2023/01/08
『Chamber MusicとしてのJazz』は、一年ほど前に編んだプレイリスト。並べてみるとなぜかピアノものばかりになった(笑)。
私はピアノ三重奏、とりわけロマン派の作曲家のが好きで。オーケストラのダイナミックよりも各演奏者の丁々発止をおもしろく思う質なんだ。それで室内楽と共通する構造のジャズを揃えてみた。だからブルース色は希薄。本来ならMJQやデイヴ・ブルーベック5あたりも入れるべきなんだろうけど、それだとお勉強になっちゃうから最近の演奏に寄せてみた。
だけど、この十年でいちばん驚愕した「ジャズ」ピアニストは誰かと問われれば、ティグラン・ハマシアンだな。圧倒されっぱなしだった。やはり音楽を成り立たせる根っこがあるとないとでは大違い。
私はテクニックの巧拙を気にしないんだ。パートナーはタッチにやたらうるさいけど、私はわりと鷹揚。そこで意見が分かれる。ま、最終的には、やっぱりビル・エヴァンスいいよねに落着するんだけどさ。
(反応への返信)
①アーロン・パークスはタイム感がすぐれていますね。昨夜、グラスパーとかモンクとかの名前がタイムラインに散見したので、私も好みを出してみようかと思ったのです。
②(ビル・エヴァンスかい⁉︎ というツッコミに)
オスカー・ピーターソンでもよかったんですよ、そこは。
明日いや今日だ、長距離運転せにゃならんのに、こんな未明に起きてていいのか私?
ゆうべ私は、5、6人はミュートしたもん。何でか知らんが、我が正義に酔いしれている連中が、大量にブースト(拡散)されてきて、やばいなコレはと感じたからさ。
いちマストドンユーザーとして、私はフェディバースのfederationについては、さほど重きを置いていないんだ。いろんな意味で「連合」という日本語に懲りているからかもね。
それから、マストドンは個人が他所のサーバーをブロックすることもできるみたいだけど、それってあまり意味がないように思う。そこに属する全員を丸ごと排除するのは、私の趣味じゃないんだ。いい人だっているかもしれないじゃん。
さて、出かける準備をせねば。
広川で休憩。高速道路はそれほど混んでいない。
先ほど福岡から帰還。久しぶりに妻方の親戚とお会いした。病院通いと健康の話題がいちばん盛りあがった。
葬式の話とか墓の話とかもたくさん話したな。
帰途、薄暮の高速を走らせながら、私(たち)はあとどれくらい生きてられるんだろう、死んだら思考の一切合切が消え失せてしまうんだよなあ、ってついつい考えてしまったよ。
私はいつも高速では80㎞くらいでクルマを走らせている。
100㎞に近づいたら、とたんに怖くなる。
2023/01/09
シンフォニーのダイナミックが嫌いなわけではないが、子どものころ交響楽団の演奏するさまをテレビなどでみるたび、みんな同じ服装で役割分担が決まってて、楽譜通りに弾いて指揮者に従って、なんだか軍隊みたいで窮屈そうだと思ったものだ。とくにその思いを強くしたのが『あぁ!新世界』というフランキー堺が主演のドラマ(1975年 TBS 脚本倉本聰)で、ドヴォルザークの交響曲第9番ではたった一度だけシンバルを演奏する箇所があるけど、そこを叩き損なう打楽器奏者の話で、見ていて痛ましかった印象が強烈に残っている。しかもあのシンバル、たいして目立たないんだよね。弱起でメゾフォルテで(同じく一箇所だけシンバルの)ブルックナーの第7番みたいに華々しくない。ドヴォルザークなに考えてんのオレならたぶん第四楽章だけで数十発は指定するぜ、といいたくなる。後に私は何の因果か打楽器を専攻したのだが、休符が多いとヒマなのは確かで、そんなとき私は他のパートが懸命に演奏する様子をつぶさに観察していた。ふり返ってみれば、私の人生そのものが打楽器奏者みたいなもので、集団の端っこでときたま賑やかしに加わるというスタンスだったな、と思う。
枕もとの猫とブラームスの第4番を聴いている。もうちょっと眠ろう。起きていると余計なことを考えすぎる。
私の知る人で、なんでも語尾に「です」をつけて話す男性がいます。
今からそっちに行くです。
その件は後からしますです。
それはしきらん(できない)です。
それ、オレがやっといたです。
歳上には語尾に「です」をつけていれば失礼にあたらないと考えているようです。でも、語気はえらくぶっきらぼうなんです。
細谷雄一について、昨年11月8~9日に、私はこんなツイートを投稿している。
