さて。
いま、ぼくは何の準備もせず、何のアイディアも持たず、このブログを書こうとしている。何の狙いもなく、思いつくままを書き連ねているうちに、テーマらしきものが浮かびあがってくるかもしれないと期待しながら。
そこで、いつもと違う環境に身を置いてみた。よく行く店のカウンター席に陣どって、
iPhoneを置いて、buffaloのキーボードを置いて、どれだけ文章の中に埋没できるか、実験してみたいと思う。
2月14日のことである。
Twitterで、
広瀬香美に関するツイートをした。きっかけは、こんなツイートを目にしたからだ。
<大雪で、電車は止まり、駅構内は混雑し、駅員は何度も謝っている。ただ、俺はこう思う。俺らがいま聞きたいのは、謝罪なんかじゃない、
広瀬香美の歌なんだ>
この秀逸なツイートに、ぼくはこんな反応を投稿した。
<
広瀬香美‼︎ 確かにあの方の歌詞には突き抜けたところがある。よくああも表層的な言葉を羅列できるものだと、逆に感心してしまう>
ところが、そのツイートの数分後、タイムラインに複数のリアクションを発見したのである。
<それこそ表層的な感想だと思いますけど>
<わかってないなあ。女性の気持ちを的確に言い表してる歌なんだけどな>
ぼくに対する直接のメンション(@つきで返信を送ること)ではない、いわゆる「エアリプ」ではあったが、これはけっこう堪えた。ぼくはあわてて釈明した。お気を悪くしたら、ごめんなさいと。すると今度は別の方から、こんな感想をいただいた。
<わたしは歌詞も歌い方も大嫌い>
ぼくは
Twitterの即時性をこよなく好むものだが、こんなときに時々、意気消沈してしまう。
♪ わかってくれとは言わないが〜、と、思わず口ずさんでしまう。
なにゆえぼくが、
広瀬香美の歌詞を評価するのか。それは、一時期、ほんの一時期、浴びるほどJPOPを聴いていた時期があるからである。先日よりブログで回想中の1998年、
地域振興券が各世帯に配られ、CDが飛ぶように売れていたあのころ、ヒット曲を作れとの要求に応えるべく、ぼくはJPOPを徹底的に聴きこみ、その楽曲構造を、とりわけ歌詞の作り方を、研究したのである。
その多くが(ゴメン)ぼくにとってはクソだった。聴いていて、辟易した。なにせ洋楽に馴染んでいた耳は、JPOPの根底に流れる甘ったるい感傷や独りよがりを受けつけなかった。どうしてみんな、恋愛ばかりをテーマにするのだろう。それ以外のテーマはないのかと、中年期の頑迷さを炸裂させていた。
小室哲哉、ドリカム、
ミスチル、B'z、
ウルフルズ、
宇多田ヒカル、
GLAY、その他もろもろ、「研究対象」はぼくにとって、なんの感興ももたらさなかった。
最初は歌詞も嫌だった。なにが、「スリルと感動のアド
ベンチャー(幸せをつかみたい)」だ、テーマパークのキャッチコピーか? 書き割りじゃねえかと文句タラタラで聴いていた。
しかし、彼女のファーストアルバムを聴いて、その感想が少し変わった。
今時の歌い手は 小指の先ほどの歌唱力すらもぜんぜんない
広瀬香美 「I DON'T WANNA WORK~働きたくなんかない~」(ファーストアルバム『BINGO!』1曲目
いや、この一行に痺れたというのが正解だ。デビュー作の1曲目に、この歌詞を掲げる傲岸不遜。これは既存のJPOPへの宣戦布告じゃないかと、ぼくは解釈したのだ。もちろんそれは深読みである。
広瀬香美にそんな意図はさらさらなかろう。ただ、感じたことを正直に書きつけたにすぎない。しかし、その潔さは、言い放った言葉の切り口の鮮やかさは、他のJPOPのアーティストとは、あきらかに違う感触だった。 彼女の選ぶ言葉は、あくまでも具象的で、ふわふわとした気分や、湿っぽい感傷とは無縁に思えた。もちろん歌われる主人公の、微妙な心理を描く箇所も少なからずある。が、そこに思わせぶりの介入する余地がない。歌詞は徹底的に研磨され、湿度は絞りとられ乾いており、余韻を残さない。そういう資質なのだ、
広瀬香美という人は。
いつだったか
NHK教育の「
天才テレビくん」で、
広瀬香美が歌唱指導をするコーナーがあった。子ども相手だからといって容赦せず、発声の基礎基本を徹底的に仕込んでいた。手加減なし。指導者としては下手くそだったが、ぼくはテレビの前で、このひとスゲえやと唸ったね。 とにかく。うじうじした感性の垂れ流しに辟易していたぼくは、
広瀬香美のシャキシャキっとした語感に、爽快さすら覚えていた。
だから結論を急ぐが、「表層的」というのは、ぼくにしては最上級の評価なのである。
広瀬香美の
