う。ぼくは彼のシブい歌唱に、いまは亡きレナード・コーエンを何度か想い起した。そして多くの「クラシック」ロックをカヴァーしてきた歌手であるブライアン・フェリーが、ついにロバート・パーマーのスタンダードナンバーを取りあげたことに、喜ぶと同時に驚きを禁じえなかった。

2017年ツアーの様子をみるかぎり、御大はまだまだ元気、音楽への情熱もじゅうぶんに感じられる。ぜひもう一花、ぼくたちがまだ見たこともなく、経験したこともない愛の情景を、音のスクリーンに映しだしてほしいと切に希う。

「ウィンウッド・フェリー&パーマー③」に続きます。