トラス元首相が失脚した時、減税政策が英国民の不興を買ったとの報道がさかんに流れた。消費税減税に疑問を投げかける誘導も目についたが、トラスの減税は富裕層や大企業に恩恵を与えるもので、むしろ「所得税減税を進める一方で付加価値税を増税し、国民に勤勉と倹約を促す」サッチャリズムに近かった。
さらにいうなら、アベノミクスと酷似していた。それを糊塗するために、ことさら細谷氏は「社会民主主義的」だと強調したのではないか。
国際政治学者がヤッシー(田中康夫)の皮肉にご立腹だのは私的にどうでもいいことだが、「安倍総理がインタビューの中身を心配されている。私が全ての顧問を引き受けている」と週刊ダイヤモンド誌副編集長にゲラを見せるよう迫った、元朝日新聞編集委員(峯村健司)とつるんでいるのは、かなりきな臭いと感じている。
と、私は政権を支えるイデオローグとして細谷氏を警戒している。参考までに。
個人的な思いに固執しない、全体を見渡しながらプレーするを心がけたいものだね。
私、語尾カタカナたまに意図して書くな。
伊丹十三の真似をして、__であるト。
橋本治の真似をして、__だからサ。などなど。
そういえばヤッシーとはこんなやりとりをしたことがある。
田中)
岩下さん、「『33年後』に聞こえる音楽」(拙ブログ)を読み直していて気付いたのですが、
>>小説の出来ばえに腐心すること、小説の結構に辻褄を合わせるに躍起になることが、
「結構」は、構成とかの意味かしら? 老婆心ながら。国土強靱化の原稿も有難う御座います。
岩下)
その「結構」は、「拵え」といった意味です。そうですね、「小説の結構」という言い回しがむかしの文豪っぽくて気に入っていたんです。「構成」のほうが適切かもしれませんね。
田中)
いえいえ、小生は、結構というのは副詞だとばかり思っていました。
「結構」の類似に「経済」がある。__した方がより経済である、とかネ。これもまた、私が昭和の小説に耽溺した名残だな。
件のブログ記事はコチラ。
2014年10月、はてブに投稿している。
kp4323w3255b5t267.hatenablog.com
@kisakino_minaさんの投稿、いつも楽しみにしている。内容はもちろんのこと、文のよどみのなさ、意味不明なところが全く見あたらなく、感心することしきりで、私はぜんぶにお気に入りをおくりたくなる。
イマ聴き。ビッグ・シーフ「Time Escaping」
ビッグ・シーフのメンバーが編んだと思しきプレイリスト。冒頭のジョン・マーティン2連発からデペッシュ・モードへ移行する流れで惹きこまれる、ジャンルではなく、音楽に何を求めて聞いているのかがポイントになる。あーそれ選びますか分かりますって感覚の共有。ミュージシャンのセレクトは、総じて興味深い。
100% - playlist by Big Thief | Spotify
やっぱりちゃんと書いておいた方がいいかな。私はれいわ新選組が(意図的か意図的でないかにかかわらず)ハブられているのが耐えられない。だから何人かミュートした。
辰巳孝太郎の府知事選については1月7日のトゥートで私が静観とした理由と同じです。以上。
Twitterを「敵」に、Mastodonを「味方」として語るような単純な構図、Twitter内の敵味方政治と一体何が違うの?ってのはある。もちろん違いはあるし、それは大事なんだけど、簡単単純な二項対立は警戒するよね。
森哲平さんは今すごく大切なことをいっているよ。
ここしっかりと押さえておかないと、マストドンもツイッターの二の舞になる。
今夜の夕飯おかずはおでん。これで昨年末収穫した大根ぜんぶを使いきった。
2023/01/10
【今週の新譜】
ジョン・ライドンまじですよ。笑ってしまうけど、これはおちょくりではないと思う。キャプテン・センシブルのアプローチにちょっと似ている。
日豊本線の津久見駅で先月15日の夕方、構内の線路上で視覚障害のある80代の女性が特急列車にはねられて死亡する事故が起きた。
駅員がいない時間帯だったことから、大分市の駅の無人化に反対する裁判を起こした原告団が現場を訪れ、当時の状況などを調査した。
弁護団の徳田靖之弁護士は「事故の原因はまだはっきりしない部分もあるが、駅員がいれば助けられた可能性があると思う」と話した。
(タイムラインにアップされた写真への感想)
心象風景といおうか、凄まじい写真だと感じました。
(先日火事で焼けてしまったお店の近くの細い道なんですよ、という説明に)
ううむ、なるほど……