エクリチュール(書法)とは、とどのつまり、無意識である。書くときに、構えないこと。企みをことごとく排除すること。自意識の桎梏からできるだけ遠ざかること。だからギョッとするほど、拙い表現を選ぶ。
自動販売機のコーヒーの〈暖かい〉で、こころまであったかくなる描写を、平然と書いてのける。〈冷たい〉ドリンクのボタンを押したら、クールな彼氏を連想する歌詞を書くだろう(たぶん)。
<きみのスタイルはパンクロックじゃないけど、結果的にはパンクだね、と指摘されたことがある。比較するのも恐れ多いが、
広瀬香美の歌詞に似た部分を感じる。本人が
ナチュラルに表出したであろうものが、アグレッシブになったり図らずも批評的になったり、と。← 表層的、と評した文脈を説明しました。>
このツイートに上書きするかのように、長々と説明してしまったが、ご理解いただけただろうか。
しかし当時のぼくは、
広瀬香美を聴いてこころ癒されるほど、神経がタフではなかった。集中的に日本語の歌を聴いたあとに、チルアウトする必要が、どうしてもあった。日本語で書かれた歌詞、の吟味に格闘したあとは、洋楽ではなく、同じ日本語で癒される必要があった。その乾いたこころに馴染むことばを、ぼくは欲していた。
そんなときぼくは、
ピチカート・ファイヴの「メッセージソング」をよく聴いた。1996年に発表されたその歌を、ぼくは
NHKの「
みんなのうた」ですでに耳にしていたが、2年後にワゴンセールで手に入れた5インチのシングルを、何度もなんども聴いていた。「メッセージソング」は、ピチカート・ ファイヴの楽曲にたびたび借用される、
ロジャー・ニコルズ率いるスモール・サークル・オブ・フレンズの「ドント・テイク・ユア・タイム」の変奏曲である。快速ビートにのせて、
野宮真貴が淡々とした歌声で、ことばを置いていく。 間奏で弾かれるウーリッツアーエレピのソロのみが、すこぶる饒舌だ。そして、曲の全体に、適度な湿度がある。冬の曇り空のような湿気が、ぼくの乾いたこころに、柔らかく浸透していった。
冬のある日 言葉のない手紙がきみに届く
忘れないで ぼくはきみを ほんとうに愛している
そしていつか きみとぼくは きっとかならず逢える
open.spotify.com
この歌詞が好きなのは、表層的にもかかわらず、策略家・小西康陽の内面が、珍しく露呈しているところだ。小西康陽が描く「東京」の情景は、徹底的に感情を排し、 表層を描くことで成立していた。同じ楽曲構造の「大都会交響楽」では、ホンネの隠ぺいに成功している。ところが「メッセージソング」には、明確なメッセージを嗅ぎとれるのだ。それは、
「声高に訴えるべき強烈なメッセージなど、ぼくにはない。」
という、逆説的なメッセージだ。歌詞が、アレンジが、そのことを強く訴えている。まるで、感情過多に陥らないことこそが誠実なのだ、と言わんばかりに。その、うっかり露呈してしまった誠実さまでもが、策略だとは思いたくない。むしろ、ポップスとは何か、ポピュラー音楽に込められるべきメッセージとは何か、を真摯に考察した経過報告のように聞こえる。ぼくはピチカート・ファイヴの熱心なリスナーではないから、ところどころでしか判断できないけれど、小西康陽氏、根はど真面目だと推察する。その誠実さは世紀を跨いで、2002年に発表の、『さ・え・ら ジャポン』で、みごとに結実する。それは、ガイジンからみた〈ニッポン=ジャポン〉を徹底的になぞった、諧謔味あふれる、目も眩むような戯画の数々だった。
野宮真貴は「ビジュアル」をこころえている
……さあ、2時間が経過した。ぼくはつらつらと、やみくもに書いた。確かに「空白は埋め」つくされた。テーマらしきものはついに現れなかったが、兎にも角にも、なにかしら書いたという事実は成立してしまった。かりにここで、消去してしまわない限り。
しかし、こんなことを書いて、何の意味があるだろう。音楽評論にしては、あまりにも中途半端だし、感想文にしては、妙にしゃちほこばっている。いま読み返してみても、たいしておもしろくない。今年の2月14日に起こった、こころのなかの小さなざわめきを、自分自身で解消したに過ぎないのだ。それでぼくは、わずかばかりの自己満足を得る。それでいいか、それでいいのか、こんな文章で、〈公開ボタン〉を押しちゃって後悔しないか?
それに、公開するからには、タイトルをつけなきゃならん。一番妥当なのは、「広瀬香美とピチカート・ファイヴ」だろうか。
でもそれでは、あまりにも表層的かな?
ええい! とにかく公開しちまえ。あとは野となれ山となれ。拙い部分は後日添削。これにて〈完了〉。