財務省が国立博物館への予算を削減する一方で、元財務相が国立マンガ施設の構想をぶち上げる、ト。なんなんだこの倒錯は。
火曜日 ここより永遠へ/偉大なる逃走へ
2023/01/11
【年甲斐もなく、お恥ずかしい話】
とても頭が痛くて、しばらく横になっていたら、単純だけど力強い旋律の動機が頭のなかでリピートしだした。はっきりいって趣味じゃない、鈍くさくてカッコ悪いメロディーだ。しかしちょっと待て、これは半年前入浴中に思いついた、これまた単純なサビにつながるんじゃないか?
深夜だというのに、私はアンプを通さずにギターをかき鳴らして、しばらく歌ってみた。したらピタッと接着した。キーはCメジャー、ほぼスリーコード。イメージとしてはアクロスザユニヴァースとワンラヴを合体させた感じ。三十分くらい弾いたら構成はだいたい固まった。あとはストレートな歌詞を載っければよい。なあに焦るこたない、締め切りなんかないんだし、こいつはスタンダードになるかもよ!
けどそこで、盛り上がる気持ちに水を差すような思いが過る。この歌を完成したとして、それから先どうするつもりだ? どこに向かって、誰に向けて出そうっていうんだ。
還暦すぎた爺さまがまるで中学生よろしく夜中に煩悶している。しょうがねえなぁと苦笑しつつも、私はこの歌をなんとか形にしてやんなきゃ、の思いに駆られている。
気がついたら頭痛は治っていた。
"Girlfriend is Better" Talking Heads
フレキシブルに、きめ細やかに対応すればするほど、多岐のオプションを追加すればするほど、ひと一人にかかる工程も責任も増してゆく。制度設計は最初に思い描いたようにならないものだ。
ほぼ一日中パソコンを使っているから、マストドンくらいはスマフォで済ませたい。
煮詰まらないようにするには、滞在時間を少なくするしかないね。何にでもいえることだけど、耽溺は身体に毒だ。
いつも自分に言い聞かせていることです。
SPA石黒隆之の噴飯ものの記事。レナード・コーエンを引き合いに、知ったようなことを吐かしているが、「デモクラシーがアメリカにやってくる」のテキトーな解釈(の引用)に、かつてコーエン信奉者だった私は怒り心頭に発している。
なぜか。それは多義的な解釈が可能なコーエンの詞を、それこそ記事を書いたライターみずからが一面的な解釈に押しこもうとしているからだ。
kp4323w3255b5t267.hatenablog.com
森鴎外を平野啓一郎とロバート・キャンベルに語らせるという構成は悪くない。『沈黙の塔』を再読したくなった。最後に磯田道史が熱弁していたことは平野のいうところの「分人」に他ならないが(しかし、番組タイトルなんとかならんか)。
芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。因襲の圏内にうろついている作は凡作である。因襲の目で芸術を見れば、あらゆる芸術が危険に見える。
学問だって同じ事である。学問も因襲を破って進んで行く。一国の一時代の風尚に肘を掣せられていては、学問は死ぬる。
どこの国、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず反動者の群がいて隙を窺っている。そしてある機会に起って迫害を加える。ただ口実だけが国により時代によって変る。危険なる洋書もその口実に過ぎない。
森鴎外『沈黙の塔』(明治四十三年)より抜粋
もちろん私もSNSには食傷気味だ。読む/読まれるの相関関係を窮屈に感じることもある。自分に向けてではないことまでを自分への批判だと誤解することも度々だ。理由もなくないがしろにされているような気がして、そんなときはアカウントごと消し去りたくなる。
けれども私は書くことが好きだ。漠然と考えたことを言葉に置き換えてみて、その表現が的を射たときの歓びは他に比べようもない。もっと文章がうまくなりたい。思うがままを自由自在に操れる技術がほしい。
どうにもならない望みだろうか。私は私の書いた言葉を忘れたくない。便秘症の精神かもしれないが、自分の書いた文章はできるだけ保存しておきたい。
この、書き散らしたくても書き散らせない性分、投稿寸前まで逡巡する傾向が、結果的にSNSでの暴走を繫ぎとめているような気がする。
私のしなくてもいいがまんはいつか実を結ぶだろうか? 可能性は限りなくゼロに等しいが、途絶の直前まで、書いた事実が残るよう、記録しておきたいと思っている。
2023/01/12
【鰯の独白は「毒吐く」ではない】
十年以上もSNSを続けていれば、いい加減に煮詰まる。似たようなことばかり書いている、進歩ないなあと思うこともしばしばである。だからといって「自分の投稿など書いたそばからなくなってもかまわない」とは思わない。
ジョージ・マーティンは、アビーロードの録音技師たちに「ビートルズがスタジオに入ったら、どんなささいな会話でも録っておくように」と指示した。
おおげさにいえば、私もそんな感じだ。何月何日に何を食べたか、どんな空の色だったか、そのとき何が起こったのか、あとでふり返って、思考の推移を確かめたい。
おかしなもので、どうでもいいような独り言でも、そのときどきの何気ない言葉の選択が、わりと鍵を握っていたり、本質を突いていたりもする。
だから、いったん書いたテキストは滅多に捨てない。必ずどこかに格納している。ツイッターにおけるツイログのようなサービスは今のところマストドンに見当たらないので、自力で保管するしかないが。
自分の発信が他にどう影響を及ぼすかにはあまり興味がない。また、自説を補強するために他の発言(トゥート)を援用(ブースト)することはできるだけ避けている。
“Stay" David Bowie
On behalf of his family, it is with deep and profound sadness that we share the news of Jeff Beck’s passing. After suddenly contracting bacterial meningitis, he peacefully passed away yesterday. His family ask for privacy while they process this tremendous loss. pic.twitter.com/4dvt5aGzlv
— Jeff Beck (@jeffbeckmusic) 2023年1月11日
ショックだ。初めて人前で弾いたオレンジ、高校の授業サボって買ったブロウバイブロウ、1980年に九電記念体育館で実物を拝んだ。思い出が走馬灯のように駆けめぐる。人生はまるで寂しいハイウェイ。ジェフ・ベックありがとう。
(あ、弾いたのはマックス・ミドルトンのパートです。念のため)
私もはなむけに一つ、"Nadia"を選ぼう。
ジェフ・ベックのすごみは、世紀を跨いでも衰えるどころか、なお新境地を探してやまない、開拓精神にあったと思う。己が模倣に陥ることなく、生涯現役のままキャリアをまっとうしたミュージシャンは、数えるほどしかいない。
今日、一瞬だが記憶がとだえた。あれほど日ごろから世話になっていた人に会ったのに、どうしても名前を思い出せなかったのだ。慌てて調べて、文字面をみてようやく名前を思い出せたが、怖かった。こんなに心細い思いをしたことは最近なかった。
(80年代は「ほんとうに空虚な時代だった、そう感じるのは私だけだろうか」といった逸見龍生さんのトゥートに)
あなただけではない、というのはおこがましいけれど、二十代の真っ只中だった80年代は、私の人生の中で、最も無味乾燥な10年間だった。
2023/01/13
小説を濫読し、見ようみまねで書きはじめた頃はガッチガチに硬かった。雑味と思えるところを何度も削ぎ落とし、澄み切った文章にすれば上等だと錯覚していた。 硬化する一方だった私のtextを柔らかく解したのはインターネットだった。最初はどこにも投稿せずに専ら読むだったが、mixiやTwitterで書くようになってからは〈喋るように、語りかけるように書いたらいいんだな〉と、気構えないことを心がけていた。 ツイッターに慣れてくると140字以内にまとめるワザを会得した。いかにもざっくばらんな調子を演出できるようにもなった。みずから拵えたフォーミュラに流しこむことで、書くから投稿するまでの一連を"it's automatic"でスムーズに行えるようになった。 現実の私は、お喋りが得意ではない。言い足らなかったり、言いすぎたりするので。私の「喋るように書く」は一種のスタイルだ。理想の語り手を設定しているといおうか、つまり作為的なものだ。 ここマストドンでは、そういった狙いを極力なくしていきたい。どこに着地するかわからない思考のなりゆきを、そのまま反映させたい。あーもうすぐ500字だ。中途半端なエンディン
「文章上手くなりたい」っていう人、まずはコアを見つめてくれって思ってる。むしろ今の時代は文章が「上手い」だけの人がやったら多くて、正直おもんない。(森哲平氏のトゥートより)
(前掲を受け)私は自分がどんなにつまらない人間か知っている(つもり)。だから刺さるささる。
私は文章教室を開催したいわけではないんだ。
ここで、くそくだらないやめようかなっていえば、いや書けばいいんだろうか。今やほとんどそんな気分だよ。やめだやめ。
"Rhinoseros" The Smashing Pumpkins
さっきからふりだした雨音を聞いていたら気持ちがいくぶんか和らいだ。
感情がたかぶるのは悪いことではない。日常で感情をあらわにできることなぞ滅多にないからね。今やSNSくらいじゃないの?
感情の昂りは、もちろん自分の内側で起こることで、それをどう表出するかはまた別問題。私の場合、たいてい一人でプンスカして終わる。
私もこの絵(悲しみの聖女)が好きだ。国立西洋美術館で、しばらく立ちどまって見入ったものだ。青の深いことといったら!
チャイくん、行ってきます。
【みなさんのご意見ひととおり拝見しました。そうだな私は……】
①
私はもう何年も前から「市民」の二文字を意識して使わないようにしている。
例えば、前回の衆院選について、
(政党間の)「ボス交」によって、突如として指令(?)してきた候補を、市民側が拒否し、メディア的には後唐的(?)に知名度は劣った候補を当選させ(た)
というトゥートを先週見かけた(元トゥートに記されていた具体的な政党名と候補者名は伏せた)けれども。
私は、その「市民側」という括りを、ひどく独善的に感じてしまうんだ。
だいたい、「ボス交」って何よ?
いや意味するところは理解できるよ。でもそこ、カギ括弧で使うところか?
私には、ネトウヨが揶揄するところの「世田谷自然サヨク」というスラングを言い得て妙だと思ってしまう感性というか心情が確かにある。
私は、「私たち『市民』は〜」と高らかにうたわれてしまうとさ、目の前でバーンと扉を閉ざされてしまったような気がするんだよ。
それって田舎者の僻み根性なのかな? 私が(休み時間おわりにつき強制終了)
②〜③
2021年10月14日のツイートより
最近「市民」という言葉を、てらいなく使うことができなくなった。私たち市民の声を〜と一旦書いてみて、違うな、と削除したこともある。その躊躇が何に起因しているのか、今回(衆議院選挙・東京8区)杉並で起きた一連をみて、ようやく分かった気がする。私が市民と書くのを躊躇う理由は、市民を自認する人たちが、市民資格を厳格に定めているからである。
市民の定めた暗黙のレギュレーションが、不可視のサークルの中に存在している。規約は明文化されていないが、資格の有無はさまざまな角度から吟味される。学歴はもちろん思想の筋のよさが重視され、野良とみなされたら即座にはじかれる。カギ括弧つき市民の育んだ排除の論理が、合理的に働く仕組みだ。
とにかくナローレンジ。異物をのみこめずに吐き出してしまう。ムリに呑みこむ必要はないが、たんなる好き嫌いで市民をカテゴライズするのはやはり間違っている。裾野の広がりを恐れるがあまり、市民の範囲をいたずらに狭めてはならない。もっとオーブンに、政治のスケールを大きくしよう(ではありませんか)。ものすごくかいつまんで言いますと、自分たちだけが「市民」だと思うな、です。
学者や大手紙記者や法曹人らの想定する市民だけが市民ではない、ということです。
それ以外の大勢を、サークルからはみ出した市民を、イメージしてみてほしい。「市民」であることを標榜するのであれば。
私は、<ワアワア言っている人たち>だの<永遠に杉並出入り禁止>だの、排除の言葉を内面化した「市民」には、ほんとうに辟易しています。
れいわ新選組。山本太郎の演説を見るとわかるけど、どこでも音響と照明は絶対に手を抜かない。可能な時はBGMも使う。今の日本人はテレビでそういうのに慣れているから同じフォーマットでやられるとコロっといく(るまたんさんのトゥートより)
あははは。さしずめ私はコロっといったくちだ。
ブランドXの“Sun in the Night”。
昨年 5月7日の街宣で、(山本太郎)代表が登場する直前に、ベーシストが弾いていた。
彼の弾く“通奏低音”は、場を温める以上の効果があった。この国の過酷な現実をシリアスに訴えつつも、決して絶叫することのない(山本の)演説に身を揺らしながら、私はギル・スコット・ヘロンのポエトリー・リーディングを連想していた、
と書いたら買い被りかね?
2023/01/14
(Annette Peacock "The Perfect Release"について)
アネット・ピーコックの作品中、とび抜けて好きです(他のはちょい敷居が高い)。ミドルトンのフレーズはけっこうワンパターンなんだけど、ここまで自由に弾きまくっているのはめずらしい。
("X-Dreams"の方が思い入れあります、との返信)
あらためて聞くと、“X-Dreams”よかったです。以前は手強い印象がありました。
(いつ聴いてもPoetic Champions Composeは名盤、との意見に)
じつはちゃんと聞いたことがなくて。昨晩じっくり聞いてみて、すごくよかったです。
(私的にはこれとVeedon Fleeceが双璧、との返信)
あゝ"Veedon Fleece"は(ヴァン・モリソンの中で)私も大好きです。
「ヨシミネ弁護士がね」と妻がいうので、私は「え?」と渋い顔をした。
「どうしてそんな顔するの」
「ん、あまり好きじゃないから」
「違う人じゃない? 私が話そうとしてるのは、吉峯啓晴(ひろはる)先生のことだよ」
「あ、吉峯耕平じゃないのか」
「誰よそれ」
「いや、前に引用リツイートで皮肉られたからさ」
妻は呆れたという顔をした。
「ツイッターのしすぎよ」
今は違うよ、とはさすがにいえなかった。
政府は、処理水の放出によって風評被害を起こさないよう、徹底した安全性の確認と周知、それに全国での安全・安心に向けた理解醸成を柱に取り組むとしています。
具体的には、先月、全国放送のテレビコマーシャルやインターネット動画サイト、新聞などでの広告を展開し、今後も多様な手段での情報発信を拡充するとしています。
この記事のこれでもか的ボリュームが、政府の取り組みをまさに物語っている。
同僚が私に「とうとう処理水を放出しちゃうんですね」と関連記事を示してきた。
彼はあきらかに政府の決定を憂慮していたけれど、私は「困ったことだね」としか答えられなかった。
まともな判断力を持った大人なら、今の政治がよくないという認識にいたるはずだ。
問題は、現政権に不満があっても、それがただちに投票行動へ結びつかないことだ。
【いったん削除した3トゥートを再掲します】
①
昨日12/29の朝NHK BS1で、『声は届くのか〜秘蔵フィルムが映し出す1969新宿西口地下広場〜』(初回は11月26日)の再々放送があったので、観ていた。
ベトナム戦争に反対する若者たちが新宿駅の西口地下広場に集い反戦ソングを歌った一大ムーブメント「フォークゲリラ」。番組が入手した映像には、7千人の群衆の歌声や討論など見る者を圧倒する熱気が記録されていた。この貴重な映像をベースに当時現場に居合わせた人たちを取材。若者たちの「声」は今の時代にどのように届いているのか?1969年のフィルムとそこに登場する人たちの2022年の姿が交錯するドキュメンタリーで、吉岡忍氏をはじめ、盛田隆二氏、大木晴子氏ほか数名が同時の情況を語るという構成だった。
途中から全共斗のヘルメットをかぶった学生たちが参加するようになって、集会の様相が次第に変化していく。それらを過激派とみなす警察はついに機動隊を動員、逮捕者が出、フォークゲリラは解散を余儀なくされる。
このプロセスをみて私は、なぜ山本太郎とれいわ新選組が、立憲民主党や共産党のコアな支持者から嫌われるのかが、遅まきながら理解できたような気がした。
②
彼らからしてみれば、山本の応援演説は選挙の規を超えたもので、党勢拡大に利用しているように映ったのだろうな、これまでの自分たちの地道な活動が荒らされたように感じたのだろうな、と。気持ちはわかる。実際に無礼なふるまいが「れ新」のサポーターにあったのかもしれない。ならばかつての極左と重なってみえるのも詮ないことなのかもしれない。
だけど、それは偏見だと(れいわオーナーズである)私は思う。れいわ新選組のうち出す路線が、かつての野党のそれと違うのは当然で、独自性がなければ山本が新たに党を立ちあげる必要もないわけだし、今までの野党にどうしても相容れないものを感じていた人たちがれいわに期待を寄せているわけだから。それに違和感を覚えるのなら、れいわとは違った方法で、党なり候補者なりをアピールすればいい。現に参院選の東京では、山添拓が見事にやってのけたではないか。山本太郎を上回る票数を獲得できたのはなぜか、既存の政党こそ分析を急ぐ必要があるのではなかろうか。
フォークゲリラの話に戻る。
③
フォークゲリラの若者たちは、自分たち以外の他者=違った価値観を持つ人たちに向かって、懸命に語りかけていた。勤め人に学生の道楽みたいに思われようと理想論だと笑われようと、このままの社会でいいのかを、めげずに問いかけていた。そこは学ぶべき姿勢ではないか。自分と違う立場の人を排除するのではなく理解させること。言うのは簡単だが行うのは難しい。だが他者説得を回避しているようでは、次もまた次も負け続けるだけだ。もう閉塞するのはやめにしよう。来年が「新しい戦前になる」のならなおさら、それを食いとめる意志のあるもの同士で連帯しあわなけりゃならない。
長くなった。最後に以前Mediumに書いた記事を貼っておく。以下に引用した
新宿西口で「アベ政治を許さない」ポスターを置いて、みんなでフォークソングを合唱しているご老人たちがいたけど、あれはキツイ。街宣右翼よりもキツイ
に顕著な社会運動への忌避感や冷笑の態度を、とくに私のような遅れてきた世代は、克服しなければならないと感じている。
①から③までを投稿したのち、読むのに難儀な文章を、自分が書いてしまっては世話ないな。お目汚しスミマセン。でも、できれば②を飛ばさないでほしいな。そこがむしろ肝心な箇所なんだから、①と③だけだと誤読されそうだ。と但し書きをつけた。
むしろ③で引用した2018年の記事を読んでもらえればいいな。
私はツイッターを眺めていて、ときどき残酷だなあと思う。だって、その西口でフォークソングを歌っていたグループを、庇ったり支持したりする意見がほぼ皆無だったからね(中略)なぜ、居たたまれなかったの一言で斥けるのさ?
いいじゃないか歌わせておけば。それがかりに青春の追憶をなぞっているだけにせよ、それを迷惑そうなまなざしで眺めることに、いったい何の意味がある?
彼らをアップデートする“リソース”とやらが時間の無駄と思うにせよ、だ。それこそ“オルタナティヴ”を提示すりゃいいんじゃないか? SEALDsは一つの回答だったと思うが、ヒップホップが好みでないなら、それこそ自分たちの世代にぴったりの表現ジャンルを“持ちこめば”いいじゃないか。フォークったって今様があるでしょうよ。あなたたちの好きな、オーガニックでハートフルな、2018年の連帯ソングを探すなり作るなりすればいいだけの話、だよ。
伝え方を工夫しているほうが邪険にされるのも、またヘンな話だと思うよ。
もし人間が合理的なら棄権するという研究もあるので、あまり他人の投票行動を責めないでほしい。非合理的な人を増やしていきたいものですね。(拙トゥートへの感想)
他人の投票行動を責めているつもりはありません。前回の参院選、立民が擁立した地方区の野党統一候補者はあまりにも不甲斐なかった。大勢の有権者が、あれでは自民現には勝てない、と感じたはずです。私自身、意外と合理的な人間なので、今のままでは、次回の国政選挙を棄権する可能性があります。
(私が「棄権」をいいだしたので、タイムラインがにわかに騒然となる)
【正直に申し上げますと】
①
前回の参院選について述べると、立民と連合熊本は前熊本市長に打診しましたが、幸山政史は県政を目指したいと固辞、代わりにたてた候補者は、申し訳ないけれど勝てる要素が皆無だった。もちろん私は野党共闘の候補に投票しましたが、フラットに比較すれば、人物も政策も自民現のほうが優れていると認めざるをえませんでした。
棄権が合理的な選択ではなく、自公政権を利する結果につながることも理解しています。しかし今のままでは、次の国政選挙では、棄権か自民候補に入れるかの二択しか残されていないのではないか、と危惧しています。
(が、タイムラインに投票棄権についての否定的な意見が相次ぐ)
②
わかりました、棄権するかも、は取り消しましょう。もともと棄権を勧めるつもりは毛頭ありませんから。
でもね、野党の地方支部がほんとうに危機感を持っているかどうかは、はなはだ疑問です。なんだかんだいっても反自民だったら野党側に投票するさ、とたかをくくってないか。現状に胡座かいているの有権者にまる見えですよ、とはいっておきたいですね。
③
野党および野党支持者は、投票にいたるまでの心理、人の心の動きを想像したほうがいいですね。人はナンセンスだと理解しつつもあえてナンセンスを選択することがある、と。
「棄権や白票は全く無意味な利敵行為なんだよね、よし分かった、でもオレはそうするよ。だってそいつが今の気分にもっとも沿うものだからさ。自民に投票は論外だけど今の野党にだけは入れたくないもん」という負のスパイラルに容易に陥る。
そういう愚民は切り捨てる? あなたの傍観者的な態度は問題をみて見ぬふりをしているのと同じだ、と難詰する?
私は、そんなあなたも救いたいんだ、と手を差しのべるほうに一票を投ずるけどね。
がんばれ野党。がんばれ反自民。冷静と冷淡を取り違えるな。一瞬たりとも鼻で嗤うな。それ、自滅の道まっしぐらだから。
投票に行きなさいも白票やめろも、要するに野党に入れてもらいたがってるからそう言うわけでしょ。私も他人に白票だの投票行かないだのはすすめないが、相手をマニピュレーションするための適当な議論には乗れないよ。(森哲平氏のトゥート)
自説を補強するためのブーストはしないと先日誓ったばかりだが、前掲は私が言い足りなかった部分を的確についていると思ったから、許してね。
森さんのトゥートは、たまに辛くて吞みこめないときもあるが、やはり他にはない、独特の観点をお持ちだなと感心します。
食事どきに地上波をみるけど、最近のテレビはむしろ、臆面もなくツイッターを判断基準にしていると感じるな。とくにTBSのバラエティに顕著だけど、ドッキリ的な番組で、木村拓哉が「よし、ツイッターのトレンド狙うぞ」という場面なんかタイアップみたいだなと思った。もっとも私が気づかなかっただけで、以前からそうだったのかもしれないが。
ラリー・コリエルやキース・ジャレットのサイケデリックな時代は、もっと注目してもいいと思うな。変わり種だけど、かなり斬新なことをやってる。二人ともシンガーソングライターだったんだよ。歌が巧いとはお世辞にもいえないけどね。
【私のプレイリスト「ロックなジャズロック」を聴いてみませんか?】
私の作ったので、いちばん多く「いいね」をもらったプレイリストだ。なんと28人も(笑)。
だけど出だしのライフタイムで、かなり脱落するんじゃないかな。
電化マイルズ、ビリー・コブハム、ウェザー・リポート、イレヴンス・ハウスと、ゴリゴリなジャズロックをてんこ盛りしてみた。ピタッと2時間に収まっていたけどチック・コリアが逝去したときにリターン・トゥ・フォエヴァーを追加したから2時間8分になった。この中ではデヴィッド・サンシャスだけがちょい柔らかめだけど、E-ストリートバンドの初代鍵盤奏者という輝かしい実績を加味して押しこんだんだ。フランク・ザッパで〆。
なんと投稿してから数時間で「いいね」の数が28人から36人に増えた。マストドンの波及効果もなかなかのもんじゃない?
鰯(Sardine)2023/01/15